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第26話 大坂城黒書院 - 閉店と移転の儀

 慶應四年(一八六八年)一月二六日。


 伏見の戦線は、音を立てて崩壊した。淀藩と津藩の寝返りによって、旧幕府軍の側面は無防備に晒され、数千の兵士が雪崩を打って大坂へと敗走していた。


 その光景は、軍事的な敗北というよりは、巨大な商家が乗っ取られる際の手際の悪さと、それにパニックを起こした奉公人たちの逃散に近い様相を呈していた。


 だが、その混乱の渦中にある大坂城の最深部、黒書院では、驚くべき静謐せいひつさが支配していた。 部屋の中央には、巨大な日本輿地よち全図と、南山の海図が並べて広げられている。その周囲を囲むのは、この国の運命を握る四人の男たち。徳川慶喜、松平容保、勝海舟、そして小栗上野介忠順であった。


 彼らの表情には、敗戦の悲壮感は微塵もない。あるのは、長年抱えてきた不良債権をついに処理できるという、冷徹な安堵感と、次なる巨大な普請ふしんへの知的な興奮だけであった。


          ◆


「淀と津が寝返ったか。想定の範囲内だな」


 慶喜は、地図上の京都周辺に置かれた黒い駒(幕府軍)を、指先でピンと弾き飛ばした。駒は畳の上を転がり、カツン、と虚しい音を立てて止まった。


「これで、大八洲おおやしまにおける我々の占有権は、法的にも物理的にも失効しつつあるわけだ。

さて、諸君。これより緊急の重役会議を開催する。議題は一つ。『徳川家』という大店の暖簾のれんを守るか、それとも店を畳んで清算(手仕舞い)するか、だ」


 滅多にない、少し戯けた慶喜の口調は、それだけで事の深刻さが窺い知れた。


 勘定奉行・小栗忠順が、分厚い帳簿を開いた。


「ご報告いたします。この半月の戦闘で消費した弾薬費、および兵糧代は、すでに一五〇万両を超えております。さらに、もしこのまま徹底抗戦を行い、京・大坂を焦土にした場合、戦後の復興にかかる金子は天文学的数字になりましょう。

西国の恨みは骨髄に達し、一揆や謀叛は数十年続くと思われます。 結論を申し上げます。このいくさに勝つことは、当家にとって致命的な『赤字』を意味します」


「つまり、勝てば勝つほど損をする、というわけか」


「左様でございます。 この國を徳川家の家業として今後統治していっても、もはや維持に見合うだけの利益を生むことは永久にございませぬ」


 慶喜の例えに返した小栗の言葉に、勝海舟が深く頷いた。彼は愛用の南山製葉巻を噛み締めながら、紫煙を吐き出した。


「全くだ。俺たちが一生懸命、南山の金で線路を敷いて、工場こうばを建ててやったってのに、地主の朝廷や小作人の西国諸藩からは、感謝されるどころか、『出て行け』と石を投げられる始末だ。こんな割に合わねぇ商売は、さっさと店じまいするに限るぜ」


 勝の言葉は皮肉めいて粗野だが、真理を突いていた。彼らは、日本という国の近代化に疲れていたのだ。古い慣習、非合理な身分制度、そして「穢れ」を嫌う宗教的アレルギー。それらが、彼らの推し進める殖産興業の足を常に引っ張ってきた。


 そこで、沈黙を守っていた松平容保が口を開いた。  彼の顔色は蒼白だが、その瞳には冷たい炎が宿っていた。


「では、決まりですね。我々はここを捨てる。あの汚らわしい旗が翻り、我々を縛り続けるこの國に、未練は残しませぬ」


 容保の言葉は、会議の決定打となった。慶喜は満足げに頷き、地図上の南山を指し示した。


「よろしい。ならば、方針を転換する。山河はくれてやろう。新政府とやらに、好きなだけ泥遊びをさせてやればいい。だが、我々は中身ナカだけを持っていく」


 慶喜の目が、鋭く光った。


「金、人材、技術、そして艦隊。これらを全て梱包し南山へ移転する。これは敗走ではない。本店の移転だ」


          ◆


 その瞬間、会議の空気は一変した。「どうやって勝つか」という軍事的な議論から、「どうやって運び出すか」という兵站へいたんの議論へと、局面が完全に転換(パラダイム・シフト)したのである。


「小栗。資産の保全状況は?」


「御金蔵の五〇〇万余両は、すでに『サザンクロス号』へ積載済みです。 横須賀製鉄所の主要機械の旋盤やスチームハンマーなどの親玉についても、ヴェルニー技師と協力し、解体・梱包の準備を進めております。ただ、問題は時間です。これだけの物量を運び出すには、最低でも一年はかかります」


「一年か」


 慶喜は眉をひそめた。新政府軍の進撃速度を考えれば、一年など待ってはくれないだろう。


「勝。海軍はどうだ?」


「榎本の艦隊は健在です。制海権は完全に我々が握っております。太平洋は、我々の庭だ。西郷どんが泳いで渡ってこない限り、船の道は確保できます。

ですが、大将。 おかの上で、奴らを足止めしなきゃならねぇ。港で荷物を積んでる最中に、官軍が雪崩れ込んできたら、元も子もありませんぜ」


 そこで、容保が静かに手を挙げた。


「その役目、會津が引き受けましょう」


「…容保?」


「新政府軍の憎悪は、私と會津に向けられています。私が『朝敵』として徹底抗戦の構えを見せれば、彼らは必ず食いついてくる。會津が盾となり、北越や東北の山々で彼らを引きつけ、泥沼の消耗戦を演じます。その間に、江戸や横浜から、必要なものを運び出してください」


 容保の提案は、捨てサクリファイスそのものであった。自らがおとりとなり、新政府軍を釘付けにする。その隙に、国家の精髄を脱出させる。それは、沈みゆく船から乗客を逃がすために、最後まで舵を握り続ける船長の覚悟であった。


「容保。お前を、見殺しにするわけにはいかんぞ」


 慶喜の声に、わずかに動揺が混じった。だが、容保は穏やかに微笑んだ。


「ご心配なく。私も、ただで死ぬつもりはありません。ギリギリまで時間を稼ぎ、最後は北の港から脱出します。それに、これは『汚れ役』です。新しい国(南山)を作るには、誰かが泥を被り、旧時代の清算をせねばなりません。それは、京都守護職として血に塗れた、私の役目です」


 慶喜は、しばらく沈黙した後、深く息を吐いた。


「分かった。お前の覚悟、受け取った。…だが、約束しろ。必ず生きて南山へ来い。新しい国の総裁トップの席は、お前のために空けておく」


          ◆


 こうして、歴史の歯車は大きく回った。戦争の目的は、「天下分け目の戦い」から、「資産持ち出しのための時間稼ぎ(遅滞戦闘)」へと、その性質を根本から変えたのである。


「よし。解散だ。これより、我々は『閉店の大売り出し』ならぬ『閉店夜逃げ』を開始する。客(新政府軍)が店に入ってくる前に、商品を裏口から運び出すぞ」


 慶喜の号令と共に、四人の男たちは動き出した。  彼らが背負うのは、徳川三〇〇年の歴史ではない。  これから始まる、南山という未だ見ぬ国家の、希望と野心だけであった。


 窓の外、大坂の街は、迫りくる戦火の予感に怯えている。だが、彼らの目には、もうこの列島の風景は映っていなかった。彼らが見ていたのは、遥か数千キロ南の洋上に広がる、鉄と蒸気と法で統治される、南の荒野であった。



(第3部 第26話 完)

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