王都レグナリアからの招待状
応接室へ向かう廊下を、アルはセシルとともに歩いていた。
手には、先ほど届いたばかりの招待状がある。
赤い封蝋。
セレディア王家の紋章。
もう一度見れば、先ほどのように足がすくんでしまう気がして、アルはなるべく手元を見ないようにした。
「……セシル」
「はい」
「やっぱり、王城からの使者も、この招待状のことだと思う?」
「おそらくは」
「そうよね」
アルは小さく息を吐いた。
胸の奥は、まだ少しざわついている。
それでも、先ほどとは違う。
今はちゃんと、自分の足で歩けている。
やがて応接室の前へ着いた。
扉の前に立っていた使用人が一礼する。
「アルヴェイン様がお見えです」
扉が開いた。
最初に目に入ったのは、カイだった。
「アル」
「カイ様」
その顔を見た瞬間。
なぜだろう。
少しだけ、肩の力が抜けた。
カイはアルを見るなり、眉を寄せた。
視線が顔から手元へ落ちる。
そこにある招待状を見て、低く言った。
「……届いたんだな」
アルは足を止めた。
「ご存じなのですか?」
「ああ」
カイは向かいに座る男へ目を向けた。
バハード王家の紋章を胸につけた、王城からの使者だ。
部屋の端には、レイも控えていた。
「セレディアの王太子とリリアが結婚することも、向こうからバハードに正式な招待が来たことも、さっき聞いた」
「そうだったのですね」
カイは再びアルを見る。
そして、先ほどより深く眉を寄せた。
「……顔色が悪い」
「え?」
「手紙を見て、何かあったのか?」
アルは一瞬、答えに迷った。
いつものように、大丈夫です、と言いかける。
けれど。
先ほどセシルに言われた言葉を思い出した。
今すぐ平気にならなくてもいい。
足がすくんでも。
手が震えても。
それを恥じる必要はない。
「……少し」
アルは正直に答えた。
「王家の紋章を見たら、あの日のことを思い出してしまって……少し、動揺してしまいました」
カイの表情が変わった。
「アル」
「でも、今は大丈夫です」
今度の言葉は、無理に作ったものではなかった。
アルは後ろに立つセシルを見る。
「セシルがいてくれたから」
セシルは静かに一礼した。
カイは何か言いたそうにしていた。
けれど、結局何も言わず、自分の隣を示した。
「座れ」
「はい」
アルは促されるまま、カイの隣へ腰を下ろした。
二人が座る長椅子の向かいには、王城からの使者がいる。
間には、低い卓が置かれていた。
すぐ隣にカイがいる。
それだけで、不思議と胸のざわめきが少し静かになった。
「アルにも、さっき俺に話したことを説明してやってくれ」
カイが使者へ言った。
「承知いたしました」
使者がアルへ向き直る。
「アルヴェイン様。すでにカイ様には概要をお伝えしておりますが、改めてご説明いたします」
「お願いいたします」
「先日、セレディア王国より我が国へ正式な親書が届きました。王太子殿下とリリア様の婚姻が正式に決まり、その祝宴へバハード王国からも来賓を招きたいとのことです」
やはり。
手元の招待状と同じ話だった。
アルは膝の上で指を重ねた。
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろんでございます」
「なぜ、これほど早くご結婚なさることになったのでしょう」
婚約破棄から、まだそれほど日が経っていない。
十二年間続いた王太子と公爵令嬢の婚約。
それを大勢の貴族の前で突然破棄し、その直後に別の女性との婚姻を発表する。
王族の婚姻としては、あまりにも性急に思えた。
使者は少し言葉を選んだ。
「我が国でも、その点について情報を集めております」
「…………」
「どうやら、リリア様の王妃教育が関係しているようです」
「王妃教育……」
その言葉に、アルの指先がわずかに動いた。
十二年間。
自分が受け続けてきたものだ。
幼い頃から、何度も繰り返し学んできた。
好きなことも、やりたいことも我慢して。
眠い目をこすりながら机に向かった夜もあった。
それでも。
未来の王太子妃になるのだから。
そう教えられて育った。
「リリア様は、王妃教育についてかなり強い不満を訴えておられるそうです」
「不満……ですか?」
「はい。学ぶことが多すぎる。自由な時間がほとんどない。毎日これほど長時間勉強しなければならないとは思っていなかった、と」
アルは黙って聞いていた。
大変なのは分かる。
自分も経験してきたからこそ、分かる。
王妃教育は決して楽なものではない。
「王宮筋から伝わっている話では、リリア様は王太子殿下に、正式に結婚できればもっと王妃教育にも励める、という趣旨のお話をされたそうです」
「…………」
「今はただ厳しい教育を受け続けているだけで、いつ本当に王太子妃になれるのか分からない。けれど正式な夫婦となれば、自覚も生まれ、残された王妃教育にも真剣に取り組めると思う――そのように話されたと」
アルはゆっくり瞬きをした。
隣で。
カイの眉間に、見るからに深い皺が寄った。
「……それで結婚を早めたのか?」
使者が頷く。
「王太子殿下が、国王陛下と王妃陛下へ強く願い出られたそうです」
「…………」
「もちろん、お二人は当初反対なさったと聞いております」
当然だろう。
アルもそう思った。
「婚約破棄から日が浅すぎること。国内の混乱も収まっていないこと。そして何より、リリア様の王妃教育が十分に進んでいないこと」
「それでも、殿下は……?」
「リリア様は自分との婚姻を励みにしている。正式に夫婦となれば責任感も生まれ、王妃教育にも真剣に取り組めるようになるはずだ、と」
アルは目を伏せた。
少しだけ。
昔の王太子を思い出した。
一度こうだと決めると、なかなか考えを変えない人だった。
そして。
今の彼にとって、何より大切なのはリリアなのだろう。
彼女がそう言うのなら。
彼女がそれを望むのなら。
叶えてやりたいと思ったのかもしれない。
「最終的には、セレディア国王夫妻もお認めになったそうです」
「……なぜでしょう?」
「王家側にも事情がございます」
使者が静かに答えた。
「王太子殿下は、大勢の貴族の前でアルヴェイン様との婚約を破棄し、リリア様を選ばれました」
アルの胸が、わずかに痛んだ。
「その後いつまでも婚姻を成立させないとなれば、今度は王太子殿下の判断そのものに、さらに疑念が向けられます」
「…………」
「我が国では、王家としてもリリア様を正式な妃として国内外へ示し、一連の騒動を早期に収束させたい意向があるのではないかと見ております」
「……そういうことなのですね」
アルは静かに呟いた。
恋だけではない。
王家には王家の事情がある。
起きてしまったことを、何とか形にしなければならない。
あの日の婚約破棄が、遥か昔のことのように感じる。
「アル」
隣から呼ばれた。
顔を上げる。
カイがこちらを見ていた。
「……大丈夫か?」
アルは少し考えた。
そして。
「少しだけ、複雑です」
正直に答えた。
「そうか」
カイは、それ以上聞かなかった。
忘れろとも。
気にするなとも言わなかった。
ただ、それだけだった。
そのことが、ありがたかった。
「それで」
カイが使者を見る。
「陛下からの命は?」
「はい」
使者が姿勢を正した。
「セレディア王国からの正式な招待を受け、バハード王陛下は祝賀の使節を派遣することをお決めになりました」
アルの胸が、小さく鳴った。
「その一員として、カイ・ヴァルグレン卿」
「ああ」
「王都レグナリアへ赴いていただきたいとの仰せです」
「分かった」
「そして、アルヴェイン・ロゼリア様にも、カイ卿とともに王都へ赴いていただきたいとのことです」
「…………」
部屋が静かになった。
アルはすぐには返事ができなかった。
レグナリア。
自分が生まれ育った街。
十二年間。
王太子の隣に立つ未来を信じて過ごした場所。
そして。
大勢の前で、その未来を失った場所。
「アル」
カイの声がした。
アルは顔を上げる。
カイが使者ではなく、自分を見ていた。
「陛下の命だとしても、無理なら――」
「行きます」
思ったより、はっきりと声が出た。
カイが目を見開く。
「……いいのか?」
「怖くない、と言ったら嘘になります」
先ほど。
王家の紋章を見ただけで、身体が動かなくなった。
今だって。
レグナリアという名前を聞けば、胸がざわつく。
それでも。
「行きたいです」
「…………」
「私……あの場所から逃げたままには、したくありません」
言ってから。
少し違う気がした。
「……いいえ」
アルは首を横に振る。
「逃げるとか、戦うとか、そういうことでもないのかもしれません」
もう、王太子に何かを証明したいわけではない。
リリアに勝ちたいわけでもない。
自分を捨てたことを後悔させたいわけでもない。
ただ。
「今の私で、もう一度あの街へ行ってみたいです」
カイを見た。
「それに」
少しだけ笑う。
「カイ様も一緒なのでしょう?」
「……ああ」
「でしたら、大丈夫です」
その言葉を聞いて、レイが笑みを浮かべた。
「承知いたしました」
使者が深く一礼する。
「そのように陛下へお伝えいたします」
こうして。
アルの故国への帰還が決まった。
◇◇◇
使者が帰ったあと。
アルはセシルとともに部屋を出た。
出発までに準備しなければならないことがある。
「では、カイ様。また後ほど」
「ああ」
アルが扉の向こうへ消えていく。
その後を追おうとしたセシルが、ふと足を止めた。
「……カイ様」
「ん?」
アルはすでに廊下を歩き始めている。
セシルはその背中を一度確認してから、声を落とした。
「少々、お伝えしておきたいことがございます」
カイの表情が変わる。
「アルのことか?」
「はい」
セシルは一瞬迷った。
主人が自分から話していないことを、どこまで伝えるべきなのか。
けれど。
これからアルとともにレグナリアへ向かうのは、この人だ。
「先ほど、お嬢様のもとへ招待状が届いた時のことです」
「……ああ」
「王家の紋章をご覧になった途端、お顔から血の気が引きました」
カイの眉が寄る。
「さっきは、少し動揺したって言ってたな」
「はい。ですが……」
セシルは静かにカイを見た。
「しばらく、私の声も届いていないご様子でした」
カイの顔から表情が消えた。
「……声が?」
「はい。目の前にいる私をご覧になっているはずなのに、まるで別の場所を見ていらっしゃるようで」
「…………」
「おそらく、婚約を破棄された夜を思い出していらしたのだと思います」
カイは何も言わない。
セシルは続けた。
「お嬢様は、もう平気だと思っていた、と仰いました」
その言葉に、カイの手がわずかに握られる。
「ですが、立とうとなさっても足に力が入らず……すぐには歩くこともできませんでした」
「…………」
しばらく。
カイは何も言わなかった。
やがて。
「……少し、じゃねぇだろ」
低い声が落ちた。
「はい」
セシルは否定しなかった。
「お嬢様ご自身は、本当にその程度だと思っていらっしゃるのかもしれません」
「…………」
「ですが、私にはそうは見えませんでした」
カイは閉じた扉を見る。
「アルには、俺に話したって言うな」
「はい。お嬢様には申し上げません」
セシルは一礼する。
「これからレグナリアへ向かわれるのであれば、カイ様にはお知りいただいた方がよいと思いました」
「……分かった」
「お願いいたします」
セシルはもう一度深く頭を下げると、アルの後を追って部屋を出ていった。
扉が閉まる。
「…………」
カイは、しばらくその扉を見ていた。
王家の紋章を見ただけで。
声も届かなくなり。
立つことすらできなくなった。
それほどの傷を負わせた場所へ。
アルは今、自分の意思で戻ろうとしている。
「……無理してんじゃねぇだろうな」
「ずいぶん険しい顔をしていますね」
声をかけたのはレイだった。
先ほどから部屋の端で話を聞いていた彼は、いつもの涼しい顔をしている。
「当たり前だろ」
カイは不機嫌そうに長椅子へ深く腰を下ろした。
「あいつを大勢の前で捨てた男の結婚式だぞ」
「ええ」
「なんでアルが、わざわざ行って祝わなきゃならねえんだ」
「国同士の外交ですから」
「分かってる」
「では、問題ありませんね」
「ある」
即答だった。
レイが眼鏡の奥からカイを見る。
「どこに?」
「アルが何か言われるかもしれねえだろ」
「なるほど」
「ただでさえ、あいつは――」
そこで。
レイがふと口を挟んだ。
「ところでカイ」
「なんだ」
「あなたとアルヴェイン嬢は、現在どのようなご関係なのですか?」
「…………」
沈黙。
カイがレイを見る。
「……は?」
「ですから、お二人のご関係です」
「何って……」
口を開く。
そして。
止まった。
「…………」
レイは待っている。
カイは眉間に皺を寄せた。
「……俺とアルって、今、何なんだ?」
「私に聞かないでください」
「いや」
カイが身体を起こした。
「だってアルは俺のところに来てくれたぞ」
「ええ」
「俺のそばにいたいって」
「ええ」
「言ったよな?」
「言いましたね」
「じゃあ――」
「婚約は?」
「…………」
カイが止まる。
「してない」
「婚姻は?」
「してない」
「求婚は?」
「した」
「それを正式な求婚とお考えですか?」
「…………」
「いつです?」
「最初に会った日」
「婚約を破棄された、その場で?」
「…………ああ」
「その後は?」
「…………してない」
「そうでしょうね」
レイが淡々と答えた。
カイは何か言い返そうとして。
やめた。
「…………」
考えてみれば。
あれ以来、何もしていない。
アルがバハードへ、自分と共に来てくれた。
自分のそばにいたいと言ってくれた。
それが嬉しくて。
ただ、それだけで十分だと思っていた。
「俺は……」
カイが低く呟く。
「急がせたくなかったんだ」
レイが黙る。
「あいつは十二年も婚約してたんだぞ」
十二年間、一人の男の妻になるのだと信じて生きてきた。
その未来をある日突然、大勢の前で奪われた。
「アルが落ち着くまで待つつもりだった」
新しい土地に慣れて。
少しずつ笑えるようになって。
婚約破棄の傷が癒えて。
いつか。
アル自身が、過去ではなく未来を見られるようになった時。
その時にもう一度。
今度は勢いではなく。
きちんと結婚を申し込みたいと思っていた。
「それ自体は、間違っていないと思いますよ」
レイが言った。
カイが顔を上げる。
「ですが」
レイの声が少し変わった。
「あなたが待っている間、アルヴェイン様の立場がどう見えるかは、また別の問題です」
「……どういう意味だ」
「アルヴェイン様は現在、あなたの妻でも婚約者でもありません」
「ああ」
「しかし、ヴァルグレン邸に滞在し、あなたのそばにいる」
「…………」
「我々は事情を知っています。ロゼリア公爵家も知っている。しかし、セレディアのすべての人間が事情を知っているわけではありません」
カイの表情から、少しずつ苛立ちが消えた。
代わりに。
別の険しさが現れる。
「王太子に婚約を破棄された公爵令嬢が、その後すぐに他国の有力貴族のもとで暮らし始めた」
「…………」
「そして今度は、その男と二人揃って王都へ戻ってくる」
レイは静かに続けた。
「事情を知らない者が見れば、どう思うでしょうね」
「……待て」
カイの声が低くなった。
「アルが何か言われるってことか」
「可能性はあります」
カイが勢いよく立ち上がった。
「婚約する」
「…………」
「今すぐ」
「座ってください」
「なんでだよ!」
「そういうところです」
レイが額を押さえた。
「アルヴェイン様の意思は?」
カイが止まった。
「あなたは今しがた、自分で言ったでしょう。彼女を急かしたくなかったと」
「……言った」
「では、五分で忘れないでください」
「……」
カイは黙って長椅子へ座り直した。
レイが小さく息を吐く。
「アルヴェイン様を守るために、正式な立場を整える必要がある。それは事実です」
「ああ」
「ですが」
レイはカイをまっすぐ見た。
「まずはアルヴェイン嬢と話してください」
カイは何も言わなかった。
その言葉は、妙に重かった。
アルの人生を。
アルの知らないところで決めない。
それだけは。
絶対にしてはいけない。
カイは閉じた扉を見る。
「……俺、最初になんて言ったっけ」
「何がです?」
「アルに求婚した時」
レイが少し考える。
「確か――『俺の嫁にならないか』と」
カイが片手で顔を覆った。
「最悪だ」
「今さらですか?」
「婚約破棄された直後の女に何言ってんだ、俺」
「ようやく気づきましたか」
「止めろよ!」
「止める暇がありましたか?」
「なかったな」
レイが小さく肩をすくめる。
「……まあ、あれはあれでアルヴェイン様を救ったとは思いますよ」
それはレイの本心だった。
あの場で、カイという男に他にできたことは、おそらくなかっただろう。
真っ直ぐすぎるこの男は、回り道を知らない。だからこそ、レイたち四人が補佐をする。
「だといいんだが」
カイは深く息を吐いた。
そして、もう一度扉を見る。
今度はあの日とは違う。
勢いのまま、自分のもとへ連れてくるのでもない。
アルの答えを、きちんと聞かなければならない。
「話してくる」
カイが立ち上がる。
「今ですか?」
「ああ」
「もう少し考えてからにした方がよろしいのでは?」
「考えたら何も言えなくなる」
「それも問題ですね」
「それが俺だ。知ってるだろ」
扉へ向かって数歩進んで。
カイは止まった。
「レイ」
「はい」
「婚約って、どうやって申し込むんだ?」
今度は。
レイが黙る番だった。
戦場では、誰より迷わない男。
何百という兵を率い、敵陣へ真っ先に斬り込んでいく男。
そんな男が今。
好きな女への婚約の申し込み方が分からず、本気で困っている。
レイは眼鏡を押し上げた。
「まず、『俺の嫁にならないか』以外の言葉を考えるところから始めましょうか」
「…………だな」
カイは真剣な顔で頷いた。
王都レグナリアへの出発まで、あとわずか。




