第27話 長岡藩家老 河合継之助 - 悪魔のヘッドハンティング
慶應四年(一八六八年)一月二八日
大坂湾・天保山沖
夜の海は、粘度の高い重油を流したように黒く、そして不気味なほど静かであった。陸の方角から断続的に響く砲声や、燃える街の赤光とは対照的に、ここには冷徹な鉄と蒸気の秩序、すなわち「近代」の静寂があった。
その暗い海面に、一隻の巨船がその威容を横たえていた。旧幕府海軍の旗艦、開陽丸である。オランダで建造され、横須賀のドックで最新の改修を受けたこのフリゲート艦は、排水量二五〇〇トンを超える東洋一の堅城であり、同時に株式会社徳川幕府の「移動本社」でもあった。その艦長室において、今まさに、日本の運命を左右する、あるいは、日本という国の「清算と引越し」の手順を決める——密談が行われようとしていた。
◆
「まったく、難儀なこってすて」
艦長室の重厚な扉が開くと同時に、不機嫌そうなぼやき声が響いた。入ってきたのは、小柄だが眼光の鋭い、油の染みたフロックコートを羽織った男であった。
越後長岡藩家老、河合繼之助
彼は、英国製の高級ソフト帽を乱暴に脱ぎ捨てると、部屋の主である小栗忠順に一瞥もくれず、暖炉代わりのストーブに手をかざした。
「こんな湿気た船遊びに付き合う暇はねぇがね。こちとら、国元じゃ造船所の拡張工事やら、新津の油井のポンプ増設やらで、猫の手も借りたいほど忙しいんですて。わざわざ呼び出したんだ。例の品物は用意できてるんでしょうな、小栗様?」
河合の言葉には、長岡独特の訛りが混じっている。
だが、それは田舎者の証ではない。彼があえて中央(江戸や京)の言葉を使わないのは、「俺はお前らの権威になど媚びない」という、強烈な自負と反骨心の表れであった。
事実、彼が統治する長岡を中心とした北越地域は、ただの米どころではなかった。英国からの技術導入による近代的造船施設と繊維産業、そして日本初の石油産業が勃興する、日本海側最大の「産業地帯」へと変貌を遂げていたのである。
小栗忠順は、マホガニーの机に肘をつき、組んだ指の上から河合を観察していた。丸眼鏡の奥の瞳は、まるで精肉店の店主が、極上の肉の霜降り具合を吟味するような冷たさを帯びていた。
「相変わらず口が悪いな、河合君。そして、相変わらず景気が良さそうだ。そのコート、サヴィル・ロウ(Savile Row)でも特注品の最高級品だろう?」
「お陰様でね。うちの領民は、もう鍬よりスパナを握る方が得意になってきましてね。米相場より、ロンドンの生糸相場と原油価格に一喜一憂する毎日ですよ。 …で、ガトリング砲は?」
河合は単刀直入だった。彼は懐から分厚い革財布を取り出し、一枚の為替手形を机の上に放り投げた。 英国系銀行の信用状付き、三万両。 貧しい小藩が爪に火をともして貯めた金ではない。工場と油田が生み出した、血の通った産業資本である。
「金ならある。耳を揃えて払いますて。だから、最高のやつを三門、弾薬一万発付きで売んなせや。工場の警備用にどうしても要るんだ」
小栗は顎で部屋の隅をしゃくった。そこには、油紙に包まれた巨大な木箱が二つ、鎮座していた。
「品物はそこだ。 最新の六銃身型。弾薬五〇〇〇発付きだ。…だが、金は受け取らん」
河合の手が止まった。彼はゆっくりと振り返り、怪訝な顔で小栗を見た。
「タダほど高いものはない、と親父に教わったもんだがね。高名な勘定奉行が、慈善事業でも始めなさったか?」
「ビジネスだ」
小栗は短く言った。彼は机の引き出しから一枚の分厚い書類を取り出した。
「このガトリング砲は契約金だ。君をスカウトしたい。徳川という大店を倒産処理をするにあたり、優秀な管財人が必要なのだ」
◆
河合は、小栗の向かいの椅子にドカッと座り込み、出されたコーヒー、南山産の深煎りを音を立てて啜った。苦い。だが、徹夜明けには丁度いい味だ。
「管財人、ねぇ」
河合は、小栗が提示した「事業計画書」をパラパラと捲った。そこに書かれていたのは、狂気とも思える壮大な計画であった。『日本列島 移転資産と放棄資産』『国家機能の南山移転』『八〇万人の移民輸送計画』
「正気ですか、あんたら。日の本を捨てるってのか。徳川の先祖の墓も、江戸城も?」
「土地は捨てる。維持費がかさむだけだからな。だが、中身は持っていく。金と、機械と、そして人だ」
小栗は、まるで帳簿の数字を読み上げるように淡々と語った。
「河合君。君なら分かるはずだ。君の長岡も、すでに片足は『近代』に突っ込んでいる。領民たちは、もう中世の農民ではない。読み書きができ、図面が読め、機械を動かせる産業市民だ。そんな彼らを、あの西国の野蛮人ども、あの錦の御旗を振り回して喜んでいる連中に支配させたら、どうなると思う?」
河合の顔から皮肉な笑みが消えた。それは、彼が最も恐れている悪夢であった。
「工場は打ち壊され、機械は鉄屑にされ、油井は埋められるでしょうな。奴らは煙突から出る煙を『悪魔の吐息』だと思ってやがる。富を生むガチョウを殺して、焼き鳥にするのが関の山だ」
「そうだ。だから、逃がすのだ。横濱だけではない。新潟港や石巻港からもだ」
小栗は、一枚の地図を机に広げた。「列島産業地図」と題されたその図面には、江戸・横浜と並んで、長岡・新潟地区が赤く塗られていた。
「新潟港は、日本海側の『出口』だ。 北関東から北越にかけての織物機械、金型、そして君のところの造船造機と石油精製装置。これらを運び出すには、横濱だけではパンクする。どうしても、新潟港を開放し続ける必要があるのだ」
河合は、地図上の長岡と新潟港の位置関係を睨みつけた。 新潟港は、長岡の喉元にある。 長岡が新政府軍に踏み潰されれば、新潟港も落ちる。 そうなれば、北越の産業地帯は袋の鼠となり、南山への道も閉ざされる。
「なるほどな。俺に、長岡という『蓋』になれってことか。蓋をして、新政府軍を足止めしている間に、中身を新潟から逃がす。とんだ汚れ仕事だ」
「できるか?」
「できるかじゃねぇ。やるしかねぇでしょうがね」
河合は、忌々しそうに頭を掻いた。
「俺はね、小栗さん。徳川のために戦う気はさらさらねぇ。だが、俺が手塩にかけて育てた工場や、油まみれになって働く領民たちが、薩摩の田舎侍に蹂躙されるのだけは、我慢ならねぇんですて。あいつらは、俺の『家族』であり『財産』だ。それを守るためなら、地獄の門番だってやってやりまさぁ」
◆
河合は沈黙した。ストーブの中で石炭が爆ぜる音だけが、部屋に響く。彼は、懐から南山製の安葉巻を取り出し、噛みちぎった。その横顔は、武士というよりは、巨大プロジェクトを前にした現場監督のそれであった。
「条件があるがね」
河合は、葉巻に火をつけ、紫煙を吐き出した。
「一つ。長岡藩および周辺地域の技術者、職人は、優先搭乗扱いにすること。俺たちは、鍬しか持てない農民じゃねぇ。南山に行っても即戦力になる『金の卵』だ。
二つ。俺らは新潟のコメを食わねば力がでない。希望者は百姓であっても必ず搭乗させること。
三つ。ガトリング砲はあと一門、計三門寄越すこと。
四つ。南山に行ったら、俺に財務卿の椅子を用意すること」
小栗の眉がピクリと動いた。
「財務卿だと? 私の席を奪う気か?」
「まさか。あんたは大局を見る経営者だろ?俺は、現場で一円一銭を削り出す、実務の番頭が似合ってる。新しい国の財布、俺に握らせてみなせや。一年で黒字にしてみせまさぁ」
小栗は、微かに口元を緩めた。それは商談成立の合図であった。彼もまた、河合という男の能力、数字に強く、現場を知り、そして何より「責任」から逃げない胆力を高く評価していたのだ。
「いいだろう。ガトリング砲の追加分は、横浜から新潟へ直送させる。頼んだぞ、管財人殿。
君が北で時間を稼いでいる間に、我々は金庫の中身と、日本の未来(産業基盤)を運び出す」
「へいへい、分かりましたて。まったく、貧乏くじを引かされたもんだ。雪解けで道が悪くなる前に、帰ってバリケードの一つも築かなきゃならん」
河合は、木箱の一つを愛おしそうに撫でた。その目は、すでに戦場を見据えていた。
「武装中立なんてお題目を唱えますがね、腹の中じゃ分かってますて。言葉が通じる相手じゃねぇ。最後は、こいつ(ガトリング)で物理的に説得するしかねぇってことはね」
小栗はその目を見据え、能面の様な表情で言葉を重ねた。
「そうそう、物理の説得の前に管財人として債権者への説明というのもあってだね…」
「はあぁ?」
「あと、事業承継先への説明もね…」
「はあああぁぁ!?」
◆
数時間後。開陽丸の甲板から、河合継之助を乗せたランチ(内火艇)が闇の海へと消えていった。その船には、歴史を変える二つの「兵器」が積まれていた。一つは、物理的に敵を粉砕するガトリング砲。もう一つは、長岡の産業資本と、それを守り抜くという強固な「経営意志」であった。
甲板で見送っていた小栗の隣に、榎本武揚が並んだ。
「頼もしい男ですね。ただの田舎侍かと思いきや、中身は最新鋭のビジネスマーンだ」
榎本が苦笑する。
「ああ。彼ならやれる。西郷隆盛という情念の怪物と、欧州生まれの利権の魑魅魍魎ども相手に、そろばんとガトリング砲片手に喧嘩ができるのは、日本広しといえども彼だけだ」
◆
榎本が河合を「刀ではなく算盤で人を斬る男」と確信したのは、今を遡ること七年前、文久元年(一八六一年)冬の新潟における、ある交渉の場面を目撃したからであった。
当時、新潟奉行所は、日本海側の海防強化と産業振興のため、巨大な造船施設、後の「新潟製鉄所」の建設を計画していた。交渉相手は、英国の重工業コングロマリット「アームストロング・ホイットワース社」の極東代理人、ジェームズ・ブラックウッド。 彼は典型的な「高慢な文明国人」であり、極東の島国を見下し、足元を見ていた。彼の提示した条件は、建設費の法外な上乗せに加え、完成後のドックに対する「一〇年間の排他的管理権(事実上の租界化)」を要求する、不平等極まりないものであった。
雪の降りしきる新潟の料亭。暖房の効いた部屋で、ブラックウッドは尊大な態度で葉巻をくゆらせていた。対する河合継之助は、長岡名産「巾着ナスの漬物」をポリポリと齧りながら、退屈そうに英国人の演説を聞き流していた。
「ミスター・カワイ。理解したまえ。最新鋭の二トンスチームハンマーやドライドックの運用は、あなた方日本人には早すぎる。我々英国人が管理してこそ、初めて機能するのだ。その対価としての管理権だ。
嫌なら、この話は無かったことにしてもいい。もっとも、ロシア帝国は喉から手が出るほど、この不凍港に修理拠点を欲しがっているようだがね?」
ブラックウッドは、当時幕府が危惧していたロシアの南下をチラつかせ、脅しをかけた。同席していた幕府の役人たちが怒りを露わにする中、河合は茶をすすり、口を開いた。
「ロシア、ですか。そいつは結構なお話だ。ですがね、ブラックウッドさん。あんた、大きな勘違いをしてなさる・Russia, is it? That's quite a story. But you see, Mr Blackwood, you're labouring under a rather serious misconception.」
嫌らしい位に完璧なクイーンズイングリッシュで河合は続けた。そして、懐から一枚の分厚い書類、詳細な「地質調査書」と「資材調達リスト」を取り出し、テーブルに放り投げた。
「俺たちが造ろうとしてるのは、ただの船の修理屋じゃねぇ。旋盤、フライス盤、一〇〇台。職工一五〇〇人。これは、将来的に日本の西側の各港や南山・隣国を結ぶ『蒸気船の量産工場』になる場所だ。あんた方は、ここで船を直す権利が欲しいんじゃない。…ここで造られる船の規格を、英国式で独占したいんでしょうがね?
河合の指摘は図星であった。ここを英国規格で統一すれば、将来にわたり、日本と南山の海運市場に英国製の部品を売り込み続けることができる。逆に、フランスやオランダの規格で造られれば、英国の損失は計り知れない。
河合は、ニヤリと笑った。
「管理権は渡さねぇ。ここは日本の土地だ。その代わり、建設費の支払いは、金じゃなく、これで払ってやりますて」
河合が指し示したのは、床の間に飾られた、赤黒く鈍い光を放つインゴットであった。「南山精銅」当時、電信網の普及や新型大砲の真鍮薬莢製造のため、世界的に需要が逼迫していた戦略物資である。
「佐渡と南山の銅だ。ロンドン相場の二割引きで、向こう五年間、あんたの会社に優先的に卸してやる。
どうです? ドックのちっぽけな管理権と、世界の銅相場を握る権利。どっちが『美味しい』商売かね?」
それは、相手の喉元にナイフを突きつけつつ、同時に極上の餌をぶら下げる、悪魔的な交渉術であった。ロシアの脅威というブラフを、銅の利権という実利で無効化し、さらに主導権を奪い返したのである。
ブラックウッドは絶句し、やがて脂汗を拭いながら、震える手で契約書にサインをした。河合はそれを見届けると、残りのナスを口に放り込み、若き日の榎本に向かってウインクしてみせた。
「異人さん相手でも、商売の基本は同じですて。 相手が一番欲しがっている『餌』を、一番高い場所で吊るす。それだけのことだ」
その時、榎本は悟ったのだ。
(この男は、田舎侍の皮を被った怪物だ。蒸気ハンマーの威力よりも、市場の相場の暴力性を熟知している。 彼こそが、これからの日本に必要な交渉人だ)
◆
小栗は、北の空を見上げた。そこには、やがて戦火に包まれることになる北越の地がある。だが、それは絶望の戦場ではない。未来への種籾、技術と人材を運び出すための希望の架け橋となるはずだ。
「さて。我々も急ごう。閉店特売りのチラシは撒かれた。客が殺到する前に、荷造りを終えねばならん」
大坂湾の波音は、来るべき巨大なうねりの序曲のように、低く、重く響いていた。契約は結ばれた。これにより北越戦争という名の「産業移転のための遅滞戦闘」の幕が、静かに上がろうとしていたのである。
(第3部 第27話 完)
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