第18話 討薩の表 - 開戦の決断
慶應四年(一八六八年)一月一日
新年の朝日は、大坂城の巨大な天守閣を黄金色に染め上げていたが、その光は城内に籠る人々にとって、希望の輝きというよりは、これから始まる長い一日のための冷徹な照明に過ぎなかった。
将軍・徳川慶喜の執務室である黒書院には、正月の祝い膳である雑煮の椀が手つかずのまま置かれていた。代わりに、紫檀の机の上を占領していたのは、モールス式電信機が吐き出した、長い紙テープの山であった。その紙テープには、点と線で構成された無機質な暗号によって、江戸で起きた地獄の光景が刻印されていた。
『一二月三〇日、薩摩藩邸、焼失。市中、依然として混乱極まる。長州勢による無差別テロル継続中。死傷者多数。御用金、強奪さる』
慶喜は、その紙片を指先で弄びながら、窓の外を見つめていた。
彼の横には、勘定奉行・小栗上野介忠順と、京都守護職・松平容保が控えている。三人の間には、重苦しい沈黙が横たわっていたが、それは敗北感によるものでもなければ、悲嘆によるものでもなかった。むしろ、複雑な数式がついに解け、唯一の「解」が導き出された瞬間の、凍りつくような納得感が支配していた。
松平容保は、膝の上に置いた両手に、愛用の鐵木のステッキを挟み込み、彫像のように静止していた。
その表情には、かつてのような悲壮な涙も、激情の赤色もない。あるのは不祥事を報告する監査役のような、冷ややかな怒りだけであった。
「江戸が、燃やされましたな」
容保の声は、乾燥していた。まるで、明日の天気を語るかのような平坦さであった。
「三田の薩摩屋敷だけでなく、神田、日本橋。私の、そして上様の故郷でもある江戸の町が、野蛮な放火魔たちによって蹂躙されております。
上様。ご報告申し上げます。
忍耐の『期限』が切れました」
容保は、ステッキの石突きで、コン、と床を一つ叩いた。その音は、裁判官が叩く木槌の音のように、部屋の空気を断ち切った。
「これ以上の放置は、武門の慈悲ではありません。統治者として民への背任行為と考えます。
法を犯した害獣が庭を荒らしているのなら、速やかに駆除する。それが管理人の義務でありましょう」
彼の瞳は、澄み渡っているがゆえに恐ろしかった。彼は本気で、薩長軍を「敵」としてすら見ていない。「法と秩序」を乱す、処理すべき「案件」として認識しているのだ。
小栗が、眼鏡の位置を直しながら、事務的に言葉を継いだ。二人の思考回路は、驚くほど同期していた。
「中将様の仰る通りです。感情論は抜きにしても、損害は看過できません。三井、小野組の被害総額は、概算で五〇万両。南山物産の倉庫も二棟が全焼しました。
何より深刻なのは、徳川の信用の毀損です。徳川は自らのお膝元さえ守れない、という風評が立てば、ロンドン市場での南山債の暴落を招きかねません。
上様。経営判断としても、これ以上の不作為は許されません」
法的な正義と、経済的な合理性。その双方が、今や完全に一致していた。「執行すべし」と。
慶喜は、ゆっくりと椅子を回転させ、二人に向き直った。その表情には、激怒の赤色は微塵もない。あるのは、絶対零度の蒼白さだけであった。
「西郷め。ついに押しおったか」
慶喜は、独り言のように呟いた。
「自爆装置をな」
彼は立ち上がり、壁に掛けられた日本地図の前に歩み寄った。その指が、関東平野と、そこから伸びる東海道をなぞる。
「彼らは一線を越えた。
これまで私は、彼らを政敵として扱い、交渉の余地を残してきた。だが、彼らが選んだのは、政治ではない。犯罪だ」
慶喜の声に、カミソリのような鋭利な響きが混じった。
「江戸の町を焼き、民を殺し、金を奪う。
これは内戦ではない。凶悪な武装犯罪集団に対する治安戦争である」
慶喜は、この戦争の定義を書き換えたのだ。「官軍対賊軍」という、どろどろとしたイデオロギー闘争の土俵に乗るのではない。「正規政府軍対テロリスト」という、国際法上もっとも通りが良い、ドライな構図へと強引に引きずり込んだのである。
「容保。
其の方の子飼い、會津と新選組の鎖を解いてやれ。ただし、名目は薩摩討伐ではない。君側の奸を除くための清掃活動だ。
ただし、最初の1発目は彼奴等に撃たせろ。鎖の手は其れ迄は必ず握っていろ」
容保が、ゆっくりと顔を上げた。その口元に、微かな、しかし背筋が凍るような皮肉な笑みが浮かんだ。
「清掃、でございますか。承知いたしました。
積年の埃を払うには、少々手荒な大掃除が必要かと思っておりました」
彼は立ち上がり、優雅な仕草で一礼した。
「戦ってもよいのか」などという感傷的な問いは発しない。彼は既に、どうやって効率的に「ゴミ」を処理するか、その段取りを脳内で組み立てていた。
「ご安心を。彼らが望んだ『暴力の世界』というものが、どれほど高くつくか。請求書に利子をつけて、骨の髄まで払わせてやりましょう」
慶喜は、小栗に視線を移した。
「小栗。
南山艦隊に打電せよ。
第二段階(phase2)へ移行する。
大坂湾にある全ての弾薬、糧食を陸揚げし、全軍に配給せよ。金に糸目はつけるな。戦争とは、結局のところ消費活動だ。どちらがより多くの鉛と火薬をばら撒けるか。その単純な算数で、彼らを圧倒しろ」
小栗は、ニヤリと笑った。それは、冷徹で悪魔的な笑みであった。
「承知いたしました。
徳川の生産能力が、薩長の精神論を粉砕する様、とくとご覧に入れましょう」
慶喜は再び窓の外を見た。
冬の空は高く、澄み渡っている。
だが、その静寂は、もはや平和の象徴ではなかった。それは、巨大な嵐が来る直前の、真空のような静けさであった。
容保は、足音を立てずに退室した。
廊下に出た彼は、待機していた近藤勇と土方歳三に向かって、短く、しかし重く告げた。
「仕事だ。
害虫駆除の許可が下りた。
蟲どもが一発撃つまでは待機。
その後は手加減は無用。厳粛に徹底的に処理せよ」
その命令は、熱狂的な檄文よりも遥かに冷たく、そして確実に、新選組という名の猛獣を解き放った。
◆
翌一月二日 大坂湾・天保山沖そこには、
一九世紀後半の東洋においては信じがたいほどの「物量」が集結していた。
南山から到着したばかりの巨大な輸送船団が、黒い煙を吐きながら停泊している。桟橋では横須賀工廠で試作されたばかりの蒸気揚重機が唸りを上げ、次々と木箱を陸揚げしていく。
木箱の側面には、焼印が押されている。
『NANZAN ARSENAL(南山工廠)』
『CORNED BEEF(塩漬け牛肉)』
『MEDICAL SUPPLIES(医薬品)』
桟橋で指揮を執っているのは、軍艦奉行・勝海舟であった。彼は、強風に煽られるトンビコートの裾を押さえながら、その光景を満足げに眺めていた。
「へっ、たまげたもんだ。 これだけの荷物を、たった半日で揚げちまうとはな」
勝の傍らには、南山物産の店員たちが、チェックリスト片手に走り回っている。彼らの手際は洗練されており、荷物は滞ることなく、待機していた荷馬車隊へと積み込まれていく。その荷馬車の車輪には、天然ゴムを加硫し炭で着色したゴムタイヤが装着されており、石畳の上を滑るように、かつ静かに進んでいく。
「勝先生。弾薬の補給、完了しました。 スナイドル銃用実包五〇万発。スペンサー銃用実包三〇万発、アームストロング砲弾五〇〇〇発 …これだけで、薩軍全軍を三回は全滅させられます」
報告に来たのは、南山から派遣された兵站将校であった。勝は、葉巻の煙を吐き出しながら、苦笑した。
「締めて銃弾八〇万発か。 西郷のところは、エンフィールド銃の弾を作る鉛にも事欠いてるってのにな。可哀想に。これじゃあ喧嘩にならねぇな」
勝は、水平線の彼方を見つめた。そこには、まだ見ぬ共和国「南山」—があるはずだ。
かつて、西郷と共に夢見た「新しい日本」の姿。
だが、皮肉なことに、その夢を実現するための力(南山の富)が、今まさに西郷を殺すための凶器として陸揚げされている。
「西郷よ、お前が始めた火遊びだ。 火消しの手際が良すぎて、火傷じゃ済まねぇかもしれんが、恨みっこなしだぜ」
勝は、足元の三毛猫を抱き上げると、その背中を乱暴に撫でた。猫は「ニャア」と一声鳴き、主人の腕の中で丸くなった。巨大な殺戮機械が稼働する中で、そこだけが唯一、体温のある場所であった。
◆
大坂城・大広間
そこには、出陣を控えた旧幕府軍の指揮官たちが整列していた。 陸軍奉行・竹中重固、大目付・滝川具挙、そして新選組の土方歳三らの姿もある。
彼らの軍装は、フランス式、プロシャ式、そして南山式が混在する奇妙なものであったが、共通しているのは、圧倒的な「自信」と、みなぎる「殺気」であった。
正面の演台に、徳川慶喜が立った。彼は、金モールで飾られた大礼服に身を包み、腰には名刀ではなく、南山製のサーベルを吊っている。その手には、一枚の書状が握られていた。彼が自ら筆を執り、推敲を重ねた宣戦布告書「討薩の表」である。
「皆、聞け」
慶喜の声は、広間の隅々まで届くほど朗々としていたが、そこには芝居がかった熱狂はなかった。あるのは、判決文を読み上げる裁判官のような、冷厳な響きであった。
「薩摩の暴挙は、もはや看過し難い。 彼らは帝を擁し、偽りの勅命を弄び、江戸の民を焼き殺し、国家の法を破壊した。これは、万国公法にもとる海賊の所業であり、文明国として断じて許されざるテロルである」
慶喜は、書状を高々と掲げた。
「よって、私は決断した。 これより軍を率いて入京し、朝廷にはびこる君側の奸、薩摩藩の暴徒どもを排除する。これは私利私欲によれ私闘ではない。私心の無い公戦である。我々の目的は、破壊ではない。秩序の回復である」
オオオオオオッ!
広間を揺るがす喚声が上がった。それは、溜まりに溜まった鬱屈が解放された瞬間の、獣の咆哮にも似ていた。
「行け! 正義と、そして南山の鋼鐡が、其の方らと共にある!」
慶喜がサーベルを抜き放ち、天井を指し示すと、呼応して数千の剣と銃が掲げられた。その光景は、東洋の島国における出来事というよりは、ナポレオン時代の欧州の軍隊を彷彿とさせた。
その夜。慶喜は、書斎で外交団に向けた書簡をしたためていた。
英国公使パークス、フランス公使ロッシュ、米国公使ファルケンバーグ。彼らに対し、今回の出兵が「正当な治安維持活動」であることを説明し、局外中立を約束させるための、周到な外交文書である。
『我が軍は、国際法を遵守し、非戦闘員への被害を最小限に留める所存である。諸外国におかれては、私戦集団への支援を行わぬよう、強く要請する…』
ペンを置き、慶喜は窓の外を見た。 大坂の街は、出陣する兵士たちの松明で、光の川のように輝いていた。その光の先には、闇に沈む京都がある。
「賽は投げられた」
慶喜は、冷めた紅茶を一口啜った。
「西郷。お前が望んだ『戦』だ。せいぜい、美しく散ってくれ。お前の死体は、新しい日本株式会社の礎として、有効に使ってやるからな」
慶應四年一月二日
旧幕府軍一万五千は、鳥羽街道と伏見街道の二手に分かれ、京都へ向けて進軍を開始した。その隊列は、最新鋭の大砲と、尽きることのない弾薬、そして「法と秩序」という名目の冷たい正義を背負い、巨大な鉄の蛇となって北上していった。
対する薩長軍は、わずか五千。装備は劣り、食料も乏しい。だが、彼らには「失うものがない」という強さと、西郷隆盛というカリスマがいた。
近代日本史上、最初で最後の「南北戦争(シビル・ウォー」である戊辰戦争、その火蓋が切られるまで、あと一日。歴史の歯車は、軋みを上げながら、後戻りできない領域へと回転を始めていた。
(第3部 第18話 完)
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