第4話 大阪湾合意 - 夫と妻と見届人と(上)
慶應四年(一八六八年)三月二十四日。
春の彼岸を過ぎたばかりの大阪湾は、鉛色の波が重くうねり、空には低く垂れ込めた雲が走っていた。その陰鬱な海原の中央に、一際巨大な鉄の城が浮かんでいる。
大英帝国海軍が誇る二等装甲艦「オーシャン(HMS Ocean)」
排水量四千トン、二十四門の巨砲を備えたこの怪物は、単なる軍艦ではない。それは、当時の世界を支配していた「パックス・ブリタニカ(英国による平和)」という名の、逃れようのない鉄の秩序そのものであった。
その艦尾、喫水線より高く設けられた提督公室 分厚いマホガニーの扉によって外界の波音と隔絶されたこの一室は、この日、日本という国家の命運を切り刻むための、巨大で密室的な「手術室」と化していた。
床には深紅の絨毯が敷き詰められ、壁にはヴィクトリア女王の肖像画と世界地図が掲げられている。天井からはクリスタル・ガラスのシャンデリアが下がり、揺れる船体に合わせて微かな音を立てていた。
空気は重く、そして酷く澱んでいる。最高級のハバナ産葉巻の紫煙と、熟成されたコニャックの芳醇な香り、そしてそこに混じる男たちの脂汗と焦燥の臭いが、窒息しそうなほどの緊張感を醸成していた。
部屋の中央には、海図を広げるための長大なオーク材のテーブルが鎮座している。
そのテーブルを挟んで、この国の行く末を決定づける二組の男たちが対峙していた。それは、勝者と敗者の会見というよりは、瀕死の重傷を負った「日本」という名の患者の、切り分けられた臓器を巡って争う遺産相続人たちの姿に似ていた。
テーブルの上手、審判席に座るのは二人の白人である。
一人は、駐日英国公使ハリー・パークス。燃えるような赤毛と、猛禽類を思わせる鋭い眼光を持つこの男は、この場の「執刀医」であり、同時に最大の債権者代表でもあった。
その隣には、駐日フランス公使レオン・ロッシュ。かつて幕府を支援し、今はその清算を見届けるために同席した彼は、パークスとは犬猿の仲でありながら、「金の回収」という一点においてのみ固く手を結んだ「共犯者」である。
そして、テーブルの下手
向かって右側の椅子には、窮屈そうにその巨躯を押し込めた男がいた。新政府軍実質総大将、西郷吉之助。
泥と煤に汚れた筒袖の軍服に、無骨な薩摩拵えの大小を差したその姿は、この洗練された英国軍艦のサロンにおいて、痛々しいほどに異質であった。彼の太い眉には深い苦悩の皺が刻まれ、その瞳には、目の前の異人たちに対する警戒心と、得体の知れない「数字の暴力」に対する本能的な恐怖が宿っていた。
その隣には、腹心の大久保一蔵が控えている。冷徹な理知で知られる彼でさえ、今は顔面蒼白となり、膝の上で握りしめた拳を小刻みに震わせていた。
対する左側の椅子。
そこに座っていたのは、敗軍の将であるはずの男だったが、その風貌と態度は、西郷たちの予想、悲愴な覚悟を決めた武士を、あまりにも鮮やかに裏切っていた。
旧幕府・南山開発株式會社代表、兼、徳川家管財人、河合繼之助。
越後長岡の家老でありながら、勘定奉行・小栗忠順と対等に渡り合い、北越の地に油田と造船所を築き上げたこの男は、髷こそ結っているものの、身に纏っているのはロンドンのサヴィル・ロウで仕立てにも負けない、完璧なカッティングの黒いフロックコートであった。
だが、それは単なるお洒落ではない。袖口には微かに機械油のシミが残り、その手にはペンダコと、工具を握り続けた者特有の硬い皮膚がある。
彼は、パークスから勧められた葉巻を、まるで数十年も吸い慣れているかのような手つきでくゆらせ、ソフト帽をテーブルの端に無造作に放り投げていた。
その姿は、命乞いに来た敗者ではない。破綻寸前の巨大コングロマリットを解体・再編するために乗り込んできた、荒っぽい現場叩き上げの武装した会計士であった。
部屋には、重苦しい沈黙が澱んでいた。聞こえるのは、換気用のファンが回る低い唸り音と、遠くで響く波の音だけ。
その静寂を破ったのは、パークスの低い、しかしよく通るバリトンボイスであった。
「さて、紳士諸君。時間の無駄は省こう」
パークスは、手元のバカラ製クリスタルグラスを、長い爪で軽く弾いた。
チーン。
硬質で澄んだ音が、これから始まる残酷なショーの開幕を告げるゴングのように、部屋の空気を切り裂いた。
「本日の議題は、単刀直入に二つだ。
一つ、徳川家が南山開発および軍備拡張のために、オリエンタル・バンクをはじめとする欧米列強の金融機関から借り入れた、総額四千万メキシコドルの対外債務継承問題。
二つ、今後の日本列島の統治権の所在と、それに伴う国家資産の分配についてだ」
「よ、四千万…ドル…?」
大久保一蔵が、乾いた喉から悲鳴のような声を絞り出した。彼は新政府の財政担当として、金に細かい男である。だからこそ、その数字の持つ破壊的な意味を、誰よりも早く、そして深く理解してしまった。
当時の為替レートで換算すれば、およそ三千万両から四千万両。新政府が諸藩から掻き集めた御用金や、見込みの税収を全て合わせても、年間数百万両にも満たない。つまり、それは国家予算の十年分、いや数十年分に相当する天文学的な金額であった。
21世紀現在の貨幣価値に直せば数兆円規模。生まれたばかりの赤ん坊のような新政府に、いきなり巨人が背負うべき借金の岩を載せるようなものである。
「パークスどん」
西郷が、唸るように言った。その声は腹の底から響くようであったが、どこか力なげでもあった。
「おいは田舎侍じゃから、そげな異人の大金のことはようわからん。為替だの利息だのと言われても、ちんぷんかんぷんじゃ。
じゃが、一つだけ言えることがある。その金は、徳川が勝手に借りて、勝手に軍艦や大砲を買うて、我らを殺すために使うた金じゃ。我ら新政府には関係なか。徳川が作った借金は、徳川に返させればよかろう」
西郷の論理は、素朴な正義感に基づいていた。敵の借金を、なぜ勝った自分が払わねばならないのか。それは心情的には正しい。だが、このテーブルの上では、心情など一銭の価値もなかった。
「関係ねぇ、で済むなら、警察はいらねぇんですて」
独特の、粘りつくような長岡訛りの声が、西郷の言葉を遮った。
河合継之助である。彼は、葉巻の煙を西郷の方へわざとらしく吐き出し、ニヤリと笑った。その笑みには、江戸の旗本のような気取りもなければ、京の公家のような雅さもない。雪国で機械油にまみれて働き、数字と格闘してきた男だけが持つ、太く、ふてぶてしい土着のリアリズムがあった。
河合はフロックコートの胸ポケットから、一枚の分厚い羊皮紙の書類を取り出し、テーブルの上を滑らせた。それは、まるで処刑命令書のように、西郷の手元で止まった。
「西郷さん。ここは薩摩のお屋敷じゃねぇ。国際法が支配する、英国の領土ですて。万国公法の原則じゃ、政権交代が行われた場合、新政府は旧政府の権利も義務も、まるっと引き継ぐことになってる。
あんた方が、徳川を倒して『天下を取った』と胸を張るなら、当然、徳川の借金も背負ってもらわなきゃなんねぇ。それが『文明国』の仁義ってもんでしょうがね」
「詭弁じゃ!」
西郷がバンとテーブルを叩いた。
「お主らは、そうやって法だの理屈だのを捏ね回して、日本を売り払う気か! 神州の土を、異人の金に変えて逃げるつもりか!」
西郷の怒号に、パークスが眉をひそめ、海兵隊員が銃に手を掛ける。だが、河合は動じなかった。むしろ、哀れむような視線を西郷に向けた。
「感情論はやめましょいて。今は算術の時間だ」
河合は、西郷の視線を柳に風と受け流し、さらに一枚の紙、複雑な数字が羅列された貸借対照表を広げた。その指先は黒ずんでおり、彼がただの帳簿付けではなく、現場を知る人間であることを物語っていた。
「西郷さん。単刀直入に言いますて。あんた方に、この借金は返せねぇ。逆立ちしたって無理だ」
河合は、赤いインクで記された「債務残高」と、黒いインクで記された「推定歳入」の項目を、ごつごつした指でなぞった。
「あんた方が目指してるのは、帝を中心とした『瑞穂の国』だろ? 侍を帰農させ、米と生糸で国を富ませる。結構な理想だ。
だがね、米と生糸の輸出だけで、どうやって毎年数百万ドルの利息を払うつもりだ? 徳川は、南山の金鉱脈や、横須賀や長岡の工場で作る機械製品があったからこそ、この借金を回せたんだ」
河合はここで言葉を切り、探るような目で西郷を見据えた。
「それにね、西郷さん。あんた、勘違いしてねぇか?あんた方の言う『尊皇攘夷』ってのは、本気で異人を追い払うこってすか?」
「なに?」
「違うでしょうがね。あんた方だって、アームストロング砲や蒸気船がなきゃ生きていけねぇこたぁ、百も承知だ。
あんた方の言う『攘夷』ってのは、幕府が貿易の利権を独り占めして、私腹を肥やしてるのが気に食わねぇってことだ。これからは帝の下で一元管理して、俺たちにも公平に商売させろっていう、いわば徳川に対する独り占め禁止の訴えだったはずですて」
西郷は虚を突かれたように口をつぐんだ。その通りだ。西国雄藩が求めていたのは、鎖国への回帰ではなく、幕府という中間搾取業者の排除と、朝廷主導による貿易体制の再構築だった。
河合は、冷ややかに続けた。
「だがね、帝は雲の上で霞を食ってらっしゃるお方だ。泥にまみれて石炭を掘ったり、油にまみれて鉄を削ったりするのは、帝の仕事じゃねぇ。
つまり、あんた方の作る新しい国には、金を生むエンジンがねぇんだよ。稼ぐ道具を持たねぇ貧乏人が、豪商の借金を背負い込めばどうなるか、長岡の百姓だって分かりますて」
「うっ…」
西郷が言葉に詰まった。痛いところを突かれたのだ。新政府の経済政策は、「王政復古」というスローガン先行で、実体経済の裏付けがなかった。河合は、畳み掛けるように言った。その言葉は、西郷の腹に冷たい刃物を突き刺すようであった。
「払えなきゃ、待ってるのは『国家破産』だ。債務不履行となれば、ここにいるパークスさんやロッシュさんの国は、黙っちゃいねぇ。
彼らは国際法に基づき、債権回収のために担保権を行使する。つまり、日本の関税自主権の接収。港湾の租借。最悪の場合、領土の一部、蝦夷地や九州の切り取りだ」
河合は、窓の外を親指で指し示した。そこには、大阪湾を埋め尽くす四十二隻の黒船が、不気味なシルエットとなって浮かんでいる。
「あそこにいる黒船どもは、あんた方の勝利を祝いに来たんじゃねぇ。彼らは『取り立て屋』ですて。
インドや清国がどうなったか、ご存知でしょうがね? 借金のカタに国を切り取られ、阿片を売りつけられ、半植民地になった。西郷さん、あんたは京の帝に、私のせいで日本がなくなりましたと報告するつもりかね?」
「……ッ!」
西郷の顔から血の気が引いた。彼は戦場で弾丸を恐れる男ではなかった。死ぬことなど、武士の本懐だと思っていた。
しかし「借款」という見えない鎖が国家を縛り上げ、戦争の勝利さえも無意味にしてしまうという事実は、彼の理解を超えた恐怖であった。
近代とは、なんと残酷な時代なのか。刀で斬り合うよりも、帳簿で首を絞める方が、遥かに効率よく国を殺せるのだ。
パークスが無言で頷き、ロッシュが肩をすくめてみせた。その仕草が、河合の言葉が単なる脅しではなく、ロンドンとパリで既に承認された「既定のシナリオ」であることを、雄弁に物語っていた。
「じゃあ、どうしろと言うんじゃ!」
大久保が、耐えきれずに叫んだ。普段の冷静さをかなぐり捨てた、悲痛な叫びだった。
「我らに、国を売れと言うのか! 異人の奴隷になれと言うのか!」
その悲鳴を聞いて、河合はふっ、と表情を緩めた。
ニヤリと笑ったその顔は、悪魔的でありながら、どこか救済者のようにも見えた。彼は、懐から南山製の安葉巻を取り出し、無造作に噛みちぎった。
「…いいや」
河合は、ゆったりと椅子に背を預けた。
「逆ですて。あんた方に『国』を差し上げようと言ってるんだ」
河合は、あらかじめ用意していた一枚の巨大な地図を、テーブルの中央に広げた。それは、日本列島と、南半球にある南山が並んで描かれた、奇妙な地図であった。
彼は、赤と青の太い色鉛筆を取り出し、日本列島を赤く、南山を青く、力強く囲んだ。
「これは、巨大な『手仕舞い(クローズ)』だ」
河合は、歌うように言った。長岡の商人が、大口の取引をまとめる時の口調だ。
「徳川と日本は、性格の不一致により離縁する。
…長年連れ添った夫婦だが、もう限界だ。価値観が違いすぎる。 あんた方は、帝を選び、我々は機械を選んだ。そこで、きっちり財産分与を行いましょうや」
河合は、ペンダコのある指を一本立てた。
「第一に不動産。大八洲の土地、街、村、城郭、道路、橋梁、港。これら全ての統治権と所有権を徳川は放棄し、新政府に『無償』で譲渡しますて。…江戸城も、二条城も、佐渡金山も、すべてあんた方のものだ。家屋敷は、すべて妻(日本)にあげましょう」
西郷の太い眉がピクリと動いた。土地をくれる? あの強欲な徳川が?
「第二に、負債」
河合は、二本目の指を立てた。
「先ほどの四千万ドルの対外債務。これは、すべて我々徳川(南山開発株式會社)が引き受ける。
新政府には一銭たりとも負担させねぇ。あんた方は、借金のないきれいな体で、新しい国作りを始められるって寸法だ」
「うまい話じゃな」
西郷は、警戒心を解かなかった。むしろ、その眼光は鋭さを増した。
「借金を全部背負って、土地までくれる。そんな虫のいい話があるか。徳川は、何の得があってそんなことをする? 裏があるはずじゃ」
「ご名答」
河合は青い鉛筆を逆に持ち替え、地図上の四点、横濱、横須賀、石巻、そして新潟の港——を、コツコツと強く叩いた。
(第4話(下)に続く)
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本作の設定についての短編です。
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「16世紀末から19世紀末迄の日本 - 嘉永の産業革命」
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