第25話 損益分岐点 - 損切りされる側の立場
慶應四年(一八六八年)一月二一日
この日、京の都を覆っていたのは、底冷えのする濃霧と、腐りかけた政治的道徳の臭気であった。鳥羽・伏見の戦端が開かれてから半月余り。戦況は、南山からもたらされた圧倒的な「物理(火力)」と、岩倉具視が捏造した強力な「呪術(錦の御旗)」とが拮抗し、血と泥の混じり合う不毛な塹壕戦へと変質していた。
だが、戦争という巨大な経済活動において、最も恐るべき変数は、銃弾の数でも兵士の士気でもない。
それは「信用」の崩壊である。市場において、ある企業の株価が大暴落を始めたとき、投資家たちはどう動くか。
答えは一つ。「損切り(ロスカット)」である。彼らは、昨日まで熱烈に支持していた経営陣を、翌朝には躊躇なく見捨て、資産を保全するために売り注文を殺到させる。
この日、淀藩と津藩という二つの「投資家」が下した決断も、まさにそれであった。彼らにとって、徳川幕府という銘柄は、もはや配当を生まない不良債権と化したのである。
◆
正午過ぎ。淀城。宇治川と桂川の合流地点に浮かぶこの水城は、大坂へ撤退しようとする旧幕府軍にとって、唯一の生命線とも言える中継基地であった。城門の前には、泥と煤にまみれた幕府歩兵隊や會津藩兵が押し寄せ、城内での休息と負傷兵の収容を求めていた彼らは疑っていなかった。淀藩主・稲葉正邦は、現職の老中である。譜代大名の中の譜代。徳川の重役そのものである彼が、門を開かないはずがない、と。
だが、城門は、鉛のように重く閉ざされたままであった。城壁の上から、冷ややかな視線で見下ろしていたのは、稲葉正邦その人ではなく、藩の実権を握る留守居役の家老たちであった。
「開門! 開門願い申す!老中・稲葉様の城なれば、味方であろう! 負傷者がおるのだ! 水をくれ!」
城門の前で、會津の将校が声を枯らして叫んでいた。その背後ではリヤカーに乗せられた重傷兵たちが、うめき声を上げている。
城壁の上。淀藩の家老は、遠眼鏡で戦場の彼方——東寺の方向に翻る「金と赤の旗」を確認し、深いため息をついた。彼の手元には、そろばんが置かれていた。比喩ではなく、実物のそろばんである。
「計算が、合わん」
家老は、冷徹に呟いた。
「あの旗が出た以上、徳川は朝敵だ。朝敵を城に入れれば、我らも同罪。戦後、領地没収は免れん。一方で、徳川に義理立てしたところで、得られるのは名誉ある滅亡だけ。南山の株券も、コンビーフも、死んでしまえば紙切れとゴミじゃ」
隣にいた側近が、不安げに尋ねた「しかし、主君は江戸におられます。ここで幕府軍を追い返せば、江戸の殿のお立場が…」
「…殿には、あとで腹を切っていただくしかあるまい」
家老の言葉は、氷のように冷たかった。これは、封建的な忠義の話ではない。藩という「運命共同体」を、いかにして倒産から救うかという、極めてシビアな経営判断であった。
「徳川という大船は、もう沈む。一緒に沈む義理はない。我々は先に降りるぞ」
家老は城門を守る鉄砲隊に合図を送った。それは「開門」の合図ではなかった。
ズドン!
乾いた銃声が響き、城門前で叫んでいた會津将校の足元の土が跳ねた。威嚇射撃。それは、ニ六〇年の恩義が、一発の鉛玉によって清算された瞬間であった。
「入城はまかりならん! 立ち去らねば、次は眉間を撃ち抜く! 我らは、朝廷に帰順した! 逆賊に貸す水はない!」
城壁からの罵声に、幕府軍の兵士たちは凍りついた。昨日までの友軍が、今日は鬼となって立ち塞がったのだ。物理的な痛みよりも、信用の崩壊という精神的な衝撃が、彼らの膝を折らせた。
◆
淀の裏切りは、ドミノ倒しの最初の一枚に過ぎなかった。その衝撃波は、淀川対岸の山崎に布陣していた、もう一つの大藩、津藩(藤堂家)へと伝播した。
津藩主・藤堂高猷の軍勢は、戦略上の要衝である山崎の天王山を占拠していた。 彼らの陣地には、皮肉なことに、配備されたばかりの最新鋭四斤山砲が並んでいた。本来ならば、長州軍を側面から砲撃するために配置されたものであった。
陣中にて、津藩の隊長は、淀城の方角から上がる黒煙と、混乱して敗走を始める幕府軍の姿を見て、唇を舐めた。藤堂家は、戦国の世より「時勢を見るに敏」と言われてきた家柄である。悪く言えば日和見、良く言えば優れたリスク管理能力を持つ一族だ。
「…淀が、寝返ったか」
隊長は、懐中時計を見た。會津製の、正確なクロノメーターである。
「潮時は今だ。遅れれば、我らが貧乏くじを引くことになる」
彼は、砲兵たちに号令した。砲身の向きを、東から西へ、長州軍から、眼下の街道を行く幕府軍の側面へと、一八〇度旋回させるように命じたのだ。
「目標、幕軍本隊!撃てッ!」
ドオォォン!!
山崎の丘から放たれた砲弾は、美しい放物線を描き、大混乱に陥っている幕府軍のど真ん中に着弾した。 榴弾が炸裂し、輜重車と兵士をまとめて吹き飛ばす。 側面からの予期せぬ砲撃。それは、ボクシングの試合中に、セコンドから背中を刺されたようなものであった。
「裏切りだ! 津も裏切ったぞ!」
「四方全てが敵だ! もう駄目だ!」
幕府軍の指揮系統は、ここで完全に崩壊した。大目付・滝川具挙は、馬を捨てて逃げ惑い、兵士たちは重い背嚢を投げ捨てて、我先にと大坂方面へ雪崩を打った。
「損益分岐点」を超えた瞬間、人間の忠誠心などというものは、紙切れよりも軽く、そして燃えやすいものとなる。
◆
この総崩れの中で、唯一、軍隊としての形を保ち、絶望的な後衛戦を展開していた集団がいた。フランス軍事顧問団のジュール・ブリュネ大尉が直接指揮を執る、伝習隊の一部と、會津藩の精鋭たちである。
ブリュネは、泥まみれの軍靴で地面を踏みしめ、フランス語と片言の日本語を交えて怒鳴り続けていた。
「パニックになるな! 落ち着け! これは『敗走』ではない! 『転進』だ! 背中を見せるな! 敵に尻を撃たれたいのか!」
彼の周りには、南山工廠で試作された「特殊防弾盾」を構えた會津兵たちが、亀甲の陣形を組んでいた。この盾は、南山・北嶺島で産出されるクロムとニッケルを配合した特殊鋼板で作られており、被甲されていない小銃弾程度なら弾き返す強度を持っていた。重いが、今の彼らにとって、これだけが唯一の「物理的な救い」であった。
會津藩兵・佐々木源吾は、盾の裏側で衝撃に耐えていた。
カンッ、キンッ!
盾の表面に、裏切り者たちの銃弾が当たる音が響く。その音は、かつて會津の工場で聞いた、鉄板を叩く蒸気ハンマーの音に似ていた。
「畜生。昨日の友は、今日の敵かよ」
源吾は、歯の間から血を吐き捨てた。彼の隣では、若い兵士が盾の隙間から撃たれ、声もなく倒れていた。
「しっかりしろ!ここで崩れれば、大坂の公方様(慶喜)まで逃げられなくなる!」
ブリュネが、源吾の肩を掴んで揺さぶった。このフランス人の目には、日本の武士たちが失いかけている「理性の光」が宿っていた。彼は、この戦争の無意味さを誰よりも理解していた。これは、主義主張の戦いではない。倒産した会社の資産(兵士)を、債権者(新政府)による略奪から守り、次の事業(南山)へ移すための、実務的な「資産保全活動」なのだ。
「ムッシュ・ササキ。死ぬな。君たちは『貴重な資産』だ。これからは君たちのような兵士が必要だ。ここで無駄死にする権利はない!」
ブリュネは、腰のル・マ・リボルバーを抜き、迫り来る津藩兵に向けて発砲した。九発の弾丸が、裏切り者たちの足を止める。
「後退! 三〇メートル下がって、再布陣! 盾を重ねろ! 鐡の壁を作れ!」
源吾たちは、ブリュネの叱咤に合わせて、ジリジリと後退した。泥に足を取られながら、それでも隊列を崩さず、整然と下がる。その姿は、狂乱する敗残兵の群れの中で、異様なほどの「近代的な美しさ」を放っていた。
◆
一月二三日
幕府軍は、辛うじて全滅を免れ、大坂城の手前まで撤退することに成功した。だが、その代償は大きかった。数千の兵が死傷し、最新兵器の大半、アームストロング砲やガトリング砲は、泥の中に放棄されるか、敵に奪われた。
淀川の堤防沿いを、ボロボロになった隊列が進んでいく。兵士たちの顔からは、かつての傲慢なまでの自信は消え失せ、あるのは深い疲労と、人間不信の陰だけであった。
佐々木源吾は、背負っていた背嚢が、行軍の時よりも遥かに軽く感じることに気づいた。中に入っていたコンビーフも、予備弾薬も、全て使い果たしたか、捨ててしまったからだ。残ったのは、身体一つと、泥のついたスナイドル銃、そして「裏切られた」という苦い記憶だけ。
「ブリュネ先生」
源吾は、並んで歩くフランス人に尋ねた。
「文明ってのは、こういうことなんですか? 損得勘定で、平気で主君を裏切る。それが、先生の言う近代化なんですか?」
ブリュネは、泥だらけの軍帽を直し、悲しげに笑った。
「ウィ(そうだ)。ムッシュ。
悲しいことだが、近代とは『計算』の時代だ。忠誠心も、名誉も、全て数字に換算される…淀や津の連中は、計算が早すぎただけだ」
ブリュネは、大坂城の天守閣を見上げた。
「だが、計算ができるというのは、悪いことばかりではない。君のボス、将軍ヨシノブやカタモリ公もまた、今頃、城の中で冷徹な計算をしているはずだ。
この負け戦を、どうやって将来の利益に繋げるかという、悪魔的な計算をね」
源吾は黙り込んだ。彼には、政治のことは分からない。だが、一つだけ確かなことがあった。この日本という国は、もう彼らが知っている「武士の国」ではないということだ。金と計算と裏切りが支配する、冷たい泥沼。そこに未練を感じるには、彼はあまりにも多くの血を見すぎていた。
(南山、か)
源吾の脳裏に、噂に聞く南の島の風景が浮かんだ。そこには、裏切り者のいない、乾いた大地が広がっているのだろうか。彼は、痛む足を引きずりながら、大坂城の門へと向かった。そこは、帰るべき家ではなく、次の世界へ旅立つための「港」に過ぎなかった。
(第3部 第25話 完)
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