表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
81/92

第24話 錦の御旗の虚実

 慶應四年(一八六八年)一月一六日 

 

 伏見の戦線は、泥と血、そして南山製の空き缶に埋もれ、奇妙な膠着に陥っていた。物理的な火力において、旧幕府軍は圧倒的であった。ガトリング砲の回転音は薩摩兵の肉体を粉砕し、アームストロング砲の轟音は彼らの隠れる酒蔵を吹き飛ばした。南山・明望からもたらされた無限に近い弾薬と食料は、この戦争が物量で決まるならば、すでに勝負がついていたはずであることを示していた。


 しかし、現実は違った。幕府軍は、自らの脂肪、すなわち過剰な装備と物資によって動脈硬化を起こしていた。破壊された巨大な輜重車と、積み上がった敵の死体が物理的な壁となり、前進を阻んでいたのである。


勝っているのに、進めない。その苛立ちは、兵士たちの精神を少しずつ、しかし確実に摩耗させていた。


 そこへ、中世の亡霊が舞い降りた。東寺の五重塔の下で、岩倉具視が準備していた起死回生の大魔術、錦の御旗である。


          ◆


 朝霧の立ち込める東寺の本陣。岩倉具視は、目の前に広げられた二流の織物を、うっとりと見つめていた。それは、彼の愛妾の部屋から持ち出した端切れと、京の古着屋でかき集めた金襴緞子を縫い合わせた、急ごしらえの旗であった。


 赤地の錦に、金色の太陽と、銀色の月。近くで見れば、金箔は剥げかけ縫い目は粗い。南山の工場で量産される旗の方が、品質においても耐久性においても遥かに上だろう。


 だが、岩倉は確信していた。この布切れには、アームストロング砲一〇〇門にも勝る、破壊的な権威が宿っていることを。


「できたか」


 岩倉は、しゃがれた声で呟いた。


「これぞ、帝の御印。錦の御旗じゃ」


 傍らに控える大久保一蔵が、複雑な表情でそれを見下ろしていた。


「岩倉様。これは、朝廷の正式な手続きを経て下賜されたものではございませぬ。我々が勝手に作った、いわば贋作」


「一蔵!」


 岩倉が一喝した。その目は、狂気と冷徹な計算が入り混じった、異様な光を放っていた。


「贋作? 偽物?  …笑止な!人が信じれば、嘘も真になる。帝がこれをお認めになれば、これが本物になるのじゃ。歴史とは、勝った者が作る物語じゃろうが!」


 岩倉は、旗を掴み上げ、高々と掲げた。


「掲げよ! 東寺の高台に、この旗を翻せ!

そして、全軍に布告せよ! 帝は我らと共にあり! 徳川は朝敵なり!とな!」


          ◆


 午前八時


 伏見の前線。幕府軍の最前線でガトリング砲を操作していた會津藩の相馬伍長は、霧の晴れ間から見えたそれに、我が目を疑った。


 遥か彼方、東寺の方向に、朝日に輝く金と赤の旗が翻っている。菊の御紋。それは、日本人の骨の髄まで刷り込まれた、絶対的な服従の呪符であった。


「あれは、まさか」


 相馬の手が止まった。回転し続けていたガトリング砲のクランクハンドルが、軋みを上げて停止する。彼の脳裏に、幼い頃から藩校で叩き込まれてきた尊皇の教えが、雷光のように走った。


 帝に弓引く者は、逆賊なり。 朝敵となるなかれ。


 それは、彼の思考の根底に焼き付けられた、絶対的な命令であった。学んだ物理学も、合理的な戦術論も、この強力な呪いの前では、脆くも霧散した。


「錦の、御旗だ」  


「官軍だ。あちらが、官軍なのか」


 ざわめきは、伝染病のように幕府軍全体に広がった。最新鋭のスナイドル銃を構えていた兵士たちが、次々と銃を下ろす。彼らは敵となら戦える。だが、神と戦う準備はできていなかった。彼らの着ている南山製の高性能防弾ベストは、鉛玉を防ぐことはできても、朝敵という汚名から心を守ることはできなかったのである。


 「……撃て! なにをしておる! 撃たんか!」


 大目付・滝川具挙が、泡を飛ばして絶叫した。


 「……あれは偽物だ! 岩倉が作った芝居の道具だ!  ……ただの布切れだぞ! 恐れるな!」


 だが、相馬は首を振った。  その目からは、恐怖の涙が溢れ出していた。


 「……撃てません、奉行。  ……偽物でも、あれには帝の紋が入っております。  ……あれを撃てば、俺たちは、俺たちは」


 相馬は、ガトリング砲のハンドルから手を離し、泥の上に膝をついて泣き崩れた。  物理的な火力は健在だ。弾薬も満載されている。  だが、それを操作する人間の魂が、恐怖によって凍りついていた。


          ◆


 大坂城。黒書院。  前線からの報告、すなわち錦の御旗が出現し、味方が動揺して戦線崩壊の兆しあり、との凶報がもたらされた時、その場にいた二人の男の反応は、対照的でありながら、ある一点において奇妙に共鳴していた。


 将軍・徳川慶喜は、手にしたワイングラスを、神経質そうに指で弾いた。  チーン、という硬質な音が、重苦しい空気を切り裂く。


 「……やれやれ。岩倉め、また古い手品を持ち出しおったか」


 慶喜の口調には、焦りよりも、知的階級特有の乾いた侮蔑が滲んでいた。


 「……布切れ一枚で、最新鋭の軍隊が止まるだと?  ……滑稽な話だ。天皇家という二〇〇〇年続く老舗の暖簾のれん。岩倉は、その暖簾を勝手に持ち出して、自分の屋台に掲げたわけだ。  ……とんだ詐欺師だが、悲しいかな、兵隊たちは本物と偽物の区別がつかん」


 慶喜は、冷ややかに分析した。  彼にとって、これは権威という無形資産の盗用問題に過ぎなかった。


 一方、その傍らで報告書を握りしめていた京都守護職・松平容保の反応は、慶喜のそれとは全く異質であった。  彼は動揺していなかった。パニックにも陥っていなかった。  彼が浮かべていたのは、底知れぬ不快感と、汚物を見るような嫌悪の表情であった。


 「……汚らわしい」


 容保が、吐き捨てるように言った。  その声の低さに、同席していた勝海舟すら一瞬息を呑んだ。


 「……上様。あの岩倉という男、どこまで帝を愚弄すれば気が済むのでしょうか。  ……先帝(孝明天皇)を毒殺し、幼き帝を籠絡し、今度はその御名を騙って、偽りの旗を振るうとは」


 容保の拳が、膝の上で震えていた。  彼は知っていたのだ。いや、確信していた。  かつて彼を信頼し、御宸翰ごしんかんを託してくれた孝明天皇が、誰の手によって葬られたのかを。  岩倉具視。大久保利通。  彼らが掲げる正義の下には、先帝のどす黒い血が流れていることを。


 「……あれは、錦の御旗などではありません。  ……人殺しの血を拭った、ただの雑巾です。  ……あのような不浄なものを掲げるとは、見るもおぞましい」


 容保の瞳には、かつての悲劇の忠臣の弱さは微塵もなかった。  あるのは、不義不正に対する、純粋で強烈な生理的嫌悪感だけであった。  彼は、岩倉たちが作る新政府なるものの正体を、完全に見切っていたのである。


 「會津、いや容保よ。その通りだ」


 慶喜は、静かに頷いた。


 「……だか、問題はそこではない。  ……お前や私は、あれが雑巾だと知っている。だが、前線の兵士たちは知らないのだ。  ……彼らにとって、あれは絶対的な神の御印なのだよ」


 慶喜は立ち上がり、壁の日本地図に歩み寄った。


 「……見ろ。前線からの報告を。  ……ガトリング砲の射手が、泣きながら発砲を拒否している。優秀な士官が、精神錯乱を起こして逃亡した。  ……彼らは、物理的に負けたのではない。呪いによって金縛りにあったのだ」


 慶喜は、容保を振り返った。


「この国という土壌は、近代という作物を植えるには、少々湿り気が多すぎたようだ」


 慶喜は、まるで出来の悪い盆栽を眺めるような口調で言った。


「物理法則よりも狐憑きの迷信が、契約書よりも情念という名の湿気が支配する国だ。ここでいくら南山の最新兵器を配ったところで、猫に小判、あるいは地蔵に蒸気機関を説くようなもの。錦の御旗というおふだを一枚貼られれば、我々の精鋭部隊もただの迷信深い百姓に戻ってしまう」


 容保は、唇を噛み締めた。  悔しいが、慶喜の言う通りだ。  自分は動揺しない。岩倉たちが舞台裏で糸を引いていることを知っているからだ。  だが、純朴な兵士たちに、その真実を理解させ、天皇の旗を撃てと命じることは不可能だ。それは彼らの信仰という名の心臓を、指揮官自らが抉り出すに等しい。


「では、どうなされるおつもりですか。このまま、あの三流芝居の小道具に屈服せよと?」


「まさか」


 慶喜の口元に、氷のように冷たく、それでいて楽しげな笑みが浮かんだ。


「賭場を変えるのだよ、容保。ここは岩倉のルール、すなわち呪術と血統が支配する賭場だ。イカサマが公認された席で、馬鹿正直に札を張る必要はない。我々は席を立つ」


 慶喜の指先が、地図上の大坂から離れ、南の海、南山を指し示した。


「物理と契約だけが通貨として通用する場所へ、店を変えるのだ」


「……南山へ、逃げると?」


「逃げるのではない。選ぶのだ。容保、あの旗を見て、お前が感じたその吐き気を忘れるな。それこそが、新しい国を作るための最良の種火になる」


 慶喜は、地図上の日本列島を手の甲で軽く叩いた。


「呪術に頼る古い国と、法に生きる新しい国。どちらが正しかったか、百年後に答え合わせをしようではないか。もっとも、その頃にはこの湿った島国は、カビが生えて腐り落ちているかもしれんがね」


 容保は、深く息を吐き出した。  胸の中に渦巻いていたドロドロとした嫌悪感が、冷たく透き通った決意へと結晶化していくのを感じた。  そうだ。  あのような詐欺師たちが神を騙り、民を酔わせる国に、何の未練があろう。彼らが権威という甘い麻薬に溺れるなら、我々は理性という苦い薬を噛み締めて、荒野を行くまでのこと。


「承知いたしました」


 容保は、鉄木のステッキを床に突き、毅然と言い放った。


「あのような不浄な輩と同じ空気を吸うのは、もう御免です。参りましょう、上様。法理と道理の支配する、南洋の荒地へと」


          ◆


 一月一八日。

 戦線は崩壊した。  ガトリング砲の銃声は止み、代わりに裏切りの連鎖が始まった。  日和見を決め込んでいた諸藩が、翻る錦の御旗を見て寝返りを検討し始めたのである。 彼らは損得勘定で動く。  勝つのはどちらか。朝敵にならないのはどちらか。


 物理的な敗北ではない。精神的な、そして政治的な敗北であった。だが、大坂城の首脳部、慶喜、容保、勝、小栗にとって、それは想定内の損切りであった。 彼らはすでに、日本列島という呪われた市場に見切りをつけ、次なるフェーズ、国家機能の移転へと、その舵を大きく切っていたのである。


 伏見の空に翻る偽りの旗。それは、旧時代の勝利宣言であると同時に、新時代から旧時代への決別通知でもあった。



(第3部 第24話 完)

最後までお付き合いいただき感謝します。

気に入っていただけたら、ページ下部よりブックマークとポイント評価をお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ