第30話 空っぽの勝利 - 青い大動脈
慶應四年(一八六八年)一月三〇日
大坂城の大手門は、冬の寒風に晒されながら、無防備に開け放たれていた。数日前までここを埋め尽くしていた数万の幕府軍、南山製のアームストロング砲や、最新鋭の小銃で武装した東洋最強の軍隊の姿は、影も形もない。あるのは、打ち捨てられたボロボロの荷車と、燃え残った篝火の跡、そして風に舞う煤だけであった。
その巨大な空洞へと、新政府軍の行進が吸い込まれていく。先頭を行くのは、薩摩藩の兵士たちだ。彼らの顔には、勝利の歓喜というよりは、狐につままれたような困惑の色が浮かんでいた。
「敵は、どこへ行った?」
「徳川は、戦わずに逃げたのか?」
その行列の中央、栗毛の馬に跨る巨躯の男、西郷吉之助は、城門をくぐる瞬間、奇妙な悪寒を感じていた。鳥羽・伏見での勝利。錦の御旗による政治的逆転。そして将軍の逃亡。全ては図に当たったはずだ。
だが、彼の動物的な勘が、警鐘を鳴らし続けていた。
「勝ちすぎじゃ。あまりにも、軽すぎる」
◆
西郷が天守閣下の本丸御殿に足を踏み入れた時、その違和感は確信へと変わった。広大な書院造りの部屋は、あまりにも綺麗すぎた。畳は掃き清められ、床の間には季節外れの梅の生け花が一輪、ガラス花瓶に活けられている。
だが、それ以外には何もない。重要書類も、地図も、武具も、そして何より、この城の主たちが生活していた「人間の匂い」が、完全に消し去られていたのである。
「吉之助さぁ」
背後から、大久保一蔵が青ざめた顔で駆け寄ってきた。普段は冷徹な彼が、声を震わせている。
「御金蔵が…空っぽじゃ」
「なんじゃと?」
「一両もない。千両箱も、銀板も、藩札の一枚すら残っておらん。 残っていたのは、この紙切れ一枚じゃ」
大久保が差し出したのは、南山製の厚手の上質紙であった。そこには、勘定奉行・小栗忠順の幾何学的な筆跡で、こう記されていた。
『御金蔵金銀五四二万両、および対オランダ債権証書、南山開発株券等は、安全な場所へ移管せり。
我らは大八洲の一切の、城、街、村、耕地、林、山河の全てを帝の元にお返した上で、統治権を貴殿らに渡し、この地を離れ旅立つものなり。
追伸:城郭の維持補修費として、金一〇〇両を玄関脇に置いておく。雨漏りの修繕にでもお使いなされ』
西郷は紙切れを握りつぶした。メリメリという音が、静寂な広間に響く。
「…コケに…しおって……!」
西郷の双眸から、怒りの炎が噴き出した。彼らが欲しかったのは、徳川の権力だけではない。その莫大な財力、南山貿易で蓄えた金こそが、新政府の運営に不可欠な血液であったはずだ。戦費の借金、諸藩への報奨金、そして近代化のための資金。それら全てを、徳川の資金で賄うつもりであった。
それが、一銭もない? あるのは老朽化した城という「ハコモノ」と、維持費のかかる領土だけ?
「おいは…我々は…中身の入っていない、空っぽの重箱を掴まされたというのか!」
西郷の怒号が、無人の城内に虚しく木霊した。 勝利の美酒は、瞬く間に酢のような苦味へと変わった。彼らは勝った。だが、その勝利は、経営破綻した会社の社長室に座る権利を得たに過ぎなかったのである。
◆
同時刻。京都
岩倉具視の隠れ家では、勝利の宴が開かれていた。だが、大坂からの急報が届くと、その宴は通夜のような重苦しい空気に包まれた。
「金がない? 書類もない?」
岩倉具視は、杯を落とした。陶器の割れる音が彼の心臓の鼓動のように鋭く響く。
「馬鹿な! 徳川は三〇〇年の蓄財を持っていたはずじゃ! 南山の羊毛で稼いだ、山のような金貨はどこへ消えた!」
使者が、恐る恐る答えた。
「…は。目撃者の話によれば、昨夜、天保山沖から巨大な黒船が出港したとのこと。その船の喫水線は、異様なほど沈んでおりました。おそらくは…」
「…持ち逃げか!」
岩倉は歯噛みした。
「慶喜め! 将軍の矜持も捨てて、夜逃げ泥棒のような真似をしおって! 帝の赤子である民を捨てて、金だけ持って逃げるとは、それでも武家の棟梁か!」
岩倉の怒りは、もっともであった。だが、彼の怒りの裏には、底知れぬ恐怖があった。金がない新政府。
それは、油を差していない蒸気機関車のようなものだ。走り出せば、すぐに焼き付き動かなくなる。
「太政官札(不換紙幣)」を乱発して凌ぐしかないが、金準備のない紙幣など、誰が信用するだろうか。ハイパーインフレの悪夢が、岩倉の脳裏をよぎった。
◆
二月上旬。江戸
品川の海は、春の予感を孕んだ穏やかな波を湛えていた。 その沖合に、一隻の巨船が入港した。大坂から脱出してきた「開陽丸」である。
浜御殿の一室で、到着したばかりの徳川慶喜は、軍艦奉行・勝海舟と向かい合っていた。
慶喜の表情には、長旅の疲れは見えたが、その瞳は澄み渡っていた。大坂での「敵前逃亡」の汚名など、彼にとっては蚊ほどの影響もないようだった。
「ご無事で何よりです、大将」
勝が、茶を差し出した。
「世間じゃあ、あんたのことを『豚一』だの『逃げの上様』だの、好き勝手言ってやすぜ」
「言わせておけ。豚でも逃亡者でも構わん。重要なのは、私がここに『三〇〇万両』という種籾を無事に持ち帰ったという事実だ」
慶喜は、茶を一口啜った。
「さて、勝。準備はどうだ?」
「万端です。横濱港には、南山郵船の汽船が五〇隻、待機してやす。 新潟、石巻、箱館への手配も済みやした。 あとは、あんたが号令をかけるだけだ」
勝は、一枚の巨大な海図を広げた。そこには、日本列島の各港から、南の海、南山へと伸びる、無数の青い線が引かれていた。それはまるで、日本という痩せた心臓から、新しい身体へと血液を送り出す、巨大な動脈のようであった。
「青い大動脈か」
慶喜は呟いた。
「美しいな。これこそが、私の最後の仕事だ。日本という古い殻を脱ぎ捨て、中身をこの動脈に乗せて、新天地へ送り出す」
慶喜は立ち上がり、窓の外の江戸湾を見下ろした。
そこには、黒船たちが煙を上げ、出港の時を待っていた。それらの船倉には、まだ人は乗っていない。だが、間もなくそこには、技術者、職人、学者、そして未来を信じる数十万の民が詰め込まれることになる。
「勝。私は明日より、上野寛永寺に入り、謹慎する」
「はぁ? 謹慎?」
勝が目を丸くした。
「そうだ。…朝敵として恭順の意を示す。それは、新政府軍の目を欺くための煙幕だ。私が大人しく首を垂れている間に、お前と小栗で、荷物を運び出せ。 ネジ一本、金型一つ残すな」
「へっ。役者が一枚上手だねぇ。 分かりやした。 店じまいの挨拶回りは、あっしが引き受けやす」
◆
数日後。大坂湾
大坂城の主となった西郷隆盛の元に、思いがけない報告がもたらされた。
「天保山沖に、英国の軍艦が停泊しております。
その船から、幕府の特使と名乗る男が、小舟で乗り付けてきたとのこと」
「幕府の特使? 英国船でか?」
西郷は眉をひそめた。徳川は敗走し、賊軍となったはずだ。今さら何の用があるというのか。それに、なぜ英国船に乗って来る?
「通せ」
やがて、西郷の前に現れたのは、小柄だが眼光の鋭い男であった。
越後長岡藩家老 河合繼之助
英国製のフロックコートを着こなし、片手には洒落た帽子を持つ、その態度は、敗軍の使者というよりは、対等な取引相手のそれであった。
「おはんが、特使か」
西郷が低い声で唸る。
「いかにも。河合繼之助と申しますて」
河合は、長岡訛りの混じった言葉で堂々と答えた。
「徳川慶喜公の名代として、ご挨拶に参りましたが …本日は、交渉ではなくお知らせです」
「お知らせじゃと?」
河合は、ニヤリと笑い、懐から一枚の名刺を取り出し、西郷の前の机に置いた。 そこには『南山開発株式会社 大阪連絡事務所』と刷られていた。
「本日より、大阪の英国公使館内に、我々の事務所を開設いたしました。つきましては、今後、我が社と新政府の間で発生するであろう、様々な『実務的な問題』について、窓口となります。 戦後処理、債権債務の確認、そして引越しの手続き等々」
「引越し?」
「ええ。我々は、店を変えることになりましてね。
そのための荷造りで、少々ご迷惑をおかけするかもしれませんが、何卒よしなに」
西郷の目が細められた。
この男、ふざけているのか?
それとも、本気なのか?
敗軍の将が、これほど不敵に振る舞える理由は何だ?
河合は、帽子をかぶり直した。
「それでは、また近いうちに。各国の公使様方がお揃いになりましたら、改めて『正式なご挨拶』に伺いますて。それまで、せいぜいお城の掃除でもして、お待ちくだされ」
河合は西郷の返答も待たず踵を返した。その背中には、バックにいる英国と南山、そして開陽丸という強大な物理的担保の影が見え隠れしていた。
西郷は残された名刺を見つめ、低く唸った。
「食えん男じゃ。 戦争は終わったのではない。形を変えて、今、始まったばかりということか」
大坂湾の波音は、来るべき巨大な戦争の序曲のように、低く、重く響いていた。
南の海に輝く南十字星が、北の空に輝く北極星と入れ替わるその時まで、青い大動脈は脈打ち続ける。 国の血を未来へと運ぶために。
(第3部 完)
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本作の設定についての短編です。
興味を持っていただければご一読下さいませ。
「16世紀末から19世紀末迄の日本 - 嘉永の産業革命」
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