閑話 - 15世紀から19世紀頃の日本の歴史・産業革命と南洋開発
14世紀から始まった日本と東南アジアとの交易は、戦国時代中盤の15世紀から堺や博多の独立商人が密貿易により東南アジア全体に拡大していった。
16世紀末からは豊臣政権が朱印状貿易により更に規模を拡大。日本人が多数進出していたタイのアユタヤやジャワ島のスンダ・クラパ(ジャカルタ)、台湾島など各所に、日本の国家としての権益拠点が設置された。
1589年に豊臣政権の軍船が入安島を西進し豪州大陸と南山諸島に到達。南山諸島の領有化をイスパニアとオランダに通告。
その後、秀吉の急逝により中止となった朝鮮征伐によって余剰となった資金及び人員の一部を使い、1598年頃には南山島と北嶺島及び豪州大陸北岸と入安島の東端に開発拠点が築かれた。
豊臣政権を打倒し1603年に開府された徳川幕府は、封建的な統一国家を目指し経済振興を図っていった。そのため国内の新田開発や技術振興による食糧増産と産業振興に加え、南蛮貿易及び東南アジア諸国/諸領域との貿易拡大を進めた。
1635年に直轄貿易港の制定(長崎・博多・堺・下田、それぞれに南蛮奉行を置き、18世紀以降は開港地は拡大)・国境線の画定・銀交換比率の制定・関税制度の整備・キリスト教の布教制限・武装外国人集団の滞在不許可などの貿易の基本政策を確立した。
同時期に領域拡大の一環として南山諸島と入安島へ本格入植開始。
当初は大量の浪人と流民への対策も兼ねていた為、ある意味棄民の再利用的な面もあったが、その後それなりに援助を与えた上での植民に移行する。
そこから約200年以上、幕府主導で東国を中心に広く日本全土から移民が増加して開発が進み、列強間でも日本の領域と認知された。
17世紀後半より日本は諸外国との貿易を拡大していった。
拡大の中心は欧州(既にこの頃には南蛮呼称は使われていない)や南洋(東南アジア)であった。
当初の主要貿易相手国は清・オランダ・ポルトガルで、後に越南・タイ・アチェ・スペインとイングランドなどが加わった。
清との関係は日本が朝貢貿易を嫌った為、台湾にできた日本の強い影響下にある政権を経由した交易が中心であったが、銀交換比率を日本に有利な内容で行っていた為、18世紀末まで莫大な利益をあげつづけた。
清との冊封体制にあった朝鮮との貿易は、日本から度重なる交易の交渉を行ったが黙殺され、経済的な利益も薄かった為、18世紀中盤以降は通信使も途絶えほぼ没交渉となっていた。
1650年代にはスペインはフィリピンからアカプルコ経由でスペイン本土までの貿易ルートであるマニラ・ガレオンを確立しており、日本もフィリピン経由で多くの交易を行っていた。
すでに入安島や南山諸島などの南洋に植民を始めていた幕府は、そのルートに南洋の砂糖やゴムなどを流通させることによって多額の収益を挙げることに成功した。
またインド洋経由でも大量の日本本土と南洋の文物が欧州に輸出され、逆に欧州・インド・イスラム圏の文物が日本に輸入された。
幕府は1675年にオランダ・ポルトガルトと、1685年にスペインと、1692年にロシアとの正式な国交を天皇の名で締結した。
その後18世紀に入り1712年にイングランドと、1746年にフランスと1830年には米国との国交を結び、欧州の列強国と対等な外交条約を締結したアジア唯一の国家となった。
1787年には英国とジョン・ハンター条約を締結。豪州と南山の利益境界を確定した。
国内の安定と経済の発展によりうまれた資本は国内外へ再投資され、規模は年々拡大していった。
西欧の農業革命期と時を同じくして、国内投資の拡大によって江戸時代中盤から大規模な疏水開削や水田開拓などが全国で行われた事により農業生産量は大幅に増加していった。これに伴い人口は順調に増加し続けたが、どうしても余剰となった人口は南洋を中心とした国外へ移民として国外に広がっていった。
貿易によって得られた収益は南洋にも還元され、特に南山地域の発展は1700年頃には台湾島の台北と同規模、1750年には南山・北嶺の移民人口が50万人を越え幕府の海外拠点としては最大の規模を有するようになった。
南山奉行所が置かれた冥海望(後に明望と改称)の町も同じ時期には人口約5万人の貿易・開拓都市として拡大していた。更に1850年頃には領域の日本人の人口が120万人、明望の人口も15万人を越え、南山は開拓移民と新大陸との交易を両軸に発展していった。
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輸出入の増加による産業構造の転換は緩やかに進み、諸外国との貿易や交流で海外に出る人間の増加によって、国外の各種文物や諸風俗が国内に徐々に広まっていった。
それまでもリバースエンジニアリングの手法や限られた書物、滞在していた西洋人からの指導などで、ガレオン船の造船や航海術、造兵や用兵法について理解を深め生産も進めていたが、17世紀後半以降は欧州から諸法規や会計、物理・数学・化学などの自然科学、哲学や文学、統治や行政、軍事技術や兵器と造兵技術、流行や諸風俗などについて、ほんの数年の時間差で次々と輸入されていった。
輸入書は即座に翻訳され国内の各層に広まった。単語は日本式の新語に置き換えられ、言葉の誕生と同時に新しい概念理解が生まれ絶え間のない変化が起こっていった。
ホッブズやルソーやロックの著書や米国独立宣言やフランスの人権宣言も翻訳され、すぐに危険思想として出版禁止にはなったものの、幕府や諸藩の知識階層を中心に着実に広まっていった。
行政や軍事、産業振興については中央よりも先に諸藩の政庁に先に取り入れられる事も多く、安定した国内と南洋という限りないフロンティアの存在は、多くの国富を生み出していった。
国内経済は幕府成立初期に一部でとなえられた海禁策を取らなかった事もあって、洋式の船舶の製造が大規模に行われ、海上交通路の盛んな利用により各地の物産の流通が発展。
国内はもちろんの事、海外を含む遠隔地との取引と商規模の拡大と共に、為替や信用取引や諸帳簿の整備や発展が進み金融業も大きく発展した。
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欧州の文化や文物の取り入れは、当初は直接取引を行う商人層や関係する武士、大都市圏の富裕層を中心としての流行であり、南蛮癖とも言われていたが、徐々に地方や各階層にも広がりをみせていった。
鶏肉食については1650年代の初め頃から開港地から全国に広まっていき、1710年代の中頃には国内では忌避されることは少なくなっていた。牛や豚などの畜肉食の文化については1750年代には江戸や大阪などに店舗が散見され始め、大都市等では1820年代にはごく一般的なものとなっていったが、全国的なものとなるのは明治維新以降である。
大火の多かった江戸の商家や外国人の居留地があった開港地などには、1700年代より木骨煉瓦構造や煉瓦張りの土蔵や店舗などが多く建築され、また建築方法や構造にも主として英国式を取り入れた木造建物や煉瓦造建物が、19世紀初頭頃から主として諸藩の政庁や産業施設などに建設されていった。
1855年の安政の大地震により江戸府内の煉瓦建設物やガラス窓などに多数の破損が発生した。一部では伝統工法への回帰の方向も見られ、住宅では其方の方で住宅基礎の強化や柱梁の強化・鎹の見直しなどが行われた物が震災以降新たに建築されていったが、官庁や商社あるいは大名屋敷についてはコンクリート基礎の鉄筋あるいは木・竹筋コンクリート造や鉄筋コンクリートと煉瓦の混構造などが取り入れられいった。
また倫敦大火後の大倫敦市や南山の明望市の開発計画図面を元に、中心部から下町にかけて耐火対災害の都市計画が不完全ながらも実施され、従前よりも災害に強い江戸を目指し再建されていった。
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江戸時代の教育制度:
江戸時代の支配階級の武士の公教育については、まず1660年に幕府直轄の昌平坂学問所が開学された。それから数年して上位武士階級の子弟への教育のための藩校が有力藩を中心に17世紀末より設立され始めた。その後1750年代からは広く諸藩にも設立されていった。
18世紀末には先行して開学していた昌平坂学問所や、会津藩の日新館、米沢藩の興譲館、長州藩の明倫館、佐賀藩の弘道館、熊本藩の時習館、薩摩藩の造士館などの有力藩校は、国学・漢学に止まらず、数学、医学、化学、物理学、西洋諸人文学、西洋兵学、造兵造機等の学寮を併設する、事実上の総合大学にまで発展していた。
また江戸中期以降は身分の上下を問わず広く有能な藩士を入校させたり、幕末期には領民の入校を認める藩校も多く出現していた。
衆民に対しての初等教育は、私塾である寺子屋や手習いなどが、遅くとも18世紀の終わりごろまでには広く農漁村にまで拡大していた。
公教育としては備前岡山藩の手習所を嚆矢とし、藩主や代官によって設立された衆民教育のための郷校や江戸や幕領(天領)にあった民校が1800年代初頭から出現したが、恩恵を受けられるのは藩庁の所在地や大都市部の富裕な町民層に限られていた。
19世紀以降は私塾とはいえ其の殆どが地域の共同体に根差し運営されていた寺子屋を、正式に公費で支援する試みが広まり、それぞれの藩や幕領単位での教育内容の標準化が図られていった。
そして月日が過ぎ、嘉永年間(1848-1855)には日本においての産業革命が発生した。
<鉄と蒸気の列島:嘉永産業革命>
19世紀中葉、欧州大陸が「諸国民の春」と呼ばれる動乱に揺れていた頃、極東の島国日本においてもまた、静かなる、しかし不可逆的な地殻変動が発生していた。
後世の歴史家が「嘉永産業革命(The Kaei Industrial Revolution)」と呼称することになるこの一連の技術的・経済的爆発は、単なる西洋技術の模倣ではなく、長きにわたる南洋(南山諸島・豪州・入安島)経営によって蓄積された膨大な資本と、徳川幕府による封建的平和が醸成した高度な識字・教育水準が化学反応を起こした結果であった。
1844年、オランダ国王から将軍への親書と共に献上された最新鋭の蒸気機関モデルと紡績機械の設計図は、既に基礎科学力を有していた幕府天文方や各藩の技術者たちによって瞬く間に解析された。
これが「種火」となり、わずか10年という短期間で日本列島の風景は一変することとなる。嘉永年間に発生した産業革命は、日本列島を一様に発展させたわけではない。
それは地政学的条件と資源供給ルートの違いにより、明確に異なる二つの発展ラインを描き出した。これが後の内戦と分裂の遠因となる。
1. 東国・環太平洋工業地帯(Oceanic-Industrial Complex)
江戸・横浜・横須賀から、水戸・日立、さらには仙台・石巻・釜石・宮古・八戸へと至る太平洋沿岸部である。 このラインは、南山植民地からの資源(ゴム、希少金属、羊毛、綿花)の受入窓口として機能した。特に1848年以降、常磐炭田や釜石鉱山の開発と直結した重工業・造船ベルトが形成されたことが決定的であった。 ここでは幕府直轄、あるいは親藩による大規模な製鉄所、造船所が林立し、蒸気船や鉄道敷設のためのレールが昼夜を問わず生産された。ここの経済圏は「海」=南洋に向かって開かれており、その富の源泉は海外交易と植民地経営にあった。
2. 西国・瀬戸内軽工業地帯(Continental-Mercantile Complex)
一方、大阪・堺・神戸から広島・下関・博多・長崎へと至る瀬戸内・西国ラインである。 こちらは伝統的な清国・朝鮮・東南アジアとの交易ルートを背景に、綿織物、製糸、食品加工といった軽工業・加工貿易を中心に発展した。薩摩や長州といった雄藩は、独自の密貿易ルート(琉球・中国経由)で蓄積した資本を投下し、反射炉の建設など軍事技術への転用を急いだが、東国の圧倒的な資源供給量と重工業のスケールには遅れを取らざるを得なかった。 西国諸藩にとって、幕府が独占する南山航路と東国の重工業化は、自らの経済的存立を脅かす「巨大な怪物」の成長と映ったのである。
1844年から1855年のわずか11年間で、日本の身分制度と社会構造は劇的な溶解を見せた。
伝統的な「弓馬の道」は、産業革命の進展と共に「蒸気と鉄の理」へと置き換えられた。
特に東国諸藩や幕府直轄領においては、武士のアイデンティティは「戦う者」から「管理する者・技術を持つ者」へと変質した。藩校に併設された理工系学寮出身の若き武士たちは、刀を計算尺や図面に持ち替え、製鉄所の高炉や鉄道の敷設現場を指揮した。
彼らにとっての忠義とは、主君のために敵を斬ることではなく、主君の領国を富ませるための生産性向上へとシフトしていったのである。テクノクラートとしての武士の誕生である。
また、農業生産性の向上と囲い込み、そして南洋への移民熱によって、農村共同体から切り離された余剰人口は、江戸や大阪、そして新興の工業都市(日立や釜石など)へと流入した。彼らは初期のプロレタリアートとなったが、欧州の悲惨な労働環境と比較すれば、日本の場合、南洋という逃げ場所が常に存在したことが特異であった。
「国内で食いつめれば南山へ行けばよい」という選択肢は、国内の労働賃金の下限を一定水準に維持する圧として機能し、結果として内需の拡大と中間層の形成を早めることとなった。
1867年の内戦に至る政治的対立の根源は、単なる佐幕か倒幕かという権力闘争ではない。それは産業革命によって可視化された国家デザインの根本的な相違にあった。
東国・幕府側は南山諸島や豪州という広大なフロンティアを管理するため、権限分散型の連邦制を志向した。各地域(藩や植民都市)が高度な自治権を持ちつつ、緩やかな統合の下で経済的繁栄を享受するモデルである。彼らにとって天皇は精神的支柱であればよく、実務は「公議」によって運営されるべきであった。これは産業革命によって生まれたブルジョワジーやテクノクラートの利益とも合致していた。
対して、産業化で遅れを取り、かつ地理的に欧米列強や清国の軍事的脅威の最前線にある西国諸藩は、強力な軍事力と資源の集中管理を行う中央集権国家を渇望した。彼らにとって、幕府の緩やかな連邦制は危機対応能力の欠如と映り、東国の経済的繁栄は国富の偏在として妬みの対象となった。彼らが天皇親政を掲げたのは、徳川の経済覇権を打破するための政治的・宗教的レバレッジ(てこ)として必要不可欠だったからである。
嘉永の産業革命は、日本人の精神構造にも不可逆的な変化をもたらした。
最も大きな変化は時間意識である。近代産業に不可欠な不定時法から定時法への移行は、鉄道の運行ダイヤと工場の操業時間によって強制された。江戸の町人や武士たちは、もはや「明け六つ」ではなく、「午前6時」に合わせて行動することを求められた。懐中時計がステータスシンボルとなり、時間は自然の流れから管理・消費する資源へと変貌した。
また、蒸気船と鉄道はそれまでの距離の概念を破壊した。江戸から会津、あるいは江戸から南山諸島への移動時間が劇的に短縮されたことで、人々の地理的認識は拡大した。特に南洋は、かつての異界ではなく、親戚が住み、特産品が届く日常の延長線上の土地として認識されるようになった。
この心理的障壁の消滅こそが、後の「南山大脱出」において、1年で80万人もの人々が躊躇なく海を渡る決断を下せた最大の要因であると言える。そして産業革命によって培われた技術力、組織力、そして海への親和性は、そのまま国家の引越しという人類史上類を見ないプロジェクトの実行能力へと転化された。
かくして1867年、政治的緊張は臨界点に達した。 東国の「産業資本・連邦主義」と西国の「農業・軍事中央集権主義」の激突は、もはや避けられないものであった。しかし、歴史が証明したように、東国側は最終的な決戦(江戸焦土化)を選ばなかった。彼らは既に知っていたのである。「国家」とは土地ではなく、システムと民、そして文化そのものであることを。




