第2話 Bon Voyage(良き旅を)
慶應四年(一八六八年)三月七日
甲州 勝沼
前日の惨劇、後に「甲州の肉挽き機」と呼ばれることになる一方的な殺戮から一夜が明けた。峡谷を埋め尽くしていた朝霧が晴れる頃、板垣退助率いる東山道先鋒総督府軍は、異様な殺気を漂わせていた。
彼らの目は血走り、昨日の屈辱と恐怖が、煮えたぎるような復讐心へと変質していた。
「者ども、聞け!」
板垣が、馬上から鞭を振るって絶叫した。
「賊将・近藤勇は、まだあの山に潜んでおる!
昨日の借りを返す時が来た。
一匹残らず斬り捨て、死体の山を築いてやれ!
総員、突撃ッ!」
「オォォォッ!」
雄叫びと共に、三〇〇〇の兵が動き出した。昨日のような慢心はない。彼らは死兵と化していた。有刺鉄線が撤去された葡萄畑の斜面を、泥に足を取られながらも駆け上がる。
狙いは、岩崎山の稜線にある敵の本陣。
いつ銃弾が飛んでくるか、いつ焙烙玉が転がってくるか、神経を極限まで尖らせながらの突撃であった。
先頭の兵士が、敵の第一塹壕に飛び込んだ。
「死ねぇッ!」
刀を振り下ろす。しかし、その刃が切り裂いたのは、誰もいない虚空だけであった。
「…あ?」
兵士は拍子抜けして周囲を見渡した。
いない。誰もいない。
昨日の猛射撃を行っていたはずの銃座も、指揮所も、負傷兵の姿さえも、綺麗さっぱり消え失せている。そこにあるのは、冷え切った焚き火の跡と、空になった「南山コンビーフ」の空き缶、そして丁寧に埋め戻された排泄用の穴だけであった。
「総督! 陣地は空です! もぬけの殻です!」
報告を受けた板垣は、信じられないという顔で本陣跡に踏み込んだ。
「馬鹿な。三〇〇の兵と重装備が、一晩で煙のように消えるものか。どこへ行った? 大砲はどうした?」
板垣の視線が、指揮所として使われていた粗末な小屋の壁に吸い寄せられた。そこには木炭で殴り書きされた、奇妙な横文字が残されていた。フランス軍事顧問団のジュール・ブリュネ大尉の部下が、最後に残したメッセージである。
『Bon Voyage』
「ボン…ボ…? なんだこれは? 呪詛か?」
板垣が呻くと、長崎遊学の経験がある参謀が、青ざめた顔で進み出た。
「総督。これは仏蘭西語で…『良き旅を』という意味でごわす」
「良き旅…だと?」
板垣の顔色が、朱色から蒼白へと変わった。その瞬間、彼は理解したのだ。近藤勇は敗走したのではない。彼らは仕事を終えて、定時になったので帰宅したのだと。
昨日の殺戮は、この地を守るための決戦ではなかった。ただ時間を浪費させ、恐怖を植え付けるための「業務」だったのだ。
そして、その業務完了の報告書として、この皮肉な挨拶が残された。「良き旅を」これから地獄のような関東平野へ進むお前たちへ、精一杯の皮肉を込めて。
「おのれ、近藤…ッ!我らを、コケにしおって!」
板垣は地団駄を踏んだが、その足取りは重かった。勝利したはずなのに、敗北感だけが胸に沈殿している。周囲の兵士たちも同様だった。
「勝った」という安堵よりも、「またあの見えない敵と戦うのか」という恐怖が、疫病のように蔓延し始めていた。事実、これ以降、東山道軍の進撃速度は極端に鈍化することになる。
道端に落ちている空き缶一つ、風に揺れる藪の音一つに
「有刺鉄線があるのではないか」
「地雷ではないか」
と過剰反応し、確認作業に時間を費やすようになったからだ。それこそが、近藤勇が仕掛けた、最も長く効く「心理的な遅滞戦術」であった。
◆
同時刻
勝沼から東へ二〇キロ 大月付近の山中
獣道とも言えない険しい山道を、一団が黙々と進んでいた。 甲陽鎮撫隊である。彼らの行軍は、敗残兵の逃避行とは程遠い、極めて統制が取れていた。
「遅れるな! 列を乱すな! 荷物は最小限にしろと言ったはずだ。金目のものでも、重いなら捨てろ! ただし、銃と弾薬、それと水筒だけは離すな!」
近藤勇の檄が飛ぶ。
彼らは主要街道である甲州街道を避け、地元の猟師しか知らないような裏道を選んで撤退していた。重い四斤山砲やガトリング砲などは、勝沼の陣地を出る際に破壊し、谷底へ投棄済みである。
身軽になった彼らの移動速度は、正規軍の常識を遥かに超えていた。
「局長。土佐の連中、追ってきませんね」
副官を務める永倉新八が、息を切らしながらもニヤリと笑った。近藤は泥だらけの顔を拭いもせず、口の端を吊り上げた。
「来るわけがねぇよ。奴らは今頃、俺たちが残した『勝利』という名の残飯を漁るのに夢中だ。それに、あの『肉挽き機』の記憶がある限り、奴らは一歩踏み出すたびに足がすくむはずだ」
近藤は懐から南山製の板チョコ(カカオ含有量の高い高カロリー食)を取り出し、半分に割って永倉に投げ渡した。
「食え。歩くには燃料が要る。南山の兵隊は、飯を食うのも仕事のうちだと教えられるそうだ」
「…へい。しっかし、妙な気分ですな。昔なら『敵に背を向けるは武士の恥』とか言って、腹を切る場面でしょうに」
永倉がチョコを齧りながら言うと、近藤は足を止めず、前方の空を見上げた。
「時代が変わったんだ、新八。
死んで花実が咲く時代は終わった。 生きて、荷物を届ける。それが今の俺たちの『武士道』だ」
「荷物、ですか」
「ああ。俺たちの命も、経験も、これからの国造りに必要な財産だ。トシや勝先生が待っている。さあ、急ぐぞ。江戸の空気が吸いたくなってきた」
一行は再び速度を上げた。彼らの背中には、哀愁ではなく、プロフェッショナルだけが持つ、乾いた充実感が漂っていた。
◆
慶應四年三月十一日
江戸
かつて将軍のお膝元として栄えたこの巨大都市は、今、異様な熱気に包まれていた。それは祭りの喧騒にも似ていたが、その中心にあるのは神輿ではなく、うず高く積まれた木箱と、忙しなく行き交う大八車の列であった。
品川の宿場町は、一昨日前に東海道を下ってきた松平容保の本隊の到着によって、ごった返していた。
會津藩兵、桑名藩兵、そして旧幕府歩兵隊。泥と汗にまみれた彼らの表情には、長旅の疲労の色が濃かったが、同時に「生きて帰ってきた」という安堵の光が宿っていた。
その本隊の駐屯地に、土方歳三の姿があった。彼は、到着したばかりの荷駄隊の整理を指揮しながらも、その視線は頻繁に西の街道、甲州方面へと向けられていた。
「遅ぇな」
土方が苛立ち交じりに呟いた、その時である。見張り番の声が上がった。
「甲陽鎮撫隊、帰還! 近藤局長のお戻りだ!」
街道の向こうから、一団が現れた。軍服は泥で汚れ、顔は煤けていたが、その隊列は定規で引いたように整然としていた。先頭を行く馬上の人、近藤勇が、土方の姿を認めて手を挙げた。
「よう、トシ。 待たせたな」
土方は駆け寄りたい衝動を抑え、努めて冷静に、副長としての顔を作って歩み寄った。
「遅刻だ、局長。半日遅れだぞ」
「悪い悪い。 山道で、猪鍋をつつくのに手間取ってな」
近藤は悪びれもせず、馬から降りた。二人は、互いの無事を確かめるように、短く、しかし強く腕を叩き合った。言葉はいらなかった。生きて再会できたこと、それ自体が奇跡であり、そして成果であった。
◆
同日午後。
江戸城・西の丸
かつて老中たちが国政を論じた大広間は、今や南山開発株式会社の臨時物流センターと化していた。畳の上には絨毯が敷かれ、机の上には帳簿と地図、そして電信機の音が鳴り響いている。
その中央に、勝海舟、松平容保、そして帰還した近藤勇と土方歳三が集まっていた。
「ご苦労だったな、近藤」
勝は、上機嫌で茶を勧めた。
「報告は聞いている。板垣の奴さん、勝沼で足止めを食って、疑心暗鬼の塊になってるそうじゃねぇか。 おかげで、東海道の脇腹を突かれる心配はなくなった」
近藤は、出された茶を一気に飲み干し、ふう、と息をついた。
「ええ。一週間、いや一〇日は山から降りてこないでしょう。 高い通行料でしたが、仕事はきっちりこなしました」
「ああ。その代価に見合うだけの『買い物』はできたぜ」
勝は、一枚の分厚い書類をテーブルに置いた。 『横須賀製鉄所・搬出目録』と書かれた表紙。
「お前さんが稼いだ七日間で、横須賀のドックから、一番大事なスチームハンマー(蒸気槌)の分解と積み込みと、ヴェルニーの下で働いていた日本人技師とその家族、計二〇〇〇人の乗船手続きが完了できる見込みだ」
勝はニヤリと笑った。
「それだけじゃねえ、品川の工場群、しめて一一五件。皆、家族と弟子と、旋盤やらノギスやらハンマーやらを抱えて乗船できる見込みが付いた」
「ほう」
「スチームハンマーは、近代工業の心臓だ。あれがありゃあ、南山の荒野でも、船のシャフトから大砲まで何でも作れる。でもな、それは小さな螺子、歯車、そう言った裾野があっての事なんだ。…近藤。お前さんは、南山の工業力を一〇年分、前倒しにしたんだよ」
近藤は、目録を覗き込み、満足げに頷いた。
「そいつは重畳。死んだ連中も、浮かばれましょう」
松平容保が、静かに口を開いた。彼はフロックコートの埃を払い、凛とした表情で一同を見渡した。
「これで、役者は揃いましたね。 江戸周辺での、人材、機械、そしてそれを守る軍隊。 『引越し』の第一段階は完了です」
「次はどこです? 殿様」
近藤が尋ねた。
「東北へ向かいますか? それとも、すぐに船で?」
勝が、葉巻の煙を吐き出しながら遮った。
「いや、その前に、もう一仕事ある。西郷どんが、カンカンになって追いかけてきてるからな。ここらで一つ、この国(日本)との離縁状に判を押さなきゃならん」
「…離縁状?」
土方が怪訝な顔をする。
「そうさ。 殴り合いの喧嘩は終わった。これからは、もっとえげつない、法と契約と金が飛び交う外交戦の始まりだ」
勝の視線は、江戸湾の向こう、遠く大阪の方角を向いていた。そこには、英国公使パークスと、新政府軍の西郷隆盛、そして幕府きっての交渉人・河合継之助が、それぞれの思惑を胸に、巨大なテーブルに着こうとしていた。
近藤勇は、再び懐中時計を取り出し、ネジを巻いた。チリチリという音が、新しい時代の幕開けを告げる秒読みのように、部屋に響いた。
「外交、ですか。 俺たちのような無骨者の出る幕はなさそうですが」
「いいや、あるのさ」
勝は言った。
「交渉のテーブルには、強力な軍事力という重石が要る。お前さんたちが無傷で帰ってきたこと自体が、河合にとって最強のカードになるんだ」
◆
軍議が解散し、勝や土方がそれぞれの持ち場、外交交渉の準備や、兵站の確認へと散っていった後、松平容保は近藤勇を一人、城内の一室に留めた。
そこは、かつて将軍が休息を取った「黒書院」であったが、今は飾り気のない実務室となっていた。
「近藤。近くへ」
容保の声は静かだった。近藤は、泥と油にまみれた長靴のまま、最高級の畳の上を歩くことを躊躇った。
「滅相もございません。今の某は、硝煙と血の臭いが染み付いた、屠殺場の作業員のようなものです。この部屋を汚してしまいます」
「構わぬ。その泥こそが、徳川の…いや、未来への宝だ」
容保は、近藤の前に歩み寄ると、その荒れた両手を強く握りしめた。かつて京都守護職として、新選組を預かっていた頃の、主従という儀礼的な関係ではない。それは、共に泥船を操り、嵐を乗り越えた同志としての握手であった。
「甲州での働き見事であった。そなたが稼いだ一週間という時間は、単なる時間の経過ではない。あれは『命』だ。そなたは何千人もの技術者と、その家族の未来を、泥沼の中から拾い上げてくれたのだ」
近藤は、喉の奥が熱くなるのを感じた。武士になりたくて、もがき続けてきた人生だった。だが、徳川が消滅しようとする今、逆説的に、彼は真の武士としての評価を得たのだ。
「勿体なきお言葉。俺のような多摩の百姓上がりには、過ぎた誉れにございます」
その時、隣室へと続くドアが開き、コツ、コツ、と硬質な足音が響いた。畳の上を草履で歩く音ではない。革靴の音だ。
「ええ、本当に。素晴らしい宝を残してくれましたわ。近藤様」
現れたのは、容保の正室、松平照(照姫)であった。
その姿は、近藤がかつて京で見かけた公家や高位武家の奥方たちのそれとは、似ても似つかぬものであった。
彼女が纏っていたのは、京を離れる時に着ていた洋装であったが、裾を引きずるような乗馬スカートではなく、足捌きの良い丈に詰められた紺色のスカートを履いていた。腰には流石に拳銃では無く、革表紙の厚い手帳と、容保とお揃いの懐中時計が吊るされていた。
「御前」
近藤が平伏しようとすると、照姫はそれを手で制した。
「顔をお上げください、近藤様。ここはもう、江戸城の奥御殿ではありません。幕府はもう既に消え去り、今のここは南山開発本社の事務室ですのよ」
照姫は、夫である容保の隣に並び立つと、手にした手帳を開いた。その立ち姿は、夫に付き従う妻というよりは、共に組織を運営する共同経営者の貫禄を漂わせていた。
「近藤様。あなたが勝沼で敵を釘付けにしている間に、箱根を越えた非戦闘員の女、子供、その総数は、一千四百名になります。もし、あなた方の奮闘が無ければ、いったいこのうちの何名が、江戸まで辿り着けたでしょう」
照姫は淡々と言ったが、その瞳には深い理知と、同志への敬意が宿っていた。
「あなたは、一千四百の命を救ったのではありません。 彼女らが南山で産み、育てるであろう、何千、何万の未来の民を救ったのです。…松平容保の妻として、いえ、これから生まれる南山の子供たちの『母親』として、敬意を以て御礼申し上げます」
照姫はスカートを僅かに摘み、英国王室のような洗練された膝折礼で深々と頭を下げた。その姿は、憐れみ深い聖女というよりは、冷徹だが慈愛に満ちた「鉄の淑女」そのものであった。
「…へぇ。こいつは敵いませんな」
近藤は、照れ隠しに鼻の下を擦った。
「俺はただ、喧嘩の真似事をして時間を潰していただけですが…御前様にそう言われると、悪くない気分ですよ」
容保と照姫。
この二人の「新しいリーダー」が、古い権威ではなく、実利と数字、そして未来への貢献度で自分を評価してくれた。近藤は、自分が守ったものが「過去の遺物」ではなく、「確かな未来」であることを確信し、満ち足りた思いで一礼した。
「では、これにて失礼いたします。トシが、土方が、また次の『仕事』を見つけて待ち構えているでしょうから」
近藤の足取りは、来た時よりも遥かに軽かった。その背中には、一人の「南山共和国建国の父」としての矜持が、静かに芽生えていた。
窓の外では、江戸城の堀に映る夕日が、血のように赤く、しかし美しく輝いていた。
徳川の落日。
しかしそれは、南山という新星が昇るための、必然の黄昏であった。
(第4部 第2話 完)
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本作の設定についての短編です。
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「16世紀末から19世紀末迄の日本 - 嘉永の産業革命」
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