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第23話 棚卸と選別

 慶應四年(一八六八年)一月一一日


 伏見の市街地では、土方歳三率いる新選組と薩摩のゲリラ部隊が、泥とすすにまみれて互いの喉笛を食いちぎり合う、陰惨な殺し合いを続けていた。


 そこから淀川を下ること数里。大坂城の天守閣に近い奥御殿の一室、勘定奉行の執務室には、戦場の熱狂とは無縁の、氷点下の静寂が支配していた。


 部屋の中央には、執務机が鎮座し、その周囲を埋め尽くすように、木箱と帳簿の山が築かれている。  聞こえてくるのは、砲声でも怒号でもない。南山製の万年筆が紙の上を走る、サリサリという乾いた摩擦音と、時折響く「したため」の朱印を押す、重々しい打撃音だけであった。


 この部屋のあるじ、勘定奉行・小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)忠順(ただまさ)は、丸眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせながら、目の前に積み上げられた書類の束を、機械的な手つきで処理していた。彼の顔色は蝋のように蒼白だが、その指先の動きには一分の迷いもない。彼は今、この国始まって以来の、そしておそらく世界史上でも類を見ない、巨大かつ冷徹な「業務」を遂行していたのである。


「国家資産の棚卸たなおろし」そして、南山への移住を見据えた「人員の選別トリアージ」である。


          ◆


「お奉行。御金蔵ごきんぞうの搬出、完了いたしました。 金貨・銀貨あわせて正貨五四八万両。加えて、南山開発株券、為替手形、および対オランダ債権証書…全て、梱包済みでございます」


 部下の勘定方が、震える声で報告した。五四八万両。現在の貨幣価値に換算すれば数兆円にも相当する、徳川幕府二六〇年の蓄財の結晶である。それを、戦火の迫るこの城から持ち出そうというのだ。


「うむ。南山海運の武装商船『サザンクロス号』へ積み込め。警備は榎本海軍の陸戦隊に任せろ。陸軍の歩兵は信用するな。彼らは今、興奮状態で、金を見れば暴徒化しかねん」


小栗は顔も上げずに指示を飛ばした。


「…あ、あの、奉行。よろしいので? 城内の兵士たちへの給金や、兵糧代は」


「必要ない」


 小栗はペンを止めた。


「この城(大坂城)は、もう捨てる。城郭は維持費がかかるばかりの不良資産だ。新政府とやらにくれてやればいい。だが、動産(金と帳簿)は渡さん。これさえあれば、我々は江戸だろうが南山だろうが、どこででも『国』を再建できる」


 部下は息を呑んだ。この男は、戦争の勝敗など最初から眼中にないのだ。彼が見ているのは、貸借対照表バランスシートのみ。日本列島という「本店」が倒産することを見越し、優良資産だけを別会社(南山)へ移転させる、いわば「計画倒産」の実務を取り仕切っていたのである。


「次は『人』だ。面接を始める。入れろ」


          ◆


 午後二時。


 勘定奉行の部屋の前には、長蛇の列ができていた。並んでいるのは、大坂城に詰める旗本や御家人、そして幕府に抱えられた学者や医師たちである。彼らは小栗から呼び出しを受け、不安げな表情で順番を待っていた。彼らは知らされていない。この面接が江戸を経て南山へ至る「脱出切符」の等級を決める、運命の分かれ道であることを。


「次」


 小栗の冷たい声が響く。部屋に入ってきたのは、立派なかみしもをつけた年配の旗本であった。  一五〇〇石の大身であり、先祖は関ヶ原で武功を挙げた名門である。


「そちは?」  


「はっ。旗本、大久保忠教おおくぼ ただのりにございます。この度は、いかなる御用で」


 小栗は、手元の名簿に目を落としたまま、事務的に尋ねた。


「特技は?」


「は?」  


「何ができると聞いている。今後、場所を移しての勤めになる。そちは何をして徳川家を支えるつもりだ?」


 旗本は、顔を紅潮させて胸を張った。


「何を、無礼な!  拙者は、神影流しんかげりゅうの免許皆伝! 槍を持たせれば百人力!先祖代々、徳川家に忠義を尽くして参った!」


 小栗は、ふぅ、と短く溜息をついた。そして、手元の名簿の「大久保」の欄に、黒インクで『陸路』と書き込んだ。


「ご忠義、大儀でござる。だが、これからの戦いに槍はいり申さん。貴殿は陸路だ。手勢を率いて東海道を徒で江戸へ戻られい。その後、江戸にて待機いただく」


「な、陸路!? 歩いて戻れと申すか!港には蒸気船がおるではないか! あれに乗せてはくれぬのか!」


「船は、積荷で一杯でござる。どうしても船に乗りたいと申されるのであれば、槍を捨て、機関部の石炭くべでも手伝われるか?」


「無礼者ッ! 拙者を誰だと…」


「お下がりなされ。次の者」


 衛兵によって強制的に退室させられる旗本の怒号が、廊下に響き渡る。小栗は、眉一つ動かさなかった。陸路組——それは事実上の「保留」であり、「足切り」であった。江戸まで自力でたどり着いたとしても、その先の南山行きの船に乗れる保証はない。


 「次」


 おずおずと入ってきたのは、薄汚れた着物を着た、初老の男であった。 帯刀はしているが、その手は油と煤で黒く汚れている。


「名は」  


「へ、へい。田中儀右衛門たなかぎえもんと申します。 …お抱えの、からくり細工師で…」


「ほう」


 小栗が初めて顔を上げ、眼鏡の位置を直した。


 「からくりか。和時計の修理はできるか? 蒸気機関のピストンを見たことはあるか?」


「…へぇ。時計なら、どんなものでも直せまさぁ。 蒸気の釜も、長崎で一度バラしたことがありやす。ありゃあ、面白え仕組みで……」


 小栗のペンが走った。田中の名前の横に、鮮やかな赤インクで『海路・特』と書き込まれる。


「合格だ。 儀右衛門。家族は何人だ?」  


「は? かかあと、娘が二人おりますが」


「全員連れて行け。明日の晩、天保山から出る『横浜丸』に乗れ。 江戸へ着いたら、そのまま南山行きの船に乗り換えることになるかもしれん。覚悟はしておけ」


「……は、?はぁ……? ありがとうございます……?」


 訳も分からず頭を下げる職人を見送りながら、小栗は呟いた。  


旋盤レースを使える指は、槍使い一〇〇人よりも重い」


          ◆


 その残酷な選別作業は、夜になっても続いた。儒者、歌人、茶人、そして剣術家たちは、次々と「陸路組(待機)」へ振り分けられた。彼らがもし江戸へたどり着いたとしても、第一陣の枠に入れる望みは薄い。運が良くても、翌年の追加便を待つことになるだろう。 一方で、洋学者、蘭方医、通訳、鍛冶屋、石工、そして簿記が出来る下級武士たちは、「海路組(優先)」として、家族分を含めた船の切符を渡された。


 廊下には、選ばれなかった者たちの怨嗟の声と、選ばれた者たちの戸惑いの声が入り混じり、異様な空気が漂っていた。  


「徳川は、譜代を見捨てるのか!」  


「南山とは、商人と職人の国になるというのか!」


 その喧騒を、隣室の暗がりから静かに見つめる男がいた。 将軍・徳川慶喜である。


 彼は執務室の小窓から、小栗の容赦ない仕事ぶりを眺めていた。その表情には悲しみも同情もない。あるのは、優秀な外科医の手術を見守る院長のような、信頼と納得の色であった。


「上様。よろしいのですか。小栗殿に、あのような真似をさせて」


 側近が、恐る恐る尋ねた。  


「譜代の名門たちが、泣いております。これでは、徳川の徳が廃ります」


 慶喜は、フンと鼻を鳴らした。


「徳か。徳で蒸気船(ふね)が動くなら、いくらでもくれてやるのだがな」


 慶喜は、懐から南山製のシガーケースを取り出し、一本の葉巻を手に取った。


「見ろ、あの小栗の顔を。楽しんでいるわけではない。血を流しているのだ。腐った枝を切り落とさねば、幹ごと枯れる。この日本という土壌は、もう古すぎる。利権と蔦(しがらみ)が絡みつき、新しい産業という果実が育たん」


 慶喜は、葉巻の先端をカッターで切り落とした。


 パチン、という音が、首を斬る音のように響いた。


「南山は、真っ白なキャンバスだ。そこに必要なのは、家柄という絵の具ではない。技術という筆と、資本という油絵具、そして世界を見据えられる絵描きたちだ。

無能な忠臣よりも、有能な職人が欲しい。それが、私の作る新しい会社くに社則ルールだよ」


          ◆


 深夜。


 全ての名簿のチェックを終えた小栗は、深い疲労と共に椅子に沈み込んだ。眼鏡を外し目頭を押さえる。その指はインクの染みで汚れていたが、それはまるで返り血を浴びた介錯人の手のようにも見えた。


「終わったか、小栗」


 慶喜が静かに部屋に入ってきた。小栗は慌てて立ち上がろうとしたが、慶喜はそれを手で制した。


「楽にしろ。見事な手際だった。閻魔大王も舌を巻く選別ぶりだ」


「恐れ入ります。 恨み言は、すべてこの小栗が背負います」


「構わん。私も共犯だ。で、結果は?」


 小栗は、一冊の帳簿を差し出した。


「海路組、すなわち第一陣候補、約八〇〇〇名。家族を含めれば三万。彼らは優先的に船で江戸へ送り、そのまま南山行きの船団へ接続させます。 残りの陸路組、約二万名は自力で江戸へ向かわせます。彼らが到着した時、もし船に空きがあれば乗せますが、望みは薄いでしょうな」


「まずは三万か。方舟はこぶねにしては、少々定員オーバー気味だが、まあいい。 勝(海舟)が、船の手配に走り回っている。彼なら、幽霊船でもチャーターしてくるだろう」


「江戸には、さらに数万の人間が待機しております。年内に六〇万、来春までに締めて八〇万人。積み残した連中や、亡命を希望する者たちがその後に続くでしょうから、その翌年末までにさらに一〇〇万くらいと見て、そこら辺までは我々が面倒をみませんと…気の遠くなるような数字です」


 二人は顔を見合わせ、微かに笑った。それは、巨大な陰謀を共有する者同士だけが浮かべる、共犯者の笑みであった。


 窓の外、大坂の街には、まだ戦火の赤い光が揺らめいている。だが、この二人の眼には、その火は映っていなかった。彼らが見ていたのは、遥か数千キロ南の洋上に浮かぶ、鉄と蒸気と法で統治される、理想の共和国の幻影であった。


「行こうか、小栗。閉店セールの準備は整った。あとは、客(新政府軍)が来る前に、商品を裏口から運び出すだけだ」


 慶應四年一月中旬。


 歴史教科書では「幕府軍の敗走」として語られるこの時期、その裏側では、既に人類史上稀に見る「国家機能の移転プロジェクト」が、静かに、しかし確実にその第一歩を踏み出していたのである。




(第3部 第23話 完)

最後までお付き合いいただき感謝します。

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