第11話 大政奉還 - 権力の粉飾決算(上)
慶應三年(一八六七年)一〇月一三日 深夜
二条城・黒書院
障子の外からは、未だに京の都を揺るがす異様な熱気と騒音が、まるで地底から湧き上がる遠雷のように響いてくる。
「ええじゃないか、ええじゃないか」
その言葉の意味を失った呪文のような連呼は、数万の民衆が踏み鳴らす足音と混じり合い、物理的な振動となって城壁を震わせていた。それは、二六〇年の太平を貪り食った古き封建の世が、断末魔を上げながら崩れ落ちる音にも似ていた。
京の夜空は、各所で上がる火の手によって不気味な赤紫色に染まり、時折、爆竹とも銃声ともつかぬ乾いた破裂音が、冷たい秋風に乗って流れてくる。
だが、南山・明望から取り寄せた厚手のビロードのカーテンと、複層構造の防音硝子によって外界と遮断された黒書院の一室は、深海の底のような静寂と、氷点下の如き冷徹な理性に支配されていた。
ここにあるのは、畳と屏風に囲まれた伝統的な将軍の御座所ではない。南山産の紫檀で設えられた重厚な執務机、壁一面に張り巡らされた世界地図、そして京の職人が腕を振るった革張りの回転椅子。
それは、武家の棟梁の寝所というよりは、巨大な多国籍企業の最高意思決定機関の様相を呈していた。
「そろそろ、限界点が見えてまいりましたな」
感情を殺した声でそう告げたのは、勘定奉行・小栗上野介忠順である。彼の目の前にあるのは、紫檀の机と、その上に広げられた膨大な帳簿の山、そして南山から電信で送られてくる最新の市況報告書であった。
小栗の顔色は、連日の不眠と過労で蝋細工のように蒼白に変じているが、眼光だけは異様な輝きを放っている。それは、瀕死の重病患者である「日本国」という巨大な怪物の内臓を解剖し、その病巣を冷徹に特定しようとする外科医の目であった。
その対面に、革張りの回転椅子に深く身を沈め、バカラのクリスタルグラスに入った最高級のコニャックを揺らせている男がいる。
徳川慶喜。彼は、グラスの中で琥珀色の液体が描く波紋を見つめたまま、静かに言った。
「続けよ、小栗。数字は嘘をつかぬ」
慶喜の声には、焦燥も悲嘆もない。あるのは、事実をただ事実として確認しようとする、乾いた渇望のみであった。
「は。…ここ一ヶ月の『ええじゃないか』による騒乱で、京、大坂における税収は見込みの三割近くまで低下する恐れがございます。治安維持のための新選組や会津藩への出動手当、焼失した奉行所や関所の再建費、そして何より、物流の寸断による関税収入の激減…これらが、ボディブローのように財政を蝕んでおります」
小栗は、一枚の紙片を指で弾いた。
「加えて、外交上の圧力が無視できぬ水準に達しております。 昨日の午後、英国公使パークスより、横浜への生糸の納入遅延に対する強硬な抗議文が届きました。フランスのロッシュ公使からも、幕府が借り入れている対日借款の利払いについて、『現在の日本の治安状況では、返済能力に疑義あり』との懸念が示されております。 市中の慶應札への信用は、薩摩の偽金工作により地に堕ちました。物価は先月比で三倍に跳ね上がり、幕臣や旗本の生活は困窮を極めております」
小栗は、脂汗をハンカチで拭いながら、結論を述べた。
「上様。今の幕府は、穴の開いたバケツに水を注いでいるようなものです。 このまま推移すれば、来年度の決算において、『日本列島統治』という事業は、投下資本を回収できる見込みのない、構造的な赤字部門へと転落するでしょう。損益の分水嶺は、すぐ目の前に迫っております」
構造的な赤字。
それは、一時的な不況ではない。統治すればするほど、徳川の資産が目減りしていくという、死の宣告であった。
小栗は、そこで一度言葉を切り、別の、革表紙の重厚な帳簿を開いた。そこには金文字で『南山特別会計』と刻印されている。そのページを開いた瞬間、小栗の表情にわずかな紅潮が戻った。
「対して、南山部門。こちらは極めて順調、いや、絶好調でございます。 明望港からの今年度の輸出額は、羊毛二〇〇万ポンド、銅、鉄、亜鉛、硝石などの戦略物資が計五万トン。さらに、南北戦争後の米国市場に向けて、南山工廠がライセンス製造したスペンサー銃の余剰部品や、缶詰などの加工食品が飛ぶように売れております」
小栗の声に熱が帯びる。
「これらによる純利益は、優に二五〇万両を超える見込み。 南山銀行が発行する銀貨および銀兌換券への信用は盤石であり、上海や香港の市場では、もはや日本の金貨よりも、南山の銀貨の方が堅実な優良通貨として選好されております。ロンドンのシティにおいても、南山債は最も安全な投資先の一つとして認知されつつあります」
慶喜は、グラスを静かに置いた。
カツン、という硬質な音が、部屋の空気を断ち切った。彼は立ち上がり、マントルピースの上に掛けられた巨大な世界地図の前に歩み寄った。その指が、赤く塗られた小さな日本列島と、その遥か南に広がる広大な島々、南山(北嶺島・南山島・入安島)を行き来する。
「明白だな」
慶喜の口元に、冷酷な笑みが浮かんだ。それは武家の棟梁の顔ではない。冷徹な計算尺で世界を測る、巨大コンツェルンの総帥の顔であった。
「徳川という『大店』は、今や二つの全く異なる暖簾を持っている。 一つは、伝統と格式はあるが、老朽化し、借金まみれで、おまけに隣家(薩長)からの放火に怯える『日本屋』。 もう一つは、新興だが、無尽蔵の資源と最新の設備を持ち、莫大な富を生み出し続ける『南山屋』だ」
慶喜は振り返り、小栗を射抜くように見つめた。
「小栗。商いの鉄則、そして投資の極意とは何だ?」
「将来性のない不採算部門を切り捨て、成長部門に資源を集中すること、にございます」
「その通りだ。 今、我々が『日本屋』の看板を守るために、南山で稼いだ金を湯水のように注ぎ込めば、どうなる? 共倒れだ。徳川の富は吸い尽くされ、最後には薩長というハイエナに、骨までしゃぶり尽くされるだろう」
慶喜は、地図上の京都を指で弾いた。
「薩摩の西郷や、長州の木戸。あの餓鬼どもが欲しがっているのは、この『日本屋』の看板と、将軍という椅子だ。くれてやろうではないか」
小栗が息を呑んだ。予想はしていたが、主君の口から直接その言葉を聞く衝撃は大きかった。
「政権を、朝廷にお返しするのですか」
「そうだ。政権を朝廷に返す。大政の奉還だ。 聞こえはいい。忠臣の鑑として歴史に名は残るだろう。 だがその実態は、統治責任という名の莫大な借金を、朝廷と薩長に押し付ける、敵対的な事業譲渡に他ならん」
慶喜は、悪魔的な愉悦を込めて語り続けた。
「想像してみろ、小栗。 明日から、この国の主となった朝廷や新政府が直面する現実を。 パークスやロッシュは、彼らに借金の返済と条約の履行を迫るだろう。 暴徒と化した民衆は、彼らに『米をよこせ』と叫びながら石を投げるだろう。だが、彼らの金庫には一文もない。あるのは、徳川を倒すという熱狂と、空虚なスローガンだけだ」
慶喜は再びグラスを手に取り、香りを楽しんだ。
「金もなければ、行政能力もない公家や田舎侍が、この狂乱する物価高と暴動をどう鎮める? 必ずや音を上げ、泣きついてくる。 『金を貸してくれ』『助けてくれ』とな。 その時こそ、我々は南山の富と軍事力を背景に、救世主として、いや、日本国に対する最大の債権者として、この国の実権を握り続けるのだ」
大政奉還。それは平和的な権力の移譲ではない。
破綻寸前の企業の経営権を、何も知らないライバル企業に押し付け、自らは優良資産だけを持って裏へ回る、極めて高度で、そして悪辣な「粉飾決算」の仕上げであった。
◆
翌、一〇月一四日
二条城二の丸御殿・大広間。
狩野探幽の筆による雄大な松の障壁画に囲まれたこの広大な空間は、在京四十藩の重臣たち、およそ五十名の、押し殺したような呼吸と、脂汗の臭いで満たされていた。
彼らの多くは、昨夜の暴動で屋敷を襲われ、命からがら城内に逃げ込んだ者たちである。豪商・鴻池や三井の別邸が焼かれ、蔵が破られたという報せは、彼らの心胆を寒からしめていた。
「幕府はもうだめだ」「京を守れない」
そんな絶望的な囁きが、広間のあちこちで交わされている。彼らの懐には、暴落して紙屑同然となった慶應札と、明日の米をどう調達するかという切実な不安だけがあった。
その重苦しい空気が、一瞬にして凍りついた。襖が開き、将軍・徳川慶喜が現れたからである。
そこに立っていた慶喜は、将軍宣下の儀式に不可欠な束帯姿でもなければ、武家の正装である麻裃姿でもなかった。彼が身に纏っていたのは、胸に金モールと勲章が輝く、羅紗地で作られた西洋式大礼軍服であった。
列席した諸大名たちは、その姿を見てもはや驚愕することはなかった。将軍職に就いてから慶喜が公の場で和装をすることは稀であり、この異形の軍服こそが、徳川の新しい「力」の象徴であることを、彼らは骨の髄まで理解させられていたからだ。だが、その威圧感は、今日という日にあっては、より一層冷ややかな意味を持って彼らを圧迫した。
慶喜は、上段の間に置かれた安楽椅子に深く腰を下ろすと、無言で群臣を見回した。その眼光の鋭さに、ざわめいていた者たちも、蛇に睨まれた蛙のように沈黙した。
「皆、面を上げよ」
慶喜の声は、大広間の隅々まで届くほど朗々としていたが、そこには感情の熱量が完全に欠落していた。まるで、最新の蒸気機関が、規則正しく蒸気を吐き出すような、無機質な響きであった。
「天下の形勢を観るに、政権を朝廷に帰し奉らざれば、国家の存立を保つこと難し」
広間が、ざわりと揺れた。
言葉の意味を理解するのに、数秒の空白が必要だった。政権を、返す? 徳川が二六〇年握り続けてきた支配権を手放すというのか?
慶喜は動揺する群臣を見下ろしながら、ゆっくりと、噛んで含めるように言葉を継いだ。
「今、世界は激変しておる。蒸気船が海を渡り、電信が瞬時に言葉を運び、列強諸国は虎視眈々とこの極東の島国を狙っている。 かかる時局において、朝廷と幕府という二つの頭が並び立ち、互いに牽制し合っていては、国家の舵取りはままならぬ。
現に、パークスやロッシュといった異国の公使どもは、我々の足並みの乱れを突き、不当な要求を突きつけてきているではないか」
慶喜は一度言葉を切り、ステッキで床を軽く叩いた。
「故に、私は決断した。 これまでの古き慣習を改め、政権を朝廷にお返しする。 徳川一門の私利私欲を捨て、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、心を一つにして皇国を守るならば、必ずや海外万国と並び立つことができるであろう。 これこそが、皇国に報いる唯一の道であると信ずる」
大政奉還。それは、徳川幕府の自己否定であり、敗北宣言であるかのように響いた。
広間は、蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
「上様! なぜでございますか!」 「薩長ごときに屈せられるのですか!」 「我ら譜代の恩義を、何とお考えか!」
老中・板倉勝静が制止しようとするのを手で遮り、慶喜は薄い唇の端を吊り上げた。彼は立ち去ろうとはしなかった。むしろ、獲物を前にした狩人のように、楽しげですらあった。
「静まれ。皆の不安はもっともだ。質問があるなら許す。申してみよ」
最初に声を上げたのは、三河の小藩、譜代大名の一人であった。彼は顔面を蒼白にし震える声で問うた。
「う、上様! 政権をお返しになると仰せられますが、今の朝廷に、国の舵取りなどできましょうか! 禁裏の御料はわずか三万石。兵もなく、金もなく、あるのは伝統という名の古色蒼然とした権威のみ。
そのような無力な朝廷に政権を委ねれば、明日にも薩長のような狼藉者が御所を蹂躙し、我ら徳川恩顧の者は路頭に迷うことになりましょう! 誰が我らを守ってくださるのですか!」
慶喜は、慈父のような表情を浮かべ、しかしその瞳の奥には冷徹な計算の光を宿した眼差しで頷いた。
「其の方の憂慮、痛いほど分かる。 朝廷には金がない。兵もない。行政のノウハウもない。それは事実だ。 だからこそ、私が政権を返すのだ」
「…は?」
「考えてもみよ。手足を持たぬ頭脳だけで、人が動けるか? 朝廷が政権を受け取ったとして、誰が実際に政治を行う? 誰が金を出し、誰が兵を動かす?
結局のところ、実務能力と財力を持つ我々徳川が、形を変えてそれを支えざるを得ないのだ。 征夷大将軍という看板は下ろすが、我々が日本最大の実力者である事実に変わりはない。案ずるな」
譜代大名はポカンと口を開けたが、慶喜の自信に満ちた言葉に、妙な説得力を感じて黙り込んだ。
次に進み出たのは、血気盛んな旗本の代表格であった。彼は憤懣やるかたない表情で、床を拳で叩いた。
「上様! そのようなまどろっこしい真似をせずとも、我が軍には幕府海軍がございます! 横須賀で作った最新のアームストロング砲もございます! 薩摩や長州ごとき、一戦して京から叩き出し、西郷の首を刎ねれば済むことではございませぬか! なぜ、圧倒的な力をお持ちでありながら、みすみす敵に塩を送るような真似をなされるのですか!」
「そうだ!」「戦えば勝てる!」という同調の声が上がる。だが、慶喜は冷ややかに首を横に振った。
「痴れ者め。 今、ここで戦端を開けばどうなる? 京は灰になり、大坂は焼け野原となるだろう。そうなれば、誰が得をする? 喜ぶのは武器を売りつけたい異国の商人たちだけだ。
内戦で国土が荒廃すれば、日本という国の価値は地に落ちる。復興には何十年とかかるだろう。 私は、勝てる戦いであっても、得るものより失うものが大きい戦いはせぬ。それが、上に立つ者の務めだ」
「国の価値」「得るものと失うもの」武士道とは程遠い、商人のような言葉選びに、旗本たちは毒気を抜かれたように押し黙った。
場が鎮まったのを見計らい、土佐藩の参政、後藤象二郎が進み出た。彼は坂本龍馬とも通じる開明派であり、この「大政奉還」のシナリオを山内容堂を通じて建白した張本人でもある。彼の顔には、自らの策が成ったという紅潮と、新しい時代への興奮が浮かんでいた。
「上様のご英断、感涙にむせぶ思いでございます! これにて日本は、無益な流血を避け、欧州列強のような『公議政体』すなわち、諸侯による議会政治へと生まれ変わるのですな? 薩長のような特定の藩が専横を振るうのではなく、公論によって国を決する。これぞ、新しき日本の夜明けでございます!」
慶喜は、後藤を見下ろして鷹揚に頷いた。
「その通りだ、後藤。 これからは、身分や家柄ではなく、『力』と『知恵』を持つ者が国を動かす。 そう、例えば『税』を多く納める者が、相応の発言権を持つ。それが株式会社の理というものだろう?」
後藤は深く頷いたが、その言葉の裏にある毒には気づいていなかった。 日本の富の八割は、南山貿易と東国の重工業地帯に集中している。
「納税額に応じた発言権」など導入すれば、議会は徳川家の息のかかった豪商や、南山利権を持つ親藩大名たちによって埋め尽くされることになる。薩摩や長州のような、借金まみれの西国諸藩は、議席すらまともに確保できぬだろう。慶喜は民主主義という皮を被った「株主総会」を作ろうとしているのだ。
最後に進み出たのは、薩摩藩家老、小松帯刀であった。病身を押して出席した小松の顔色は蒼白だが、その双眸には慶喜への鋭い猜疑心が宿っていた。彼は、西郷や大久保のような武断派とは異なり、高い教養と政治感覚を持つ知性派である。慶喜の言葉の裏にある「何か」を嗅ぎ取っていた。
「上様。政権をお返しになるということは、徳川家が管理してこられた『天下の台所』すなわち、幕府の御金蔵や、南山からの収益もまた、新政府たる朝廷に献上されるということでございましょうか?」
広間が静まり返った。それこそが、全員が最も聞きたかったことだ。インフレと暴動で破綻寸前の日本経済を救えるのは、徳川が独占する南山の富しかない。
慶喜は、小松の質問を待っていたかのように、怜悧な笑みを深めた。
「小松。其の方は勘違いをしておらぬか?」
「勘違い、と申されますと?」
「私が返すと言ったのは政権(統治権)だ。 徴税権、外交権、裁判権……そういった公の権限だ。 …だがな、徳川が南山の荒野を切り拓き、鉱山を掘り、鉄道を敷いたのは、幕府の公金ではない。徳川家の私財と、それに賛同した町人たちの投資によって成し遂げられたものだ」
慶喜は、ステッキで床を一つ叩いた。その音が、乾いた銃声のように響いた。
「公儀のものは朝廷に返す。当然だ。 だが、徳川家の『私有財産』まで没収される謂れはない。英国の法においても、所有権は神聖不可侵だ。 まさか、新しき世を築こうとする其の方らが、個人の財産を不当に奪うような野蛮な真似はすまいな?」
小松が息を呑んだ。論理のすり替えだ。だが、反論できない。「近代化」を標榜する薩長が私有財産を否定すれば、列強諸国からの支持を失う。
慶喜は「政権」という名の赤字部門(借金と責任)だけを切り離し、「南山」という黒字部門(資産と利益)を徳川家の「私的事業」として温存すると宣言したのだ。
ざわめきが、困惑の色を変えて広がっていく。譜代の大名たち、特に財政難に苦しむ小藩の藩主たちは、縋るような目で慶喜を見た。
「…う、上様。では、我々はどうなるのでございますか? 南山の恩恵なくして、領国の経営など立ち行きませぬ! 薩長が政権を握れば、我々は…」
慶喜は彼らに向けて、聖職者のような慈愛に満ちた、しかしその実、悪魔的な甘言を投げかけた。
「…案ずるな。 徳川は政権は手放すが、日本を見捨てるわけではない。南山銀行は今後も変わらず諸藩への融資を続けるだろう。南山物産もまた其の方らの領産物を買い支えるだろう。ただし、それは『政府の命令』ではなく、『商売の契約』としてだ。賢明なる諸侯ならば、どちらの船に乗れば沈まずに済むか、自ずと理解できるはずだ」
その言葉は、大広間にいる者たちの心に、強烈な楔を打ち込んだ。
「徳川についていけば、食いっぱぐれない」「新政府(薩長)につけば、干上がる」
慶喜は政治的な主従関係を、より強固な「経済的な利害関係」へと書き換えたのだ。
(見事な手際だ。まるで、腐った肉を切り落とす外科手術を見ているようだ)
その光景を、上段の間から少し離れた自席から松平容保は冷ややかに見つめていた。彼は堂々とその場に在りながら、慶喜の演説に酔いしれることなく、その本質を見抜いていた。
(上様は、逃げられたのだ。燃え盛る屋敷の鍵を朝廷に投げ渡し、『あとは好きにしろ、修理代はお前持ちだ』と仰っているのだ。
公議政体? 選挙? 笑わせる。
入札権(選挙権)を持つのは納税の多寡による。すなわち、南山の富を握る徳川系の商人と、東国の地主だけになる。議会を作れば徳川が勝つ。金がなければ薩長は何もできない。これは、毒入りの贈り物だ)
容保の隣では、家老の西郷頼母が、「なんと…なんと情けない。徳川の威信は地に落ちた」と嘆いていたが、容保は首を振った。
「違うぞ、頼母。 これは敗北ではない。高度な戦術的転換だ。 薩長は欲しくてたまらなかった『政権』という果実を手に入れるだろう。だが、それを口にした瞬間、その中身が腐敗と借金で満たされていることに気づく。
…吐き出そうにも、もう遅い」
容保は、杖を持つ手に力を込めた。慶喜のシナリオ通りに進めば、日本全土は徳川の経済植民地となる。薩長は政治的な矢面に立たされ、民衆の憎悪を一心に受けて自壊するだろう。
だが、それまでの間、「事業譲渡」が完了するまでの空白期間、誰が京の治安を守るのか? 誰が、暴徒の石礫から、この「毒入りの果実」を守るのか?
(我々だ。會津だ)
容保は理解した。自分たち會津藩や新選組は、慶喜が安全圏へ退避し、資産を保全するための「時間稼ぎ」として、この最前線に配置されているのだと。 慶喜にとって、會津の忠義すらも、貸借対照表の上の一行、償却済みの資産に過ぎない。
だが、それでも容保は動じなかった。誰かが泥を被らねば、この国は内戦の泥沼に沈む。慶喜の策が「偽善」であろうとも、それによって大規模な内戦が回避され、法と秩序が維持されるなら、それは「正義」に近い。ならば、その捨て石の役割、甘んじて受けようではないか。
「質問は以上か」
慶喜は群臣の沈黙を確認すると、満足げに頷いた。
彼は立ち上がり、軍服のマントを翻した。
「私の決意は変わらぬ。直ちに奏上し、帝の御裁可を仰ぐ所存である。皆も、新しき世に備え、せいぜい身辺の整理をしておくことだ」
慶喜は象牙のステッキをカツカツと鳴らしながら、奥へと消えていった。その背中は権力を手放した敗残者のそれではない。不良在庫を一掃し身軽になった実業家の、軽やかな足取りであった。
残された者たちは、しばらく動けなかった。
安堵する者、憤る者、疑う者。
様々な思惑が交錯する中、ただ一つ確かなことは、彼ら全員が、徳川慶喜という巨大な演出家が書いた脚本の上で、踊らされているということであった。
第11話(下)に続く
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