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第七話 洛陽の黒き手綱 其の一

 文久二年(一八六二年)


 後世の歴史家は、この年を帝国の亀裂が決定的となった分水嶺と記すことでしょう。

 しかし、私、松平照の記憶の中にある文久二年は、夫君・松平容保様が、その生涯で最も強く、逞しく、そして悲しいほどに孤高の輝きを放っておられた季節として焼き付いております。


 当時の江戸では麻疹が猛威を振るい、多くの幕閣や大名が病の床に伏しておりました。しかし、北の海から戻られた容保様だけは、鋼のような健康を誇っておられました。

 かつては蒲柳の質と案じられたお体も、私が独逸から取り寄せた最新の醫学書を翻訳し、南山植民地からもたらされる肝油飴や新鮮な牛酪(バター)、そして赤茄子(トマト )などを取り入れた食事療法を徹底した甲斐もあり、今や熊と相撲が取れると噂されるほどに壮健であらせられました。


 この頃の日本は、目に見えぬ巨大な断層によって二つに引き裂かれておりました。

 東は、南山・入安の資源と直結し、蒸気機関と溶鉱炉が唸りを上げる「産業の日本」。ここでは身分よりも技術と蓄財が重んじられ、人々は洋服を着て缶詰を食らい、明日の相場を語らいます。


 対して西は、古来よりの伝統と、清国との絹貿易、そして米作に依存する「農本の日本」。ここでは東国からもたらされる安価な工業製品によって手工業が破壊され、失業者と、変化を恐れる保守的な浪士たちが、「尊王攘夷」という名の怨嗟を叫んでおりました。


 南山はあくまで資源と食料の供給地であり、高度な知恵と技術は欧州と東国にある――それがこの世界の理です。しかし、その理に異を唱え怒りを持つ者たちの怒りが、京の都を血の海に変えようとしておりました。


 容保様は、蝦夷地・石狩での炭鉱開発を軌道に乗せ、北の石炭と南のゴムを結ぶ産業大循環の大動脈を完成させようとした矢先、その泥沼へと引きずり込まれることとなったのです。


 - - - - - - - - - - - - -


 五月三日 江戸 會津藩上屋敷


 五月雨が庭の紫陽花を濡らす、重苦しい午後のことでございました。


 あの日、大広間にて容保様と対峙していたのは、一橋慶喜様と、福井藩主・松平春嶽様。お二方の醸し出す空気は、張り詰めた弓弦のように鋭く、そして冷ややかでございました。


 私は隣室にて控え、そのやり取りの一部始終を耳にしておりました。それは、交渉というよりは、あまりにも残酷な「捕獲」の儀式でございました。


「 會津中将。……京へ登り、守護職の任に就いてくれぬか」


 春嶽様が切り出されたその一言は、懇願ではなく、逃げ場のない宣告のように響きました。

 

 容保様は、手元の茶碗を静かに置かれ、眉一つ動かさずに答えられました。


「お断りいたします。予は産業に生きる者。京の政争の泥をさらう役目、 會津の領分にあらずと考えます。それに、蝦夷の開発は緒に就いたばかり。今、予が離れれば、数万の移民と投資が無に帰します」


「金の話か、 會津」


 一橋慶喜様が能面のような無表情で継がれました。そのお声には人を射抜くような冷徹な響きがありました。


「国が割れようとしているのだ。西国の不逞浪士どもは尊王攘夷を叫んではいるが、その実は東国の産業が生む富への嫉妬と、古き権威への盲信に狂うておる。彼らは毎夜、開国派の公家や商人を斬り、その首を鴨川に晒しておるのだ。……これを放置すれば京は火の海となり帝の権威は地に落ちる。帝無き日本に誰が投資をする?」


 容保様は扇子を強く握りしめられました。


「なればこそ、彦根や紀州がおるではありませんか。彦根の赤備えは、先の騒乱でその実力を示したはず」


「彦根は井伊の死で腰が砕けた。他の譜代も、財政難と麻疹で動けぬ。……それに彦根は恨まれすぎている」


 慶喜様は、机の上に一枚の地図を広げられました。それは、京の都を中心とした勢力図でした。


「今の京は、薩摩、長州、土佐といった西国雄藩が、それぞれに野心を抱いて跳梁跋扈する魔窟だ。彼らは帝を神輿として奪い合い、自らに都合の良い勅を出させようとしている。……これに対抗し暴徒を鎮圧し得るだけの圧倒的な武力と潤沢な資金、そして何より帝が御心を許される徳川の血筋を持つのは、もはや 會津しかないのだ」


 容保様は、苦悶の表情を浮かべられました。


 京都守護職。それは、貧乏くじなどという生易しいものではありません。


 東国の産業資本を代表する 會津が、西国の伝統主義者たちを武力で制圧すれば、どうなるか。


 西国の恨みは全て 會津一点に集中します。 會津の産品は不買運動に遭い、交易ルートは寸断され、莫大な軍事費は藩の財政 -すなわち、蝦夷や南山へ投資すべき未来の富 -を食いつぶすでしょう。


 それは會津の繁栄を自らドブに捨てるようなものです。


「……春嶽殿、刑部卿(慶喜)殿。予に會津を殺せと仰るのか」


 容保様の声が震えておりました。


「予が京へ行けば會津は幕府の番犬として、全日本の憎悪を一身に受けることになる……予は、領民を豊かにすると誓ったのだ。彼らを終わりなき内乱の泥沼に引きずり込みたくはない」


「さよう。泥沼よ」


 慶喜様は薄く笑われたように見えました。


「だが、誰かがその泥を飲まねば、日本という船そのものが沈む。…… 會津中将。そなたは、賢い男だ。損得勘定もできよう。だが、そなたには致命的な弱点がある」


 慶喜様は、じっと容保様の目を見据え、最も残酷な楔を打ち込まれました。


「帝は毎夜の騒音と血の臭いに怯え、眠れぬ夜を過ごされていると聞く。……側近に、『 會津はまだか、東の武人は余を見捨てるのか』と、涙ながらに漏らされたそうだ」


「……ッ!」


「帝」という御言葉が出た瞬間、容保様の瞳が揺らぎました。


 あの方は、誰よりも合理的で新しい知識を愛する啓蒙家であります。しかし同時にその骨の髄まで 會津武士であり、皇室への崇敬は理屈を超えた本能として刻まれておりました。


 藩祖・保科正之公より伝わる「 會津藩たるは将軍家を守護すべき存在」という家訓かきん。そして、神道と国学への深い造詣。それらが、あの方の理性を縛り付けたのです。


 慶喜様は、畳み掛けるように言われました。


「そなたが断れば、帝はどうなるか。……長州の過激派に拉致され、山奥へ連れ去られるか。あるいは戦火に巻き込まれ……」


「おやめくださいッ!」


 容保様が叫ばれました。


 その叫びは、あの方が守ろうとした「合理性」と「産業の夢」が、古い「忠義」という名の怪物に食い殺された断末魔のように聞こえました。


 広間に、重苦しい沈黙が降りました。

 雨音だけが、ザアザアと響いておりました。

 やがて、容保様は深々と頭を垂れられました。


「……承知、いたしました」


 その声は、掠れておりました。


「火中の栗を、拾いましょう。…… 會津の鉄のかいなをもって京の闇を払います。……ですがこれだけは覚えておかれよ」


 容保様は、濡れた瞳で慶喜様を睨み据えられました。


「この決断により會津が血を流す時……その血の色は貴殿らの裏切りの色と同じであると」

 


 閏八月一日 松平容保 京都守護職拝命



 あの日、会談を終えて私の元へ戻られた容保様のお顔は、戦場に赴く将のそれではなく、死にゆく我が子を抱く父のような静謐な絶望と、狂おしいほどの慈愛に満ちておられました。


「……照」


 あの方は、私の手を強く握りしめられました。


「予は、馬鹿な男だ。……計算も、理屈も、すべて捨ててしまった。……蝦夷の工夫たち、若松の職人たちに、なんと詫びればよいのか」


「殿……」


 私は、あの方の冷たくなった手を、両手で包み込みました。


「いいえ。殿は何も捨ててはおられません。……殿は、日本という国が野蛮な殺し合いで終わるのを防ぐために、ご自身を盾になさったのです。……それは、殿が目指された民の安寧を守る戦いそのものではありませんか」


 容保様は、私の肩に額を預け震えておられました。


 後年、あの方は私にこう語られました。


『あの時、慶喜殿の言葉は絹の組紐で首を絞められるようであった。……逃げたい、叫びたい、そう思った。だが、帝の涙を思えば足が動かなかったのだ』と。


 こうして、北の産業革命の旗手であった 會津藩は、南へ向かいました。


 最新鋭のアームストロング砲と、蒸気機関、そして一千の精鋭を引き連れて。


 それは、栄光への行軍ではなく、滅びへの序曲。


 しかし、その滅びの道こそが、後に新天地へと続く唯一の細道であったことを、この時の私たちはまだ知る由もなかったのです。



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