第22話 伏見の迷宮 - 市街地塹壕戦
慶應四年(一八六八年)一月六日
伏見の街は、燻されたような重苦しい雲の下で、巨大な墓場のように静まり返っていた。 だが、その静寂は平和の訪れを意味するものではない。それは、猛獣が獲物の喉笛に喰らいつく直前の、息を潜めた殺気の沈黙であった。
数日前の小枝橋における一方的な虐殺劇、ガトリング砲による物理的粉砕の後、戦線の様相は劇的に変化していた。開けた街道での野戦は消滅し、代わりにこの伏見の市街地を舞台とした、陰湿で、血生臭く、そして極めて近代的な市街戦が幕を開けていたのである。
薩摩・長州を中心とする西国軍は、学習能力の高い獣であった。彼らは理解したのだ。高価で長射程なスナイドル銃やアームストロング砲と、平地で撃ち合うことは自殺行為であると。
ならば、どうするか。答えは単純だ。敵の射程が届かない場所、すなわち、壁の向こう、床の下、天井の裏に潜り込めばよい。
彼らは、伏見の街そのものを巨大な迷宮、あるいは蟻の巣へと作り変えていた。民家の土壁をハンマーでぶち抜き、隣家へと移動する「壁抜け(マウス・ホーリング)」の穴を無数に穿ち、屋根瓦を剥がして狙撃用の銃眼を作った。通りには誰もいない。だが、一歩足を踏み入れれば、四方八方の闇から不可視の銃弾が飛んでくる。そこはもはや人が住む街ではなかった。人と、かつて人であったモノたちが殺し合うための、巨大な「屠殺場」へと変貌していたのである。
◆
同日 午後一時
伏見奉行所の北、酒造りの町として知られる一角。老舗の酒蔵の中は、異様な湿気と、むせ返るようなアルコールの臭気、そして鉄錆のような血の匂いで充満していた。
薄暗い蔵の中で、薩摩の伊集院は、巨大な酒樽の陰に身を潜め、荒い呼吸を整えていた。彼の手にするエンフィールド銃は、泥と煤で黒く汚れ、着物はあちこちが破れて血が滲んでいる。だが、その瞳は、暗闇に慣れた夜行性動物のように爛々と輝いていた。
「おい、隣の蔵へ繋がったか?」
伊集院が囁くと、土壁を掘っていた部下が、煤けた顔で親指を立てた。直径二尺(約六〇センチ)ほどの穴が、隣の味噌蔵へと口を開けている。
「よし。 徳川の兵隊は、表通りを馬鹿正直に行進してくるじゃろう。先頭が通り過ぎたところを、この穴から出て、横っ腹を食いちぎる」
それは、卑怯極まりない戦法であった。武士道などという高尚な倫理規定は、ここには存在しない。あるのは「いかに効率よく、リスクを負わずに敵を殺すか」という、冷徹な損得勘定だけであった。
「伊集院さぁ。奴らの着ているあの黒い服、燃えやすいそうですぜ」
部下の一人が、ニヤリと笑って手にした瓶を振った。 中に入っているのは、伏見の名水で仕込まれた清酒ではない。輸入された揮発性の高い「石油」である。本来はランプの燃料だが、布切れを詰めれば、簡易焼夷弾(火炎瓶)へと早変わりする。
「等じゃ。南山の高級羊毛が、どれほど良く燃えるか、試してやろうじゃないか」
彼らは、持たざる者ゆえの創意工夫で、幕府軍を泥沼へと引きずり込もうとしていた。
◆
同日 午後三時
その酒蔵の表通りを、一隊の集団が慎重に進んでいた。旧幕府軍、その中でも、異彩を放つ精鋭部隊、新選組である。
彼らの姿は、かつての京で纏っていた、だんだら羽織から変貌した近代的な治安維持部隊のスタイルから、更に劇的に変貌を遂げていた。身につけているのは、濃紺の難燃性ウール製野戦上衣に褐色の軍袴。頭には赤と紺のケピ帽。黒革のベルト。
右手に握られているのは、S&Wの回転式短銃「モデル2・アーミー」にトリガーガードを付けるなどの改修を施した、S&Wモデル2・ナンザンだ。腰には横須賀工廠で試作されたばかりの「投擲弾」通称「焙烙玉改」がぶら下がっている。そして何より、彼らの手には長刀が握られていなかった。腰には佩環を用いて佩刀してはいたが、隊士によっては脇差だったり、あるいは刀を差さず、両腰に拳銃を下げている者もちらほら見かけられた。
指揮を執るのは、副長・土方歳三であった。彼は、トレードマークであった長髪を切り落とし、硝煙と土埃にまみれた顔で、油断なく周囲の窓や路地を警戒していた。
「永倉。左の窓だ。気配がする」
土方が短く指示すると、二番隊組長・永倉新八が、無言で左手の建物の二階に向けて短銃を構えた。 かつて神道無念流の達人と謳われた彼は、今や市街戦(CQB)のプロフェッショナルへと転身していた。
「刀は邪魔だと言っただろう、原田。そんな狭い路地で長物を振り回してみろ。壁に当たって自滅するのがオチだ」
土方は、未だに槍を手放そうとしない原田左之助を叱責した。ここ何年もの凄惨でやりきれない戦闘の中で新選組は学習していた。見えない敵と戦うには、侍としての誇りを捨て、泥棒猫のような敏捷さと、至近距離での火力を手に入れるしかないことを。彼らは今や、幕府軍の中でも唯一、この特殊な戦場に適応した、21世紀の視点でいうところの都市型戦術機動部隊として機能していたのである。
その時。カラン、という乾いた音が、静寂を破った。路地の奥から、何かが転がってきたのだ。ガラス瓶だ。口には火のついた布切れが押し込まれている。
「伏せろッ!」
土方が叫ぶと同時に、瓶が地面に叩きつけられ、破裂した。紅蓮の炎が爆発的に広がり、路地を火の海に変える。石油の黒煙が視界を奪う中、酒蔵の壁に開けられた穴から、薩摩兵たちが飛び出してきた。
「チェストォォッ!」
「死ねぇ、徳川の犬ッ!」
至近距離での遭遇戦。スナイドル銃のような長物では対応できない距離だ。だが、土方は慌てなかった。
「撃てッ!」
土方の号令と共に、新選組隊士たちは一斉にリボルバーの撃鉄を起こした。 乾いた破裂音が連続して響く。至近距離から放たれた・三二口径の鉛弾は、突っ込んでくる薩摩兵の眉間を、胸板を、正確に撃ち抜いた。
刀を振り上げた薩摩兵が、前のめりに倒れる。その背後から槍を突き出そうとした兵士には、永倉が懐から取り出した焙烙玉改を放り投げた。
点火栓を抜き、四秒数えて投げる。
ドオォォン!
爆風と破片が、狭い路地の中で逃げ場を失い、敵兵たちを薙ぎ倒す。それは、剣術の達人が行う「華麗な戦い」ではなかった。ただ、効率的に、機械的に、障害物を排除していくだけの「清掃作業」であった。
「確認。次へ進むぞ」
土方は倒れた薩摩兵の死体を跨ぎながら、冷たく言い放った。彼の手には、まだ硝煙を上げるリボルバーが握られていた。「鬼の副長」は、近代兵器という新たな牙を手に入れ、より冷徹な殺戮者へと進化していたのだ。
だが、新選組の奮戦も、焼け石に水であった。 伏見の街全体が、巨大な蟻地獄と化しており、一つを潰せば、また別の穴から敵が湧いてくる・「いたちごっこ」という言葉がこれほど似合う戦場もなかった。
◆
同日 午前四時三〇分頃。
幕府軍の本営が置かれた伏見奉行所周辺。ここでは、南山から持ち込まれた、ある「新兵器」が、戦場の風景を一変させていた。
有刺鉄線 南山島の牧場で、羊を囲うために開発されたこの「棘付きの鉄線」は、人間を囲うためにも極めて有効であることが、これまでの戦訓で証明されつつあった。
奉行所の周囲には、幾重にも張り巡らされた有刺鉄線のバリケードが築かれていた。それは、夕闇の中で不気味な銀色の光を放つ、鋼鉄の蜘蛛の巣であった。
「なんじゃ、あれは?」
夜襲をかけようと忍び寄った長州藩の兵士たちは、その奇妙な障害物に戸惑った。一見すると、ただの細い針金に見える。刀で斬れば切れるだろう、と彼らは高を括った。だが、それが地獄への入り口だった。
「痛っ! な、なんじゃこりゃあ!」
先頭の兵士が鉄線に触れた瞬間、鋭利な棘が着物を突き破り、皮膚に食い込んだ。 慌てて外そうと暴れれば暴れるほど、他の棘が絡みつき、さらに深く肉を抉る。まるで、意思を持った鉄の蔦が、獲物を捕食しようとしているかのようだった。
「動けぬ! 助けてくれ!」
有刺鉄線に絡め取られ、宙吊りになった兵士たちの悲鳴が上がる。そこへ、奉行所の土嚢の陰から、冷徹な銃撃が浴びせられた。
タン、タン、タン。
狙い済ました射撃。
動けない標的を撃つのは、射的よりも簡単だった。長州兵たちは、鉄の棘に肉を引き裂かれながら、鉛弾に貫かれ、ボロ雑巾のように鉄線にぶら下がったまま絶命していった。
牧歌的な牧場の道具が、最も残酷な殺人装置へと転用された瞬間であった。これを見た幕府軍の将校ですら、顔をしかめたという。
「あれは、侍の戦いではない。獣を罠にかける猟師のやり口だ」
◆
夜。 戦闘は依然として続いていたが、その膠着感は誰の目にも明らかだった。伏見の酒蔵の多くは炎上し、芳醇な酒の香りは、焦げ臭い煤の匂いにかき消されていた。通りには、有刺鉄線に絡まった死体と、瓦礫の下敷きになった死体が散乱し、その上を野犬たちが徘徊し始めていた。
土方歳三は、奉行所の一室で、汚れた軍服のまま椅子に座り込んでいた。テーブルの上には、南山の缶詰(桃のシロップ漬け)が開けられているが、手を付ける気にはなれなかった。
「終わらねぇな」
土方は、独り言ちた。
「いくら殺しても、キリがねぇ。 まるで、泥沼に石を投げ込んでいるようだ」
彼は、懐から愛用のリボルバーを取り出し、シリンダーを回した。
カチリ、カチリ。
その精緻な機械音だけが、彼に残された唯一の理性の響きのように感じられた。
物理的な火力では勝っている。装備の質も段違いだ。だが、この迷宮のような市街戦において、それらは決定的な勝因にはなり得なかった。敵は、形を持たない執念となって、壁の向こうから、床の下から、際限なく湧き出してくる。それを根絶やしにするには、この伏見の街ごと焼き払うしかない。だが、それは治安を回復に来たという名目の幕府軍には許されない選択肢だった。
「皮肉なもんだ。金持ちは失うものが多すぎて、貧乏人みたいに思い切った放火ができねぇ」
土方は苦笑し、桃の缶詰を一口啜った。甘ったるいシロップの味が、血の味がする口の中に広がり、彼に吐き気を催させた。
伏見の夜空は、燃え続ける酒蔵の炎で赤く染まっていた。それは、これから一ヶ月にわたって続くことになる、泥沼の塹壕戦の始まりを告げる、不吉な篝火であった。近代兵器という「魔法」を手に入れた彼らは、その魔法の使い方がいかに残酷で、そしていかに虚しいものであるかを、身をもって学ばされようとしていたのである。
(第3部 第22話 完)
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