第28話 泥濘の東海道 - CEOの転勤と残された取締役
慶應四年(一八六八年)一月三〇日
大坂城の巨大な石垣を、冬の夜風が容赦なく叩きつけていた。 城内は蜂の巣をつついたような騒ぎ、というよりは、巨大な船が沈没する直前の、絶望的な混乱に包まれていた。
「上様が、お逃げになったぞ!」
「嘘だ! 公方様が我らを見捨てるはずがない!」
「本当だ! さっき、天保山から開陽丸が出港した! 上様と、小栗様を乗せて!」
兵士たちの叫び声が、松明の明かりの中で交錯する。事実であった。徳川慶喜、および勘定奉行・小栗忠順らは、夜陰に乗じて大坂城を脱出。軍艦「開陽丸」に座乗し、一路、江戸へと向かったのである。
前線で血を流していた會津藩兵や、新選組の隊士たちには、一言の挨拶も、命令もなく。それは、武士の常識からすれば万死に値する「敵前逃亡」であり、卑劣極まりない裏切りであった。
「ふざけるなッ! 俺たちは、何のために泥水を啜って戦ってきたんだ!」
新選組の原田左之助が、槍の石突きで地面を叩き割った。周囲の兵士たちも、あるいは泣き崩れ、あるいは怒号を上げ、指揮系統は完全に崩壊しかけていた。
暴徒と化した一部の兵が、空っぽになった御金蔵や武器庫を破壊し始めている。徳川という巨大企業の倒産。その衝撃は、社員(兵士)たちの精神を一瞬にして粉砕したのである。
だが、その狂乱の渦の中心に、奇妙なほど静寂を保った一角があった。大坂城・追手門前の広場。そこに、漆黒のプロシャ式軍服に身を包んだ一人の男が、彫像のように立っていた。京都守護職・會津藩主、松平容保である。
◆
数時間前。大坂城奥御殿。出発直前の慶喜と容保の間で交わされた、最後の会話。
「容保。私は行くぞ」
慶喜は、旅装束に身を包み、まるでこれから温泉旅行にでも行くような気軽さで言った。だが、その瞳だけは、氷点下の知性で凍りついていた。
「私がこれ以上ここにいれば、兵たちは『まだ勝てる』という幻想にしがみつく。錦の御旗に怯えながら、それでも『将軍がいるから』と、無意味な玉砕を選ぶだろう。
だから、私が逃げる。
将軍は卑怯者だ、という絶望を与えて、彼らの戦を強制終了させる」
それは、自らの名誉をドブに捨てて行う、究極のショック療法であった。
「ですが、上様。指揮官不在となれば、兵は瓦解し、薩長軍による一方的な虐殺が始まります」
「だから、お前が残るのだ」
慶喜は、容保の肩に手を置いた。
「…私は、金と重要書類を持って海を行く。 お前は、人と道具を引き受けて陸を行け。お前が殿となり、東海道を北上して敵を引きつけるのだ。そうすれば、海上の輸送ルートは安全になる」
それは、死の宣告に等しかった。敵の主力は、陸路で追撃してくる。容保は「朝敵の首魁」として、避雷針のように全ての攻撃を受け止めねばならない。
「まあ当初の予定どうりですが…貧乏くじですね」
「…ああ。いつものことだ」
二人は、微かに笑い合った。言葉は不要だった。彼らは「共犯者」として、それぞれの役割、逃げるCEOと、残される現場監督を演じ切る覚悟を決めたのである。
◆
そして現在。追手門前広場。暴動寸前の兵士たちの前に、容保は静かに進み出た。彼の手には、妻・照姫から贈られた、南山特産の「鐡木」のステッキが握られている。
「静まれッ!!」
容保の声が、夜気を切り裂いた。普段の穏やかな彼からは想像もつかない、腹の底から響く裂帛の気合いであった。騒然としていた兵士たちが、雷に打たれたように静まり返る。
「上様は、逃げられたのではない! 江戸にて、新たなる戦、南山への転進準備を整えるために、先行されたのだ!」
容保は、嘘をついた。いや、それは「方便」という名の、政治的な真実であった。
「だが、敵は待ってはくれぬ。 誰かが、この場に踏みとどまり、敵の追撃を阻まねばならん。誰かが、江戸へ向かう『未来への船団』を守るための、盾とならねばならん!」
容保は、ステッキで石畳を突き、兵士一人一人の顔を見渡した。
「私は残る。 會津松平容保は、ここにおるぞ! 錦の御旗が怖くて逃げたい者は、今すぐ去れ! だが、武士としての意地がある者は、私についてもらいたい!
我々は、東海道を北上する。泥にまみれ、血を流し、敵を一人でも多く道連れにする、死の行軍だ。
それでも、ついてくる覚悟はあるか!」
沈黙が落ちた。
数秒の後。
「……ふん。面白れぇ」
不敵な笑い声と共に一人の男が前に出た。新選組副長、土方歳三である。
「将軍様には愛想が尽きたが、會津の中将様にまで見捨てられちゃあ、俺たちは行き場がねぇ。いいでしょう。その死出の旅、新選組が露払いを務めやす」
「會津も! 會津も引けませぬ!」 「桑名も参ります!」
怒号のような歓声が上がった。それは「勝利」への歓声ではない。「死に場所」を得た者たちの、悲壮で、しかし熱狂的な叫びであった。彼らは知らなかった。自分たちが、これから「国家移転プロジェクト」のための「時間稼ぎ(遅滞戦闘)」という、極めて近代的な役割を担わされる部品になったことを。
◆
その時、容保の背後から、一人の女性が歩み出た。その姿に、兵士たちは再び息を呑んだ。
會津藩主正室、照姫
彼女は、豪奢な打掛ではなく、南山製の厚手のウール地で作られた、乗馬用のドレス、活動的で、どこか軍服を思わせる黒の詰襟を身に纏っていた。腰には護身用のS&Wモデル2リボルバーを吊り下げている。
「…照。なぜここに」
容保が驚いて振り返る。彼女には、海路で安全に江戸へ向かうよう、手配していたはずだった。
「お戯れを、殿」
照姫は、愛用の鉄扇で口元を隠し、涼やかに笑った。
「盾になると仰いましたね? 會津の兵たちが、殿を信じて死地へ赴くというのに、その妻が安全な船で茶を啜っているとあっては、示しがつきますまい」
「しかし、これは行軍だ。駕籠などない。自分の足で歩くことになる」
「望むところです。南山の女性たちは、荒野を開拓し、羊を追って馬で駆けると聞きます。東海道の五十三次ごとき、野遊びのようなものですわ」
彼女は容保の横に並び、兵士たちに向かって毅然と言い放った。
「皆の者! 私は、殿と共に歩む。
足手まといになるつもりはない。怪我人の手当ても、炊き出しも手伝おう。 もし、私が弱音を吐いたら、その時は置いていけ。會津の女の意地、見せてくれる!」
「照様…!」
「御前様が、ご一緒くださるぞ!」
兵士たちの士気は、沸点に達した。将軍に見捨てられた絶望は、悲劇のヒロイン(と彼らは思っているが、実態は「鉄の女」である)を守り抜くという、新たな使命感へと書き換えられたのである。
容保は、ため息をつき、そして微かに苦笑した。
(勝てないな、この人には)
彼女は理解しているのだ。この泥沼の撤退戦において、兵士の心を繋ぎ止めるには象徴」が必要である事を。 彼女もまた、この巨大な「演出」の共犯者であった。
◆
午前二時。大坂城の北門、京橋口から、長い行列が動き出した。
會津藩兵、桑名藩兵、新選組、逃げ遅れた幕府歩兵隊、そして其れらの家族の女子供、総勢五四〇〇名。彼らは、重いアームストロング砲や、不要な家財道具を城の堀に投棄し、身軽な装備で東を目指した。
目指すは東海道。京を迂回し、伊賀、伊勢を抜け、名古屋、箱根を越えて江戸へ至る、五〇〇キロの道のりである。
行列の半ば。容保と照姫は、並んで馬を進めていた。 背後には、大坂城が月影に照らされている。
「後始末が大変でしたわ」
照姫が、城を見つめて言った。
「ああ。新政府軍への手土産だ。彼らが入城した時、綺麗な城なら気持ちも良かろうて」
容保は、懐の地図、小栗から託された「撤退スケジュール表」を確認した。この行軍の目的は、無事に江戸に辿り着くことだけではない。道中で戦力を分派し敵を引きつけ小戦闘を繰り返し、本隊の非戦闘員を先に送りつつ、一日でも長く新政府軍の東進を遅らせることだ。いわば、自らの身体を餌にして、巨大な蛇(新政府軍)を誘い出す釣り餌である。
「行こう、照。長い、散歩になりそうだ」
「ええ、殿。南山に着く頃には、少しは足腰が鍛えられていることでしょう」
二人の影が、月の光に照らされて長く伸びる。こうして、「残された取締役」たちによる、東海道・死の行軍が始まった。それは、表向きは敗残兵の逃避行であったが、その実態は、日本の産業資産を海外へ逃がすための、計算され尽くした「移動防壁」の展開であった。
(第3部 第28話 完)
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本作の設定についての短編です。
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「16世紀末から19世紀末迄の日本 - 嘉永の産業革命」
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