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第4話 大阪湾合意 - 夫と妻と見届人と(下)

ここまで、お読みいただきありがとうございます。


遂に書き溜めたストックが底を付きました。

しばらく新規更新はお休みして、過去投稿分の修正をしながら、宇都宮から函館に至る戦闘と国家のお引越しを、またシコシコと書き溜めてから、投稿を復帰させたいと思っております。


それでは第4部 第4話「大阪湾合意 - 夫と妻と見届人と(下)」をお読み下さいませ。



 慶應四年(一八六八年)三月二十四日


 大英帝国二等装甲艦「オーシャン(HMS Ocean)」艦内


「ここからですて」


 河合の声のトーンが、一段低くなった。ここからが、この取引ディール核心コアだ。


「第三に、動産。

我々は、日本列島にある『私有財産』を持ち出す。 家を出て行く夫(徳川)は、家屋敷は妻に譲るが、その中にある『家財道具』と『預金通帳』、そして何より『仕事道具』はすべて持っていくってことですて」


「家財道具、だと?」


「んだ。具体的には」


 河合は、空中で指を折った。  


「幕府御金蔵にある金銀正貨のすべて・横須賀製鉄所や長崎造船所、それに俺の長岡にある、旋盤、プレス機、スチームハンマーなどの工作機械一式。幕府海軍の全艦艇と、南山郵船の商船団。そして、何より重要なのが…」


 河合の視線が、カミソリのように鋭く光った。


「我々に従うという意思を示した人材とその家族。技術者、学者、職人、そして武士。約八十万人。これらはすべて、南山で借金を返すための『商売道具アセット』だ。これを持ち出すことを、新政府は一切邪魔しちゃなんねぇ」


 河合は、一息ついた後、決定的な一言を付け加えた。


 「そして、これらが搬出された後の『空き家』となった工場や役所については、一切の文句を言わねぇこと。これが、条件ですて」


 室内が、再び静まり返った。 換気ファンの音だけが、虚しく響いている。西郷は、河合の提案の意味を咀嚼しようとした。脳内で、巨大な天秤が揺れていた。


 片方の皿には「借金のない日本列島(土地と権威)」 もう片方の皿には「金と技術と人材(中身)」


「…つまり」


 大久保が、震える声で言った。彼は理解してしまったのだ。この取引の恐ろしい本質を。


「お主は、日本を抜け殻にするつもりか。我らに、空っぽの城と、機械のない工場と、ただの農地だけを押し付けて、自分たちだけ肥え太るつもりか!」


「人聞きが悪いですなぁ」


 河合は涼しい顔で答えた。  


「あんた方が欲しかったのは『天下』だろ? 『皇国』という美しい器だろ?攘夷を叫んで、異国の機械を嫌い、開国を拒んだのはあんた方だ。

だから、我々がその汚らわしい機械や、異人かぶれの技術者を、すべて持って行って差し上げると言ってるんですて。感謝こそされ、恨まれる筋合いはねぇ」


「詭弁じゃ! 詭弁もいいところじゃ!」


 大久保が叫び、椅子を蹴って立ち上がろうとした。だが、西郷の太い腕が、それを制した。  


「座れ、一蔵」


 西郷の視線は、河合ではなく、その背後にいるパークスとロッシュに向いていた。二人の公使は、無言で頷いている。彼らの顔には、「この提案以外に、我々が納得する解はない」と書いてあった。


 彼らにとって、この会社分割案こそが、唯一の債権回収手段なのだ。もし新政府がこれを拒否し、戦争を継続すれば、彼らは迷わず武力行使に出て、担保(日本列島)を差し押さえるだろう。


(詰められたな)


 西郷は悟った。


 これは交渉ではない。敗戦処理だ。鳥羽・伏見で勝ったと思った瞬間、実はもっと大きな盤面ゲームで、王手チェックメイトをかけられていたのだ。


 選択肢は二つしかない。一つは、この提案を拒否し、四千万ドルの借金を背負い、さらに四十二隻の艦隊を敵に回して、勝ち目のない本土決戦を行うか。その先にあるのは、確実な国家滅亡と植民地化だ。


 もう一つは、提案を飲み、プライドと土地を守る代わりに、国家の「心臓(資本と技術)」を失うか。


「吉之助さぁ」


 大久保が、縋るような目で西郷を見た。


 西郷は、深く、長く息を吐き出した。その吐息には、武士の時代の終わりと、苦難に満ちた明治という時代の始まりの予感、そして何より、理想と現実の落差に対する絶望が混じっていた。


「よかろう」


 西郷の太い声が、部屋に響いた。  


「その証文、認めよう。借金も、機械も、徳川の家来も、全部持って行け。

その代わり、この日本の土には、二度と手出しはさせん。みかどの御名において、この国は我らが守る」


「賢明なご判断ですて」


 河合は、表情を崩さずに一礼した。 だが、その目には、敵将に対する侮蔑ではなく、一種の哀れみにも似た色が浮かんでいた。


 彼は知っていたのだ。資本と技術を失った国が、近代化の荒波の中でどれほどの苦汁を舐めることになるかを。「持てる者」が去り、「持たざる者」が残る。それは、日本という国が経験する、最初で最大の「格差」の始まりであった。


          ◆


 書記官が恭しく差し出したのは、羊皮紙で作られた二通の正文であった。英国製のインク壺と鷲の羽根ペンが添えられている。  


『大阪湾合意書(The Osaka Bay Agreement)』 


 その表題の下には、日本語と英語、そしてフランス語で、残酷なまでに明確な条項が列挙されていた。


 第一条:新政府ハ、徳川家ヨリ日本列島ノ統治権及ビ全不動産ヲ無償デ譲リ受ケル。


 第二条:徳川家(南山開発株式會社)ハ、旧幕府ノ対外債務一切ヲ継承シ、新政府ハコレヲ免除サレル。


 第三条:新政府ハ、徳川家ガ保有スル動産(艦船、機械、貨幣)及ビ南山移住ヲ希望スル人員ノ搬出ヲ妨害シナイ。


 それは、日本という国家から「徳川」という巨大な法人格が完全に分離し、南山へ移転することを法的に確定させる、歴史上類を見ない巨大な「離縁状」であった。


「…署名を」


 パークスが促した。西郷は震える手で羽根ペンを握った。筆とは勝手が違う。ペン先が紙に引っかかり、カリカリと神経質な音を立てる。その音は、まるで日本という国の背骨を削り取る音のように、西郷の耳に響いた。


(これで、良かとじゃろうか)


 西郷は自問した。この署名一つで、薩長は悲願であった「王政復古」を成し遂げる。徳川を追い出し、みかどを中心とした国を作ることができる。


 だが、その代償として失うものの大きさはどうだ。


 横須賀のドック、新潟の造船所、小栗たちが心血を注いで集めた最新鋭の工作機械。そして何より、それらを使いこなせる何万人もの技術者たち。それら全てを、このペン先一つで「くれてやる」ことになる。


「吉之助さぁ」


 隣で大久保一蔵が、祈るように囁いた。彼もまた、苦渋の表情を浮かべている。だが、拒否すれば待っているのは「国家破産」と「植民地化」だ。今の新政府に、四千万ドルもの借金を背負う体力はない。


「肉(領土)」を守るために、「骨(産業)」を断つ。それが、今の彼らに許された唯一の生存戦略であった。


 西郷は、覚悟を決めた。腹に力を込め、紙が破れんばかりの筆圧で『西郷吉之助』と署名した。


 続いて、河合継之助がペンを取った。彼の手つきに迷いはなかった。流れるような筆記体で、アルファベットの署名を走らせる


『T. Kawai, CFO of Nanzan Development Co.』   

 その手際良さは、まるで日常的な決済書類にハンコを押すかのような、事務的な軽やかさであった。


 最後に、立会人としてパークスとロッシュが署名し、それぞれの公印を真紅のワックスに押し付けた。 ジュッ、という微かな音と共に、封蝋が固まる。


 これで、取引ディールは成立した。国際法という名の神の御前において、日本は「伝統の国」と「革新の国」の二つに引き裂かれたのである。


          ◆


 書記官が書類を回収し、重々しい空気が僅かに緩んだ。だが、西郷の視線は鋭いままだった。彼はペンを置くと、テーブル越しに河合を睨みつけた。


「河合殿。一つ聞きたい」


 西郷の声は、怨嗟というよりは、純粋な疑問の色を帯びていた。  


「お主らは、そこまでして日本を捨て、南山へ行って一体、何を作るつもりじゃ?

先祖伝来の墓も、美しい四季も、神州の歴史も捨てて、あの南の荒野で、どんな国を作るつもりじゃ?」


 河合はクロコダイルの鞄に書類をしまい、パチンと留め金を鳴らした。彼はゆっくりと立ち上がり、帽子の埃を払った。そして、窓の外、夕闇に沈みゆく大阪の街と、その向こうに広がる黒い海を見つめた。


「自由ですかな」


 河合は、独り言のように呟いた。  


「…自由、じゃと?」  


 西郷が怪訝な顔をする。


 河合は振り返り、ニヤリと笑った。長岡弁の、人を食ったような調子が戻っていた。


「んだ。自由ですて。南山は、借金まみれで、泥だらけで、入安島には毒虫とワニが這い回る、とんでもねぇ荒野だ。北嶺島と南山島には四季はあるが、日本の風情も、詫び寂びもあったもんじゃねぇかもしれん。

 ……だがね、あそこには『しがらみ』がねぇ」


 河合は、自分のフロックコートの襟を指差した。  


「ここ日本じゃ、俺は長岡藩の家老だ。あんたは薩摩の士族だ。 どこへ行っても、身分だの、家格だの、藩閥だのといった古い鎖が絡みついてくる。

みかどの御世になっても、その鎖の色が変わるだけで、本質は変わらねぇでしょうがね」


 河合の瞳に、奇妙な熱が宿った。それは、計算高い会計士の目ではなく、荒野を切り拓く開拓者の目であった。


「…だが、南山は違う。あそこじゃ、家柄なんて一文の得にもならねぇ。あるのは、自分の腕と才覚だけで運命を切り拓く『自由』と、働いた分だけ腹一杯食える『契約』だけだ。

刀を捨ててスパナを握り、髷を切って帽子を被る。俺たちは、南山で武士であることを辞め、ただの人間ヒューマンになろうとしてるのかもしれませんな」


「…人間、か」


 西郷は、虚空を見つめた。武士という特権階級を解体し、四民平等の世を作る。それは西郷たち新政府の理想でもあったはずだ。


 だが、河合の語る「人間」は、西郷の描く道徳的な「臣民」とは違う。もっと欲望に忠実で、自立し、そして孤独な経済人エコノミック・マンの姿であった。


「お主らの行く道は、修羅の道ぞ」


 西郷は言った。  


「…金と鐡だけの国に、魂の安らぎはあるのか?」


「安らぎなんざ、死んでから棺桶の中で味わえばいいんですて」


 河合は軽やかに言い放った。  


「生きているうちは、泥にまみれて働き、美味い肉を食い、明日の夢を見る。それが南山流(自由)だ」


 河合は、ソフト帽を被り、優雅に一礼した。その仕草は、英国紳士のようでありながら、どこか日本の侠客のような仁義を感じさせた。


「Bon Voyage(良き旅を)、西郷どん。

この狭く、美しい、そして因習に満ちた古き良き日本ジャパンで、せいぜい頑張んなせや。俺たちは、海の向こうで、あんた方とは違う『もう一つの日本』を作らせてもらいますて」


 カツ、カツ、カツ。


 河合の革靴の音が、廊下に遠ざかっていった。それは、古い時代から去りゆく者の足音ではなく、新しい時代へと駆け出していく者の、力強いリズムであった。


          ◆


 河合が退室した後、部屋には重苦しい沈黙が残った。換気ファンの回る音だけが、耳鳴りのように続いている。西郷は、テーブルの上に残された合意書の控えを見つめ続けていた。そこに記された自らの署名が、まるで敗北宣言のように見えた。


「…一蔵」  


「…なんじゃ」  


「おいは、とんでもない貧乏くじを引かされたんじゃなかろうか」


 西郷は、自嘲気味に笑った。その笑顔は、どこか泣き顔に似ていた。  


「勝ったのは我々じゃ。天下を取ったのも我々じゃ。じゃが、中身をくり抜かれた瓢箪ひょうたんを渡されたような気がしてならん」


 大久保もまた、青ざめた顔で頷いた。  


「…ああ。…彼らは過去を我々に押し付け、未来を持って行ってしまった。これからの国作り骨が折れるぞ。金もなければ、技術もない。あるのは、食わせねばならぬ民と、プライドの高い士族たちだけじゃ」


 そこへ、パークスがおもむろに立ち上がった。彼は、召使いに新しいグラスを用意させ、最高級のコニャックをなみなみと注いだ。  


「紳士諸君。暗い顔をするのはよしたまえ」


 パークスは、西郷と大久保にグラスを持たせた。 そして、ロッシュと共に高らかにグラスを掲げた。


「乾杯しようではないか! 極東の平和的解決ピースフル・ソリューションと、偉大なる債権回収デット・コレクションの成功に!そして、何より、この素晴らしい『清算リキデーション』に!」


「サンテ(乾杯)!」  


 ロッシュが唱和した。


 チン、とグラスが触れ合う音が響く。その祝杯の音は、西郷にとって、これから始まる「持たざる国」の苦難を告げる弔鐘のように聞こえた。


 彼は、琥珀色の液体を一気に喉に流し込んだ。それは、勝利の美酒であるはずなのに、焼けつくように苦く、そして鉄の味がした。


          ◆


 この日、慶應四年三月二十四日。 大阪湾上の密室において、歴史の歯車は大きく、そして決定的に回った。


 「大阪湾合意」の成立。


 これにより、日本列島から「徳川」という巨大な法人格が分離し、南山へ移転することが国際法上、確定した。  


 日本列島には「伝統」と「土地」と「権威」が残り、南山へは「革新」と「資本」と「技術」が渡る。この壮絶な「国分け(ナショナル・スプリット)」によって、戊辰戦争の第一幕、政治的決着は、静かに幕を閉じたのである。


 河合継之助は、ソフト帽を目深に被り、タラップを降りていった。その足取りは軽く、既に彼の心は、赤道を超えた南の荒野へと飛んでいるようだった。


 一方、西郷吉之助は、小舟の上で振り返り、黒い巨城のような英国軍艦を見上げた。手には、一枚の合意書。それは、新政府が勝ち取った「天下の証」であると同時に、これからの日本が背負う「欠乏の証明書」でもあった。


「一蔵。帰るぞ」  


「…どこへじゃ?」  


「江戸じゃ」


 西郷は、東の空を睨みつけた。  


「書類は整った。だが、まだ終わっちゃおらん。 勝海舟という男が、江戸城で我らを待っておる。この紙切れ一枚で、あの古狸が大人しく城を明け渡すか、それともまた別の勘定を突きつけてくるか…見てこねばならん」


 波の音が、高く、激しくなり始めていた。「外交」という冷たい戦争は終わった。だが、その合意を現実のものとするための、現場での「実務」という名の摩擦は、これからが本番であった。


 巨艦「オーシャン」の灯りが、大阪の海に長い影を落とす中、二人の男を乗せた小舟は、それぞれの「国」を作るために、闇の中へと消えていった。


        ◆


 こうして、戊辰戦争の「第一幕(政治的決着)」は、一枚の契約書によって幕を閉じた。しかし、それは平和の訪れではなかった。むしろ、契約の文言と現場の現実との間に生じた巨大な亀裂が引き起こす、奇妙で、そして凄惨な「第二幕」の始まりであった。なぜなら、この合意はあくまでトップ同士の握手に過ぎないからだ。


 現場の兵士たちは知らない。「徳川はもう日本を捨てた」という事実も、「新政府軍が勝ったのは土地だけだ」という真実も。彼らは「合意」という名の紙切れ一枚で、大人しく武器を置くような連中ではない。


 そして何より、脱出側にとっても、この合意を履行するためには、膨大な物資と人員を、実際に運び出さねばならない。


 口で言うのは簡単だが、延べ数千トンの工作機械群や、何万両もの金塊、そして家財道具を抱えた数十万人の人々を、敵前で梱包し船に乗せる作業は、軍事作戦そのものである。


 そのためには、敵を引きつけ、時間を稼ぎ、血を流して「退路」を守る盾が必要だ。


 これより始まるのは、凄惨な「資産争奪戦アセット・ウォー


 日野、八王子、宇都宮、上野、北越、会津、そして箱館へと続く血みどろの戦いは、単なる抵抗戦ではない。それは、日本という母体から、南山という赤子を無事に出産させるための、多量の出血を伴う「帝王切開」の手術であった。




(第4部 第4話 完)

最後までお付き合いいただき感謝します。

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本作の設定についての短編です。

興味を持っていただければご一読下さいませ。


「16世紀末から19世紀末迄の日本 - 嘉永の産業革命」

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