線のない隙間札
港に似た待合所を、僕は横切りつづけている。
床には境界線だけが描かれていて、線の内側にも外側にも意味はない。
入口はある。
入った形跡は残るのに、出た形跡は残らない。
誰かが毎朝、同じ配置に戻すらしい。
椅子の欠け、掲示板の剥がれ、落ちた紐の輪まで、昨日と同じ角度でそこにある。
僕の判断基準は一つだ。
線を踏まない。
線があるなら避ける。
理由は要らない。
踏まない、というだけでいい。
だから僕は到達を目的にせず、線のない隙間へと歩き、次の隙間へと移る。
景色が変わっても、僕は変えない。
待つためだけの窓口がいくつも並んでいる。
窓口の前には番号札の皿が置かれ、札は減らない。増えもしない。
皿の縁だけがいつも濡れている。
並んでいる人たちは、僕の歩き方に興味がない。
興味があるふりだけをする。
「あなた、線を踏むと早いよ」
と、帽子の男が言う。
彼は線の上を堂々と歩き、靴底を見せびらかす。
早さが何かの価値だと思っている顔をしている。
「踏まないと損する」
と、紙袋の女が言う。
損得の単位を胸元からぶら下げている。
袋の中には、待つための待ち時間が詰まっているらしい。
「線って、飾りでしょ」
と、背の低い子が言う。
子は線の上に石を並べて数え、途中で数えるのをやめる。
数えた数は本人に返っていかない。
僕は返事をしない。
線を踏まない。それだけだ。
しばらく歩くと、床の線の密度が上がる。
隙間が細くなり、靴先の向きだけで進路が決まる。
僕はそれでも踏まない。
踏むと足が軽くなる気がするが、軽さは目的じゃない。
窓口の一つに、白い札が立っている。
「ここで待て」とだけ書いてある。
待つことの中身はない。
僕は線の隙間を選び、札の前まで行く。
帽子の男が先回りして、僕の前に立つ。
「待つなら、ここだよ。ほら、線を踏んで」
と彼は言いながら、線の上に両足を揃える。まるで正しい姿勢を見せるみたいに。
僕は踏まない。線のない場所へ足を置く。
置いた瞬間、床の線が消えた。
消えたのに、僕の判断基準は消えない。
踏まない、が残る。踏んでいない場所がどこにもない。
線がないから踏めない、とも違う。
踏まないための対象が、世界から一度だけ外れた。
僕の足は宙に浮かない。
床はある。
温度もある。
なのに、避けるべきものだけが成立しない。
背の低い子が、突然、指先で自分の耳を引きちぎって机の上に並べた。
僕はその机も見ない。
踏まない。踏まないために、踏まない場所を探す。
探す先がないまま、僕は足を上げ、降ろす。
降ろしたところが、どこにも接続しない。
帽子の男が笑っているようで、笑っていない。
紙袋の女が「損だ」と言いかけて、言葉の端だけを落とす。
次の瞬間、線は戻った。
戻り方は、昨日と同じ配置だった。
僕の足は、線の上にも隙間にもない位置に置かれていた。
置かれていた、というより、置いた姿勢がそのまま残っていた。
誰もそれを指摘しない。
僕は体重を移し、線の隙間に足を落ち着かせる。
踏まない。
そうしてまた歩く。
椅子の欠けも掲示板の剥がれも、僕が通った後に元へ戻る。
戻されるのは物だけじゃない。
待つ人たちの目線も、同じ角度に揃う。
港のような待合所の端に、低い境界がある。
越えれば外に見える。
越えても出た形跡は残らない。
僕は境界の手前で止まり、線のない小さな隙間に靴先を置く。
踏まない。踏まないまま、手を伸ばす。
同じ場所に、さっきまで無かった小さな札が置かれている。
白い札ではない。
色は決まらない。
近づくほど、触れたか触れていないか分からない距離へ滑る。
僕の指先は、札の縁に届いたようで、届いていない。
床の線だけが、僕の影をきっちり避けている。




