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嘘の世界1

線のない隙間札

作者: ハル
掲載日:2026/02/14

港に似た待合所を、僕は横切りつづけている。


床には境界線だけが描かれていて、線の内側にも外側にも意味はない。


入口はある。

入った形跡は残るのに、出た形跡は残らない。


誰かが毎朝、同じ配置に戻すらしい。

椅子の欠け、掲示板の剥がれ、落ちた紐の輪まで、昨日と同じ角度でそこにある。



僕の判断基準は一つだ。

線を踏まない。

線があるなら避ける。


理由は要らない。

踏まない、というだけでいい。


だから僕は到達を目的にせず、線のない隙間へと歩き、次の隙間へと移る。

景色が変わっても、僕は変えない。


待つためだけの窓口がいくつも並んでいる。


窓口の前には番号札の皿が置かれ、札は減らない。増えもしない。

皿の縁だけがいつも濡れている。


並んでいる人たちは、僕の歩き方に興味がない。

興味があるふりだけをする。



「あなた、線を踏むと早いよ」

と、帽子の男が言う。

彼は線の上を堂々と歩き、靴底を見せびらかす。

早さが何かの価値だと思っている顔をしている。


「踏まないと損する」

と、紙袋の女が言う。


損得の単位を胸元からぶら下げている。

袋の中には、待つための待ち時間が詰まっているらしい。


「線って、飾りでしょ」

と、背の低い子が言う。

子は線の上に石を並べて数え、途中で数えるのをやめる。

数えた数は本人に返っていかない。


僕は返事をしない。

線を踏まない。それだけだ。



しばらく歩くと、床の線の密度が上がる。

隙間が細くなり、靴先の向きだけで進路が決まる。


僕はそれでも踏まない。

踏むと足が軽くなる気がするが、軽さは目的じゃない。


窓口の一つに、白い札が立っている。

「ここで待て」とだけ書いてある。

待つことの中身はない。


僕は線の隙間を選び、札の前まで行く。


帽子の男が先回りして、僕の前に立つ。

「待つなら、ここだよ。ほら、線を踏んで」

と彼は言いながら、線の上に両足を揃える。まるで正しい姿勢を見せるみたいに。


僕は踏まない。線のない場所へ足を置く。

置いた瞬間、床の線が消えた。


消えたのに、僕の判断基準は消えない。

踏まない、が残る。踏んでいない場所がどこにもない。


線がないから踏めない、とも違う。

踏まないための対象が、世界から一度だけ外れた。

僕の足は宙に浮かない。



床はある。

温度もある。

なのに、避けるべきものだけが成立しない。


背の低い子が、突然、指先で自分の耳を引きちぎって机の上に並べた。


僕はその机も見ない。

踏まない。踏まないために、踏まない場所を探す。

探す先がないまま、僕は足を上げ、降ろす。

降ろしたところが、どこにも接続しない。


帽子の男が笑っているようで、笑っていない。

紙袋の女が「損だ」と言いかけて、言葉の端だけを落とす。


次の瞬間、線は戻った。

戻り方は、昨日と同じ配置だった。


僕の足は、線の上にも隙間にもない位置に置かれていた。

置かれていた、というより、置いた姿勢がそのまま残っていた。


誰もそれを指摘しない。



僕は体重を移し、線の隙間に足を落ち着かせる。

踏まない。

そうしてまた歩く。


椅子の欠けも掲示板の剥がれも、僕が通った後に元へ戻る。

戻されるのは物だけじゃない。

待つ人たちの目線も、同じ角度に揃う。


港のような待合所の端に、低い境界がある。

越えれば外に見える。

越えても出た形跡は残らない。


僕は境界の手前で止まり、線のない小さな隙間に靴先を置く。

踏まない。踏まないまま、手を伸ばす。


同じ場所に、さっきまで無かった小さな札が置かれている。

白い札ではない。

色は決まらない。


近づくほど、触れたか触れていないか分からない距離へ滑る。

僕の指先は、札の縁に届いたようで、届いていない。


床の線だけが、僕の影をきっちり避けている。


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