第29話 遠州灘海戦 - 神話と物理学
慶應四年(一八六八年)二月一四日
冬の遠州灘は、鉛を溶かしたような重苦しい色をしていた。北西から吹き付ける季節風が、波頭を白く削り取り、冷たい飛沫となって海面を叩きつけている。古来、海の神が支配するとされたこの荒ぶる海域に、今、二つの異なる「時代」が対峙していた。
東より進むは、旧幕府海軍副総裁・榎本武揚が座乗する旗艦「開陽丸」を筆頭とした蒸気艦隊。西より迎え撃つは、薩摩藩の軍艦「春日丸」を中心とする、新政府軍の混成艦隊である。
一ヶ月前の鳥羽・伏見において、薩長軍は「錦の御旗」という中世的な魔法の杖を振りかざし、最新鋭の装備を持つ幕府陸軍を精神的に粉砕した。その成功体験は、彼らの脳髄に致死的な「全能感」という名の腫瘍を植え付けてしまっていた。
「帝の御威光があれば、弾丸は避ける。風も味方する」
あろうことか、近代科学の粋を集めた軍艦の艦橋においてさえ、そのような神話的思考がまかり通っていたのである。
だが、彼らは知らなかった。海の上には、帝も将軍もいないことを。そこにあるのは、浮力と、流体力学と、そして弾道計算という、冷徹な物理法則だけであることを。
◆
午前八時。
薩摩艦隊の旗艦「春日丸」の甲板は、異様な熱気に包まれていた。荒波に揉まれる船上で、兵士たちは鉢巻きを締め、抜き身の刀を手に絶叫していた。
「チェストォォォッ!」
「賊軍の黒船など、恐るるに足らず! 近づいて斬り込めば、板切れ一枚の下は地獄じゃ!」
彼らが目指していたのは、アボルダージュ(接舷斬り込み戦術)。すなわち、敵艦に船体をぶつけ、鉤縄をかけて乗り移り、得意の薩摩示現流で乗員を皆殺しにするという、村上水軍やヴァイキングの時代の戦法であった。
指揮官を務める薩摩藩士は、マストの頂に翻る「錦の御旗(の写し)」を見上げ、満足げに頷いた。
「見よ! 風は我らに吹いておる! 天が、逆賊を討てと命じておるのじゃ!」
彼らの船、春日丸は英国製の外輪船である。蒸気機関を積んではいるが、彼らの運用思想は、関ヶ原の戦いから一歩も進化していなかった。 彼らは、全速力で、といっても、整備不良のボイラーが悲鳴を上げてようやく九ノット(時速約一七キロ)で、東の水平線に見える黒い巨影に向かって突進していた。
その巨影が、ただの船ではなく、横須賀のドックで近代改修を受けた、東洋最強の浮遊要塞であることを、彼らはまだ理解していなかった。
◆
薩軍艦隊から二海里(約三・七キロメートル)東方
開陽丸・艦橋
そこには、春日丸とは対照的な、病院の手術室のような静謐があった。床には南山製の厚手のリノリウムが敷き詰められ、真鍮の配管や計器類が、機能的な美しさを放って並んでいる。
聞こえるのは、怒号でも祈祷でもない。当直士官が読み上げる風速計の数値と、測的儀を操作する観測員の冷静な報告だけであった。
「敵艦隊、距離三五〇〇。 針路二七〇。全速で突っ込んできます。陣形はありません。ただの猪突です」
榎本武揚は、オランダ海軍仕込みの濃紺のフロックコートに身を包み、手にしたコーヒーカップ、これも南山産のボーンチャイナだ——を口元に運んだ。香り高いモカの湯気が、彼の整った口髭を濡らす。
「斬り込みか。困ったものだね。彼らはまだ、戦争を『喧嘩』だと思っている」
榎本は、カップをソーサーに戻し、傍らの副長・澤太郎左衛門に視線を向けた。
「澤君。陸の連中は、錦の御旗とやらで負けたそうだが。残念ながら、ここは海だ。神様の威光も、塩水に浸かれば錆びることを、彼らに教えてあげようか」
澤は、ニヤリと笑って敬礼した。
「了解であります、総裁。本日の授業科目は『弾道学』と『熱力学』 受講料は、高くつきますが」
榎本は、海図台に置かれた定規を手に取り、これからの機動を指し示した。
「風上を取りつつ、敵の頭を押さえる。距離をニ〇〇〇で維持し、砲撃戦にて殲滅する」
「アイ・サー(宜候)!」
号令と共に、機関室への伝声管が開かれた。開陽丸の心臓部では、釜焚きたちがスコップを振るい、漆黒の塊を炉へと放り込んでいた。
日本本土の低品位炭ではない。南山・北嶺島から産出される、高純度無煙炭。不純物が少なく、燃焼カロリーが高いこの「黒いダイヤ」は、開陽丸の四〇〇馬力の蒸気機関を唸らせ、巨大なスクリュープロペラを力強く回転させた。
煙突から吐き出される煙は、薄く、軽やかだった。それは、薩摩の船が吐き出す黒々とした煤煙とは全く異なるものだった。
◆
薩摩艦隊の甲板では、兵士たちが異変に気づき始めていた。
「おい、近づけんぞ!」
「逃げる気か? 臆病風に吹かれおったか!」
彼らは全速力で追いかけているつもりだった。だが、距離は縮まらないどころか、開陽丸は風に逆らって優雅に回頭し、薩摩艦隊の進路を塞ぐような位置取りを始めたのである。
帆船時代ならば、風下にいる薩摩側が有利なはずだった。だが、蒸気機関という「心臓」を持つ開陽丸にとって、風向きなど些細な環境変数に過ぎない。
「馬鹿な! なぜあんな巨体が、これほど速い!」
薩摩の指揮官が地団駄を踏んだその時、開陽丸の右舷にズラリと並んだ一八の砲門が、一斉に開いた。
クルップ式二六センチ砲を中心とした、最新鋭ライフル砲群。それらが、波のうねりを計算に入れたベテラン下士官の指示を受け、ゆっくりと仰角を調整していく。
榎本は、懐中時計を見つめながら、秒針が頂点に達するのを待った。
「風速、修正よし。湿度、気圧、計算済み。距離、二八〇〇…撃ち方、始め(ファイア)」
ドオォォォン!!
腹の底に響く重低音と共に、開陽丸の船体が大きく揺れた。 発射されたのは、横須賀工廠で精密加工された「椎の実型」のライフル砲弾である。従来の球形弾とは異なり、ライフリングによって回転を与えられたその弾丸は、空気抵抗を切り裂き、ジャイロ効果によって安定した軌道を描いて飛翔した。
ヒュルルルルル……ズダンッ!
初弾群は、春日丸の直前、わずか一〇メートルの海面に着弾した。巨大な水柱が上がり、薩摩兵たちはずぶ濡れになった。
「外れじゃ! …見ろ! 賊軍の弾は当たらん! やはり天が味方したぞ! 突っ込め!」
指揮官が快哉を叫んだ。だが、甲板の隅で、一人の若い士官だけが顔色を失っていた。東郷平八郎。後に「東洋のネルソン」と呼ばれることになる若き日の彼は、その水柱の意味を正確に理解していた。
「違います! あれは『夾叉』です!
次に来るのは…本命です!」
東郷の叫びは、次の轟音によって掻き消された。修正された第二斉射。それは、神の怒りではなく、冷徹な計算式の帰結として、春日丸を襲った。
ガガガガガッ!
春日丸の右舷外輪に、二六センチ砲弾が直撃した。鉄と木材が爆散し、巨大な水車のような外輪がひしゃげて回転を止める。同時に、甲板に降り注いだ榴弾の破片が、抜刀して密集していた薩摩兵たちを薙ぎ払った。
「ぎゃあああっ!」
「足が! わしの足が!」
肉片と血飛沫が舞う。精神論で武装した兵士たちは、物理的な爆発エネルギーの前ではあまりに脆い有機物の塊に過ぎなかった。彼らが頼みとしていた「斬り込み」の間合いに入るどころか、彼らは敵の乗員の顔さえ見えない距離から、一方的に解体されていたのである。
そして、決定的な瞬間が訪れた。第六斉射の一弾が、春日丸のメインマストを直撃したのである。
メキメキッ、バキーン!
轟音と共にマストが折れ、甲板へと崩れ落ちる。 その先端に掲げられていた「錦の御旗」が、炎に包まれながら海面へと落下した。
ジュッ、という音と共に、金色の布切れは黒い波間に吸い込まれていった。
「旗が! 御旗が!」
「神が…帝が、沈んでいく」
薩摩兵たちの絶望は、物理的な痛み以上であった。彼らの信仰の対象が、ただの布切れとして燃え尽き、塩水に濡れてゴミと化したのだ。その瞬間、彼らの士気は完全に崩壊した。
◆
一時間後。海戦は、一方的な「演習」として終了した。春日丸は大破炎上し、辛うじて沈没を免れたものの、航行不能となって漂流していた。その他の小型船も、開陽丸の正確無比な砲撃に恐れをなし、散り散りになって敗走していった。対する榎本艦隊の損害は、皆無。甲板の塗装が、発砲の衝撃で少し剥げた程度であり、死傷者はゼロであった。
戦闘終了後、榎本は艦長室で、新しいコーヒーを淹れさせていた。その顔には、勝利の興奮はなく、淡々とした事務処理を終えた官僚の表情があった。
「総裁。追撃しますか? 今なら春日丸を沈めることも可能です」
副長の澤が、少し興奮気味に尋ねた。だが、榎本は首を横に振った。
「弾薬の無駄遣いだよ。我々の目的は、敵を皆殺しにすることではない。『道』を開くことだ」
榎本は、テーブルの上に広げられた海図を指でなぞった。横浜から、小笠原、マリアナを経て、南山の入安へ至る、青いライン。 後に青い大動脈と呼ばれることになる、全長三〇〇〇キロメートルの海上輸送路である。
「この海戦で、薩長海軍は恐怖を植え付けられた。 彼らはもう、うかつには沖へ出てこられない。これで、太平洋は我々の庭だ」
榎本は、窓の外の海を見つめた。黒い煙を上げて逃げていく春日丸の姿が、豆粒のように小さく見える。
「西郷隆盛くんは、陸の上では英雄かもしれないが、海の上ではただの『泳げない巨人』だ。 陸路がどれほど泥沼になろうと、海がある限り、我々の『引越し』は止まらない。…金も、人も、機械も、この青い道に乗せて、南へ送る」
榎本は、カップを置いた。 カチャリ、という陶器の音が、静かになった艦内に響いた。
「それにしても、哀れなものだね」
榎本は独りごちた。
「彼らは、神風を信じて死んでいった。だが、風は気圧配置によって吹くものであって、祈りで吹くものではない。これからの時代、信じるに足る神は、『カロリー(熱量)』と『弾道計算』だけだよ」
この日、遠州灘で証明されたのは、単なる勝敗の行方ではない。 日本という国が、二つの異なる原理、呪術的な精神主義と、科学的な合理主義に引き裂かれたという事実であった。そして、後者を選んだ者たちだけが、この水平線の向こうにある「未来」へと辿り着ける権利を手にしたのである。
艦の南、水平線の彼方には、雲の切れ間から南十字星が微かに瞬き始めていた。
それは、これから始まる「大脱出」の道標のように、冷たく、美しく輝いていた。
(第3部 第29話 完)
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「16世紀末から19世紀末迄の日本 - 嘉永の産業革命」
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