第21話 鉛の壁 - ガトリング砲の物理
慶應四年(一八六八年)一月四日
京の南 鳥羽街道・小枝橋
夜明け前の漆黒が、東の空から滲み出した薄墨色によって徐々に侵食され、昨夕から続く惨劇の全貌を露わにしつつあった。冷え込んだ大気は、血と硝煙、そして臓腑の散乱する独特の甘ったるい臭気を、泥濘の上に重く留めていた。
前日の夕刻、薩摩軍の放った一発の砲弾によって火蓋が切られたこの戦いは、夜通しの散発的な銃撃戦を経て、夜明けと共に全く別次元のフェーズへと移行しようとしていた。「合戦」という言葉が持つ、武士同士が名乗りを上げ、刀を交えるような、ある種の牧歌的な響きは、この朝、完全に過去の遺物となった。これから始まるのは、人間という有機物を、物理法則と工業力によって粉砕・処理する、「解体作業」に他ならなかったからである。
◆
午前六時 朝霧の向こう、薩摩軍の陣地から、鼓膜を劈くような絶叫が上がった。
「チェストォォォッ!!」
それは、示現流の猿叫であった。数百の薩摩兵が、バリケードを乗り越え、泥飛沫を上げて突進してくる。彼らの目は血走り、口元からは白い泡が吹きこぼれていた。
手には、錆びついたエンフィールド銃ではなく、鋭く研ぎ澄まされた日本刀が握られている。彼らは信じていたのだ。皇国の御霊が宿るこの肉体は、徳川の穢れた鉛玉など弾き返す、と。気迫こそが物理を凌駕する、と。それは、中世的な精神主義の最後の輝きであり、同時に最も悲劇的な誤謬でもあった。
対する旧幕府軍の最前線。會津藩の砲兵伍長・相馬鉄之助は、その光景を、會津の神指工廠で製造された厚手の防風ゴーグル越しに、冷ややかに見つめていた。彼が握っているのは、刀の柄ではない。真鍮の鈍い光を放つ、巨大なクランクハンドルであった。
彼の目の前には、六つの銃身を束ねた異形の兵器、一八六六年式ガトリング砲が鎮座している。米国のリチャード・ジョーダン・ガトリングからライセンス生産権を得て、南山工廠で昨年の秋に完成したばかりのこの「回転式多銃身機関砲」の3号機は、毎分二〇〇発という、当時の常識を嘲笑うかのような発射速度を誇っていた。
「来るぞ! 距離一〇〇! 突撃狂いどもに、鉛玉の教育をしてやれ!」
指揮官の号令と共に、相馬はハンドルを回し始めた。最初は重く、そして慣性がつくにつれて軽やかに。
キリキリキリ……という歯車の噛み合う音が、死のメトロノームのように鳴り響く。
バリバリバリバリバリバリッ!!
雷鳴のような連続音が、鳥羽の朝を震わせた。 六本の銃身から吐き出される一三ミリ径の鉛弾は、目に見えない「鋼鉄の鞭」となって、突進してくる薩摩兵の群れを薙ぎ払った。
先頭を走っていた壮年の兵士は、胸から腹にかけて五発の銃弾を同時に受け、上半身が爆ぜたように千切れ飛んだ。その背後にいた若者は、前のめりに倒れ込む間もなく、頭部を粉砕された。刀を振り上げた腕が、肩から外れて宙を舞う。断末魔の叫びを上げる暇すらなかった。彼らは、何か強大な力に見えない壁へ叩きつけられたかのように、次々と泥の中に沈んでいった。
「装填手、弾倉交換! 絶対に給弾を絶やすな! 回せ、回せ!」
相馬は無心でハンドルを回し続けた。 彼の手には敵を斬る感触も、命を奪う震えも伝わってこない。あるのは、精密機械が正常に稼働しているという、乾いた振動だけである。
(これは、戦ではない)
相馬は、ゴーグルの中で瞬きをした。
(横濱の缶詰工場で見た、牛の解体作業と同じだ)
薩摩兵の決死の突撃は、わずか三分で終わった。街道の上には、二〇〇近い肉塊が積み重なり、湯気を立てていた。赤い血が、黒い泥と混じり合い、毒々しいマーブル模様を描いて淀川へと流れ込んでいく。
◆
「勝った、のか?」
大目付の滝川は、馬上で呆然としていた。彼の目の前に広がる光景は、勝利というよりは、天災の跡地のようであった。敵の前衛は壊滅した。物理的に粉砕されたと言っていい。こちらの損害は軽微。流れ弾で数人が負傷した程度だ。
「よし、今だ! 敵が混乱している隙に、一気に押し通れ! 全軍、前進!」
滝川はサーベルを突き上げ高らかに号令した。だが、軍隊は動かなかった。いや、動けなかったのである。
「進まぬか! なにをしておる!」
滝川が苛立ち紛れに振り返ると、そこには絶望的な「渋滞」があった。一本道の街道は、先頭付近こそガトリング砲の威力で敵を一掃していたが、そのすぐ背後では、最新鋭の一二ポンド・アームストロング砲の巨大な砲車が、昨夜の戦闘で破壊され、道を完全に塞いでいたのである。
さらに悪いことに、その砲車の周りには、敵の奇襲でパニックを起こして逃げ惑った輜重車(食料や防寒具を満載した荷馬車)が折り重なるように転倒し、中身をぶちまけていた。
泥の中に散乱する高級缶詰。引き裂かれた厚手の毛布。そして、それらに乗り上げて動けなくなった後続の部隊。
「退かせ! その鉄屑をどけろ!」
滝川が怒鳴るが、工兵たちは泥まみれになって首を振るばかりだ。
「無理です、奉行! 大砲は重すぎます! 五〇〇貫以上(約2t)もあるんですぞ! それに、前を見てください!」
工兵が指差した先、ガトリング砲が作り出した「死の荒野」には、新たな障害物が生まれていた。 死体の山である。数百の薩摩兵の死骸が、折り重なって小高い丘となり、物理的なバリケードとなって道を塞いでいたのだ。乗り越えようにも、足元は血と内臓で滑り、まともに歩くことさえできない。
「なんと、いうことだ」
滝川は絶句した。彼らは勝った。火力においては圧倒的に勝利した。だが、その勝利の証(死体の山)と、その勝利をもたらした富(重厚な装備)が、皮肉にも彼らの足を止め、前進を拒んでいたのである。 「富める軍隊」のパラドックス。彼らは、自分たちの脂肪(贅肉)の厚さゆえに、狭い血管(街道)の中で動脈硬化を起こしていた。
◆
戦場の遥か後方、伏見稲荷の山腹。 老松の陰から、一人の男が戦況を見下ろしていた。西郷吉之助である。
彼は、遠眼鏡を下ろし深く溜息をついた。その巨躯は、心なしか以前よりも縮んで見えたが、窪んだ眼窩の奥にある瞳だけは、凍てつくような冷徹さを宿していた。
「あな恐ろしや。あれが、徳川の銭の力か」
西郷の声は震えていた。同郷の若者たちが、虫けらのように挽肉にされる様を目の当たりにしたのだ。 情に厚い彼にとって、それは身を切られるような苦痛であったはずだ。だが、彼の頭脳の半分は、冷徹な戦略家として機能し続けていた。
「じゃっどん、見えもしたぞ」
西郷は、泥沼でもがく幕府軍の長大な隊列を指差した。
「あ奴らは、デカすぎる。鎧が重すぎて、自分の足元が見えちょらん。
勝どんは、徳川を無敵の巨像に仕立て上げなさったが、その巨像は、京の狭い路地裏には入れんのじゃ」
西郷は、傍らに控える中村半次郎を振り返った。
「半次郎。正面から当たるな。鉛の壁には勝てん。兵を引け。伏見の町へ誘い込め」
「町へ、でごわすか?」
「おう。壁に穴を開け、床下を這い、屋根を飛べ。
あのデカブツどもが、大砲もガトリングも振り回せん場所で、泥仕合に持ち込むのじゃ。
綺麗な軍服を、血と煤で汚してやれ」
西郷の指令は、近代戦の否定であり、同時に近代戦の死角を突くものであった。
「非対称戦」弱者が強者を殺すための、唯一無二の方程式。
「死んでいった者たちのためにも、タダでは負けん。慶喜どん。おはんの自慢の『商品』に、たっぷりと傷をつけて返すからのう」
西郷は、燃え上がる小枝橋の方角へ一礼すると、踵を返して闇へと消えた。
◆
正午
戦闘は膠着状態に陥っていた。幕府軍は「鉛の壁」によって敵を粉砕したが、その壁の向こうへ進むことができない。 前方の死体処理と、後方の脱輪車両の撤去に手間取っている間に、薩摩・長州の残存部隊は、煙のように伏見の市街地へと姿を消していった。
會津藩兵の佐々木源吾は、小休止の命令を受け、泥の上に座り込んでいた。 彼は背嚢からビスケットを取り出し泥のついた手で口に運んだ。味はしなかった。口の中がジャリジャリと鳴る。彼の視線の先には、ガトリング砲の銃身が、まだ熱を帯びて陽炎を揺らめかせているのが見えた。
「ひでぇもんだな」
隣に座った同僚が、震える声で言った。
「あんな殺し方、侍のやることじゃねぇよ。俺たちは、何のために剣術を稽古してきたんだ?」
源吾はビスケットを飲み下し、愛用のスナイドル銃の遊底を撫でた。冷たく、精密で、そして無慈悲な鉄の感触。
「時代が変わったんだよ」
源吾は呟いた。
「蒸気の時代がもってきたのは、学問や便利な機械だけじゃねぇ。『効率よく人を殺すための算盤』も一緒に持ってきやがったんだ」
空からは再び冷たい雨が落ちてきた。その雨は街道の血を洗い流すことはできず、ただ泥沼をより深く、より冷たくしていくだけであった。 物理法則による圧倒的な勝利。しかし、それは兵士たちの心に、敗北感にも似た深く暗い影を落としていた。
(第3部 第21話 完)
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