第12話 岩倉の焦燥 - 偽勅の錬金術(下)
同時刻。二条城、黒書院。
外の世界では、天が裂けんばかりの雷鳴と、地面を叩きつける豪雨が支配していたが、この部屋の中だけは、別世界の静謐が保たれていた。 南山・明望から献上された厚手のビロードのカーテンが、隙間風と音を遮断し、天井から吊り下げられたアーク灯が青白い光を投げかけている。その人工的な光の下で、漂っているのは畳のい草の匂いではなく、焙煎されたばかりのコーヒー豆の、黒く香ばしい湯気であった。
第十五代将軍、徳川慶喜は、愛用している白磁のカップを傾け、その苦味を舌の上で転がしていた。 彼の前には、巨大な紫檀の執務机を挟んで、勘定奉行・小栗上野介と、京都守護職・松平容保が控えている。小栗の顔色は、連日の激務で蒼白だが、その瞳は数字の魔力に取り憑かれたかのようにギラギラと輝いている。一方、容保は漆黒の軍服に身を包み彫像のように背筋を伸ばしていた。
「静かすぎますな」
小栗が、手元の膨大な書類の束を整えながら、独り言のように呟いた。
「大政を奉還せしめてから十日あまり。薩摩も長州も、表だった動きを見せません。 本来なら、来たるべき諸侯会議での主導権争いに向けて、なりふり構わぬ多数派工作を仕掛けてくるはずですが、彼らの動きは不気味なほど沈黙しております」
慶喜は、カップをソーサーに戻し、軽く首を傾げた。その動作は優雅だが、目は笑っていない。
「小栗。我々の種まきの状況はどうだ?」
「は。万全にございます」
小栗は、一冊の帳簿を開き、勝ち誇ったように報告を始めた。
「まず、朝廷工作について。
二条摂政をはじめ、中山忠能卿、中御門経之卿ら、主要な公卿二十名に対し第三次南山鉄道債券の優先引受権を譲渡いたしました。 これは、将来、入安島内の鉱山鉄道が開通した際に、莫大な配当を約束するものです。金のない公家どもは、目の色を変えて飛びつきました。彼らはもはや、株式会社徳川の株主となったも同然。我々の利益を損なうような発言は、彼ら自身の懐を痛めることになります」
小栗は、頁をめくった。
「次に、中立諸藩への根回しについて。
土佐の山内容堂公には、南山物産の斡旋によるによる高知港の近代化改修計画を提示。越前の松平春嶽公には、福井特産の生糸を全量、相場の一割増しで買い取る長期契約を提示いたしました。肥後、筑前、阿波といった日和見の大名たちにも、それぞれ南洋開発協力金という名目で、事実上の低利融資を確約しております」
小栗は、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
「締めくくりに、在京の各藩留守居役に対し銀貨を詰めた菓子折を配りました。
結果、現時点における徳川支持、あるいは反薩長の票読みは、全諸侯の七割五分を超えております。 もし明日、新政府の議長選出が行われれば、上様が圧倒的多数で推挙されることは確実。政治という名の株主総会は、開会前に勝負がついたと言って過言ではございません」
完璧な布陣であった。慶喜は武力を使わず、資本の論理だけで朝廷と諸侯を完全に掌握していた。薩長が「徳川を討て」と叫んだところで、徳川の金で飯を食っている公家や大名たちが、それに同調するはずがない。
「ご苦労。 金で買える忠誠など安いものだが、無いよりはマシだ」
慶喜は冷ややかに言い放ち、視線を容保に向けた。
「さて、會津。 帳簿の世界では我々の圧勝だが…現場の空気はどうだ? 京の市中は、小栗の数字通りに動いているか?」
指名された容保は、重々しく首を横に振った。その表情には小栗の楽観論とは対照的な、戦場の指揮官だけが感じる皮膚感覚としての警戒色が浮かんでいた。
「いえ、上様。数字の上では平穏ですが、市中の空気は、腐った油のような異臭を放っております」
容保は、低い声で現状を語り始めた。
「まず、公家衆の動きですが、小栗殿の仰る通り、多くの者は南山の利権に目が眩んでおります。
しかし、一部の岩倉具視卿に近い者たちが、ここ数日、屋敷に引き籠もり、一切の面会を謝絶しております。彼らは金で動くような手合いではございません。むしろ、徳川の金が京を汚染していると信じ込み、その眼には狂信的な色が宿っております」
容保は、杖を握る手に力を込めた。
「次に、市中の浪人たちです。 薩摩が放った『ええじゃないか』の扇動は下火になりましたが、代わりに食い詰めた浪人たちが辻々で辻説法を行っております。
曰く 『徳川は異人と結託して神国を売り渡そうとしている』『南山銀貨は魂を抜く悪魔の銭だ』と。
飢えた民衆の一部が、その言葉に耳を傾け始めております。豊かな者はより豊かに、貧しき者はより惨めになったこの京で、彼らのルサンチマン(怨嗟)は、いつ爆発してもおかしくありません」
そして、容保は声を潜めた。
「少し気がかりなのは、新選組の監察方・山崎烝が持ち帰った情報です。ここ数日、薩摩藩邸に、奇妙な物資が運び込まれているとのこと」
「物資?」
「はい。銃や火薬ではございません。 越前和泉屋から取り寄せた最高級の『鳥の子紙』。 宮中で使われるのと同質の『松煙墨』。 それに、表具師や、印判を彫る職人たちが、夜陰に乗じて藩邸に入り…その後、誰一人として出てきておりません」
その言葉を聞いた瞬間、慶喜の手が止まった。コーヒーカップから立ち上る湯気の向こうで、慶喜の瞳が、カミソリのような鋭さを帯びて細められた。
「紙と、墨。それに印判か」
慶喜は、ゆっくりと立ち上がり、窓の外の闇を見つめた。雷光が一瞬、彼の横顔を青白く照らし出す。その口元には、この世の全ての悪意を理解した者だけが浮かべる、凍てつくような笑みが張り付いていた。
「小栗。 私が投資家なら、この局面でどう動くと思う?」
「は?」
小栗は意図を図りかねて瞬きをした。
「相手(薩長)の手持ちの札(資金・政治力)は尽きております。 道理で(合理的に)考えるなら、一度、損切り(ロスカット)をして撤退。国元で力を蓄えて次の機会を待つのが定石かと」
「そう、それが定石だ。 だが、彼らは撤退しない。静まり返っている。それは何を意味するか?」
慶喜は窓ガラスに映る自分の顔に問いかけるように言った。
「彼らは知っているのだ。まともに公議(議会)を開けば、全てを持つ我々に勝てないことを。 ならば、彼らが取る手段は一つ。 盤面そのものをひっくり返し、私をルール無用の賊に仕立て上げて首を取ることだ」
慶喜は振り返り、二人を見据えた。
「西郷め。 刀ではなく筆で私を斬るつもりか。 偽の詔、偽勅でもでっち上げる気だろう」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が凍りついた。小栗が、弾かれたように椅子から立ち上がった。
「なっ! 偽勅、でございますか!? それは明白な大逆! 帝を騙り、天下を欺くなど、万死に値する暴挙! 上様、直ちに! 直ちに手勢を突入させ、証拠を押さえるべきです! 今ならまだ、現場を押さえられます!」
小栗の激昂はもっともだった。それは、この時代に生きるものとして、当たり前の教育を受けていた者であれば当然の怒りであった。だが、慶喜は静かに手を挙げて、それを制した。
「待て、小栗。座れ」
「しかし!」
「今、突入すればどうなる? 彼らは証拠の紙を火にくべ、シラを切るだろう。 そして翌日には、『幕府が不当に薩摩藩邸を襲い、無辜の藩士を殺傷した』と騒ぎ立てる。証拠がなければ、我々の方が『私闘を仕掛けた無法者』にされてしまう」
「では、指をくわえて見ていろと仰せですか! このままでは、偽勅が出回り、上様は朝敵とされ、討伐の対象になります!」
「構わん」
慶喜は、不敵な笑みを深くした。それは、窮地に陥った者の顔ではない。相手が禁じ手に手を出した瞬間、勝利を確信した棋士の顔であった。
「彼らに、書かせればいい。帝の意志を捏造するという、決して許されざる一線を超えさせるのだ。偽物を本物にするためには戻ることのできない位置まで進めせればよいのだ。 彼らが偽物の正義を掲げて攻めてくるなら、我々は本物の力と、万国公法(国際法)というこの国の外の正義で迎え撃つまでだ」
慶喜は容保に向き直った。
「容保。 新選組と會津兵に、最大級の警戒態勢を命じろ。 市中の辻々に監視所を設け、薩摩の動きを逐一報告させろ。 ただし…」
慶喜は、鋭い釘を刺した。
「こちらから手は出すな。絶対にだ。 挑発されても、石を投げられても、唾を吐きかけられても、耐えろ。
彼らに、最初の一発を撃たせるのだ。禁じ手に手を染め、先に暴力を振るった瞬間、彼らは政治的に死ぬ。 その時こそ、彼らをテロルの徒として、物理的にも、社会的にも、完全に破滅させる好機だ」
容保は、深く頭を下げた。手にした鉄木の杖が、床にゴン、と重い音を立てる。
彼は理解していた。この男・慶喜は、薩長が「偽勅」という毒まんじゅうを食らい、自滅するのを待っているのだ。そのために、會津は泥にまみれ、罵倒に耐える壁とならねばならない。
「承知いたしました。會津は、徳川の、いや、この国の法と理を守る最後の砦と剣なりましょう。たとえ、それがどれほどの苦難であろうとも」
容保の言葉には、皮肉な口調がありありと滲んでいた。彼は知っている。これから来る嵐は、単なる政変ではない。正義と不正義、真実と嘘、持てる者と持たざる者が入り乱れる、泥沼の殺し合いになることを。
慶喜は、再び窓の外を見た。 雷鳴が遠ざかり激しい雨音だけが残っていた。
「泳がせておけ。
西郷、大久保。貴様らが書き上げるその紙切れが、貴様ら自身を縛り首にする縄になることを、たっぷりと教えてやろう」
夜の二条城は、再び静寂に包まれた。だが、その静けさは、もはや平和な眠りではなかった。それは、巨大な爆発の前の、張り詰めた導火線が燃え進む音のない時間であった。
◆
そして、運命の歯車が軋みを上げて回り出す夜が訪れた。
慶應三年(一八六七年)一二月八日 深夜
歴史的な政変、「王政復古の大号令」が発せられる前夜のことである。
この夜、京の都は、まるで巨大な墓場のような、湿った冷気に包まれていた。数日前まで降り続いた氷雨は、夜半を過ぎて霙へと変わり、京の町家を覆う瓦屋根を白く染め始めていた。底冷えのする大気は、生きとし生けるものの体温を奪い、鴨川の濁流は黒い蛇のようにのたうち回りながら、都の穢れを下流へと押し流そうとしていた。
だが、その静寂の皮下では、煮えたぎるような狂気が市中の血管を駆け巡っていた。市中の辻々では、薩摩藩が解き放った「浪士隊」、実態は、長州藩の密命を帯びた志士、金で雇い入れた食い詰めた浪人や博徒などのゴロツキ集団が、最後の撹乱工作を行っていたのである。
四条通の商家
江戸川で製造された硝子の見付け張出を持つ、南山風な呉服店の前に、ボロ切れを纏った男たちが屯していた。彼らの手には松明と、抜き身の錆びた刀が握られている。
「おい、この店は欲望の狗じゃ。南山の化け物と通じて、神国の金を吸い上げる国賊じゃ!」
リーダー格の男が叫ぶと、手下が松明を店先に投げ込む。
ガシャン! という音と共にガラスが砕け、色鮮やかな更紗や別珍が炎に包まれる。
「徳川を殺せ! 會津を殺せ! 東國の連中から奪い尽くせ!」
その罵声は、もはや政治的な主張などではなかった。それは、持たざる者が持つ者へ向ける、純度一〇〇パーセントの嫉妬と殺意の塊であった。彼らは、銀貨一枚すら持たぬ己の境遇を呪い、その鬱憤を、徳川の秩序を象徴するあらゆるものへぶつけていたのである。
本来ならば、即座に駆けつけるはずの京都見廻組や新選組の姿はない。彼らは二条城と各屯所に篭り、慶喜の厳命を守って沈黙を保っていた。「決して手を出すな。最初の引き金は奴らに引かせろ」という、呪いのような命令に縛られていたからだ。燃え上がる炎だけが、誰にも鎮火されることなく、闇夜を赤々と焦がしていた。
◆
その赤黒い空の下を、一台の塗輿が、亡霊のように進んでいた。向かう先は御所。
輿の中に座しているのは、公家・岩倉具視である。
狭く、黴臭い輿の中は、岩倉の吐く白い息と、彼自身が発する脂汗の臭いで満ちていた。彼は懐に手を差し入れ、紙片を強く握りしめていた。あの夜、薩摩藩邸の土蔵で捏造された討幕の密勅である。
カサリ。カサリ。
輿が揺れるたびに懐の奉書紙が音を立てる。その乾いた音は、岩倉の耳には断頭台の刃が落ちる音のようにも、あるいは地獄の釜の蓋が開く音のようにも聞こえた。
「寒い。なんと寒い夜じゃ」
岩倉はガタガタと歯を鳴らした。懐には南山で開発されたばかりの、密輸入された「白金懐炉」- 揮発油と白金の化学反応で熱を発する最新の暖房器具 - を入れているはずだが、指先の感覚がない。恐怖と興奮が、彼の自律神経を完全に麻痺させていた。
岩倉は、懐から紙片を半分だけ引き出し、暗闇の中で凝視した。そこには、彼自身の筆跡で、『徳川慶喜ハ……大逆無道ノ賊ナリ』と記されている。そして、その末尾には、鮮やかな朱色の印判が押されている。
偽物だ。紛れもない偽物だ。だが、不思議なことに何度も見返すうちに、岩倉の脳内で奇妙な化学反応が起きていた。
(いや、これは本物じゃ。わしが書いたのではない。帝の霊が、わしの右手に乗り移って書かせたのじゃ。そうでなくて何であろう。この筆の運び、この気迫。わしごときに書けるものではない)
それは、究極の自己欺瞞であった。人間は、あまりに巨大な嘘をつく時、精神の崩壊を防ぐために、自らその嘘を真実だと信じ込む防衛本能を持つ。岩倉は今、その境界線を超えたのだ。
彼は歪んだ笑みを浮かべた。爬虫類のような冷ややかな瞳孔が、闇の中で開ききっている。
「待っておれ、慶喜。徳川。 ……貴様らは金で、人の心を買ったつもりでおろう。だがな、この勅書は金では買えぬ『神の言葉』じゃ。これさえあれば、貴様の持つ艦隊も、大砲も、山のような銀貨も、すべて奪い取ってやれる。すべては、帝のものじゃ」
岩倉の笑い声は、喉の奥で押し殺されたため、古井戸の底から響く風の音のように不気味に漏れ出した。
◆
輿の前後を固めるのは、薩摩藩の兵士たちであった。その数、およそ三百。彼らの姿は、近代的な軍隊とは程遠い、異様なものであった。降りしきる霙に対し、彼らが纏っているのは、幕軍のようなゴム引き雨合羽ではなく、古めかしい蓑や、酒樽に使う菰であった。足元は泥にまみれた草鞋。だが、その眼光だけは、飢えた狼のように爛々と輝いている。
彼らが手にしているのは、長崎のグラバー商会から高値で売りつけられた、南北戦争の払い下げ品、前装式のエンフィールド銃や、ミニエー銃である。中には、戦国時代のような長槍を担ぐ者もいる。
會津藩兵が装備する、黒光りする後装式スナイドル銃や、精密なスペンサー連発銃とは比較にならぬ骨董品だ。しかし、この夜に限っては、この薄汚れた集団こそが、京の都における最強の捕食者であった。彼らは「失うものがない」という、無敵の武器を持っていたからである。
隊列の先頭を歩くのは、西郷吉之助である。彼は、馬に乗ることもなく、泥道を黙々と歩いていた。その巨躯は、蓑の上からでも分かるほど一回り小さくなっていたが、全身から発する殺気は、周囲の雨粒を弾き飛ばすほどの密度を持っていた。
御所の北側、今出川御門に差し掛かった時である。門前には警備を担当する會津藩の小隊が整列していた。彼らは漆黒の軍服に身を包み、背には西洋式の最新装備を背負っている。雨に濡れて輝くその姿は、薩摩兵の粗末な身なりとは対照的に、洗練された近代兵士そのものであった。
「止まれ! ここは禁裏である。何人の通行も」
會津の小隊長が、制止の声を上げかけた。だが、西郷は止まらなかった。彼は無言のまま歩み寄り、小隊長の目の前、わずか三尺の距離で立ち止まった。そして、蓑の下から、ゆっくりと、恐ろしいほど静かに眼光を放った。
「…………」
言葉はない。
ただ、その瞳の奥には底なしの虚無の深淵が広がっていた。理屈も、法も、計算も通じない。ただ「通せ」という意思の圧力だけで、相手の心臓を鷲掴みにするような威圧感。それは、慶喜や容保のような「文明人」が最も苦手とする、前近代的な暴力のオーラであった。
會津の小隊長は腰のサーベルに手を掛けたまま、金縛りにあったように動けなくなった。
(斬れば、勝てる。だが……)
藩主の厳命が、脳裏をよぎる。「手出しはするな。最初の引き金は引くな」この巨漢は、それを知っているのか?我々が撃てないことを知った上で、その喉元に刃物を突きつけているのか?
「通せ」
西郷が、低く、地響きのような声で言った。小隊長は、脂汗を流しながら、血が滲むほど唇を噛み締め、やがて無念の表情で道を空けた。
ザッ、ザッ、ザッ。
三百の薩摩兵が無言で門を通過していく。彼らは會津兵を睨みつけ、嘲笑うような視線を投げかける。 「金持ちの毛並みのいい兵隊め、喉笛を食い千切ってやる」そんな声なき声が聞こえるようだった。
◆
御所の奥、小御所へと続く回廊
岩倉は輿を降り濡れた石畳を踏みしめた。ついに、ここまで来た。この門をくぐれば、もう後戻りはできない。懐の密勅が、心臓の鼓動に合わせて熱を帯びているように感じる。
岩倉は、夜空を見上げた。
黒い雲の切れ間から、一瞬だけ月が顔を覗かせたが、すぐにまた厚い雲に覆われた。まるで夜を統べる月讀命が、これから行われる不敬から目を背けたかのようだった。
「神よご覧じろ、これが人の力じゃ。運命とは、ただ待つものではない。この手でこねくり回し、形作るものじゃ!」
岩倉は、草履の鼻緒に力を込め、小御所への階段を一歩、踏み出した。その一歩は、徳川三百年の歴史を終わらせ、近代日本という名の、血塗られた怪物を産み落とすための、決定的な一歩であった。
背後には、西郷隆盛が、仁王像のように立ちはだかり、御所への入り口を封鎖している。その手には、鞘に収まってはいるが、いつでも血を吸えるように手入れされた剛刀が握られていた。
◆
一二月九日、未明
「王政復古の大号令」という名のクーデターは、こうして、嘘と暴力、そして狂気を孕んだ静寂の中で、その幕を開けたのである。
(第3部 第12話 完)




