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第19話 飽食と泥濘の行軍

 慶應四年(一八六八年)一月二日


 大坂城の大手門から吐き出されたのは、東洋の歴史上、未だかつて誰も目にしたことのない奇妙で壮大な怪物であった。


 それは、全長二里(約八キロメートル)にも及ぶ、黒と鋼鉄でできた巨大な蛇であった。徳川軍主力、総勢一万五千。陸軍奉行・竹中重固と大目付・滝川具挙に率いられたこの軍団は、朝日の下で眩いばかりの輝きを放っていた。


 金モールで飾られた将校たちの軍帽、磨き上げられた革ブーツ、そして何よりも、兵士一人ひとりの背中に背負われた、パンパンに膨れ上がった防水背嚢バックパック


 そこには、彼らが「勝利」を確信する根拠、すなわち、圧倒的な「富」が詰め込まれていた。


 大坂城のバルコニーからこの行軍を見送る徳川慶喜は、満足げに頷き、傍らの勝海舟にこう漏らしたという。


「見ろ、勝。あれが近代の重量感だ。精神論で武装した薩摩の野蛮人どもには、あの重みが理解できまい」


 慶喜の言葉は正しかった。だが、歴史の女神クリオは、時として残酷な冗談を好む。彼女は、この「近代の重量感」こそが、数時間後に彼らを地獄の泥沼へと引きずり込むいかりとなることを、まだ誰にも教えていなかったのである。


          ◆


 午前一〇時


 大坂の市街地を抜け、京へと続く鳥羽街道に入った途端、その華麗なるパレードは、見るも無残な「渋滞」へと変貌した。


 原因は単純であった。道が、あまりにも狭すぎたのである。江戸時代の街道は、参勤交代の大名行列や、飛脚が走ることを想定して作られている。ここ一〇年で拡幅されていたが、道幅はせいぜい二間(約三・六メートル)から三間。


 そこへ、フランス軍事顧問団の教えを受けた「近代陸軍」が、横隊を組んで進もうとしたのだから、物理的に無理があった。


 さらに悪いことに、前夜から降り続いた冷たい雨が、舗装されていない土の道を、底なしの泥沼に変えていた。最新のゴムタイヤを装着した砲車であっても、この日本の粘土質の泥には勝てなかった。


「おい! 押せ! 何をしておるか、この穀偶でくの坊どもが!」


 砲兵隊長の怒号が、泥色の空に響き渡る。最新鋭の十二ポンド・アームストロング砲の車輪が、泥濘ぬかるみに深く沈み込み、空しく空転していた。

ゴムタイヤは、石畳の上では静粛性と快適さを提供するが、泥の中では何のグリップ力も発揮せず、ただ泥を跳ね上げるだけの黒いドーナツと化していた。


「無理でさぁ、旦那!  こいつ、重すぎまさぁ! 象でも連れてこなきゃ動きやしませんぜ!」


 人足たちが悲鳴を上げる。彼らの足元は泥にまみれ、草鞋わらじは千切れ、南山製の軍靴を履いた兵士たちも、その重さに足を滑らせて泥の中に転倒していた。


 そう、「重さ」である。この日、幕府軍の兵士たちを最も苦しめたのは、敵の銃弾ではなく、味方から支給された「過剰なほどの豊かさ」であった。


 會津藩の歩兵、佐々木源吾は、肩に食い込む背嚢のベルトを呪いながら、一歩一歩、泥の中を進んでいた。彼の背嚢の中身を検分してみよう。


 まず、南山・入安島産の牛肉を塩漬けにし、すずの缶に詰めたコンビーフ缶と、乾燥野菜とビスケットの袋を三日分。寒冷地仕様の分厚い毛布が二枚。予備の弾薬箱(六〇発入り)。着替えのシャツと靴下。さらには、携帯用の簡易テントや、個人の嗜好品である煙草や金平糖まで。総重量は三〇キログラムを超えていた。


 これは、近代的な兵站思想に基づいた標準装備であったが、それは平坦な欧州の演習場での話を前提としていた。起伏に富み、道が悪く、しかも泥濘んだ日本の街道において、これほどの荷物を背負って行軍することは、苦行以外の何物でもなかった。


「くそっ。

南山の肉は美味いが、鉛みてぇに重てぇな」


 源吾の隣を歩く同僚が、悪態をついた。


「全くだ。薩摩の連中なんざ、腰に握り飯をぶら下げてるだけだっていうのに。俺たちは、戦う前に荷物の重さで殺されちまうよ」


 皮肉なことに、貧しい薩長軍は「軽装」ゆえに機動力が高く、豊かな幕府軍は「重装備」ゆえに鈍重であった。南山の富は、彼らの胃袋を満たし、寒さから守ってくれたが、同時に彼らの機動力を奪い、巨大なマトに変えてしまったのである。


          ◆


 正午過ぎ。行列は完全に停止した。先頭の歩兵隊と、後方の砲兵隊、そして輜重しちょう部隊の間隔が詰まりすぎ、さらに道幅の狭い場所で砲車が脱輪したため、前にも後ろにも進めない「鉄の血栓」が出来上がってしまったのだ。


 陸軍奉行・竹中重固は、馬上で苛立ちを募らせていた。彼はフランス仕込みの戦術家を自認していたが、教科書マニュアルに「日本の泥道での渋滞解消法」は載っていなかった。


「ええい、滝川は何をしておる!  先鋒が進まねば、本隊がつかえてしまうではないか!」


 竹中は、伝令を怒鳴りつけた。しかし、伝令が持ち帰った報告は、竹中の血圧をさらに上昇させるものであった。


「報告! 前方の小枝橋こえだばし付近にて、薩摩勢が障害バリケードを構築し、道を塞いでおります!  現在、大目付・滝川様が退去を命じておりますが、相手は応じる気配がありません!」


「障害だと?  蹴散らせ! アームストロング砲を前に出して、吹き飛ばしてしまえ!」


「それが…」


 伝令は、言い淀みながら、泥まみれの後方を指差した。


「大砲は、今の脱輪事故で、二町(約二〇〇メートル)後方で立ち往生しております。この狭い道では、歩兵を追い越して前に出すことは不可能です」


 竹中は絶句した。最強の火力を持っているのに、それを撃つべき場所へ運べない。まるで、最高級のフルコース料理を目の前に出されながら、口を縫い付けられた餓鬼のような気分であった。


「馬鹿な。我々は一万五千だぞ。対する薩摩は数千。 なぜ、我々が泥の中で立ち尽くさねばならんのだ!」


 竹中の叫びは、虚しく空回りした。彼は気づいていなかった。近代軍隊というシステムは、巨大な歯車のようなものだ。一つでも噛み合わせが狂えば、その巨大なエネルギーは、全て内部摩擦フリクションとなって、組織を自壊させる熱に変わるのだということを。


          ◆


 一方、その頃。鳥羽街道の西側、桂川の堤防に広がる竹藪の中。冷たい雨に打たれながら、息を潜める男たちがいた。薩摩藩の斥候部隊である。


 彼らの姿は、幕府軍とは対照的であった。身に纏っているのは、継ぎ接ぎだらけの木綿の着物と、雨避けのみの。足元は泥だらけの素足に草鞋。手にしたエンフィールド銃は錆が浮き、火薬も湿り気を帯びていた。腹の中には、朝に食べた冷え切った麦飯が少し残っているだけ。彼らは「持たざる者」の極致であった。


 だが、その眼光だけは、獲物を狙う狼のように冴え渡っていた。彼らは、眼下の街道で立ち往生する「黒い大蛇」を、嘲るような目で見下ろしていた。


「見ろ、おい。徳川の兵隊どんは、遠足に来たような大荷物じゃ」


 一人の薩摩兵が、低い声で囁いた。


「背中に背負っちょる箱は、なんじゃろか?」


「南山の缶詰じゃろ。中には、極上の牛肉が詰まっちょるらしいぞ」


 その言葉に、周囲の兵士たちがゴクリと喉を鳴らした。彼らにとって、牛肉などというものは、夢の中でしか見たことのない御馳走であった。


「牛肉か。よか晩酌になりそうじゃのう」


 小隊長を務める伊集院という男が、不敵な笑みを浮かべた。彼は、懐から古い紙包みを取り出し、中に入っていた黒砂糖の欠片を口に放り込んだ。それが、彼らにとっての唯一の携帯食料レーションであった。


「ええか、おはんら。奴らは太って、動きが鈍い。図体ばかりデカくて、自分の重さで動けなくなっちょる豚じゃ。我らは、その豚の鼻先を叩いて、パニックにさせればよか。あとは、奴らが勝手に転んで、自滅しよる」


 伊集院は、銃の撃鉄ハンマーをゆっくりと起こした。カチリ、という微かな金属音が、雨音に混じる。


「狙うなら、指揮官じゃなか。馬を撃て。馬が暴れれば、あの狭い道じゃ、大混乱になる。そうすりゃ、あの立派な大砲も、ただの鉄屑じゃ」


「持たざる者」の知恵。それは、ルール無用の泥仕合において、いかに効率よく相手の弱点を突くかという、生存本能に根ざした戦術眼であった。


          ◆

 

 大坂城の慶喜は、電信機の前で、未だ届かぬ「入京完了」の報告を待っていた。


「遅い。まさか、何かあったのか?」


 それぞれの思惑が交錯する中、鳥羽街道という名の巨大な圧力釜は、限界まで内圧を高めていた。  飽食の軍隊と、飢えた狼たち。両者が激突するその瞬間まで、あと少し。


 泥濘ぬかるみの道は、まもなく、南山のコンビーフと人間の血肉が混ざり合う、巨大な挽肉機ミンサーへと変わろうとしていた。




(第3部 第19話 完)

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