第15話 慶喜の撤退
「…おのれ、薩奸、岩倉!」
「上様のご英断を、あのような卑劣な手段で踏みにじるとは!」
「もはや猶予なし! 直ちに御所へ攻め入り、君側の奸を討ち払うべし!」
怒号が、二条城二の丸御殿の太い梁を震わせ、床板を踏み鳴らす無数の足音が、地底から響く遠雷のように腹の底を揺さぶっていた。
中でも、京都守護職として数年にわたり京洛の治安維持を一手に担い、長州の過激派や不逞浪士たちのテロリズムと血で血を洗う市街戦を繰り広げてきた會津藩士たちの激昂ぶりは、凄まじいものがあった。
彼らにとって、この「王政復古の大号令」なる一方的なクーデター宣言は、単なる政治的な敗北ではない。これまで京の石畳に流してきたあまたの同志の血と、愚直なまでに積み上げてきた「忠義」という名の石垣を、泥足で崩されたに等しい、魂への凌辱であったのだ。
新選組局長・近藤勇もまた、虎徹の柄をきしりと握りしめ、充血した双眸で虚空を睨み据えていた。
「我々の持つ銃は、祭りの飾りではござらん! 薩摩の芋侍ごときに、法の理をこれ以上ねじ曲げさせてなるものですか!」
その殺気は、鋭利な刃物となって、御殿の最奥、将軍の御座所にまで届かんばかりであった。
◆
黒書院
南山・明望から取り寄せた厚手のビロードのカーテンが、外界の喧騒を完全に遮断していた。この部屋に流れているのは、熱気ではない。深海の底のような、冷徹で重苦しい静寂であった。
第十五代将軍、徳川慶喜は、南山産の紫檀で設えられた執務机の向こうで、一冊の洋書に目を落としていた。その端正な顔立ちには、怒りも、悲しみも、焦燥すらない。あるのは、難解な数式を解く数学者のような、あるいは盤面全体を見渡す棋士のような、人間味を極限まで削ぎ落とした無機質な集中力だけであった。
彼の手元にあるのは、最新のフランス語版『国際法概論』。彼はこの期に及んでも、感情ではなく「論理」の中に答えを探していた
その向かい側の革椅子に座り、松平容保は目を伏せ、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、凍てついた湖面のように静かでありながら、底知れぬ凄みを湛えていた。彼は、廊下から聞こえる部下たちの怒号を、まるで雑音であるかのように聞き流していた。
「上様。外野が騒がしいようですな」
容保の声は、驚くほど落ち着いていた。そこには、激情を抑え込んだ悲壮感ではなく、事態を俯瞰する冷ややかな知性があった。
「まあ、薩摩と岩倉の所業、あれは政治ではありません。単なる契約違反です。
彼らは正当な手続きを経ずに、帝という最高権威の印鑑を盗み出し、他者の財産権と統治権を書き換えようとしている。
市井の言葉で言えば、ただの詐欺師、あるいは居直り強盗の類です」
容保は、ステッキの石突きで、コン、と床を軽く叩いた。
「法治国家において、強盗への対処法は決まっております。討伐ではありません。駆除です。
…害虫が庭に入り込んだのなら、庭師として消毒せねばなりません。先にも申し上げましたが、新選組と會津の精鋭を用いれば、御所を傷つけることなく、外科手術のように患部だけを切除してみせますが…許可をいただけますか?」
彼の口調には、微かな諧謔さえ混じっていた。
それは、理想のためなら悪魔と手を組むことさえ厭わない、パラドキシカルな「正義の狂気」が到達した、一種の悟りの境地であった。
彼は本気で、薩長軍を「人間」ではなく、法を犯した「処理対象」として認識しているのだ。
慶喜は、ゆっくりと洋書を閉じ、顔を上げた。
その双眸は、容保の冷徹な提案を好意的に受け止めつつも、さらにその奥にある「数年後の未来」を見通していた。
「手続き論で言えば、彼らのやっていることは野盗の強請と変わらん。
だがな、容保。駆除剤を撒くには、風向きが悪い」
「風向き、でございますか?」
「今、ここで戦端を開けばどうなる? 戦場は御所の周辺だ。
我が軍の銃は高性能だ。流れ弾が禁裏に飛び込み、あろうことか玉座を砕くこともあるだろう。
そうなれば、我々は『強盗を捕まえようとして家に火をつけた放火魔』として歴史に名を残すことになる。
それこそが、岩倉と西郷の狙いなのだ。彼らは我々を、自分たちと同じ『感情的な野蛮人』の土俵に引きずり下ろそうとしている。
それに、あやつらの事だ、自分で火をつけて、こちらの責を問うくらいは、平気でやるだろう。
紳士がチンピラの挑発に乗って泥の中で殴り合いを演じれば、観客はどちらも泥だらけの馬鹿としか見なさんよ」
慶喜は立ち上がり、壁に掛けられた巨大な日本地図の前に歩み寄った。その指先は、白く塗られた日本列島と、その遥か南、赤道の向こうに広がる赤い領域、南山を行き来する。
「この争いの本質は、領土の奪い合いではない。『富』の守り合いだ。ここで泥仕合を演じ、京を焼き払えば、徳川の信用は地に落ちる。列強は我々を統治能力なしと見なすだろう。
そうなれば、南山の交易路も寸断されよう。ポンドもフランも逃げ出す。それは、私にとって、戦に負けること以上の致命的な損失だ」
慶喜は、地図上の「京都」を指で弾き、そのまま指を南へ、淀川を下るように滑らせた。
「予定通り大坂へ下るぞ」
「…お、大坂へ!? 賊を見逃して、敵前逃亡なさるのですか!」
同席していた桑名藩主・松平定敬が、たまらず叫んだ。容保の実弟であり、共に京の治安を守ってきた彼にとっても、この命令は承服しがたいものであった。
「定敬、声を荒らげるな。みっともない」
容保が、弟を静かに制した。その口元には、薄い笑みが浮かんでいた。
「上様は、『逃げる』とは仰っていない。『場所を変える』と仰っているのだ」
「その通りだ、容保。話が早くて助かる」
慶喜は、冷徹な計算尺で未来を測るように語り続けた。その口調は、将軍というよりは、巨大コングロマリットの最高経営責任者(CEO)のそれであった。
「これは撤退ではない。転進だ。
大坂には、英国のパークス、フランスのロッシュら、各国の公使がいる。
彼らの前で、我々こそが正統な政府であり、京都の薩長はクーデターを起こした非正規の武装勢力であることを証明するのだ。
大坂は、日本の物流と金融の心臓部だ。そこを我々がガッチリと押さえ、榎本率いる南山艦隊によって瀬戸内海と大坂湾を完全に封鎖すれば、内陸の京都はどうなる?
米も、塩も、砂糖も入ってこなくなる。
岩倉や公家たちは、空っぽの金庫と、飢えた民衆を抱えて、干上がることになるだろう」
慶喜は、楽しげに目を細めた。
「誰の勅かわ知らんが、それで腹が膨れるか見物だな」
それは、兵器を使わず、経済封鎖と兵站の遮断によって敵を絞め殺す、合理主義が生んだ近代的で、そして最も古い戦術であった。
「それに、大坂港には南山からの補給物資が今頃荷揚げ中だ。
京の狭い路地で刀を振り回すのではなく、開けた場所で、圧倒的な物量と火力をもって彼らを圧殺する。勝つための算段は弾いてある」
慶喜は振り返り、容保を射抜くように見つめた。
「容保。
其の方には不本意だろうが、泥をかぶってもらう。
暴発しそうな兵たちを抑え、一発の銃弾も撃たせずに、整然と大坂へ連れて行け。
それは、刀を抜いて敵を斬ることよりも遥かに困難で、そして価値のある任務だ。
…できるか? 京都守護職改め、大坂引越守護職の現場監督は」
その冗談めかした問いに、容保は思わず吹き出した。
ククッ、という乾いた笑いが、重苦しい空気を切り裂いた。
「引越守護、でございますか。ククッ、良いでしょう。承りましょう。
どうやら私は、貧乏くじを引く才能だけは誰にも負けないようですからな」
容保は、鐵木のステッキを床に突き、深く、静かに頭を下げた。その言葉には、もはや悲壮感はなかった。あるのは、主君と共に「時代」という巨大な敵を欺く共犯者としての、不敵な覚悟であった。
「承知いたしました。この容保、命に代えても、全軍を統率し、整然と大坂へ下ってみせまする。
我々が尻尾を巻いて逃げる『敗走』ではなく、堂々たる『行軍』を行う姿を見せつけることこそが、薩長への最大の攻撃となりましょう。
彼らに、我々の背中を見せてやりましょう。手出しのできぬ、鋼鉄製の冷たい背中を」
◆
同日、午後二時
二条城の大手門が開き、歴史的な大撤退が開始された。先頭を行くのは、會津藩兵。その姿が現れた瞬間、門前に群がっていた京の町人たちは、息を呑み、静まり返った。
彼らの知る「武者行列」ではなかった。従来の古めかしい甲冑姿でもなければ、着流しに鉢巻という無頼の姿でもない。
五年前の入城時と同じく、全員が漆黒の軍服に身を包み、背中には防水背嚢を背負っている。右肩には黒光りする連発銃を担ぎ、腰にはサーベル。足元は泥濘をものともしない、磨き上げられた革ブーツ。
ザッ、ザッ、ザッ。
一糸乱れぬ行軍の足音は、正確な機械時計の針が進むように、冷徹なリズムを刻んでいた。それは、敗残兵の群れなどではなかった。 法と秩序を体現する、巨大な黒い刃であった。
隊列の中ほど、馬上の松平容保は、沿道から投げかけられる視線を、彫像のような無表情で受け流していた。沿道の物陰や、格子戸の隙間には、薩摩の密偵や、不逞浪士たちが潜んでいる。彼らは、憎き會津が逃げ出す様を嘲笑おうと待ち構えていたが、その圧倒的な威容に毒気を抜かれ、野次を飛ばすことさえ忘れていた。
ただ時折、どこからか「腰抜け」「徳川の犬」といった罵声と共に、石礫が投げ込まれる。
カツン。
小石が、容保の馬の足元に当たる。 側近が色めき立ち、抜刀しようとするのを、容保はステッキを一振りして制した。
「構うな。 彼らは挑発しているのだ。我々が怒りに任せて撃ち返せば、奴らの思う壺だ。 …耐えろ。沈黙こそが、我々の尊厳だ」
その静謐な威圧感は、暴徒たちの声を徐々に小さくさせていった。
ただ一人、新選組副長・土方歳三だけは、隊列の殿で馬を操りながら、ニヤリと不敵な笑みを浮かべていた。彼は、懐から南山製の葉巻を取り出し、馴れた手つきで火をつけた。
「近藤さん。聞こえたか、あの負け犬の遠吠えが」
土方は、馬上でふてぶてしく紫煙を吐き出した。
「今は我慢だ。 …だがな、近藤さん。 俺たちはただ撤退するんじゃねえ。バネを縮めてるんだ。大坂でたっぷりと怒りを溜めて、次に会うときは、あいつらの土手っ腹に鉛玉をぶち込んで、裁きを受けさせてやろうぜ」
近藤勇もまた、苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
「ああ。トシの言う通りだ。我々は最早、人斬り集団ではない。だが、あいつらだけは容赦せんぞ」
黒い軍列は、冬の京の町を、傷一つ負わず、また傷一つ負わせることなく、悠然と貫いていった。それは、「徳川の武威」が未だ健在であることを、京の人々の網膜に焼き付けるデモンストレーションとなった。
◆
翌、一二月一三日
旧幕府軍一万は、一人の脱落者も、一発の誤射も出すことなく、大坂城に入城した。
天下の名城・大坂城。その巨郭は、いまや「南山物産」の巨大な兵站基地と化していた。城内の蔵という蔵には、南山からピストン輸送された物資が天井まで積み上げられている。
最新のアームストロング砲弾、スペンサー銃およびスナイドル銃の弾薬箱、長期保存可能な缶詰(牛肉の塩漬け、桃のシロップ漬け)、乾燥野菜、そして兵士の士気を高めるためのワインやウィスキー。それは、薩長の貧弱な補給とは比較にならぬ、圧倒的な「物量」の展示場であった。
大手門で慶喜を出迎えたのは、軍艦奉行・勝海舟であった。彼は、トレードマークのトンビコートを羽織り、潮風に焼けた顔に皮肉っぽい笑みを浮かべている。傍らには、どこから拾ってきたのか、三毛猫が一匹、主人の足元にじゃれついていた。
「大将(慶喜)。よくご無事で」
勝は、礼もそこそこに、ニヤリと笑った。
「いやぁ、正直なところ、京都で一戦やらかすかと思ってヒヤヒヤしてましたよ。 會津の旦那(容保)が、よく堪えましたな。あの人の『生真面目な狂気』が良い方向に作用したようだ」
慶喜は馬を降り、ステッキをついて勝に歩み寄った。
「ふん、小言は後だ、勝。 準備はどうなっている?」
慶喜の口から出た言葉は、勝利への布石ではなく、さらにその先を見据えたものであった。彼は常に、最悪の事態を想定して動く男である。
「へいへい。万全ですぜ」
勝は声を潜め、海の方角を指差した。
「大坂湾には、南山艦隊の蒸気フリゲート『回天』『蟠龍』をはじめ、輸送船団がズラリと並んでます。 弾薬も食料も、あと三年は籠城できる分だけ運び込みますよ。
…それに天保山沖には、大型客船を三隻、待機させてあります。 『サザンクロス号』『スターライト号』、それに『ホープ号』。 …合わせて五千人は乗せられます。 技術者、学者、それに上様の御家族。 万が一、この国がどうしようもなくなった時の、『保険』です」
慶喜は、眉をひそめた。その表情には、為政者としての苦渋と、合理主義者としての冷徹さが同居していた。
「…勝。まだその話をしているのか。 私は逃げんぞ。 この戦い、経済と外交で勝てる。 岩倉ごときに、この國の経営権を明け渡すつもりはない」
「分かってますよ。あくまで『保険』です。 使わないに越したことはねえ。 ただね、大将。 西郷って男は、追い詰められれば何をするか分からねぇ。 奴は今、理屈の通用しない『獣』になっちまってる。 獣相手に、計算尺だけで勝てると思ったら、大怪我しますぜ」
勝の忠告には、古い友人としての、そして現場を知る男としての重みがあった。慶喜は、フンと鼻を鳴らしたが、その瞳の奥には微かな陰りが走った。彼は内心で、勝の用意周到さに感謝しつつも、それを表には出さなかった。
「肝に銘じておこう。 だが、今は攻める時だ。 外交団を招き、パーティーを開くぞ。 パークスやロッシュに、極上の南山ビーフとワインを振る舞い、誰がこの国の真の支配者であるか、骨の髄まで教えてやるのだ」
慶喜は大坂城の天守を見上げた。冬の澄み渡った青空に、葵の御紋と、南山物産の社旗が並んで翻っている。 ここが、最後の砦であり、反撃の拠点である。
慶喜はステッキで石畳を一つ叩いた。その音は、乾いた銃声のように響いた。
「さあ、始めようか。西郷よ、金のない戦争の惨めさを、たっぷりと味わうがいい」
慶喜の号令と共に、大坂城は巨大な要塞都市として稼働を始めた。蒸気機関のピストン音、荷物を運ぶ馬車の蹄の音、そして兵士たちの掛け声。それは、近代日本における、最初で最後の「南北戦争」の幕開けであった。
(第3部 第15話 完)
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