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第10話 祝祭という名の暴動 - ええじゃないか再び(下)

 深夜 二条城


 外堀を隔てた市街地からは、依然として地鳴りのような「ええじゃないか」の絶叫と、爆竹が破裂するような音が断続的に響いてくる。だが、将軍の執務室である「黒書院」の奥、南山製の防音ガラスと重厚なビロードのカーテンで閉ざされた一室は、深海の底のような静寂と、冷え切った殺気に支配されていた。


 第十五代将軍、徳川慶喜は、南山・明望めいぼうの家具職人がマホガニーを削り出して作った革張りの回転椅子に深く沈み込み、手にしたクリスタルグラスの中で揺れる琥珀色の液体、最高級のコニャックを、無表情に見つめていた。


 最新流行の仕立てによる、漆黒のフロックコート。髷も落として久しい。その鋭い眼光と、合理性の塊のような佇まいは、封建領主というよりは、巨大なコングロマリット「徳川ホールディングス」の最高経営責任者(CEO)そのものであった。


 その対面には、勘定奉行・小栗上野介と、老中首座・板倉勝静いたくらかつきよ


 二人の顔色は、蝋細工のように蒼白である。特に小栗は、ここ数日の不眠不休の対応で、眼窩が落ち窪み、まるで骸骨が洋服を着ているような有様だった。


「報告を続けよ」


 慶喜の声は、感情の色が完全に抜け落ちていた。それは、暴落する株式市況を読み上げるティッカーテープのように乾いていた。


「…は」


 小栗が、震える手で電信の紙テープを読み上げる。


「先ほど、河原町の南山物産京都支店が、暴徒により全焼いたしました。地下金庫も破壊され、保管されていた南山銀貨およそ五万両が略奪、あるいは高熱により溶融した模様です」


「堺町御門付近の米問屋、および両替商、壊滅。火の手は御所の塀まで迫りましたが、會津兵の決死の消火活動により、なんとか延焼は免れました」


「大坂より入電。堂島米会所は機能停止。市中の物流は完全に麻痺しております」


 報告の一つ一つが、徳川幕府という巨大組織の「死」を告げる鐘の音のように響く。だが、慶喜は眉一つ動かさなかった。彼はグラスを口に運び、芳醇な香りを鼻孔で味わってから、静かに言った。


「見事なものだ」


「…上様?」


「感心しているのだよ、小栗。 これほど大規模な暴動を、自然発生的に見せかけながら、的確に我々の急所、物流と金融の結節点だけを焼く手際にだ」


 慶喜は立ち上がり、壁に掛けられた巨大な日本地図の前に立った。そこには、薩摩と長州の位置に、赤いピンが突き刺さっている。


「この狂乱の指揮者は、西郷吉之助だ。奴以外に、これほど悪辣で、そして効果的な絵図を描ける者はいない」


 慶喜は断定した。九月の騒ぎは、民衆のガス抜きだった。だが今回は違う。


 ・偽札による通貨攻撃カレンシー・アタック


 ・扇動工作員による治安破壊ライオット


 ・そして、主要インフラへの放火サボタージュ


 これらは全て連動しており、その目的はただ一つ。「徳川には統治能力がない」という事実を、物理的に、視覚的に、満天下に知らしめることだ。


「上様。ご決断を」


 板倉が、床に額を擦り付けるようにして懇願した。


「新選組と會津兵に、実弾の使用許可を。ガトリング砲で暴徒を薙ぎ払わねば、京は灰になります。…もはや、猶予はなりませぬ!」


 慶喜は、地図から視線を外し、板倉を見下ろした。その目は、近視眼的な部下を見る経営者の、憐れみを含んだ氷のようだった。


「ならん」


「な、なぜでございますか! このままでは!」


「板倉。今、ガトリングを撃てばどうなる? 死ぬのは誰だ? 薩摩の兵か? 長州の兵か?

違う。 死ぬのは、飢えた京の市民だ。女だ。子供だ。


奴らはそれを待っているのだ。我々が引き金を引く瞬間を、涎を垂らして待っているのだ」


 慶喜は、グラスの中の酒を飲み干した。


「市民を虐殺した瞬間に、我々は『賊軍』になる。

西郷は、その死体の山を指差して、こう叫ぶだろう。 『見よ! 徳川こそが民を殺す悪鬼である! 帝よ、この悪鬼を討つための勅許を!』とな」


 小栗が、呻くように言った。


「詰み、でございますか」


「ああ。この盤面ボードの上ではな」


 慶喜は、空になったグラスをマホガニーの机に置いた。  


 カツン、という硬質な音が、部屋の空気を変えた。それは、敗北を認める音ではない。新しいゲームを始めるための、駒を置く音だった。


「小栗。政権という名の不良債権を、損切り(ロスカット)する」


「…は?」


「日本国統治という事業は、もはやコストに見合わん。治安維持費、社会保障費、そして今回のような暴動リスク。これらは全て、利益を食いつぶす赤字部門だ」


 慶喜の口元に、冷酷な笑みが浮かんだ。それは、武家の棟梁の顔ではない。欧米の投資銀行から「黄金の錬金術師」と呼ばれ、公金に一切手を付けずに巨万の富を築いた、希代の投資家の顔だった。


「くれてやろう。 統治権だ。 帝に、そしてそれを欲しがっている薩摩や長州という餓鬼どもに、この爆発寸前のゴミ屋敷を、熨斗のしをつけてくれてやるのだ」


 慶喜は地図上の「南山」を指でなぞった。


「いいか、小栗。 我々には南山がある。艦隊がある。そして、貿易と金融の利権がある。 政治という金のかかる名誉職は、朝廷に押し付ければいい。


 金もなければ、行政能力もない新政府が、このインフレと暴動をどう鎮めるか。必ずや音を上げ、泣きついてくる」


 慶喜の構想は、南山への完全移転ではない。政権を返上することで、敵である薩長に「統治責任」という十字架を背負わせ、自滅させる。そして、経済力と軍事力を温存した徳川が、新体制(連邦政府)の実質的な支配者(首相)として君臨する。それは、究極の「毒入りの贈り物」であった。


          ◆


 同時刻 京都黒谷・金戒光明寺


 京都守護職の本陣が置かれたこの古刹は、山門から京都市街を一望できる要衝である。その山門の上に、容保は立ち尽くしていた。


 自前で調達した、プロシャ陸軍高級士官の軍服の写し。漆黒の詰襟に金モールがあしらわれたその重厚な軍装を、彼は生まれながらの皮膚のように自然に着こなしていた。その佇まいは、近代的な啓蒙思想と功利主義を身につけた、理知的で冷徹な「哲人君主」そのものであった。


 燃え盛る京の火映りが、彼の端正な横顔を赤く照らしている。彼の中には、もはや激情はない。孝明天皇への個人的な忠義は、帝の崩御と共に過去のものとなり、今はただ、譜代としての「義務デューティ」と、法治国家の管理者としての「理性」だけが彼を支えていた。



「…殿。お下がりください。流れ弾が飛んでくるやもしれませぬ」


 家老の西郷頼母さいごう たのもが、主君の身を案じて悲痛な声を上げる。


 だが、容保は動かなかった。彼の手には、一本の杖が握りしめられている。南山特産の「鐡木アイアンウッド」を削り出し、芯に鉛を鋳込んだ特注品。


 妻・照姫が「京の夜道は物騒ですから」と微笑んで贈ってくれたそれは、極めて実用的で、かつ殺傷能力の高い護身具であった。容保は、数珠の代わりにこの鈍器を握りしめ、地獄を見下ろしていた。


「慌てるな、頼母。ここまでは届かんよ」


 容保の声は、眼下の炎熱とは対照的に、氷のように冷静だった。彼は杖の石突いしづきで、コツンと瓦を叩いた。


「よく見ろ。 炎が上がっているのは、河原町の南山物産、三条の両替商、そして堺町の米問屋だ。 無秩序に見えて、極めて『合理的』に、この街の経済機能ライフラインを焼いている」


 容保の瞳に、恐怖や悲しみはない。あるのは、為政者が危機的状況クライシスを分析する時の、乾いた知性だけだ。


「殿は、誰かが糸を引いていると?」


「状況証拠は揃っている。 偽金による信用の破壊。扇動者による暴動の誘発。そして、経済中枢への精密打撃。


 これは、古臭い一揆ではない。最新の『経済戦争』だ。 指揮官がいるはずだ。おそらくは、あの薩摩の巨魁あたりだろうがな」


 容保は淡々と述べた。彼にとって、それが西郷隆盛であろうとなかろうと、対処すべき現実は変わらない。眼下では、會津兵たちが必死の防衛戦を行っていた。  


 彼らは抜刀せず、銃撃もせず、ジュラルミンの盾を構えて「人の壁」となり、投石と罵倒に耐えている。それを見て、頼母が唇を噛んだ。


「…なんと口惜しい。精強無比なる會津兵が、あのような暴徒に一方的に殴られるとは。殿、一斉射撃のご命令を。さすれば」


「ならぬ」


 容保は、杖で床を強く突いた。


「撃てば、勝てる。暴徒は散り、静寂が戻るだろう。 だが頼母、それは『秩序』ではない。『恐怖』による支配だ。 我々は、法と秩序の番人だ。無法者と同じ土俵に立ってどうする。


 耐えよ。盾で押し返し、放水で火を消せ。 我々が守るべきは、幕府のメンツではない。法治ということわりそのものだ」


 容保の言葉は、マキャベリストとしての計算に基づいていた。ここで市民を撃てば、會津は永遠に「虐殺者」の汚名を着る。それは、将来、自分たちが目指す「あるべき国」の建設において、致命的な政治的負債となる。


 たとえ幕府が倒れようとも、會津という組織と人材リソースを温存し、次の時代へ繋ぐためには、今ここで「感情的な発砲」をする愚だけは避けねばならない。


 その時、背後の闇から、カツカツと靴音がした。振り返ると、そこには凛とした立ち姿の女性がいた。容保の妻、照姫である。彼女は戦場のような喧騒の中でも動じることなく、静かに容保に近寄ると、手にした軍帽を差し出した。


「…殿。二条城より、急使が参っております」


 照姫の声は落ち着いていた。彼女もまた、容保と共にこの激動の時代を、冷徹に見据える「鉄の淑女」であった。


「そうか。来たか」


 容保は、照姫から軍帽を受け取り、被り直した。


 その表情は、悲劇のヒーローのそれではない。難局に臨む実務家テクノクラートの、不敵な面構えであった。


「行こうか、頼母。 上様のことだ。我々の予想の斜め上を行く、とんでもない『ちゃぶ台返し』を用意しているに違いない。 …最後の最後まで、あの食えない公方様の共犯者を演じてやろうではないか」


 容保は、足早に階段を降りていった。その背中には、迷いも女々しさも微塵もない。ただ、やるべき仕事を淡々とこなす、プロフェッショナルの乾いた殺気だけが漂っていた。


          ◆


 大坂・海軍伝習所。ここもまた、不眠不休の戦場となっていた。通信室では、會津製のディニエ式電信機が、狂ったようにカタカタと音を立て、京都からの悲報を吐き出し続けている。


 その騒音の中で、一人の男が、安楽椅子から飛び起き、太い葉巻を噛み砕かんばかりに怒鳴り散らしていた。  


 軍艦奉行・勝安房守義邦かつかいしゅう


 彼は、普段の飄々とした態度はどこへやら、額に脂汗を滲ませ、必死の形相で部下たちに指示を飛ばしていた。


 彼には、京都の暴動が誰の仕業かなど分からない。西郷の陰謀か、それとも単なる自然発火か。そんなことを分析している余裕はなかった。彼に見えているのは、「日本経済の心停止」という、目前の事実だけだ。


「おい! 堂島の相場が止まったってどういうことだ! 米が回らなきゃ、大坂も江戸も干上がるぞ!」


 勝は、電信紙を握りつぶした。彼の周りには、海援隊や、南山物産の若手社員たちが詰めかけ、悲鳴のような報告を上げている。


「先生! 慶應札の暴落が止まりません! 両替商が店を閉めて、取り付け騒ぎが起きています!」


「物流が止まりました! 船が出せません!」


「ええい、うるせぇ! 泣き言言ってる暇があったら手を動かせ!」


 勝は壁に貼られた巨大な海図を拳で殴りつけた。


 彼は神ではない。全てを見通しているわけではない。だが、船乗りとしての直感が告げていた。このままでは、幕府どころか、日本という船が沈没する。  政治の話は後だ。まずは穴を塞がなければならない。


「いいか、お前ら。銭が信用できねぇなら、現物だ! 五代に打電しろ! 『京と大坂の火事は、俺たちが消す。だが水じゃねえ。モノで消すんだ』とな!」


「…モノ、ですか?」


「おうよ! 皆が狂躁になってんのは、明日食う米がねえ、持ってる金が紙屑になるって恐怖からだ。


なら、目の前に山ほどの米と、本物の銀貨を積んでやりゃあいい! 南山の輸送船団を、ありったけ大坂に集結させろ! 米、肉、燃料、そして南山銀貨! 倉庫がパンクするほど運び込め!」


 勝の目は血走っていた。それは、なりふり構わぬ現場監督の目だった。


「暴徒が『もう食えねえ』って音を上げるまで、物量で殴り倒すんだ! 誰が仕掛けた喧嘩か知らねえが、経済の根っこまで腐らされちゃあ、たまらねえ。


…幕府が潰れようがどうしようが、民百姓を飢え死にさせるわけにはいかねえんだよ!」


 そこへ、足元に一匹の三毛猫がすり寄ってきた。  普段なら「おお、よしよし」とデレるところだが、今はそれどころではない。  


「邪魔だ、あっち行ってろ!」


 勝は猫を追い払いながら、ふと自宅の妻・民子の顔を思い浮かべた。


(こりゃあ、家に帰ったら民子の雷が落ちるな。『こんな大事な時に、あんたは何を遊んでるんだ』ってな)


 天下の暴動よりも、妻の小言の方が怖い。そんな生活の実感が、逆に勝の腹を据えさせた。


「やるぞ。 この国という船が沈む前に、まずは浸水を止めるんだ。忙しくなるぞ!」


          ◆


 翌一〇月一三日 二条城・大広間。


 在京の諸藩重臣たち――四十藩、約五〇名――が、緊張した面持ちで整列していた。彼らの多くは、昨夜の暴動で屋敷を襲われ、命からがら城内に逃げ込んだ者たちだ。その顔には、疲労と幕府への不信感が色濃く浮かんでいる。  


「幕府はもうだめだ」「京を守れない」


 そんな囁きが、広間のあちこちで交わされている。


 そのざわめきが、ふっ、と止んだ。


 襖が開き、徳川慶喜が現れたからだ。彼は、いつもの南山製の黒いフロックコートを身に纏っていた。その姿は、日本の伝統的な支配者というよりは、近代的な国家元首、あるいは巨大財閥の総帥のようであった。


 慶喜は、上段の間に着座すると、無言で群臣を見回した。その眼光の鋭さに、ざわめいていた者たちも、蛇に睨まれた蛙のように沈黙した。


「皆、昨夜の騒ぎで肝を冷やしたことであろう」


 慶喜の声は、よく通った。だが、そこには謝罪の色はない。


「民は飢え、秩序は乱れ、この国は今、崩壊の瀬戸際にある。 その責は、ひとえに、古き慣習に縛られ、時代の変化に対応しきれなかった、我が徳川の不徳にある」


 広間がどよめいた。将軍が、自らの非を認めたのだ。だが、慶喜の次の言葉は、彼らの予想を遥かに超えるものだった。


「よって、私は決断した。 この政権かぶを、帝にお返しする」


 大政奉還。  


 歴史の教科書では、平和的な政権移譲として美談のように語られるこの出来事。だが、この瞬間、この場所にいた者たちが感じたのは、感動ではなかった。それは、巨大な重荷をいきなり背負わされたような、戦慄と困惑であった。


 慶喜は、心の中で舌を出していた。  


(さあ、受け取るがいい。インフレという借金と、暴動という不良債権を抱えた、この破綻寸前の会社を。 薩摩よ、長州よ。お前たちに、この火の車が回せるかな?)


 それは、徳川慶喜という天才が放った、起死回生の、そしてあまりにも毒を含んだ「敵対的事業譲渡」の宣言であった。




(第3部 第10話 完)

最後までお付き合いいただき感謝します。

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