第13話 竜馬暗殺 - 消された調停者
時間を少しだけ前に戻そう。
慶應三年(一八六七年)一一月一五日
京の都は、朝から冷たい時雨に煙っていた。
数日前の「ええじゃないか」の狂騒が嘘のように、街は静まり返っていたが、それは平和な静寂ではなかった。誰もが、何かが起こる予感に怯え、息を潜めているような、不穏な静けさであった。
四条河原町、醤油問屋・近江屋
その二階の一室で、土佐脱藩浪士・坂本龍馬は、風邪気味の体を火鉢で温めながら、盟友・中岡慎太郎と熱心に議論を交わしていた。
龍馬の服装は、いつもと変わらぬ「南山スタイル」である。南山製のオイルド・コートを羽織り、足元にはカウボーイブーツ。そして腰には、愛銃「スミス&ウェッソン モデル2・アーミー」が吊るされている。
「龍馬。本当にこれでええんか? 慶喜公を新政府の『筆頭閣僚』に据えるじゃなんて、薩摩の西郷さぁや大久保さぁが納得するはずがないぜよ」
中岡が、不安げに書きかけの「新官制案」を指差す。そこには、関白に代わる「上院議長」として徳川慶喜の名が記されていた。
龍馬は、ニカっと白い歯を見せて笑った。
「中岡。おんしゃ、今の新政府の懐事情を知っちゅうか? 一文無しじゃ。 兵を養う金も、役人の給料も、全部『ツケ』じゃ。 このままじゃ、新政府は生まれた瞬間に破産する。そうなったら、外国や南山に国を切り売りするしかなくなるぜよ」
龍馬は、懐から一枚の南山銀貨を取り出し、指先で弾いた。 チャリ、と澄んだ音が響く。
「金を持っちょるのは、徳川だけじゃ。悔しいが、これが現実ぜよ。 ならば、徳川の金を新政府の『資本金』として組み込むしかない。慶喜公をトップに据える代わりに、徳川の資産を『国債』として発行させ、新政府の借金を肩代わりさせる。これを軟着陸と言うがじゃ」
龍馬の構想は、極めて近代的で合理的であった。彼は日本を「株式会社」に見立て、徳川と薩長を現代で言うところの「合併(M&A)」させることで、内戦による資産の毀損を防ごうとしていたのだ。
その発想の根源には、かつて見た五代友厚や勝海舟の「エコノミック・アニマル」としての生き様があった。
「西郷さぁも、大久保さぁも、今は頭に血が上っちゅうが、いずれ分かる。殺してしもうたら、卵を産む鶏はいなくなる、とな」
龍馬は楽観的だった。だが、彼は一つだけ見誤っていた。追い詰められた人間は、鶏が生む卵よりも、今すぐ目の前の鶏肉を食らいたい衝動に駆られる生き物だということを。
◆
同時刻。近江屋の向かいにある土蔵の影。数人の男たちが、冷たい雨に打たれながら、近江屋の二階を見上げていた。彼らの身なりは、一見するとただの町人や商人のように見える。だが、その懐には鋭利な短刀が、そして目には、爬虫類のような冷ややかな殺気が宿っていた。
リーダー格の男は、薩摩藩士・中村半次郎(のちの桐野利秋)であった。「人斬り半次郎」の異名を持つこの男は、大久保利通の懐刀として、数多の汚れ仕事を引き受けてきた実行部隊の長である。彼の懐には、大久保からの密書が入っていた。『坂本龍馬、および中岡慎太郎を排除せよ。彼らの融和策は、討幕の大義を揺るがす毒である』
中村は、手元の懐中時計を確認した。午後八時半。
「行くぞ」
中村が短く合図を送る。男たちは無言のまま、音もなく近江屋の格子戸へと近づいていった。
彼らの作戦は、極めて狡猾であった。新選組を装う? いや、それでは龍馬は警戒して銃を抜くだろう。彼らが選んだのは「顔見知り」という最強のカードであった。
◆
トントン。
一階の戸を叩く音がした。龍馬の下僕・藤吉が戸を開けると、そこには十津川郷士を名乗る男たちが立っていた。
「坂本先生にお目通り願いたい。札の辻でお世話になった者だ」
藤吉は疑いもせず、彼らを招き入れ、二階へと案内しようとした。
ドサッ。
鈍い音と共に、藤吉が背後から斬られ、崩れ落ちた。
「藤吉、誰か来たんか?」
二階から、龍馬の声がする。
中村半次郎は、音もなく階段を駆け上がった。その足取りは、猫のように軽やかで、かつ死神のように迅速であった。
「坂本先生、お久しぶりでごわす」
襖が開く。 龍馬は馴染みのある薩摩訛りに、一瞬警戒を解いた。
「おお、おまんは……」
その一瞬が、命取りとなった。
ヒュッ! 銀色の閃光が、龍馬の額を薙いだ。
「あ痛っ!」
龍馬は反射的に後ずさり、床の間に置いた刀ではなく、腰のリボルバーに手を伸ばした。
(こなくそ! 薩摩か! 大久保か!)
彼の指が、S&Wの冷たいグリップに触れる。ハンマーを起こし、トリガーに指をかける。その動作は、0.5秒もかからなかったはずだ。だが、示現流の初太刀は、それよりも速かった。二撃目の太刀が、龍馬の右手を襲った。
バシュッ!
骨を断つ音と共に、龍馬の親指と人差し指がリボルバーごと床に転がった。
「……ぐ、ああああっ!」
龍馬は血飛沫を上げながら、それでも左手で脇差を抜こうとした。だが、狭い室内になだれ込んできた数人の刺客たちが、中岡慎太郎と共に彼を滅多斬りにした。
南山製のランプが倒れ油が畳に広がる。血と油の混じった生臭い匂いが充満する中、龍馬は薄れゆく意識の中で、天井の木目を見つめていた。
(わしは、間違っちょったか…金で国は買えても、人の恨みは買えんかったか。…勝先生、すまん…)
龍馬の視界が暗転する直前、彼は幻を見た。
南山の赤い大地。そこを自由に駆け回る名もなきカウボーイたちの姿を。
「ええのう。…あそこには、しがらみがない……」
坂本龍馬、享年三三。その死は、徳川と薩長を繋ぐ最後のパイプが切断されたことを意味していた。
刺客たちは、現場でわざとらしく「こなくそ!」という伊予弁(新選組・原田左之助の口癖)を叫び、新選組の偽の遺留品を残して去っていった。下手糞な偽装工作であった。
◆
翌日、勝海舟の元に龍馬暗殺の悲報が届いた。
「そうか。龍馬。死んだか」
勝は報告書を握りしめたまま、しばらく動かなかった。その顔には悲しみというよりは、全てを悟った者だけが浮かべる、深い諦念の色が走っていた。
「馬鹿野郎。 一番いい男が、最初に死にやがった」
勝は足元にいた三毛猫を抱き上げ、その背中を乱暴に撫でた。
「五代よ、 俺たちの平和的買収計画は、これでおじゃんだ。西郷の野郎、ついに鬼になりやがったな。 邪魔な石は、たとえ身内でも退けるか。いいだろう。とことん付き合ってやるぜ」
勝の目から、一筋の涙がこぼれ落ち、猫の毛皮を濡らした。彼は理解してしまったのだ。あの情に厚い西郷が最後の情を捨て、修羅の道を選んだことを。
◆
一方、京都・薩摩藩邸。大久保利通は、中村半次郎からの報告を無表情で聞いていた。
「…ご苦労」
短く労った大久保の声は、硬質で冷ややかだった。
「西郷さぁには、『新選組の仕業らしい』と伝えておけ。吉之助さぁは、何も知らん。命令もしておらん。 ただ、この国の行く末を憂いておられただけじゃ。…分かるな?」
「は。重々承知いたしました」
中村が退出した後、大久保は独り、冷え切った茶を啜った。あの日、西郷は龍馬の名を口にし、ふと寂しげに笑って沈黙しただけだった。「斬れ」とは一言も言わなかった。だが、その沈黙こそが、何よりも重い依頼であったことを、大久保は痛いほど理解していた。
弟のように可愛がっていた龍馬でさえ、大義のためには無言で切り捨てる。その西郷の醜悪なまでの覚悟を、大久保は引き受けたのだ。
「吉之助さぁ。汚れ役は、わしが引き受けもんそ。おはんの手は、綺麗なままでよか」
雨は上がり、空には冷たい月が出ていた。だが、その月明かりは、これから始まる内戦の凄惨さを照らし出す、スポットライトのように冷淡であった。
(第3部 第13話 完)
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