第11話 大政奉還 - 権力の粉飾決算(下)
同日、大坂・中之島
天下の台所と呼ばれ、日本國中の富が集散する商都・大坂もまた、京の都と同様に、あるいはそれ以上に奇怪な熱病に冒されていた。
堂島川の川面には、投げ込まれた慶應札が無数に浮かび、流れ下っていく。
橋の上では、昨日まで丁稚奉公に精を出していた者たちが、赤い着物を裏返しに着て、鉦や太鼓を打ち鳴らしながら「ええじゃないか」と踊り狂っている。米相場の暴騰と通貨の崩壊は、真面目に働くことの無意味さを人々の骨髄に刻み込み、彼らを刹那的な狂乱へと駆り立てていた。
その喧騒の只中にあって、周囲とは隔絶した威容を誇る建物があった。中之島の一角、黒塗りのレンガ塀と鉄柵に囲まれた「南山物産大坂本店」である。
門前には、南山製のスペンサー連発銃を担いだ私兵が鋭い眼光で立哨しており、暴徒たちもこの一角にだけは手出しできずに遠巻きに眺めるのみであった。
その建物の最上階、重厚なオーク材の扉で閉ざされた奥座敷。外の狂乱が嘘のように遮断された室内には、紫煙と、芳醇な古酒の香りが漂っていた。
「へっ、大将(慶喜)もやりやがる。とんでもねぇ爆弾を京のど真ん中に投げ込みやがった」
軍艦奉行・勝海舟が、南山産の太い葉巻を噛み締めながら、ニヤリと笑った。彼は上等な羅紗の軍服の前を寛げ、ソファに深々と体を預けている。その眉間には深い皺が刻まれているが、瞳にはこの混沌を楽しむような不敵な光が宿っていた。
その向かいには、一人の男が、まるで玉座に座る王の如き風格で脚を組んでいた。
五代友厚。彼は元薩摩藩士でありながら、先日、慶喜の設立した南山資源開発公社総裁という公職に就任し、これもまた就任したての巨大貿易商社である南山物産の総支配人という私的立場を兼任する経済界の至高である。
本来、南山の明望に移転した本店に君臨しているはずの彼が、この時期に大坂に滞在していること自体が、事態の異常さを物語っていた。彼は慶喜の密命を受け、日本列島から南山への「資本と資産の緊急移転」を指揮するために、一時帰国していたのである。
五代の手には、海賊が好むような粗野なラム酒ではなく、フランス・コニャック地方の特級酒「ナポレオン」が注がれたバカラのグラスが揺れていた。
「勝先生。これで、薩摩の大久保さぁや西郷さぁは、完全に梯子を外されましたな」
五代の言葉には、最早かつての同胞への感傷など微塵もない。あるのは、冷徹な経済人が、破産寸前の競合他社を分析する時の、氷のような怜悧さのみである。
「おうよ。 奴らは『幕府を倒す』って旗印だけで飯を食ってきた。 倒すべき悪役がいて初めて、奴らは『正義の味方』を演じ、商人たちから軍資金を巻き上げることができたんだ。 だが、その幕府が自分から看板を下ろしちまったら、奴らはどうなる? ただの、武器を持った失業者だ」
勝は、灰皿に葉巻の灰を乱暴に落とした。
「おまけに、奴らが新しく手に入れる予定の『新政府』って店は、金庫が空っぽどころか、借金まみれときてる。五代、お前なら分かるだろ? 今の日本の『帳簿』がどうなってるか」
五代は、琥珀色の液体を口に含み、その芳香を鼻腔で楽しんでから、静かに答えた。
「壊滅的、ですな。 薩摩と長州は、倒幕のために藩の財政を無視して南山製や英国製の武器を買い漁りました。その支払いの多くは、幕府を倒せば、その御金蔵で払えるという空手形によって先送りされています。
しかし、慶喜公は大政奉還と同時に、幕府の公金と南山の収益を徳川家の私有財産として分別管理し、新政府の手が届かない場所へ隠匿されました」
五代は、テーブルの上に置かれた一枚の硬貨を指先で弾いた。回転し、澄んだ音色を立てて倒れたそれは、「南山銀貨(NANZAN・RYO)」である。
表面には南十字星、裏面には葵の紋が刻印された、純度九九・九%の大型銀貨。 今や、京・大坂はおろか、上海や香港の租界においても、貿易決済の基軸通貨となりつつあるこの銀貨を独占的に発行しているのは、徳川家の資本が入った南山金銀取扱所、後の世に南山中央銀行と呼ばれる組織の前身であった。
「今、京や大坂の市中では、太政官や各藩が発行した藩札は紙屑同然です。商家は南山銀でなければ米は売らぬと公言して憚りません。
勝先生、明日からどうなるか、目に見えるようですな。 朝廷の公家たちや、新政府の高官予定者どもが、私のところに土下座に来るでしょう。 役人の給料を払いたいから、南山銀を貸してくれ。兵糧を買いたいから、融資してくれ、とね」
「へっ、傑作だ。 帝の威光を傘に着た連中が、元薩摩の裏切り者に頭を下げるってか」
「ふふ。ええ、ですが、タダでは貸せません。我々は慈善事業家ではない」
五代の双眸が、肉食獣のように細められた。
「担保が必要ですね。日本の主要港における関税徴収権、佐渡や生野の鉱山採掘権、あるいは将来敷設される鉄道の独占権。彼らが首を縦に振るたびに、日本という國の主権は切り売りされ、徳川の経済植民地になっていく。
兵隊を出して國を奪うのは三流のやり方です。 一流は、財布を握って國を飼い慣らす。慶喜公は、それをやろうとしている」
それは銃声のない戦争であった。鉛の弾丸ではなく、銀貨と借用証書によって相手の急所を撃ち抜く、冷酷無比な経済戦争。五代友厚という男は、その最前線司令官として、この大坂に君臨しているのだ。彼は、日本という沈みゆく泥船から、価値ある資産だけをポンプのように吸い上げ、南山という新天地へ移送する役割を担っていた。
勝は、ふん、と鼻を鳴らし、天井を見上げた。
「まったく、食えねぇ古狸と、古狐だ。 お前さんたちの描く絵図は完璧だ。計算上はな」
勝の声色が、僅かに変わった。そこには、数字の世界に生きる五代とは異なる、泥と血の世界を知る男の、皮膚感覚としての警告が含まれていた。
「だがな、五代。 計算通りにいかねぇのが、世の中ってモンだ。お前さんは、今の日本の状況を『数字』で見ている。だが、俺は『腹』で見ている」
「腹、ですか?」
「ああ。 飢えた人間ってのはな、理屈じゃ動かねぇんだよ。このまま大人しく引き下がるほど、西郷って男は甘かねえぞ。 奴は今、追い詰められた獣だ。目の前の餌(政権)が毒入りだと分かっていても、食わなきゃ死ぬ。
…そして、自分が死ぬと分かった時、獣はどうする? 道連れを探すんだよ。自分の足を食いちぎってでも、敵の喉笛に喰らいついてくるもんだ」
勝の脳裏に、かつて共に日本の未来を語り合った西郷隆盛の、巨象のような姿が浮かんだ。あの男は、損得勘定では動かない。「情念」という名の、厄介で爆発的な燃料で動く怪物だ。経済封鎖で干上がらせれば干上がらせるほど、その牙は鋭く、凶暴になるだろう。
五代は沈黙した。彼もまた、かつて薩摩で西郷の背中を見て育った男だ。その恐ろしさは、理屈を超えた部分で理解していた。
「だからこそ、急がねばなりませんな」
五代は、話題を変えるように言った。
「保険の準備は、いかがですか? 南山物産が手配した輸送船団は、すでに天保山沖と神戸港に待機させています。 指示をいただいていた、横須賀のヴェルニーさんとの打ち合わせはもうすぐ終わるそうですし、石川島と関口の段取りも順調です。そして…」
「…そして、人間、だな」
勝は、短くなった葉巻を灰皿に押し付けた。
「俺たちは、俺たちの仕事をするだけだ。日本丸って船が、沈むにせよ浮くにせよ、乗客のための救命ボートだけは、しっかり整備しておかねえとな」
勝の担当領域は、ロジスティクスである。慶喜が政治を操り、五代が金を回すなら、勝は「モノ」と「ヒト」を動かす。来るべき破局からの「方舟」計画。そのリストは現在、勝の頭の中にしか存在しない。
その時、部屋の隅から一匹の三毛猫が音もなく歩み寄ってきた。南山物産の倉庫番が飼っている猫だろうか。毛並みは良いが、眼光は鋭い。猫は、天下の経済王である五代には目もくれず、勝の足元にすり寄ると、その軍用ブーツに頭を擦り付けた。
「おっと。お前も、腹が減ってるのかい?」
勝の表情が一瞬で崩れた。先程までの殺気立った軍艦奉行の顔はどこへやら、近所の気の良い爺のようなだらしない笑みが浮かんでいる。彼は上着のポケットから、懐紙に包んだ干し肉(南山産のビーフ・ジャーキー)の欠片を取り出した。
「ほらよ。高級品だぜ。俺の晩酌のツマミだったんだがな」
猫は「ニャア」と短く鳴き、干し肉を咥えると、勝の膝の上に軽やかに飛び乗った。勝は、猫の温もりを掌で感じながら、その喉をゴロゴロと鳴らせた。
「ちょっと、勝先生。私の絨毯が汚れます」
五代が呆れ顔で言ったが、勝は聞く耳を持たなかった。
「うるせぇな。 猫一匹救えなくて、何が國家だ。こいつも、連れて行くぞ。南山の明望は、魚が美味いらしいからな…お前もそう思うだろ? ミー公」
勝は猫の背中を撫でながら、窓の外、暗闇に沈む大坂の街を見つめた。そこには、明日をも知れぬ不安に怯える何十万もの人々がいる。
全員は救えない。それは分かっている。だが、一人でも多く、一匹でも多く。この男にとって、国家の興亡という壮大なゲームもまた、目の前の猫の昼寝を守るための、泥臭い手段に過ぎないのかもしれなかった。
「急ぐぞ、五代。 西郷が暴れだす前に、荷物をまとめちまうんだ。湿っぽいのは無しだ。俺たちは、新しい國を作りに行くんだからな」
勝の言葉は、自分自身に言い聞かせるような響きを持っていた。 夜明け前の大坂。 歴史の転換点は、政治家たちの演説ではなく、彼ら実務家たちの手によって、静かに、しかし確実に回されようとしていた。
◆
深夜 京都二本松・薩摩藩邸
表通りから聞こえる「ええじゃないか」の狂騒は、厚い土塀を隔てて遠い潮騒のように響いていた。だが、藩邸の最奥にある一室には、勝利の美酒も、歓喜の歌声もなかった。あるのは、通夜のような重苦しい静寂と、行き場を失った殺意が、澱のように沈殿しているだけであった。
「…謀られた」
大久保一蔵(利通)が、ギリリと奥歯を噛み締めた。彼の手には、慶喜が朝廷に提出したばかりの「大政奉還上奏文」の写しが握りしめられている。その高級和紙は、大久保の指の力でクシャクシャに歪み、いまにも引きちぎれんばかりであった。大久保の冷徹な仮面は剥がれ落ち、その顔貌は悔しさと焦燥で赤黒く鬱血している。
部屋の隅には西郷吉之助が、巨大な岩のように座り込み、天井の一点を睨みつけている。その巨躯は、かつてのような福々しい丸みを失っていた。それは飢餓によるものではない。薩摩藩は琉球貿易の利権と、南山との密貿易によって食料自体は確保している。
彼を痩せ細らせたのは、ここ数ヶ月、不眠不休で指揮してきた裏工作:偽金造り、放火、暴動扇動による、極限の精神的摩耗であった。眼窩は深く落ち窪み、充血した双眸は、獲物を前にして逃げられた手負いの獣のようにギラギラと光っている。
「慶喜は、逃げたんじゃ」
西郷の声は、地底からの呻きのように響いた。腹の底から絞り出されたその声には、単なる敵対心を超えた、どうしようもないほどの嫉妬と憎悪が滲んでいた。
「わしらが仕掛けた『ええじゃないか』の火事場から、一番大事な財布だけを持って、逃げ出しよったんじゃ。 戦もせず、血も流さず、涼しい顔で、あとは頼むと言うてきよった。 なんという、なんという卑怯な男か」
彼らのシナリオはこうだった。暴動で混乱する京で、慶喜が武力鎮圧に出るよう仕向ける。あるいは、挑発に乗った会津や新選組に市民を殺傷させ、その事実をもって彼らを「朝敵」と認定する。そして、錦の御旗を掲げて討伐軍を起こし、正義の名の下に徳川を殲滅する。
そうすることで初めて、薩長は「官軍」となり、徳川の持つ莫大な資産、横須賀の製鐵所、そして南山の金山を「戦利品(賠償金)」として合法的に接収できるはずであった。
それが、彼らの描いた勝利の方程式だった。薩摩も長州も、すでに財政は破綻している。最新式スナイドル銃やアームストロング砲を買い込むために、彼らは博多や長崎の豪商、そして英国のグラバー商会から天文学的な借金を重ねていた。その担保はただ一つ。「勝てば、徳川の金で払う」という空手形のみである。
だが、慶喜はその挑発に乗らなかった。あろうことか、戦う前にリングを降り、「お前たちが勝者だ。この国はお前たちにやる。借金も暴動も、全部お前たちのものだ」と言ってのけたのだ。
「西郷さぁ。このままでは、我らは終わる」
大久保が、焦燥にかられて言った。冷や汗がこめかみを伝い、畳に落ちる。
「慶喜の言う公議政体なぞ、まやかしじゃ。 議会が開かれれば、どうなる? 議員を選べるのは、多額の税を納める者…すなわち、東国の豪農や、南山の利権を持つ商人どもばかりじゃ。金を持つ東国と南山派が過半数を占め、我ら西国の人間は、議席の隅で小さくなっているしかない。 我ら薩長は、永遠に外様として、徳川の施しを受けて生きるだけの存在に成り下がる。…それだけは、死んでも御免じゃ!」
大久保の言葉は、持たざる者の悲鳴であった。どれほど武勇に優れようとも、どれほど高い志を持とうとも、「金」という暴力の前には無力である。彼らが徳川を憎むのは、徳川が古いからではない。徳川が持ちすぎているからだ。
南山という無尽蔵の財布を持ち、涼しい顔でこの国を支配する慶喜への、どす黒いルサンチマン(羨望混じりの憎悪)。それが、彼らを突き動かす原動力であった。 「なぜ、あのような冷徹な男が富を独占し、我々のような憂国の志士が借金取りに追われねばならんのだ」 その理不尽への怒りが、彼らの正義の正体であった。
西郷が、ゆっくりと首を巡らせ、大久保を見た。その瞳には、理性の光は消え失せ、修羅の炎が宿っていた。彼は膝の上に置いた拳を握りしめた。爪が皮膚に食い込み血が滲む。
「一蔵、 もう奇策はいらん。 殺すしかない」
西郷の口から漏れた言葉は、政治家のそれではなく、暗殺者のそれであった。
「…殺す?」
「慶喜をじゃ。奴を賊に仕立て上げ、この京で首を刎ねねば、徳川は死なん。大義名分など後からどうにでもなる。奴を殺し、その財産を奪わねば、薩摩の民は飢え死にするんじゃ!」
西郷が立ち上がった瞬間、彼が座っていた床板がミシリと悲鳴を上げた。それは、近代的な経済戦争の敗者が、前時代的な暴力という「禁じ手」に手を染める瞬間の音であった。
大久保は、西郷の狂気を孕んだ瞳を見つめ返し、そして、奇妙なほど静かに頷いた。腹は決まった。もはや、引き返せない。
「岩倉様も、腹を括っておられる」
西郷の声が低く、ドスの利いた響きを帯びる。
大久保の脳裏に、岩倉具視の爬虫類のような冷ややかな笑顔が浮かんだ。
二人の男は、薄暗い行灯の光の下で顔を見合わせた。そこには、かつて日本の夜明けを夢見た青年たちの面影はない。あるのは、生き残るためならば泥水を啜り、神をも騙す覚悟を決めた、老獪で悲しい修羅の顔だけであった。
「…大久保さぁ。これで、わしらも地獄行きじゃな」
「…構わんさ。 薩摩が生き残るなら、閻魔大王の舌でも抜いてやろう」
大政奉還。
歴史の教科書には「平和的な革命」として記されるこの出来事の裏側には、決して表には出せない、毒と欲望と、そして生存を賭けた獣たちの、血の凍るような陰謀が渦巻いていたのである。
(第3部 第11話 完)
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