第六話 雪中の赫き呪縛
雪とは、かくも無慈悲に音を吸い込むものか。
安政七年(一八六〇年)三月三日
余 -松平容保は、蝦夷地・石狩の番屋にいた。
床板の隙間から寒風が吹き込む部屋で、余が睨んでいたのは経済指標などという高尚なものではない。現場の工夫たちが万年筆で殴り書きした「飯が足りぬ」「寒さで指が動かぬ」という、生々しい嘆願書の山であった。
そこへ、函館から早馬を乗り継いで届いた電信の紙片が、余の思考を凍りつかせた。
『エド サクラダモンガイ ニテ タイロウ ウタレル』
余は、しばしその紙片を炭火にかざし、文字が消えぬか確かめた。
井伊直弼が死んだ。
あの「赤鬼」が。
京の暴徒を最新のミニエー銃で薙ぎ払い、余を北へ追いやり、帝の不興を買ってでも「幕府の威光」を物理的な力で再建しようとした、あの剛腕の男が。
「……馬鹿な」
余の口から漏れたのは、驚愕よりも、呆れに近い溜息だった。
政治的な損得ではない。武門の恥辱だ。
万の軍勢を指揮し、南山との交易を一手に握る天下の大老が、たかが数名の浪人に、江戸城の喉元で首を獲られたというのか。
それは「不合理」ではない。「無様」だ。
最新の兵器を揃えても、主を守る家臣の剣が錆びついていては意味がない。
余は即座に帰京を決断した。これは経済の問題ではない。徳川という「家」が、その屋台骨から腐り落ちようとしている音を聞いたからだ。
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品川に上陸した余を待っていたのは、恐慌状態に陥った幕閣たちだった。彼らは余を左遷された若造としてではなく、唯一、事態を収拾できる徳川の血縁として縋り付いてきた。
余はまず、桜田門外へ足を運んだ。
雪は降り続いていたが、その一角だけ、雪が赤黒く染まり、異様な鉄の臭いが漂っている気がした。
「……見よ、勝。これが『過信』の末路だ」
余の背後に控える勝に、余は低い声で告げた。
彦根藩の供回りは六十名。対する襲撃者は十八名。
数でも装備でも彦根が勝っていた。彦根藩士の多くは腰に最新のリボルバーを下げていたはずだ。だが、彼らはそれを抜く暇もなく、あるいは抜く度胸もなく、旧式の刀で斬り伏せられた。
雨合羽を刀の柄に被せていたため、抜刀が遅れたとも聞く。
「道具に使われたな」
余は雪を蹴った。
「井伊殿は、武器を新しくすれば兵も強くなると思うておった。だが、侍の魂までは機械では作れぬ。……死を覚悟した浪人の『一撃』の重さを、彼は侮っていたのだ」
これはテロルではない。
古き良き武士の作法による、凄惨な「諌死」だ。だからこそ、厄介なのだ。
これを「悪」と断じれば、天下の武士たちの心は幕府から離れる。
犯人が水戸の脱藩浪人であることは、すぐに判明した。
問題は、なぜ水戸が動いたかだ。
彼らを突き動かしたものは何か。
押収品の中に、奇妙な意匠の守り刀があった。
その柄には、京・西陣の織元の名が刻まれていた。
そしてもう一つ。浪人の懐から出てきたのは井伊が発した「安政の布告」の写し。
そこには『旧来ノ因習ヲ排シ、万事、実利ヲ以テ尊トス』とある。
「……なるほど。井伊殿は、踏んではならぬ虎の尾を二つ同時に踏んだか」
一つは、西国の「誇り」だ。
井伊は、東国の工場で作られた安価で丈夫な綿布を、関税なしで京阪へ流した。西陣や西国の職人たちは職を失い、路頭に迷った。井伊にすれば競争に負けただけだろうが、職人たちには先祖伝来の技への冒涜と映った。彼らの怨嗟が、水戸という「尊王」の火薬庫に引火したのだ。
もう一つは、水戸の「面目」だ。
井伊は、水戸の老公(斉昭)を「頑迷固陋」と公言し、幕政から遠ざけた。実利を重んじるあまり、御三家という血の権威を軽んじた。
浪人たちは、生活の糧を奪われた西国の民の悲鳴と、主君を侮辱された怒りを背負って、刀を抜いたのだ。
「金勘定だけでは、人は動かぬ。だが、誇りを傷つけられれば、人は鬼になる」
余は、井伊の首が転がったであろう場所を見つめた。
井伊直弼は、賢すぎた。
賢すぎて、愚か者の抱える「情念」という、計算できない怪物を計算に入れなかった。
それが彼の敗因だ。
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事態を収拾せねばならぬ。
彦根藩が水戸へ報復の兵を挙げれば、天下は乱れ、薩長や列強が介入する隙を与える。
余は、彦根藩邸の重役と、水戸藩の留守居役を、江戸城内の松の廊下近くの密室に呼びつけた。
部屋に入ると、殺気が渦巻いていた。
彦根側は目を血走らせ、水戸側は蒼白ながらも開き直っている。
「 會津様! 何卒、仇討ちのお許しを! 我が殿の無念、水戸の者共を皆殺しにせねば晴れませぬ!」
彦根の家老が叫ぶ。
余は、上座に座り、静かに扇子を置いた。
「……控えよ」
低いが、腹に響く声を出した。
「其の方ら、徳川の家を潰す気か」
「な……!」
「井伊殿が討たれたは、彦根武士の油断ゆえ。違うか?」
余の冷徹な指摘に、彦根側が言葉を詰まらせる。
「六十名もの供回りがいて、主の首を奪われる。これを天下に喧伝し、さらに私闘を演じれば、彦根井伊家は改易、家名は地に落ちるぞ。それでも良いか」
次に、水戸側へ向き直る。
「水戸も同じだ。脱藩者とはいえ、家臣の狼藉。本来なら老公は切腹、藩は取り潰しが妥当。……御三家の名が泣くぞ」
両者が沈黙した。彼らが一番恐れるのは、直弼の死ではない。「家の断絶」だ。
余は、懐から一枚の書状を取り出した。
余が勝手に書き上げた、老中連名の偽の達し書きだ。
「……取引だ。彦根藩は、大老の死を『病死』として届け出よ。跡継ぎの承認は、余が保証する。家名は守られる」
彦根の家老が、屈辱に震えながらも、床に額を擦り付けた。
「水戸藩は、浪人の監督不届きを認め、老公は自主的に謹慎せよ。その代わり、今回の件は『狂人の単独犯』として処理し、藩への公式な咎めはなしとする」
水戸の留守居役が、安堵のため息を漏らした。
「双方、貸し借りなしだ。……死んだ大老のためにも、徳川の世をここで終わらせてはならぬ」
これは正義ではない。
腐った傷口を、汚れた包帯で隠すようなものだ。
だが、政治とは、最悪を避けるための泥仕事だ。余はその泥を、一身に浴びる覚悟を決めていた。
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事件は大老の急病死として処理された。
江戸の民はそれを嘘と知りながら受け入れた。彼らもまた戦乱よりは欺瞞の平和を望んだからだ。
数日後、余は再び蝦夷へ戻る船の上にいた。
見送りに来た勝が、苦い顔で言った。
「……殿様。これで、幕府の権威は地に落ちましたぜ。浪人が大老を殺せるんだ。次は、もっと大勢が刀を抜く」
「ああ、わかっておる」
余は、雪の消え残る江戸の街を遠望した。
井伊直弼という強力なタガが外れた。これからは言葉ではなく、暴力が政治を動かす時代が来る。
「勝。余は北で、新しい『器』を作る。……この国が血で溢れた時、それを受け止めるための器だ。刀や槍では壊せぬ、鋼鉄の国をな」
「……へいへい。地獄の底まで付き合いますよ」
樅の汽笛が鳴った。
余は、もう振り返らなかった。
井伊直弼。余とは相容れぬ男だったが、その死は余に一つの教訓を残した。
”改革を急ぐなら民の心も連れて行け。さもなくば、その改革は主の血を吸う”
蝦夷の風は冷たい。
だが、その冷たさこそが、今の余の熱った頭には心地よかった。




