第3話 債権者たちの無敵艦隊(アルマダ)
慶應四年(一八六八年)三月二十日
春の彼岸の中日だというのに、大阪湾の空は、この世の終わりを告げるかのような鉛色に沈んでいた。
数日前まで吹き荒れていた「春の嵐」は去った。波は凪ぎ、本来であれば、茅渟の海の穏やかな水面に、六甲の山並みや淡路の島影がのどかに映るはずであった。
だが、今の海面に映っているのは、日本の風景ではない。そこにあるのは、鉄と蒸気、そして圧倒的な物理質量によって構成された、悪夢のような人工の森であった。
天保山沖から兵庫港にかけての湾内、その水平線を塗り潰すように、林立するマストと巨大な黒い煙突がひしめいている。
一隻、二隻ではない。
一〇隻でも、二〇隻でもない。
その数、計四十二隻。 総排水量、約七万八千トン。
隊列の中央に鎮座するのは、英国海軍が誇る最新鋭装甲艦「オーシャン(HMS Ocean)」その巨体は、まるで海に浮かぶ要塞であり、舷側に並ぶ砲門は、大阪城の天守閣さえも一撃で粉砕しうる口径を誇っている。
その脇を固めるのは、フランス海軍のフリゲート「ゲリエール(Guerrière)」
米国アジア艦隊旗艦「ハートフォード(USS Hartford)」
さらには、プロイセン王国のコルベット艦、オランダの蒸気船、イタリア王国の巡洋艦までもが、まるで晩餐会の席次を争うかのように、厳格な陣形を組んで停泊していた。
通常、これら列強諸国の艦隊が、一つの海域に、しかも、互いに砲口を向け合うことなく集結することはあり得ない。彼らは世界中で植民地を奪い合い、貿易利権を巡って角突き合わせているライバル同士であるはずだ。
だが、今の彼らは奇妙なほどに統率されていた。
ユニオンジャック、トリコロール、星条旗。異なる国旗を掲げながらも、その艦隊全体からは、一つの明確な、そして冷徹な「意思」が立ち昇っていた。
それは、侵略者の殺気ではない。もっと無機質で、逃れることのできない、法と契約の執行者だけが放つ、独特の重圧であった。
◆
大阪の街は、文字通り凍りついていた。鳥羽・伏見の戦いでの勝利に沸き、官軍の入城を歓迎していた商人たちも、高札を掲げて回る新政府の役人たちも、海の方角を見上げたまま、言葉を失っている。
「異人が攻めてきた!」
「エゲレスの軍勢が、京へ攻め上る気だ!」
市中には根拠のない流言飛語が飛び交い、荷車に家財道具を積んで避難しようとする人々で、街道は瞬く間に大渋滞となった。
無理もない。彼らの頭上を覆っているのは、春の霞ではない。四十二隻のボイラーが一斉に吐き出す、煤煙という名の黒い雲なのだ。その黒雲は、太陽を遮り、勝利に酔いしれる大阪の街に、冷ややかな影を落としていた。
大阪城・大手門上の櫓
この城の新たな主となった新政府軍の実質的な総大将、西郷吉之助は、太い腕組みをしたまま、海の方角を凝視していた。その巨躯は、以前の泰然自若とした雰囲気を消し、岩のように強張っている。
手にした遠眼鏡を覗き込むことすら、今の彼には躊躇われた。レンズ越しに見える光景が、自分たちの勝利、「王政復古」という偉業が、いかに脆く、危うい基盤の上に成り立っているかを突きつけてくるからだ。
「吉之助さぁ」
隣に立つ大久保一蔵が、普段の沈着冷静さをかなぐり捨て、焦燥に震える声で囁いた。
「こいは、一体どういうつもりじゃ? パークスどんも、ロッシュどんも、何の通告も寄越さず、いきなり軍艦を並べ立てて。まるで、我らを脅しに来たようじゃなかか」
大久保は、唇を噛んだ。
「まさか、英仏が手を組んで、日本を分割しに来たとか? 薩長が徳川を倒した隙を狙って、この国を植民地にする気か?」
西郷は、ゆっくりと首を横に振った。
「…いや、違う」
その声は、腹の底から絞り出すような重低音だった。
「植民地にするなら、もっとやりようがある。内乱を長引かせて、双方に武器を売りつけ、疲弊したところを食らえば良か。 じゃが、あれは違う。あれは喧嘩をしに来た構えじゃなか」
西郷の野性的な直感は、鋭敏に真実を嗅ぎ取っていた。あの艦隊から漂ってくるのは、血の匂いではない。もっと乾いた、インクと紙幣の匂いだ。彼らは、領土を奪いに来たのではない。宗教を広めに来たのでもない。
「一蔵。おいは、恐ろしか」
西郷は、遠眼鏡を乱暴に畳んだ。
「鳥羽・伏見で、我らは錦の御旗ば掲げた。あの旗の前では、徳川の兵も、諸藩の侍も、平伏して道を開けた。なぜなら、彼らが日本人じゃからだ。帝への畏敬があるからだ」
西郷は、黒い煙を吐く洋上の怪物たちを指差した。
「じゃが、あいつらには通じぬ。あいつらが信じているのは、天照大神でもなければ、徳川権現でもなか。おそらく、もっと即物的で、冷徹で、逃れることのできない数字という名の神様じゃ」
西郷の脳裏に、ある予感が走る。この戦は、終わっていない。いや、本当の戦いはこれから始まるのではないか。
刀と大砲で敵を倒す戦争は終わった。だが、その後に待っているのは、国家という巨大な組織を巡る、貸借対照表上の戦争だ。
徳川慶喜が、なぜあれほどあっさりと大阪城を捨て、江戸へ逃げ帰ったのか。松平容保や近藤勇が、なぜ甲州や東海道で、奇妙な時間稼ぎに徹しているのか。そして、なぜ今、世界中の軍艦が、ここに集まっているのか。
「…わからん。だが、パークスは我らの味方じゃったはず。ロッシュは幕府寄りじゃが、本国で失脚したと聞いちょる。それが何故、揃いも揃って大砲の口を、この大阪城に向けて並んでおるんじゃ」
西郷の背筋を、冷たい汗が伝い落ちた。
彼はまだ知る由もないが、いま彼が見ているのは、もはや軍艦ではない。それは、日本列島という担保物件を取り囲む、巨大な「取り立て屋」の群れであった。
新政府軍は、徳川を倒して天下を取ったつもりでいた。だが、その天下(不動産)には、とてつもない額の「抵当権」が設定されていたとしたら? そして、その抵当権者たちが、今まさに玄関先でドアを蹴破ろうとしているとしたら?
風向きが変わった。
海からの風が、コールタールの焦げるような臭いと、微かな石炭の粉を、大阪城の天守へと運んでくる。それは、農本主義的な「瑞穂の国」が、容赦ない産業資本主義の「黒い世界」へと飲み込まれていく、歴史の転換点の匂いであった。
◆
同時刻 大阪湾上
英国海軍旗艦 二等装甲艦オーシャン
艦尾にある提督公室
厚さ数インチのマホガニー材で造られた重厚な扉によって外界と隔絶されたその空間には、戦場の硝煙とは異なる、もっと濃密で、肺腑を蝕むような紫煙が立ち込めていた。最高級のハバナ産葉巻の香りと、クリスタル・デキャンタの中で揺れる琥珀色の液体、熟成されたコニャックの芳醇な香りが混じり合い、一種独特の背徳的な空気を醸成している。
部屋の中央、海図を広げるための巨大なオーク材のテーブルを挟んで、二人の男が対峙していた。
上座にふんぞり返るように座っているのは、駐日英国公使ハリー・スミス・パークス。その赤ら顔と鋭い眼光は、外交官というよりは、獲物を前にした猛禽類を思わせる。
対面には、駐日フランス公使レオン・ロッシュ。ナポレオン三世の威光を背負い、幕府への軍事支援を主導してきた老獪な外交官だが、今はその表情に疲労と、ある種の諦観が滲んでいる。
本来であれば、彼らは犬猿の仲である。大英帝国とフランス帝国。七つの海を股にかけて植民地を奪い合い、極東の島国においても、薩長と幕府という代理人を立てて角突き合わせてきた宿敵同士だ。通常なら、同じテーブルで酒を酌み交わすなど、天変地異でも起きない限りあり得ない。
だが、今の彼らの間には、奇妙な、しかし強固な連帯感が漂っていた。それは友情ではない。共通の敵、あるいは共通の「損失」を前にした、共犯者たちの沈黙の協定であった。
「笑える話だと思わないかね、ムッシュ・ロッシュ」
パークスが、グラスの中で揺れるコニャックを見つめながら、低い声で言った。
「我々は過去数年、この極東の猿たちの王座争いに、ずいぶんと熱を上げてきた。君は将軍に肩入れし、私は薩摩の若造どもをけしかけた。
だが、いざ蓋を開けてみれば、勝者も敗者もいない。いるのは、破産寸前の債務者と、その財布を狙う強盗だけだ」
「同感だ、ミスター・パークス」
ロッシュは、苦々しげに葉巻の灰を銀の盆に落とした。
「パリの投資家たちも、今頃になって青い顔をしているよ。彼らにとって、日本が天皇の国になろうが、将軍の国になろうが知ったことではない。ただ、元本と利息さえ戻ってくればな」
彼らの視線は、テーブルの中央に積み上げられた、分厚い紙束へと注がれた。それは外交文書でもなければ、条約の草案でもない。縁に金箔が施され、複雑な透かし模様が入った、美しい、しかし毒を含んだ証券の束であった。
『徳川・南山開発利付国債(Tokugawa-Nanzan Development Bonds)』
勘定奉行・小栗忠順が、過去十年間にわたり、「南山」という植民地開発を担保に、ロンドンのシティ、パリのブルス(証券取引所)、果てはアムステルダムやニューヨークの金融市場から調達し続けた、天文学的な借金の証文である。
額面にして、総額四千万メキシコドル。現在の貨幣価値に換算すれば数兆円規模に達する。当時の日本国内の経済規模(GDP)を考えれば、国家予算の数十年分に相当する、正気の沙汰とは思えない巨額の負債であった。
徳川幕府は、この資金を湯水のように使って、横須賀にドックを造り、蒸気船を買い、南山に鉱山を拓いた。世界の投資家たちは、「東洋のエル・ドラド(黄金郷)」という甘い夢に酔いしれ、競って金を貸した。
だが、夢から覚める時が来た。債務者である徳川幕府が、今まさに倒れようとしているのだ。
「…もし、だ」
パークスは、葉巻の煙を天井に吐き出した。
「もし、西郷や大久保といった農本主義者たちが江戸へ攻め込み、担保である横須賀製鉄所を『異人の穢れた施設』として焼き払ったら、どうなる?」
ロッシュは、首を横に振った。その顔には、外交官としての計算ではなく、一人の投資家としての恐怖が浮かんでいた。
「徳川は債務不履行を宣言する。この美しい債券は、鼻紙にもならぬ紙屑だ。そうなれば、パリのクレディ・モビリエ銀行は破綻し、ロンドンの銀行家たちも連鎖的に倒れるだろう。 世界規模の金融恐慌だ。
我々のクビが飛ぶだけでは済まんよ。下手をすれば、本国で革命が起きる」
そう。彼らがこの大阪湾に、虎の子の艦隊を集結させた真の理由。それは、自国民保護などという人道的なお題目のためではない。
徳川幕府という、世界最大級の「多重債務者」が、夜逃げに失敗して死んでしまうことを防ぐためであった。
殺してはならない。絶対に、殺させてはならない。
彼らは、あまりにも莫大な借金を背負いすぎたが故に、死ぬ権利さえ剥奪されたのだ。これを、ロンドンのシティの冷徹な隠語で、「借金が多すぎて殺せない(Too Indebted to Die)」と言う。
「滑稽な話だ」
パークスは自嘲気味に笑った。
「我々は、徳川を倒すために薩長に武器を売った。だが今、その徳川を守るために、薩長に大砲を向けねばならんとはな」
パークスは立ち上がり、舷窓から外の景色を見下ろした。眼下には、勝利に沸く大阪の街が広がっている。新政府の兵士たちが、錦の御旗を掲げて行進しているのが、豆粒のように見えた。
彼らは信じているのだろう。自分たちが正義の戦いに勝ち、新しい国を作るのだと。
だが、パークスの目には、彼らは「帳簿の読めない猿」にしか見えなかった。彼らは、自分たちが占領した土地(日本)に、どれほどの抵当権が設定されているかを知らない。勝利の美酒だと思って飲んでいる杯の中身が、実は猛毒の借金であることに気づいていない。
「だからこそ、我々は徳川の『引越し』を手伝わねばならんのだ」
パークスの声には、氷のような冷徹さが宿っていた。
「あの野蛮な新政府軍が、我々の担保物件、工作機械と技術者たちに指一本触れさせないようにな。
徳川には、南山へ行ってもらう。そして、死ぬ気で働いて、羊の毛を刈り、鉄を掘り、最後の一セントまで利息を払ってもらわねばならん」
「悪魔のような男だ、君は」
ロッシュが苦笑した。
「銀行家の代理人と言ってくれたまえ」
その時、重厚な扉がノックされた。海兵隊の当直士官が入室し、直立不動で敬礼する。
「閣下。徳川からの使者が到着しました」
パークスとロッシュは顔を見合わせた。彼らの表情から、投資家の憂鬱は消え、再び外交官の仮面が装着された。
「…通せ」
パークスは、飲み干したグラスをテーブルに置いた。
「我々の『管財人』のお出ましだ。
せいぜい、気の利いた再建計画を持ってきていることを祈ろうじゃないか」
足音が近づいてくる。それは、敗軍の将の重い足取りではない。
カツ、カツ、カツ。
規則正しく、自信に満ちた、革靴の響きであった
◆
海兵隊の当直士官に案内され、提督公室に足を踏み入れた男は、パークスとロッシュの予想、敗残の侍らしく、死装束か、あるいは粗末な和装で現れるだろうという予測を、あまりにも鮮やかに裏切っていた。
その男、越後長岡藩家老、兼、南山開発株式會社・財務擔當執行役員、河合繼之助
髷こそ結っているものの、彼が身に纏っているのは、ロンドンのサヴィル・ロウの仕立てにも引けを取らない、完璧なカッティングの黒いフロックコートであった。
素材は、南山で産出された最高級のメリノウール。ボタンは黒蝶貝。襟元には純白のシルクのクラバットを巻き、泥一つない革靴は、提督公室の磨き上げられた床板と競うように黒光りしている。そして左手には、南山特産のクロコダイル革で作られた、堅牢な鞄を提げていた。
それは、命乞いに来た敗者の姿ではない。破綻寸前の巨大コングロマリットを再建するために乗り込んできた、冷徹なターンアラウンド・マネージャー(事業再生専門家)の出で立ちであった。
「お待たせしました、公使閣下。並びに、ロッシュ閣下」
河合は、卑屈さの欠片もない態度で、オックスフォード訛りの流暢な英語で挨拶した。パークスは、片眉を上げて椅子に深々と座り直した。
「ミスター・カワイ。君の評判は聞いている。ガトリング砲を愛する『武装した会計士』だとな」
「過分な評価です。私はただ、そろばん勘定を合わせるために、時々火薬を使うだけのこと」
河合は薄く笑い、勧められるままにテーブルの端の席に着いた。
パークスは、琥珀色の酒を揺らしながら、単刀直入に切り出した。外交辞令など、この男には不要だと判断したのだ。
「では、そろばんの話をしよう。徳川は負けた。江戸は落ちる。…単刀直入に聞こう。徳川は、我々から借りたこの四千万ドルの借金を返せるのか? イエスか、ノーか」
部屋の空気が凍りついた。ロッシュも身を乗り出し、河合の口元を凝視する。
河合は、表情一つ変えず、手元のクロコダイル鞄を開いた。中から取り出したのは、一枚の巨大な地図と、複雑な数字が羅列された貸借対照表であった。
「返せますとも。ただし、條件があります」
河合は、地図上の「日本列島」と、南半球にある「南山」を、細い指で交互に指し示した。
「見ての通り、現在の日本本店(日本列島)は、過剰人員と旧態依然とした組織(藩體制)で赤字垂れ流しです。おまけに、新政府という名の強欲な組合が、暴力的な敵対的買収を仕掛けてきている」
河合は、軽蔑を込めて「組合」という言葉を使った。
「彼ら新政府の主要構成員は、尊王攘夷を叫ぶ農本主義者です。彼らの経済政策は『米を作って年貢を取る』ことだけ。…そんな連中に、近代的な金融資本主義のルールが通じると思いますか? 彼らに、この四千万ドルの利息が払えると思いますか?」
「NOだ」
ロッシュが即答した。フランスが幕府を支援したのは、まさにその点、薩長の非近代性を危惧したからでもあった。
「でしょうな。彼らに債務を継承させれば、間違いなく踏み倒す(デフォルトする)。『異人の借金など知らぬ』と言ってね」
河合は、懐から南山製の細巻き葉巻を取り出し、無遠慮に火をつけた。紫煙の向こうで、彼の瞳がカミソリのように光る。
「そこで、我々は『會社分割』を提案します」
「スピンオフ?」
パークスが身を乗り出した。
「左様。 『日本列島』という不良資産は、借金なし(デット・フリー)の状態で、新政府にくれてやります。土地も、城も、戸籍も、すべて無償譲渡する。
その代わり、我々徳川は『南山』という優良資産へ本店を移転し、事業を継続します」
河合は、バランスシートの右側、負債の部を指で叩いた。
「債務はすべて、我々が新會社(南山)へ引き継ぎます。四千万ドルの元本も、未払いの利息も、すべて我々が責任を持って返済する。ですが、金を返すには『道具』が必要です」
河合の声のトーンが、一段低くなった。ここからが交渉の核心だ。
「羊の毛を刈り、鉱山を掘り、製品を作って金を稼ぐには、機械と技術者が不可欠です。橫濱(横浜)・横須賀にある工作機械、金蔵の正貨、そして十万人の熟練技術者たち。
これらはすべて、南山で収益を上げるための『商売道具』です。これを新政府に渡すわけにはいきません。これらは、あなた方への返済原資そのものですから」
河合は、二人の公使の目を真っ直ぐに見据えた。
「もし新政府軍がこれらを奪えば、それは『戦利品の獲得』ではありません。あなた方債権者の『擔保物件の毀損』です。
機械がなければ、南山は稼げない。稼げなければ、金は返せない。つまり、我々の引越しを邪魔する者は、あなた方の敵だ」
パークスとロッシュは顔を見合わせた。
完璧な論理だ。あまりにも冷徹で、そして銀行家好みの論理だ。日本という国が統一されるか、分裂するかなど、彼らにとってはどうでもいい。
重要なのは、南山という新興企業が成功し、そこから確実な配当(返済)が得られるかどうかだ。そして河合の提案は、そのための唯一の現実的な解であった。
「なるほど。面白い」
パークスは、ニヤリと笑った。それは、獲物を見つけた獣の笑みではなく、有能な共犯者を見つけた詐欺師の笑みだった。
「つまり、君は我々に、徳川の『夜逃げ』を手伝えと言うのだな?」
「…人聞きが悪い」
河合は、葉巻の煙を優雅に吐き出した。
「戦略的本社移転(ストラテジック・ヘッドクォーター・リロケーション)と呼んでいただきたい」
「新政府軍は、我々の荷物を泥棒だと騒ぐでしょう。日本の財産を持ち出すなと」
河合は、窓の外、大阪城の方角を顎でしゃくった。
「そこで、あなた方の出番です。擔保物件に手を出すなと、その四十二隻の大砲で、彼らに教えてやっていただきたい。 これは内政干渉ではない。正当な債権保全活動だと」
パークスは、膝を打って立ち上がった。
「気に入った。君のその、悪魔的なまでに合理的な頭脳が気に入ったよ、ミスター・カワイ」
ロッシュも頷いた。
「我々としても、野蛮な攘夷論者よりは、話の通じるビジネスマンと手を組む方が得策だ。…いいだろう。フランス政府も、この『會社分割案』を支持する」
十分後。世紀の商談は成立した。
パークスは、即座に書記官を呼び、西郷隆盛への招待状、実質的な、最後通牒に近い召喚状をしたためさせた。
『親愛なる西郷閣下。今後の日本の国際的地位と、債務継承問題について協議したく、至急、本艦へ来られたし。 なお、もし来艦なき場合、我々は債権保全のため、日本の関税自主権を一時的に接収せざるを得ないことを申し添える』
それは、「話し合いに来い」という誘いではない。
「お前たちの国の借金のカタに、国そのものを差し押さえるぞ」という、圧倒的な脅迫状であった。
◆
大阪城・本丸御殿
かつて太閤秀吉が栄華を誇り、徳川の将軍たちが西国支配の拠点としたこの巨大な石造りの要塞は、今、奇妙な静寂に包まれていた。本来であれば、戦勝の祝宴が催され、諸藩の兵士たちが勝鬨を上げているはずの広間には、重苦しい沈黙が澱んでいる。
英国公使館の書記官によってもたらされた一通の書状が、漆塗りの文机の上に置かれていた。封蝋には、大英帝国の獅子と一角獣の紋章が押されている。西郷吉之助は、その封蝋を親指で無造作に割り、中身を一読した後、無言で大久保一蔵へと回した。
「こいは…」
読み進める大久保の手が、小刻みに震え始めた。彼の顔から血の気が引いていく。冷徹な策士として知られる彼でさえ、その文面に隠された底知れぬ暴力の気配に、動揺を隠せなかったのだ。
文面は丁寧だ。外交儀礼に則っている。だが、その実態は、喉元にナイフを突きつけながら「財布を出せ」と囁く強盗の台詞と何ら変わりはない。
「関税自主権の接収」
それは即ち、国家としての主権の一部を剥奪し、この国を半植民地化するという宣告に他ならない。
「債務継承? 関税接収? 吉之助さぁ、こいは罠じゃ! パークスの野郎、最初からこれが狙いじゃったか!」
大久保は、激昂して書状を畳に叩きつけた。
「行けば殺されるか、あるいは人質に取られて、無理難題を吹っかけられるに決まっちょる! …断じて行くべきじゃなか! 我らには錦の御旗がある。異人の脅しになど屈してはならん!」
「一蔵。落ち着け」
西郷の声は、驚くほど低く、そして静かだった。
彼はゆっくりと立ち上がり、広間の縁側へと歩み寄った。夕日が、彼の巨躯に長い影を落としている。
「罠じゃなか。こいは『商談』じゃ」
「商談?」
「ああ。 おいは、戦には勝ったつもりでおった。徳川を追い出し、帝を中心とした新しい国を作れば、それで万事解決すると信じておった。
じゃが、どうやらこの国には、錦の御旗よりも強く、大砲よりも重い、見えん鎖が巻き付いちょるらしい」
西郷は、自分の太い首筋を撫でた。
「金という名の鎖じゃ」
彼は、本能的に理解していた。鳥羽・伏見で旧幕府軍を退けたのは、薩長の武力でも、精神力でもない。徳川慶喜という男が、「日本という泥船」を見限り、資産を持って逃げ出すための計算を弾いた結果に過ぎないのではないか、と。
そして今、その計算の続きをするために、海の向こうの本当の支配者たちがやってきたのだ。
「吉之助さぁ。まさか、行くつもりか?」
「いや、行かねばならん」
西郷は、振り返った。その瞳には、覚悟というよりは、諦観に近い澄んだ光が宿っていた。
「行かねば、大坂は火の海になる。四十二隻もの大砲が一斉に火を噴けば、この城など一刻(二時間)も保たん。我らが手に入れた勝利など、彼らにとっては紙切れ一枚の価値もないんじゃ」
西郷は、大久保の肩に手を置いた。その手は温かく、そして大きかった。
「すまん、一蔵。お前にもついてきてほしいんじゃ。
もし、おいの首ひとつで、異人の気が済むなら安かろう。じゃが、もし奴らが『日本の未来』そのものを要求してきたら……その時は、お前が知恵を絞ってくれ」
「吉之助さぁ…」
大久保は、言葉を詰まらせた。彼は知っていた。西郷が一度決めたら、テコでも動かないことを。そして、その動物的な勘が、常に正しいことを。
西郷は、従者に二人の正装、といっても、質素な軍服だがを用意させた。腰には愛用の薩摩拵えの大小を差す。それは、武士としての最後の矜持であると同時に、これから向かう場所が「戦場ではない場所」であることを逆説的に示していた。
戦場ならば、もっと役に立つ武器を持っていく。だが、これから向かうのは「契約のテーブル」だ。そこでは刀など、ただの装飾品に過ぎない。
◆
黄昏時。
大阪湾の波間を、一艘の小舟が進んでいく。西郷と大久保を乗せたその小舟は、黒い城壁のようにそびえ立つ英国旗艦「オーシャン」へと吸い込まれるように近づいていった。
西郷は、舳先に立ち、腕組みをして前方を見据えていた。夕闇に沈む巨大な軍艦のシルエットは、新政府軍の勝利を祝うパレードの船ではない。
この国に残された「借金のカタ」を根こそぎ回収しに来た、死神の葬列のように見えた。あるいは、それは巨大な鯨であり、自分はこれからその腹の中へと飲み込まれる預言者ヨナなのかもしれない。
(河合継之助、と言ったか。長岡の家老。そいつが、この絵図を描いたのか)
西郷は、まだ見ぬ敵の顔を思い浮かべた。自分たちを「野蛮な農本主義者」と嘲笑い、国際法という見えない武器で武装した男。
これから始まるのは、血の流れない戦争だ。だが、その残酷さは、鳥羽・伏見の比ではないだろう。
「行ってくる。腹を召す覚悟で、話を聞いてくるわ」
風が、西郷の太い眉を揺らした。彼を待ち受けているのは、銃弾飛び交う戦場よりも遥かに冷酷で、そして逃げ場のない、数字と契約書による「国家の解体ショー」であった。
タラップの上で待ち構える英国海兵隊の整列を仰ぎ見ながら、西郷はゆっくりと、しかし力強く、その第一歩を踏み出した。
それは、日本が「近代」という名の、二度と戻れない激流へと足を踏み入れた瞬間でもあった。
(第4部 第3話 完)
最後までお付き合いいただき感謝します。
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本作の設定についての短編です。
興味を持っていただければご一読下さいませ。
「16世紀末から19世紀末迄の日本 - 嘉永の産業革命」
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