第10話 祝祭という名の暴動 - ええじゃないか再び(上)
慶應三年(一八六七年)一〇月
京の都は、腐乱した果実のような、甘く、そして鼻をつく危険な香りに包まれていた。
空は高く澄み渡り、東山の木々が赤く色づき始める美しい季節。本来ならば、平安の昔から詠まれてきた和歌のような、雅な秋が訪れるはずであった。だが、その空から降ってきたのは、紅葉ではなかった。
バサリ、バサリ。
乾いた音を立てて、空から「紙」が降ってくる。 それは伊勢神宮の御札であり、三峰神社の護符であり、そして何よりも、薩摩の地下工場で刷られ、工作員によって屋根の上から撒かれた大量の「偽・慶應通宝」であった。
「…ええじゃないか、ええじゃないか」
地鳴りのような律動が、四条河原の向こうから響いてくる。京都町奉行所の同心、駒井重五郎は、路地裏の居酒屋「松葉」の格子の隙間から、その光景を見つめ、安物の焼酎を喉に流し込んだ。
アルコール度数だけはやたらと高い、入安島産の粗悪な密造酒が、喉を焼き、胃袋を焦がす。だが、そうでもしなければ、目の前の現実を直視できなかった。
彼の脳裏には、先月――九月に起きた、最初の「ええじゃないか」の記憶が蘇っていた。あの日、人々は笑っていた。空から降ってきた御札に驚き、日頃の鬱憤を晴らすように、男は女の着物を着て、女は男の着物を着て、無礼講の馬鹿騒ぎを演じた。
それは、南山景気の恩恵を受けられない庶民たちの、ガス抜きのような、どこか牧歌的な祝祭だった。
「まあ、世の中が変わるなら、それでもええじゃないか」という、楽天的な諦観があった。 あれは、急激な変化の歪みが生んだ、自然発生的な発作のようなものだった。熱を出して汗をかけば、いずれ治る類のものだと、誰もが思っていた。
「…だが、今度のは違う」
駒井は、使い古した十手を握る手に力を込めた。手のひらに、鉄の冷たさと重みが食い込む。
通りを埋め尽くす群衆の目は血走っている。彼らの手には扇子や三味線ではなく、金槌や、竹槍、そして火のついた松明が握られている。
彼らの口から漏れる「ええじゃないか」は、もはや陽気な囃子歌ではない。
呪詛だ。
飢えと、裏切られた信用と、行き場のない怒りを叩きつける、暴力的なシュプレヒコールだ。
「あぶく銭を吐き出せ!」「南山の異人を殺せ! ガス燈を叩き割れ!」「世直しじゃ! 徳川のつくった借金の世の中を、焼き払え!」
先頭を歩くのは、ボロ着を纏っているが足運びが鋭い男たち。薩摩と長州から送り込まれた、扇動工作員だ。駒井の同心としての勘が告げている。あいつらは、踊っていない。群衆を操っているのだ。
彼らが松明を投げ込むと、南山物産の出張所が入る商家から、紅蓮の炎が吹き上がった。南山から輸入された灯油が爆発的に燃え上がる。ガラスが砕け散る音。女子供の悲鳴。そして、爆発的に広がる野獣のような歓声。
「こいつは祭りじゃねえ。暴動だ」
駒井は、震える手で杯を置いた。インフレという名の疫病で理性を失った都市が、自らの身体を掻きむしり、血を流し始めたのだ。九月のあれが「夢」だとしたら、これは「悪夢」だ。そしてこの悪夢は、誰かが意図的に見せているものだ。
◆
同時刻 大坂。天下の台所と呼ばれたこの街もまた、カオスの渦中にあった。
加島屋本店。その二階から、広岡浅子は、眼下の光景を蒼白な顔で見下ろしていた。 淀川にかかる難波橋の上を、松明を持った群衆が埋め尽くしている。
「米をよこせ!」「銀貨を出せ!」
彼らの標的は、米問屋と両替商だ。もはや「ええじゃないか」の踊りですらない。ただの略奪である。 群衆の中には、大坂町奉行所の同心の姿も見えたが、彼らは群衆を止めるどころか、一緒になって米俵を担ぎ出している。奉行所の給金もまた、紙屑同然の慶應札で支払われているからだ。法を守る側の人間が、飢えによって獣に堕ちていた。
「浅子はん。もうあかん。逃げまひょ」
手代が泣きそうな顔で懇願する。だが、浅子は動かなかった。彼女の鋭い目は、群衆の中に紛れ込む、数人の男たちの動きを追っていた。彼らは略奪には加わらず、米会所の相場表を焼き払い、帳簿を川に捨てさせている。
(あれは、泥棒やない…証拠隠滅や)
浅子は戦慄した。この暴動の目的は、単なる食料の確保ではない。幕府の経済基盤である「信用取引」の記録を抹消し、システムそのものを再起不能にすることだ。
(薩摩か…恐ろしいことをしはる)
彼女は、懐から南山製の護身用デリンジャーを取り出し、着物の袂に忍ばせた。商売道具の算盤では、もはや自分の身さえ守れない時代が来たことを、彼女は悟っていた。
◆
そして、江戸。将軍のお膝元であるこの巨大都市も、不穏な空気に包まれていた。浅草の寄席。 三遊亭圓朝は、高座の上から客席を見渡した。いつもなら満員の客席に今日は空席が目立つ。来ている客も、どこか上の空で笑い声にも力がない。
外からは、遠雷のような太鼓の音と「ええじゃないか」の合唱が聞こえてくる。それは、江戸の町人たちが本来持っている「粋」な祭り囃子ではない。もっとドロドロとした、怨念の篭った低音だ。
「ええ、どうも近頃は、笑うに笑えねえ話ばかりで」
圓朝は、扇子を開き、自嘲気味に語り始めた。
「昨日、日本橋で米屋が襲われましてね。 暴れた連中が何を盗んだと思います?
米じゃないんです。 店の看板ですよ。 『こんな立派な看板掲げて、中身は空っぽか!』ってんで、へし折って川に流しちまった。まるで、今のお上のことを言ってるようで、背筋が寒くなりましたよ」
客席から力ない笑いが漏れる。
江戸っ子たちは感じていた。徳川という巨大な看板が、今まさにへし折られようとしていることを。そして、その看板の下で暮らしてきた自分たちの日常が、音を立てて崩れ去ろうとしていることを。
圓朝は高座を降りると、楽屋口から外を覗いた。
隅田川の向こう、本所や深川のあたりから、黒い煙が上がっているのが見えた。
火事だ。
だが、半鐘は鳴らない。火消したちもまた酒を飲んで踊っているのだ。
「火事と喧嘩は江戸の華、なんて言いますがね…こいつは、枯れ野に火がついたようなもんだ」
圓朝は着物の襟を合わせた。この火は、簡単には消えない。江戸という都市が自らの脂で燃え尽きるまで、止まらないだろう。
◆
京、大坂、江戸。
日本の三大都市は示し合わせたように同時に発火した。
それは、自然発生的な暴動などではない。西郷吉之助という稀代の革命家が仕掛けた、国家規模の「同時多発テロリズム」であった。偽札による経済の麻痺、ええじゃないかによる治安の崩壊、そして扇動工作による放火。これらは全て、徳川慶喜の手から「統治能力」というカードを奪い取るための、冷酷な計算式の一部だったのである。
◆
同日午後二時 京都守護職本陣・金戒光明寺。および、西本願寺境内の新選組屯所。
突如として、けたたましい非常呼集のラッパが、秋晴れの空を切り裂いた。それは、通常の市中見廻りや浪士狩りを示す信号ではない。
「第一種戦闘配備」
敵正規軍の侵攻、あるいは大規模な反乱発生時のみ令される、最上級の警戒コードであった。
「総員、武装せよ! 弾薬は規定の倍を持て!」「第三分隊、ガトリング砲の牽引急げ! 馬を出せ!」
新選組の屯所内は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。非番で寝ていた隊士も、将棋を指していた隊士も、全員が弾かれたように飛び起き、南山製の濃紺の軍服に袖を通す。彼らの目はもはや浪士集団のそれではない。近代的な軍事訓練を受けた兵士の、研ぎ澄まされた光を宿していた。
局長・近藤勇は、愛刀「長曽祢虎徹」を帯に差し、その上から重厚な革製のガンベルトを巻いた。ホルスターには、鈍く光る「スミス&ウェッソン No.2」が収まっている。彼の背後には、副長・土方歳三が、冷徹な指揮官の顔で立っていた。土方は、手に持った電信の紙テープを握りつぶし、低い声で唸った。
「始まったか。西郷の野郎、ついにやりやがった」
土方の指示が飛ぶ。
「斎藤、三番隊を率いて四条大橋を封鎖しろ! 永倉、二番隊は河原町通へ展開! 暴徒を御所へ近づけるな!」
「発砲許可は?」
斎藤一が、スペンサー騎兵銃のレバーを操作し、装填を確認しながら問うた。
「現場の判断に任せる。だが、相手は町雀だ…できるだけ威嚇で散らせ」
土方の苦渋の表情を見て斎藤は無言で頷き、部下たちに合図を送った。隊列を組んだ新選組の兵士たちが、規則正しい軍靴の音を響かせて屯所を出て行く。彼らが向かう先は戦場ではない。狂気と混沌が支配する、地獄の祝祭会場であった。
◆
午後三時。四条大橋。
鴨川に架かるこの橋は、京都市街と祇園などの東山地域を結ぶ要衝である。だが今、そこは「人の壁」によって封鎖されていた。
「なんだ、ありゃあ」
先着していた京都守護職・會津藩の別選組隊長、佐川官兵衛が、馬上から呆然と呻いた。彼が率いる會津兵五〇〇名は、橋の東詰に陣取り、槍とライフル銃を構えていたが、その切っ先は小刻みに震えていた。彼らの目の前、河原町通から橋へと押し寄せてくるのは、敵軍の整然とした隊列ではない。
数万、いや十数万に膨れ上がった、極彩色の津波であった。
「ええじゃないか! ええじゃないか!」「南山の神様、お通りだ! どけ! どけ!」
先頭を歩くのは、南山風の腰布一丁になり、顔をベンガラで赤く塗った男たち。彼らは太鼓を打ち鳴らし、奇声を上げて踊り狂っている。だが、佐川の歴戦の勘が告げていた。
(違う。先頭の連中は、踊っていない)
彼らの目は笑っていない。群衆を扇動し、巧みに會津兵の防御ラインの薄いところへと誘導している。 薩摩と長州から送り込まれた、プロの扇動工作員だ。
そして、その後ろに続く無限とも思える人の波。老人がいる。赤子を背負った女がいる。商家の丁稚がいる。彼らは皆、インフレと将来不安によって理性を焼き切られ、集団催眠にかかったように「ええじゃないか」と叫びながら、石や瓦礫を投げつけてくる。
「隊長! 撃ちますか!?」
部下が悲鳴のような声を上げる。
「馬鹿者! 撃ってどうする! 相手は赤子を抱いた母親だぞ!」
佐川は怒鳴り返した。長州の兵なら斬れる。武装したテロリストなら撃てる。だが、この「民意」という名の、形のない怪物には大砲も銃剣も通用しない。もし発砲すれば、その瞬間に會津藩は「朝敵」となり、徳川幕府は「自国民の虐殺者」として、統治の正当性を永遠に失うことになる。
「新選組が来ました!」
西の方角から、濃紺の軍服を着た一団が、駆け足で到着した。斎藤一率いる三番隊、および土方歳三の本隊である。彼らは即座に會津兵の隙間を埋め、ジュラルミン製の盾(ライオット・シールドの原型)を構えて「盾の壁」を形成した。さらに後方には荷車から降ろされた「ガトリング機関砲」が据え付けられる。六本の銃身が、鈍い光を放って群衆を睨みつける。
「佐川殿。状況は?」
土方が、馬上の佐川に声をかけた。
「見ての通りだ、土方君。手が出せん。これは戦争ではない…悪夢だ」
佐川は、苦々しげに吐き捨てた。
「全隊、着剣! 威嚇射撃用意!」
土方の号令で、新選組の兵士たちが一斉にスペンサー銃を空に向けた。
ズドン! ズドン!
一斉射撃の轟音が響き渡る。通常なら、これで暴徒は蜘蛛の子を散らすように逃げるはずだ。だが。
「わあぁぁぁっ! 花火だ! 祝砲だ!」「もっと撃て! 景気良くいこうぜ! ええじゃないか!」
群衆は銃声さえも祭りの演出として飲み込んでしまった。恐れるどころか、さらに興奮し、歓声を上げて押し寄せてくる。
「南山の犬め!」「あぶく銭で買った鉄砲か!」
罵声と共に石つぶてや汚物が雨のように降り注ぐ。盾を構えた隊士たちが、じりじりと後退する。
「くそッ!」
土方は、奥歯が砕けるほどに噛み締めた。仏蘭西の軍事顧問から教わった「暴動鎮圧」のマニュアルには、こんな事態は書かれていなかった。あるのは、人間を効率的に殺害するための方法だけだ。
手加減のできない暴力装置。それが、今の新選組の正体であり、限界であった。
「副長。ガトリングを回しますか?」
斎藤一が蒼白な顔で尋ねた。彼の手はガトリング砲のクランクハンドルにかかっている。これを回せば一分間に三五〇発の鉛弾が群衆を薙ぎ払う。
目の前の橋は数秒で血の海となり、死体の山が築かれるだろう。そうすれば暴動は止まる。だが、その代償として、新選組は、そして徳川幕府は人の心を失うことになる。
土方は斎藤の手を見た。
震えている。あの冷徹な人斬り・斎藤一が、引き金を引くことを恐れている。
「待て…まだだ」
土方は、絞り出すように言った。
「斬れば斬るほど俺たちが悪者になる。撃てば撃つほど幕府の寿命が縮む……西郷め、卑怯な手を使いやがる!」
その時。群衆の中から、火炎瓶(ラム酒の瓶に布を詰めたもの)が投げ込まれた。
ガシャン!
破裂音と共に橋の欄干にある南山製のガス燈が炎に包まれる。シューッという音と共にガスが噴き出し、火柱が上がる。
「燃やせ! 文化の灯りなんて燃やしちまえ!」
群衆の歓声。それは、近代化という「上からの改革」に対する、土着の「情念」による集団リンチであった。
「下がるな! ライン(戦列)を維持しろ! 銃床で殴り返せ! 決して撃つな!」
近藤勇がサーベルを振りかざして叫ぶ。だが、その声は悲鳴に近かった。最強の武装集団である新選組と會津兵が、棒切れを持った丸腰の群衆に押され、惨めにも後退していく。
圧倒的な火力を持ってしても、「民意」という名の暴力には勝てない。それが、近代軍隊として彼らが直面した、最初のパラドックスであった。
◆
その光景を安全な高みから、冷たい陶酔の眼差しで見下ろす者たちがいた。
東山・青蓮院門跡
代々の皇族や摂関家が門主を務めるこの格式高い寺院は、下界の喧騒とは無縁の静寂に包まれているはずであった。だが今夜、その宸殿の濡れ縁には、不吉な赤黒い光が揺らめいていた。眼下に広がる京の都が燃えているのだ。
二人の公家が密輸されたクリスタル・ガラスの杯を傾けている。中身はフランス産の極上赤葡萄酒 その血のような液体に、燃え盛る市街の炎が映り込み揺れている。
一人は、岩倉具視
下級公家の出身ながら、その爬虫類を思わせる冷徹な眼光と、権謀術数の才覚で朝廷の裏面を支配しつつある策士である。
そしてもう一人。豪奢な装束を崩して座り、白粉の浮いた顔でヒヒヒと下卑た笑い声を上げているのは、中山忠能
帝の外祖父にあたる権大納言であり、狂信的な攘夷主義者として知られる、朝廷内の「不愉快な古狸」の筆頭であった。
「おお、燃える、燃える…まるで地獄の釜が開いたようでおじゃるな」
中山は扇子で口元を隠しながら、炎上する河原町の方角を指差した。そこでは、南山物産の出張所が入る土蔵が、暴徒の投げ込んだ松明によって火柱を上げている。
「南山の異人どもが持ち込んだ『瓦斯』とかいう毒気が、あのように爆ぜるとは…やはりあれは、この神州を汚す鬼火であったのじゃ…して、岩倉。お主、よくぞ戻れたものよな」
中山が、粘りつくような視線を岩倉に向けた。岩倉具視は、本来ここにはいられない身であった。
先帝・孝明天皇の不審な崩御。噂によれば毒殺とも言われる、に関与したとの嫌疑をかけられ、朝廷を追放され、洛北の岩倉村にて蟄居閉門の身となっていたはずだからだ。京都所司代や新選組の厳しい監視下に置かれ、一歩も村を出られぬはずの「国事犯」が、なぜ今、京のど真ん中にいるのか。
「中山卿…この世には、『鍵』というものがございます」
岩倉はグラスの脚を指先で弄びながら、薄く笑った。
「所司代の役人も、新選組の密偵も、人の子でございます。南山のインフレで米も食えぬ彼らに、薩摩の大久保一蔵殿が用意した南山銀貨の山を見せれば、大抵の扉は開くのでございますよ」
岩倉の帰還は、金と暴力、そして混乱が生み出した奇術であった。西郷らが仕掛けた「ええじゃないか」の狂乱により、京都の治安維持機能は麻痺していた。見廻組も所司代も、暴徒の鎮圧に忙殺され、一人の公家の監視になど人員を割けなくなっていたのだ。
その隙を突き、大久保利通は手練の薩摩藩士を岩倉村へ送り込んだ。監視役を買収し、あるいは闇に葬り、岩倉を荷車の南山製の肥料袋の山に隠して洛中へと運び込んだのである。今、岩倉村の座敷牢には、岩倉の影武者が座っているはずだ。
「大久保め、抜け目のない男よ…お主という劇薬を、この土壇場で使いこなすつもりか」
「劇薬、結構。毒をもって毒を制す。徳川慶喜という希代の怪物を倒すには、私のような劇薬が必要なのでございます」
岩倉の脳裏に、岩倉村の粗末な隠れ家で、大久保と膝を突き合わせた夜のことが蘇る。
大久保は言った。『徳川の城は金では買えぬ。大砲でも崩せぬ。崩せるのは、帝の権威という名の雷のみ』と。その雷を落とすための避雷針こそが、岩倉具視という存在であった。
岩倉は、眼下の炎を見つめた。
(出来すぎじゃ)
「ええじゃないか」の絶叫。太鼓の乱打。そして、統率されたかのように主要な商家や奉行所を襲撃する暴徒たち。自然発生的な怒りだけでは、これほど的確に徳川の急所を突くことはできない。
誰かが薪をくべている。 誰かが、風を送っている。
「民の声は、天の声でおじゃる」
中山が、酔いの回った赤ら顔で叫んだ。
「見よ、岩倉…民草は、徳川の悪政に愛想を尽かしたのじゃ。南山のあぶく銭で肥え太り、異人の真似事をして悦に入る慶喜め。天誅が下ったのじゃよ」
「…御意にございます」
岩倉は、胸の内で舌を出した。 民の声? 馬鹿げている。あれは飢えた獣の咆哮だ。だが、政治においては、その咆哮をどう「翻訳」するかが勝負なのだ。 岩倉にとって、この暴動の真偽などどうでもよかった。重要なのは、この「カオス」が、徳川幕府の「統治不能」を物理的に証明しているという一点に尽きる。
「さて、中山卿…この機を逃す手はございませんな」
岩倉は声を潜め、悪魔の囁きのように切り出した。
「徳川慶喜は、もはや京の治安すら守れぬ無能者。南山の富を独占し、民を飢えさせ、この神都を火の海にした逆賊でございます。今こそ、帝の御名において、あやつに引導を渡すべき時かと」
「うむ。して、いかがする?」
「『辞官納地』でございます」
その言葉が落ちた瞬間、夜の空気が一段と冷え込んだように感じられた。
辞官納地。
内大臣という官位の辞退と、徳川家が持つ領地、すなわち四〇〇万石の天領と、南山植民地からの収益権すべての朝廷への返上。それは、実質的な徳川家の取り潰しであり、完全なる武装解除を迫る要求であった。
「おお、それよ!」
中山は、膝を打って喜んだ。その目は、現実を見ない夢想家の狂気に満ちていた。
「徳川の領地を召し上げ、すべてを帝の直轄領(天領)とする。古の『公地公民』の再現じゃ!…そうすれば、南山の富も、金山も銀山も、すべて朝廷のものとなる。麿たちの蔵も、金銀財宝で溢れかえるというものじゃ!」
中山は、南山の「富」が、複雑な金融システムと貿易ネットワーク、そして高度な工業技術によって生み出されていることを理解していない。 彼は、南山を単なる「宝島」だと思っている。徳川を追い出せば、そこに生えている金の果実を、自分たちがもぎ取れると信じているのだ。
「その通りでございます」
岩倉は、軽蔑を隠して調子を合わせた。彼自身も経済の詳細は分からない。だが、徳川が握っている「財布」を奪わねば、新しい国家など作れないことは理解していた。
「南山を取り戻せば、我らは世界を相手に堂々と振る舞えましょう」
中山の妄想は、アルコールと炎の熱気でさらに膨張していく。
「まずは、南山に巣食う異人どもを追放じゃ。神聖なる帝の領土に、青い目や黒い肌の夷狄がいるなど、言語道断。彼らを追い出し、穢れを祓い、清浄なる『皇国南山』を建設するのじゃ! そして、南山で採れた鉄で、巨大な軍艦を作り、メリケンやエゲレスの艦隊を蹴散らす! 日本こそが、世界の盟主となるのじゃ!」
それは、経済の論理も、国際法の常識も無視した、狂気じみた精神論であった。南山の鉱山も工場も、外国人技師や移民労働者がいなければ一日たりとも稼働しない。彼らを追放すれば、南山はただの荒野に戻り、日本経済は即死する。だが、この二人の公家にとって、そんな「些末な実務」はどうでもよかった。 重要なのは、徳川が築き上げた「近代」という不愉快なシステムを否定し、自分たちが頂点に立つ、心地よい「古代」の夢を見ることだけなのだ。
「素晴らしいお考えでございます」
岩倉は、グラスの底に残った澱のような葡萄酒を飲み干した。口の中に、鉄錆のような渋みが広がる。
「しかし、慶喜という男は古狸。素直に首を差し出すとは思えません」
「ならば、どうする?」
「『切り札』を使います」
岩倉の目が、蛇のように細められた。彼は懐に入っている「未完成の文書」の感触を確かめた。まだ帝の印(御璽)は押されていない。文字も書かれていない白紙の部分がある。だが、岩倉と大久保の間では、既にシナリオは書き上がっていた。
徳川慶喜を「朝敵」として討て、という、帝の密勅。それを捏造し、薩摩と長州に「錦の御旗」を与える。そうすれば、彼らは喜んで徳川に喰らいつき、その肉を引き裂くだろう。
眼下では、炎がさらに勢いを増し、南山製の最新鋭ビルであった「第34国立銀行京都支店」が、轟音を立てて崩れ落ちていくのが見えた。群衆の歓声が、地鳴りのように響く。
「見よ、中山卿。民もまた、破壊を望んでおります」
岩倉は立ち上がり、燃える都に向かって両手を広げた。 その姿は、破滅を指揮するマエストロのようであった。
「徳川の作った秩序など、この紅蓮の炎で焼き尽くせばよい。灰の中から、我らの望む形にねじ曲げた、新しい国を捏ね上げるのです。経済? 外交? そんなものは、後からついてくる雑事に過ぎませぬ」
彼らは知らなかった。自分たちが放とうとしている火が、徳川だけでなく、自分たちがよって立つ「国家」という基盤そのものを焼き尽くしかねない猛火であることを。そして、その火を消すために、南山という怪物が、やがて彼ら自身をも飲み込んでいく未来を。
「さあ、飲みましょうぞ。今宵は、徳川幕府の通夜であり、王政復古の前夜祭でおじゃる!」
中山が高笑いし、空になったグラスを放り投げた。
クリスタル・ガラスが敷石に当たって砕け散る音が、チリン、と冷たく響いた。それは、近代日本の理性が砕け散り、情念と妄想が支配する政治の季節の幕開けを告げる不吉な鈴音であった。
第10話(下)に続く
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