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第17話 江戸を焼くテロル

 大坂城の天守閣がアーク灯によって文明の光を放ち、徳川慶喜が外交団に極上のローストビーフを振る舞っていた、その二日後 北へ百里離れた京都の片隅、冷たい雨の降りしきる薩摩藩邸の密室において、一人の男が、絶望と狂気の境界線ボーダーラインを跨ぎ越えようとしていた。


       ◆


 一二月ニ六日 京都・二条城


 大坂城の狂乱的な明るさとは対照的に、古都は漆黒の闇と、凍てつく静寂に包まれていた。二条城を占拠した新政府軍の本営。焚き火の薪すら不足し、兵士たちは寒さに震えながら、薄い粥を啜っていた。


 その一室で、西郷と大久保は、行灯あんどんの頼りない光の下、無言で向かい合っていた。彼らの膳に載っているのは、冷え切った握り飯と、具のない味噌汁、そして数切れの沢庵たくあんのみ。数日前、御所でのクーデターを成功させ、天下を握ったはずの勝者の食卓としては、あまりにも惨めであった。


 かつて「大西郷」と呼ばれ、敬天愛人を説いたこの巨人は、今や飢えた野獣のように痩せ細り、その双眸には、理性的な政治家の光ではなく、追い詰められた賭博師の暗い炎が宿っていた。  


 そして、彼らの元に大坂に潜入させていた密偵・中村半次郎からもたらされた、絶望的な報告書が届いた。


 『大坂城、南山の物資にて溢れかえる。外交団、徳川の富力に心酔せり。我ら薩長への融資、絶望的』


 西郷は、その紙片を握りつぶした。クシャリ、という乾いた音が、静寂を破る。それは、彼の中で何かが決定的に壊れる音でもあった。


 西郷は箸を止めたまま、能面のような表情で虚空を見つめた。彼の脳裏には、大坂城で談笑する慶喜の、あの薄ら笑いを浮かべた顔が焼き付いていた。


「慶喜め。戦わずして、我らを干殺しにするつもりか。飼い殺しじゃ。我らを檻に入れたまま、餌を与えず、共食いをさせようとしておる」


 どす黒い殺気が立ち上った。それは「ルサンチマン(怨嗟)」などという生易しいものではない。生存本能に根ざした、根源的な憎悪であった。  


「なぜ、奴らだけが持っているのか」  

「なぜ、我々は持たざる者なのか」  


 その格差への怒りが、理性を焼き尽くしていく。


 西郷は、ゆっくりと顔を上げた。その眼窩は深く窪み、頬は削げ落ちていたが、瞳の奥には、地獄の業火のような光が宿っていた。彼は冷えた握り飯を鷲掴みにし、口の中へ押し込んだ。咀嚼する音が骨を砕く音のように響く。


益満ますみつ。おるか」


 西郷の声は、地底のマグマが岩盤を押し上げるような、低く、重い響きを帯びていた。襖の向こうから、薩摩藩士・益満休之助が音もなく姿を現し、平伏した。彼の背中からは、雨と泥の匂いが立ち上っている。


「…は。ここに」


相楽さがらたちに伝えぇ。そして、江戸の長州屋敷に潜んでおる、桂(木戸孝允)の飼い犬どもにもな」


 西郷は、虚空を睨みつけたまま、呪詛のように言葉を吐き出した。


「一番高いまきに火を点けろとな」


 益満が、一瞬だけ顔を上げた。その目には、主君の正気を疑うような色が浮かんでいた。  


「一番高い薪」それは隠語である。


 将軍のお膝元、江戸市中での無差別テロルを意味する、禁断の暗号コードであった。


大久保が縋るような口調で呟いた。


「…吉之助さぁ。それは…」


「分かっておる。外道の所業じゃ」


 西郷は、自嘲気味に口元を歪めた。


「じゃっどん、このままでは我らは干上がる。慶喜は、真綿で首を絞めるように、じわじわと薩摩を殺しに来ておる。戦にならねば、死ぬのじゃ。奴を本気にさせるには、奴の庭(江戸)を焼き払い、その矜持を土足で踏みにじるしかなから」


 西郷は立ち上がり、雨戸の隙間から、北の夜空を見上げた。そこには、何の希望もない漆黒の闇が広がっているだけだった。


「江戸には、長州の狂犬どもが五〇〇匹は潜んでおるはずじゃ。奴らは飢えておる。徳川への怨みと嫉妬で、腹を空かせておる。

…鎖を解いてやれ。放火、強盗、辻斬り…何でもよか。江戸の町を、地獄の釜茹でにしてやれ」


 それは、政治的指導者が発する言葉ではなかった。近代国家への脱皮を夢見ながら、その夢に裏切られた男が、世界そのものを道連れにしようとする、破滅的なテロリズムの宣言であった。


          ◆


 慶應三年一二月中旬 江戸


 将軍不在のこの巨大都市は、奇妙な熱病に冒されていた。  表向きは、年末の市が立ち、正月飾りの準備に追われる平和な日常が続いていた。しかし、その裏路地では輸入された安酒ラムを煽り、目を血走らせた浪人たちが、夜な夜な徘徊していたのである。


 彼らの多くは、薩摩藩邸に集められた「浪士隊」と称するゴロツキたちであったが、その中核を担い、最も凶暴な牙を剥いていたのは、長州藩の潜伏部隊であった。彼らは「禁門の変」以来、朝敵として追われ、日陰の生活を強いられてきた。その鬱屈したエネルギーは、徳川への憎悪と、南山の富に対するルサンチマン(怨嗟)となって、臨界点に達していたのだ。


 そして、西郷が押した「ボタン」からの信号が届いた時、江戸は煉獄へと変貌した。



       ◆


一二月ニ七日 午後八時


 日本橋、小野組おのぐみの為替店。ここは、南山金銀発行処の江戸代理店として、南山銀貨と幕府の金貨を交換する両替商であり、江戸経済の心臓部の一つであった。 その堅牢な大戸が、黒色火薬の爆発音と共に吹き飛ばされた。


天誅てんちゅう!」


 叫び声と共に雪崩れ込んできたのは、黒覆面をした数十人の男たちであった。彼らは手にした斧や鉈で、ガラスの展示箱を粉々に砕き、カウンターを破壊した。店員たちが悲鳴を上げて逃げ惑う中、男たちは金庫をこじ開け、中に眠っていた南山銀貨・徳川小判の山を麻袋へと詰め込んでいく。


「汚れた金じゃ! 神国を売り渡す、悪魔の銭じゃ!」


 リーダー格の長州浪人が、銀貨を床にぶちまけ、それを草鞋で踏みつけながら叫んだ。だが、彼らの目は、その「悪魔の銭」を貪欲に求めていた。イデオロギーは強盗の正当化に過ぎない。彼らが本当に欲しかったのは、自分たちを拒絶した「富」そのものであった。


 騒ぎを聞きつけて駆けつけた町役人が、震える声で制止しようとした。  


「お、お侍様! 乱暴はよしなせえ! ここはお上(幕府)の許可を受けた店で」


「うるさい!」


 一閃。  


 役人の首が、胴体から離れ、敷石の上に転がった。鮮血が、散らばった銀貨を赤く染める。


「我らは官軍じゃ! 徳川に味方する者は、皆殺しじゃ!」


 その夜を境に、江戸の治安は崩壊した。三井、鴻池といった豪商の屋敷が次々と襲われ、南山物産の倉庫からは羊毛や綿花が運び出され、路上で燃やされた。


 炎の明かりに照らされた男たちの顔は、革命家というよりは、文明そのものを憎む蛮族バーバリアンのようであった。


          ◆


 この狂乱の嵐は、赤坂にある軍艦奉行・勝海舟の留守宅にも及んだ。勝は慶喜と共に大坂におり、屋敷を守っていたのは、妻の民子たみこと、数人の奉公人だけであった。


 「奥様! 暴徒です! 薩摩の浪人たちが、門を破ろうとしております!」


 書生が顔面蒼白で駆け込んできた時、民子は鏡台の前で、髪を結い直しているところであった。彼女は、夫・海舟に勝るとも劣らぬ胆力の持ち主であり、かつて深川の芸者として鳴らした気風きっぷの良さは、いささかも衰えていなかった。


「おやおや。麟太郎(海舟)がいない時に限って、客人が多いこと」


 民子は、引き出しから一丁の拳銃を取り出した。


 夫が南山・明望への視察土産に持ち帰った、小型の護身用拳銃である。象牙のグリップには、愛らしい鈴蘭の彫刻が施されているが、装填されているのは三八口径の実弾である。


「開けておやり。私が挨拶します」


 民子は、玄関の式台に立ち、押し入ってきた十数人の浪人たちを睥睨へいげいした。先頭に立つのは、髭面の巨漢。薩摩訛りのある男だった。


「勝の女房か。亭主はどこじゃ。徳川の犬め、天誅を加えてやる!」


「あいにくと、主人は大坂へ出張中でございましてね。それに、犬、犬と仰いますが、うちの人は猫派ですのよ」


 民子の軽口に、浪人たちは色めき立った。  


「減らず口を! 女だと思って手加減すると思うなよ!」


 男が刀を振り上げた瞬間、乾いた銃声が響いた。


 バァン!


 男の足元の床板が弾け飛び、木片が彼のすねに突き刺さる。


 「ひいっ!」


 男は情けない悲鳴を上げて飛び退いた。民子の手には、硝煙を上げる拳銃が握られていた。その銃口は微動だにせず、男の眉間を狙っている。


「次は、その汚いお口を狙いますよ。この銃はね、南山の奥様方が、暴れる旦那を躾けるために使うそうですの。あなた方も、少し躾が必要なんじゃありませんこと?」


 民子の背後には、勝家の書生たちが、庭掃除用の竹箒や木刀を構えて並んでいた。浪人たちは、たじろいだ。彼らは弱い者いじめには慣れていたが、真に腹の座った人間、たとえそれが女であっても、と対峙する勇気は持ち合わせていなかったのだ。


「ち、血迷うたか! 覚えておれ!」


 捨て台詞を残し、浪人たちは逃げ去った。民子は、彼らの背中が見えなくなるのを見届けてから、大きく溜息をついた。


「まったく。麟太郎ときたら、こんな物騒なオモチャを置いていくなんて。でも、お陰で助かりましたわね」


 彼女は微笑んだが、その手は微かに震えていた。江戸の空気が、もはや以前のものとは違ってしまっていることを、彼女の肌感覚が敏感に察知していたからである。


          ◆


 だが、個人の勇気で防げる限界は、とうに超えていた。連日の破壊活動に、江戸市中の怒りは頂点に達していた。特に、江戸市中取締役を命じられていた庄内藩の兵士たちの激昂は、筆舌に尽くし難いものがあった。彼らは東北の雄藩であり、徳川への忠誠心はことのほか厚い。彼らにとって、将軍のお膝元を荒らされることは、自らの庭を土足で踏みにじられるに等しい屈辱であった。


 一二月二九日 江戸城・二の丸


老中・稲葉正邦いなばまさくにの元に、庄内藩士たちが詰め寄っていた。


「老中! もう我慢なりませぬ!  昨夜も、神田の米問屋が焼き討ちにあい、一家五人が惨殺されました!  

下手人が薩摩屋敷に逃げ込むのを、我らはこの目で見届けたのです! なのに、まだ手を出してはならぬと仰るか!」


 稲葉は苦渋の表情で腕組みをしていた。大坂の慶喜からは「挑発に乗るな」という厳命が届いている。しかし、目の前の現実は、政治的配慮など吹き飛ばすほどの惨状であった。


「薩摩屋敷は、治外法権ではない。犯罪者の巣窟を放置すれば、幕府の威信に関わる。

やむを得ん。

ただし、目的はあくまで『犯人の引き渡し要求』だ。向こうが撃ってこない限り、こちらから発砲してはならんぞ」


 それは、実質的な攻撃許可であった。

 庄内藩兵一〇〇〇、上山藩兵五〇〇、さらに旧幕府歩兵隊を加えた混成部隊が、三田の薩摩藩邸へ向けて進軍を開始した。


          ◆


 一二月三〇日


 薩摩藩邸を取り囲んだ庄内藩兵は、最後通牒を突きつけた。  


「強盗、放火の下手人を引き渡せ」


 返答は、藩邸内からの銃撃であった。薩摩の浪士たちは、西郷の指令通り、徹底抗戦を選んだのである。


「撃てッ! 一匹残らず殲滅せよッ!」


 庄内藩の指揮官が叫ぶと同時に、四方に配置されたアームストロング砲が火を噴いた。  


 ドォォォン!


 轟音と共に、薩摩藩邸の堅牢な長屋門が粉々に吹き飛ぶ。着弾した榴弾シェルが炸裂し、屋敷内に火柱が上がる。それは、一方的な虐殺であった。数に勝り、火力に勝る幕府側の攻撃の前に、浪士たちは為す術もなく逃げ惑った。


 屋敷から飛び出してきた長州浪人が、燃え盛る着物を纏ったまま、庄内兵の銃剣の錆となる。


「恨むなら、西郷を恨め」


庄内兵は冷徹に呟き、トドメを刺した。


 炎は瞬く間に燃え広がり、冬の乾燥した風に煽られて、三田の空を赤々と焦がした。黒い煙が龍のように舞い上がり、江戸の空を覆い尽くしていく。


 その光景は、二百五〇年続いた「徳川の平和パックス・トクガワーナ」が、音を立てて崩れ落ちる様を象徴していた。


          ◆


 江戸城・大奥


 御殿の縁側から、立ち上る黒煙を見つめる二人の女性がいた。 静寛院宮(和宮)と、天璋院(篤姫)である。かつて朝廷と幕府、そして薩摩と徳川を結ぶ「架け橋」として嫁いできた二人の高貴な女性。彼女たちの目の前で、その架け橋は今、物理的に焼け落ちようとしていた。


「燃えておりますね」


 天璋院が、扇子で口元を隠しながら、静かに言った。その声には、故郷・薩摩への愛憎入り混じった複雑な響きがあった。


「あれは、私の実家サツマが焚いた火です。  西郷がここまでするとは」


 和宮は、悲しげに目を伏せた。


「徳川と島津が、殺し合うのですか。慶喜殿は、戦を避けるために大坂へ行かれたというのに。人のごうというものは、なんと深く、そして愚かなのでしょう」


 二人は無言のまま、揺らめく炎を見つめ続けた。  その炎の向こうに、彼女たちは見ていたのだろう。  これから始まる内戦によって流される、数多の若者たちの血を。そして、灰の中から生まれようとしている、鉄と血によって築かれる、新しい、しかし冷酷な時代の到来を。


 西郷隆盛が押したボタンは、確かに作動した。江戸を焼く炎の熱は、電信線よりも速く、大坂にいる慶喜の元へと届くであろう。そして、その時こそ、近代日本史上最大の内戦、戊辰戦争の幕が切って落とされるのである。




(第3部 第17話 完)

最後までお付き合いいただき感謝します。

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