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第20話 戊辰戦争開戦 - 臨界点の夕暮れ

 慶應四年(一八六八年)一月三日

 京都盆地の南端 鳥羽街道の要衝・小枝橋こえだばし


 この日の夕暮れは、まるで天が誤って大量の赤インクをこぼしてしまったかのように、不吉なほど鮮やかな茜色に染まっていた。その血色の空の下、歴史という名の巨大な振り子が、静止状態から運動エネルギーへと変換される、まさにその臨界点クリティカル・ポイントを迎えようとしていた。


 街道を埋め尽くしているのは、大坂城から丸一日以上を費やして、泥濘ぬかるみの行軍を続けてきた旧幕府軍の先鋒部隊である。


 大目付・滝川具挙たきがわともあき率いる幕府歩兵隊、そして會津藩、桑名藩の精鋭たち。その数、およそ五〇〇〇(後続を含めれば一万五〇〇)


 彼らは「近代」という重荷を背負いすぎた巨人であった。ウールの軍服は、泥と汗を吸って重く垂れ下がり、背中の防水背嚢バックパックは、鉛の塊のように兵士たちの肩に食い込んでいた。彼らの表情には、出陣時の誇らしげなエリート意識は消え失せ、あるのは疲労と、得体の知れない「見えない敵」への苛立ちだけであった。


 対するは、小枝橋の北側に陣取る薩摩藩兵。その数、わずか八〇〇(伏見方面を含めても五〇〇〇に満たない)


 彼らの姿は、近代的な軍隊というよりは、土と草に同化したゲリラの群れであった。ボロボロの木綿着にみのをまとい、手にするのは錆の浮いたエンフィールド銃や、旧式のミニエー銃。しかし、彼らには「軽さ」という武器があった。失うべき資産も、守るべき体面も、重たい缶詰もない。あるのは、眼前の「太った豚」を屠殺し、その肉を食らって生き延びようとする、純粋な殺意だけであった。


          ◆


 午後四時半


 滝川具挙は、馬上で焦燥しきっていた。彼の眼前には、薩摩軍が築いたバリケード - 米俵や酒樽、そして近隣の民家から剥ぎ取った雨戸を積み上げた、見るからに粗末な障害物 - が、街道を完全に封鎖していた。


 だが、滝川を最も不安にさせていたのは、そのバリケードそのものではなく、左右に広がる鬱蒼とした竹藪から漂ってくる、冷ややかな気配であった。


「おい、大砲はまだか! アームストロング砲を前に出せ!」


 滝川は、後方の伝令に向かって怒鳴った。近代戦術の教本マニュアルによれば、敵の防衛線を突破する際は、まず砲撃によって障害物を破砕し、敵の戦意をくじくのが定石セオリーである。しかし、伝令は泥まみれの顔で首を横に振った。


「ダメです、奉行! 後続の砲車隊は、五町(約五五〇メートル)後方のぬかるみで脱輪し、立ち往生しております! 歩兵の列が詰まりすぎて、追い越すことも、下がることもできません!」


「ええい、役立たずどもめ! ゴムタイヤは泥道でも走れると聞いていたが、詐欺か!」


 滝川は毒づいたが、それは技術のせいではなかった。ゴムタイヤは確かに高性能だったが、それを運用する日本の道路インフラが、重量二トンを超える近代兵器の通行を想定していなかっただけだ。皮肉なことに、幕府軍の圧倒的な物量は、狭い一本道において自らを締め上げる「動脈硬化」の原因となっていたのである。


 滝川は舌打ちをし、意を決して馬を進めた。  砲撃支援がない以上、まずは「政治的圧力」で道をこじ開けるしかない。彼は、法と治安を守る自分たちが「官軍」であり、相手が「賊軍」であるという法的優位性を信じていた。


「そこにおるのは、薩摩の椎原しいはら殿とお見受けする!」


 滝川は、バリケードの向こうに立つ男に向かって大声を張り上げた。薩摩藩小隊長、椎原小弥太しいはら こやた。西郷隆盛の腹心であり、野太い骨格をした実戦叩き上げの男である。


 彼は、手にした元込め式のスナイドル銃(薩摩軍では数少ない虎の子の最新銃だ)をだらりと下げ、無言で滝川を見返していた。


「我らは、朝廷への請願のために入京するものである!  将軍家の行列を阻むとは、何の権限あってのことか!  直ちに障害を撤去し、道を開けよ!  さもなくば実力で排除する!」


 滝川の言葉は、徳川として、治安を守る政権側の言としては正しかった。だが、椎原の返答は平時の論理ではなく、戦場の論理であった。


「ならん」


 椎原の声は低く、しかしよく通った。


禁中きんちゅうからは『許可なき入京はまかりならん』との仰せじゃ。おはんらが何万おろうと、ここを通すわけにはいかん」


「勅命だと?  馬鹿な! そのような命令、我らは聞いておらん! 貴様らが勝手に捏造したものであろう!」


「捏造かどうかは、通ってみれば分かること。帰りたければ、来た道を戻るがよか。進みたければ、その命、ここに置いていけ」


 椎原は、ニヤリと笑った。その笑顔は、滝川の背筋を凍らせた。彼は本気だ。貧しい身なりの、田舎侍の集団に見えるが、彼らは「撃つ」気だ。こちらの数(一万五千)を見ても怯まないどころか、まるで大量の獲物が向こうから歩いてきたことを喜ぶ猟師のような目をしている。


          ◆


 その頃、竹藪の中。薩摩の兵、伊集院は、竹の節に銃身を預け、息を殺していた。彼の手にあるのは、旧式のエンフィールド銃である。  有効射程は短いが、このわずか20間(約三六メートル)ほどの距離ならば、外すことはない。


 彼の視界の中には、路上に密集して立ち往生している幕府歩兵隊の姿があった。彼らは整列しすぎている。フランス式教練の悪癖で、彼らは「密集すること」で規律を保とうとしていた。だが、それは遊撃戦においてはマトを大きくすることと同義であった。


(馬鹿な連中じゃ。一列に並んで、まるで祭りか何かと勘違いしちょる)


 伊集院は、銃口を微修正した。狙うのは兵士ではない。滝川が乗っている馬でもない。先頭集団の少し後ろ、大砲を牽引しようともがいている砲兵隊の弾薬箱カエッソンだ。


(一発でよか。あそこば撃てば、連鎖チェーンする)


 隣に潜む若兵士が、震える声で囁いた。  


「伊集院さぁ。まだ撃たんのですか。手が震えて」


「待て。まだ日が落ちきっとらん。奴らの目が夕闇に慣れず、一番不安になる時を狙うんじゃ。 恐れこそが、最強の弾丸じゃからな」


 伊集院は、懐から取り出した戦利品の南山製の安葉巻の端を噛み切った。


          ◆


 午後五時


 日は完全に西山に沈み、街道は急速に群青色の闇に包まれ始めていた。滝川と椎原の問答は、すでに一時間を超えていた。「通せ」「通さぬ」の水掛け論は、双方の兵士の神経を極限まで摩耗させていた。


 後方の會津藩兵の中に、異変を感じ取った者がいた。佐々木源吾である。彼は、會津の山中で熊撃ちをしていた経験から、野生の勘が鋭かった。


「おい、何かおかしいぞ」


 源吾は、隣の兵士に耳打ちした。


「竹藪の鳥が、鳴き止んだ。それに、風に乗って、妙な匂いがする」


「匂い?」


「ああ。火打石の匂いと、…獣の脂の匂いだ」


 それは、薩摩兵たちが銃の手入れに使う鯨油の匂いであり、彼らが発する殺気のフェロモンであった。  源吾は、背負っていた重い背嚢のベルトを、こっそりと緩めた。いざという時、この三〇キロの「幕軍の富」を捨てて走れるように。


 前方では、滝川の忍耐がついに限界に達しようとしていた。彼は、懐中時計を取り出し、時刻を確認した。このまま夜になれば、夜襲の危険性が高まる。これ以上の遅延は許されない。彼は、近代国家の将校として、もっとも合理的と思われる決断を下した。すなわち、強行突破である。


「警告の時間は終わった!」


 滝川は、右手を高く掲げた。


「全軍、着剣! 前方の障害物を排除し、宿営地である伏見へ向かう! 抵抗する者は、容赦なく斬り捨てよ!」


 ジャリッ。数千の兵士が一斉に着剣する音が、金属的なさざ波となって街道を走った。その音は、もはや交渉の余地がないことを告げる死のファンファーレであった。


 椎原小弥太は、それを見て、ゆっくりと頷いた。彼は背後の闇に向かって、指笛を一つ、高く鳴らした。


 ヒュウッ——


          ◆


 同時刻 大坂城


 天守閣の執務室では、徳川慶喜が、窓の外の暗闇を見つめていた。部屋には暖炉が焚かれ、南山炭がパチパチと爆ぜる音が響いているが、慶喜の心は冷え切っていた。


「まだか。入京の知らせは、まだ届かんのか」


 傍らの小栗上野介が、モールス電信機の傍らで首を横に振った。


「通信、途絶しております。伏見近郊の電信線が、何者かによって切断された模様です」


「切断?」


 慶喜の眉が跳ね上がった。電信線の切断。それは突発的な事故ではない。計画的な戦闘行為の開始を意味する。


「西郷め。やりおったか」


 慶喜は、手にしていたブランデーグラスをテーブルに置いた。彼は計算していた。こちらの圧倒的な軍事力を見せつければ、薩摩は恫喝に屈し、道を空けるはずだと。それが合理的な判断だからだ。だが、彼は計算式の中に、絶望した人間の狂気という変数を入れ忘れていたのかもしれない。


「上様。軍艦奉行(勝海舟)殿より伝言です」


 小栗が、一枚のメモを差し出した。


『ゲンバ ハッカテン コユ カヤクコナイ マッチ ムヨウ (現場の空気は、発火点を超えております。火薬庫の中で、マッチを擦るような真似はさせない方がよろしいかと)』


 慶喜は苦笑した。  


「遅いよ、勝。マッチは、もう擦られてしまったようだ」


          ◆


 鳥羽街道。滝川具挙が「進め!」と叫び、馬の腹を蹴った、その瞬間であった。


 薩摩軍の陣地奥深く。一門の四斤山砲よんきんさんぽうの傍らで、砲手が導火線に火種を押し付けた。シュッ、という短い燃焼音。それは、江戸時代という長い歴史の導火線が燃え尽きる音でもあった。


 竹藪の中の伊集院もまた、引き金を絞った。標的は、密集する幕府軍の中央、弾薬を積んだ荷馬車。


「地獄へ落ちやがれ、金持ちの豚ども」


 ズドン!


 夕闇を引き裂く轟音が、京の南の空気を震わせた。同時に幕府軍の隊列の中で、紅蓮の炎が膨れ上がった。高性能火薬が誘爆し、兵士たちの悲鳴と吹き飛ぶ肉片、そして飛び散るコンビーフの缶詰が、スローモーションのように宙を舞う。


「撃ってきた! 奴ら、撃ってきやがった!」


「伏せろ! 側面だ! 竹藪から撃ってくるぞ!」


 パニックに陥る幕府軍。密集隊形があだとなり、一発の銃弾が複数の兵士を貫通する。「見えない敵」からの十字砲火クロスファイアが、漆黒の軍服を着たエリートたちを、次々と泥人形に変えていく。


 滝川具挙は、落馬しながら、信じられないものを見る目で叫んだ。


「馬鹿な! 我々は官軍だぞ!なぜ、賊軍ごときが正規軍に弓を弾くのだ!」


 彼の叫びは、次の砲声によって掻き消された。


 戊辰戦争。それは、法と経済の論理が、情念と暴力の論理に、物理的に挑戦された瞬間から始まった。  そして、その最初の夜は、富を持つ者が持たざる者の牙によって、喉笛を食いちぎられる残酷な悪夢として幕を開けたのである。




(第3部 第20話 完)

最後までお付き合いいただき感謝します。

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