第16話 大阪城のクリスマス
慶應三年(一八六七年)一二月二四日
大坂城・本丸御殿
もし、歴史というものが、神の手によって書かれた戯曲であるならば、慶應三年(一八六七年)のクリスマス・イブに大坂城で演じられた一幕ほど、皮肉と残酷さに満ちた喜劇はなかったであろう。
かつて太閤・豊臣秀吉が築き、徳川が再建したこの東洋最大の要塞は、今宵、奇怪な変貌を遂げていた。
天守閣の最上階には、横濱の製造所から運ばれた最新鋭のアーク灯が据え付けられ、その青白く強烈な光柱が、漆黒の浪速の夜空を切り裂いていたからである。それはまるで、南極の深海に沈んだ古代都市が、突如として海面に浮上し、その燐光で周囲の闇を威圧しているかのようであった。
城の大広間。そこはもはや、畳と障子の日本建築ではなかった。床には南山産の分厚い羊毛絨毯が敷き詰められ、壁には真紅のベルベットが垂れ下がり、天井からは無数の蝋燭とガス灯がシャンデリアとなって輝いている。
漂っているのは、線香や茶の香りではない。脂の乗った牛肉が炭火で炙られる芳醇な香りと、ボルドーワインの重厚な香り、そして高価な香水の匂い。
それは、「富」という怪物が吐き出す、甘美で暴力的な息吹であった。
「クリスマス・パーティー(降誕祭祝賀会)」
キリスト教がいまだ禁教の余韻を残すこの国において、将軍・徳川慶喜が主催したこの前代未聞の夜会は、単なる余興ではなかった。これは、武器を使わない戦争であり、フルコースの料理による爆撃であった。
◆
「驚きましたな、将軍。まさか極東の城塞で、これほど見事なローストビーフにありつけるとは」
英国公使、サー・ハリー・パークスは、皿の上の肉塊をナイフで切り分けながら、感嘆の声を上げた。
彼の皿に載っているのは、冷蔵船によって南山・入安島から運ばれた、特上のサーロインである。その断面は、薔薇の花びらのような美しいピンク色をしており、口に含めば舌の上で溶けるほどの柔らかさであった。
その対面で、フランス公使レオン・ロッシュもまた、バカラのグラスを傾けていた。
「味もさることながら、このワイン。南山産のカベルネですか? 本国の品評会に出しても入賞を狙える出来栄えですぞ」
彼ら外交団を取り囲むのは、黒いフロックコートに身を包んだ幕臣たちと、この夜会に招待された西国諸藩の大名たちである。大名たちは、慣れない椅子とテーブルに戸惑いながらも、目の前で繰り広げられる「文明の格差」に圧倒され言葉を失っていた。
彼らの領国では、兵士たちが冷や飯を食っているというのに、ここでは暖炉に南山無煙炭が赤々と燃え、真冬だというのに南国の果実がデザートとして振る舞われているのだ。
その中央に、この夜の主役、徳川慶喜がいた。彼は、ナポレオン三世から贈られた略式軍服のボタンを外し、白いベスト姿でグラスを掲げていた。その姿は、日本の武人というよりは、欧州の青年実業家か、あるいは狡猾な銀行家のように見えた。
「パークス閣下、ロッシュ閣下。お気に召したようで何よりです。南山の大地は豊かだ。牛も、羊も、葡萄も、あの大地が勝手に育ててくれる。我々に必要なのは、それを運ぶ船と、それを守る法だけです」
慶喜は流暢なフランス語で語りかけた。通訳のアーネスト・サトウが訳す必要すらない。
「ところで、京都の様子はいかがですかな? 伝え聞くところによれば、新政府の方々は、今夜の食事にも事欠いているとか」
パークスは、苦笑交じりに肩をすくめた。
「ええ、ひどい有様です。御所の周りには、腹を空かせた兵士たちが屯し、町家から食料を徴発しているそうです。『王政復古』とやらは結構ですが、彼らには国家を運営する予算も、信用もない」
慶喜は満足げに頷いた。そう、それこそが慶喜が作り出した現実だった。大坂に陣取った幕府軍と南山艦隊は、京都への物流を完全にコントロールしていた。武器弾薬はもちろん、贅沢品や嗜好品の流れは止まり、京都は巨大な「陸の孤島」と化しつつあった。
「嘆かわしいことです。彼らは、正義があれば腹が膨れると信じているようだ。だが、現実は非情だ。金がなければ正義は買えない。肉も、ワインも、そして未来も買えないのだ」
慶喜の合図で、給仕たちが新たな皿を運んできた。 銀の盆に載っているのは、焼きたてのパンと、山盛りのバター。慶喜は惜しげもなく振る舞った。
会場の隅では、五代友厚が、各国の商人たちを捕まえて、何やら熱心に商談を進めていた。
「ええ、南山開発債です。利回りは年五分。担保は北嶺の金山。…新政府に貸す? 正気ですか? あの政権は、来月には瓦解していますよ。…賢明な投資家なら、どちらの馬に乗るべきか、一目瞭然でしょう」
外交官のアーネスト・サトウは、手帳にこう書き記した。
『京都の政府は中世の遺物だが、大坂の幕府は一九世紀の怪物だ。勝負はついている。彼らが戦わずして勝つことは、火を見るより明らかだ』
◆
夜会はクライマックスを迎えていた。勝の合図で、城内の全ての照明が一斉に輝きを増し、本丸の広場では、南山工廠製の花火が打ち上げられた。冬の空に咲く、色とりどりの火花。外交官たちは歓声を上げ、拍手を送る。
「ブラボー! 将軍万歳!」
その喧騒から離れたバルコニーで、慶喜は一人、夜風に当たっていた。手には、まだ半分ほど残ったワイングラス。そこへ、容保が歩み寄ってきた。彼はパーティーの華やかな雰囲気にはそぐわない、漆黒の軍服姿のままである。
「上様。酔い覚ましでございますか」
「ああ、容保か。中は騒がしくてな。油と香水の匂いで、鼻が曲がりそうだ」
慶喜は苦笑し、グラスを揺らした。
「見ろ、この光景を」
慶喜は、眼下に広がる大坂の町と、その向こうに停泊する南山艦隊の灯りを指差した。
「我々は、戦わずして勝つ。薩長は干上がり、外交団は我々を選んだ。あとは、時が熟すのを待つだけだ。
春になれば、岩倉は音を上げ、新政府は瓦解する。そうすれば、私は再び京都へ戻り、私のルールで、新しい日本株式会社を再建する」
それは、完璧な勝利の方程式であった。計算尺と帳簿の上では、一点の曇りもない正解であった。
だが、容保は浮かない顔をしていた。彼は鐡木のステッキを両手で握りしめ、北の空、京都の方角を見つめていた。
「上様。私は、正直不安であります」
「何がだ?」
「我々は、彼らを追い詰めすぎたのではないでしょうか。鼠も、逃げ場を失えば猫を噛むと申します。ましてや相手は、大西郷という巨獣。彼が、このまま大人しく餓死を選ぶとは思えませぬ」
容保の脳裏には、二条城を去る時に感じた、西郷のあの粘りつくような視線が残っていた。あれは、敗者の目ではない。道連れを探す、死神の目であった。
慶喜は、フンと鼻を鳴らした。
「噛みつく? どうやってだ。彼らには大砲の弾もない。兵糧もない。竹槍で、ガトリング砲に挑むとでも言うのか? それは『戦争』ではない。『自殺』だ」
「はい。自殺です。ですが、狂人は時に平気で自殺を選ぶものです。そして、その自殺に、世界を巻き込もうとするものです」
容保の言葉は冷たい夜風に乗って消えた。慶喜は、しばらく無言でグラスを見つめていたが、やがて肩をすくめた。
「勝も容保も心配性だな…まあいい。万が一、彼らが暴発したとしても、その時は叩き潰すだけだ。我々には、その力がある」
慶喜は、残ったワインを飲み干し、空になったグラスをバルコニーの手すりに置いた。クリスタルガラスが、アーク灯の光を受けて、妖しく輝く。
「チェックメイトだ、西郷。これでお前たちは動けまい」
慶喜は勝利を確信していた。彼が信じる「合理性」の世界では、勝負はすでについていたからだ。
だが、彼は気づいていなかった。歴史という名の魔物が、合理性などという薄っぺらな皮を食い破り、盤面ごとひっくり返しに来ることを。そして、その引き金となる「ボタン」が、すでに押されてしまったことを。
大坂城の華やかな光の陰で、時代は、最も血なまぐさい章へとページをめくろうとしていた。
(第3部 第16話 完)
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