第9話 インフレと偽金 - 崩れゆく信用 (下)
大坂・北浜
「天下の台所」と謳われ、日本中の米と銭が集まるこの巨大な商業都市は今、かつてないパニックの渦中にあった。 堂島米会所の相場旗は、狂ったように上下し、両替商の店先には怒号と悲鳴が飛び交っている。
昨日まで一両で買えた米が、今日は二両出しても手に入らない。南山からの輸入物資で溢れかえり、空前の好景気を謳歌していたはずの商都は、一夜にして疑心暗鬼の地獄へと変貌していた。
その混乱の中心地、土佐堀川沿いに建つ西洋風の白亜の洋館。
南山物産・大坂支店
南山から送られてくる莫大な物資を一手に引き受け、日本国内へ配分するこの拠点は、今や怒れる商人たちの突き上げを食らう防波堤となっていた。
支店長室
分厚い絨毯が敷き詰められた静謐な空間で、一人の男が、頭痛に耐えるようにこめかみを揉んでいた。
男の名は、由利公正
旧名を三岡八郎という。越前福井藩出身の彼は、財政再建の鬼才として知られ、その類稀なる金融感覚を買われて、南山物産大坂支店長にヘッドハンティングされた傑物である。太い眉と、意志の強さを感じさせる顎。その鋭い眼光は、常に数字の裏側にある「人の欲望」を見透かしているようだ。
「由利様。もう限界です」
手代の男が、悲鳴のような声を上げて執務室に駆け込んできた。彼は、南山製のタイプライターで打たれた報告書の束を、震える手で差し出した。
「市中の両替商組合が、ついに慶應札の無期限受け取り停止を宣言しました。 『南山銀貨か、正金でなければ、商品は渡さん』と。 米の値段は、昨日の倍です。このままでは、南山の工場へ送るための部品や食料の調達が止まります!」
由利は、マホガニーの机を指先でコツコツと叩いた。そのリズムは、崩壊しつつある市場の脈動のようだった。
「落ち着け。騒げば騒ぐほど、相場は下がる」
由利の声は低く、腹に響くようなバリトンだった。
彼は立ち上がり、窓のブラインドを指で押し下げて外を窺った。南山物産の門前には、紙屑となりつつある慶應札を握りしめた群衆が押し寄せ、警備の傭兵たちと小競り合いを演じている。誰もが、懐に入っている紙幣が、次の瞬間にはゴミになるのではないかという恐怖に怯えているのだ。
悪性インフレ(ハイパーインフレ)。南山からの輸入物資という「実体」があるにもかかわらず、交換媒体である「通貨」への不信感だけで、経済が心停止を起こしている。
「信用とは、空気のようなものだ。ある時は誰も気づかないが、無くなれば全員が窒息する」
由利は、机の上に積み上げられた慶應札の山を睨みつけた。これらは全て、市中の銀行や両替商から「贋作の疑いあり」として持ち込まれたものだ。
だが、由利の眼力をもってしても、どれが本物でどれが偽物か、即座には判別できない。それほどまでに、敵の仕事は精巧だった。
「誰じゃ。こんな悪辣な真似をするのは」
由利には分かっていた。こんな大規模な攪乱工作ができるのは、あの組織しかいない。南の果てで飢え、追い詰められ、そして悪魔に魂を売った軍事国家。
「由利の兄ちゃん。久しぶりじゃのう」
不意に、重厚なオーク材の扉が開いた。入ってきたのは、場違いなほど薄汚れたオイルドコートを羽織り、カウボーイブーツの拍車をチャリチャリと鳴らす男。坂本龍馬である。
かつて越前で由利と経済談義を交わし、「天下の財布を握る男」と評し合った旧友だ。だが、その顔には、いつもの飄々とした笑みはなかった。
「龍馬か。お前も、嗅ぎつけてきたか」
「ああ。匂うぜよ。硫黄と、腐った怨念の臭いがな」
龍馬は、由利のデスクに歩み寄り、山積みにされた慶應札の束から一枚を無造作に抜き取った。彼は懐からルーペを取り出し、透かしの部分をじっと観察した。
「よう出来ちょる。紙のコシ、インクの光沢、そっくりじゃ。じゃが、ここを見いや」
龍馬は、鳳凰の尾羽の部分を由利に示した。
「本物は三二本。こいつは、三三本ある」
由利もまた、片眼鏡を装着して覗き込んだ。確かに、肉眼では見えないほど細い線が、一本だけ多く引かれている。
「わざと、か」
由利が呻いた。
「ああ。これは『署名』じゃ。『俺たちはいつでもお前らの喉元を食い破れるぞ』という、薩摩からの脅迫状じゃよ」
龍馬は苦々しげに札を放り投げた。紙幣はヒラヒラと舞い、床に落ちた。それは、金としての価値を失った、ただの紙切れのようだった。
「由利の兄ちゃん。わしらが長崎で『イカルス号事件』を止めた時、西郷さんはこう思うたはずじゃ。『武器で戦えんのなら、銭で戦うまで』とな。 これは、戦争じゃ。大砲も火薬も使わん、もっとタチの悪い、魂を腐らせる戦争じゃ」
龍馬が懸念していた事態が、最悪の形で現実となっていた。彼は、南山という外部装置を使って、英国の介入を防いだ。それは「流血」を避けるための最善手だった。だが、血路を絶たれた西郷たちは、その巨大なエネルギーを経済破壊へと向けたのだ。
通貨の信用を破壊すれば、徳川の支配は根底から揺らぐ。南山の資源を担保にした「株式会社徳川」というシステムそのものを、ハッキング(破壊)しに来たのである。
「江戸の小栗殿からは、慶應札の無制限買支えを命じられておる」
由利は、江戸からの電信紙を握りつぶした。
「南山物産が保有する銀貨を放出して、札を回収し、相場を維持しろとな。 じゃが、それは焼け石に水だ! 偽札が向こうから無限に湧いてくる以上、いくら銀を注ぎ込んでも、底の抜けた柄杓で水を汲むようなものだ! このままでは、南山物産の資産も枯渇し、共倒れになる!」
由利の叫びは、悲痛だった。彼は知っている。経済とは生き物であり、一度失われた信用を取り戻すには、膨大な時間と犠牲が必要なことを。小栗の策は、正攻法ではあるが、相手がルール無用のテロリストであることを計算に入れていない。
「そうじゃ。西郷さんの狙いは、そこじゃ」
龍馬は窓の外、東の空、江戸の方角を見つめた。
「徳川と南山という巨人を倒すには、正面から殴り合っても勝てん。じゃきに、毒を盛った。信用という名の血液を濁らせて、巨人を病死させるつもりじゃ。
今の日本は、偽の血が巡って、全身が痙攣を起こしちょる」
龍馬は、懐のスミス&ウェッソンに触れた。その冷たい、硬質な鐵の感触だけが、彼に現実を繋ぎ止めていた。
もはや、計算尺や契約書で解決できる商売の段階は過ぎた。由利のような優秀な経済人が、どれだけ知恵を絞っても、この暴走は止まらない。なぜなら、相手は経済的利益を求めているのではなく、システム全体の死を求めているからだ。
「由利の兄ちゃん。銀を出すのは止めや」
龍馬は、静かに言った。
「…え?」
「これ以上、南山の銀をドブに捨てるな。…偽札は、燃やすしかない。そして、その偽札を刷っている源流を断つしかない」
龍馬の目に、南山の荒野で見た、無法者を狩る時の冷酷な光が宿った。
「これは、商売じゃない。殺し合いじゃ。 銭の戦争を終わらせるには、結局のところ、血を流すしかあるまい」
由利は、龍馬の顔を見た。そこには、かつての明るい志士の面影はなく、時代の闇を背負った「始末屋」の覚悟があった。
窓の外では、群衆の怒号がさらに高まっている。 「ええじゃないか、ええじゃないか」という不気味なリズムが、遠くから近づいてくるのが聞こえた。それは、大坂の街が、そして日本という国が、理性を失い、狂気へと雪崩れ込んでいく音であった。
◆
九月下旬。 薩摩の地下工場で培養された偽札という名の経済ウイルスは、南山物産の整備した物流網(皮肉にも、それは日本で最も効率的な血管だった)に乗って、瞬く間に日本列島の主要都市へと拡散した。 潜伏期間は短かった。発症は、劇的で、そして致命的だった。
◆
東の都 江戸
百万の人口を抱えるこの巨大消費都市は、一種のブラックコメディのような状況に陥っていた。
浅草の寄席。客席は満員だったが、そこに漂う空気は、笑いを楽しむ余裕のあるものではなく、どこか殺伐とした、逃避的な熱気に満ちていた。
高座に上がったのは、毒舌で知られる噺家、三遊亭圓朝。彼は、扇子を広げながら、ニヤリと客席を見渡した。
「…ええ、景気がいいんだか悪いんだか、さっぱり分かりませんな。 昔は『宵越しの銭は持たねえ』なんてのが江戸っ子の粋でしたが、近頃じゃあ『宵越しの慶應札は紙屑だ』ってんで、皆慌てて使い切っちまう。
おかげで、鰻屋も天ぷら屋も大繁盛。…ただし、勘定の段になると、店の主人が渋い顔をする。
『お客さん、この札、インクの匂いがきつすぎやしませんか?』 『何言ってやがる、これが南山の文明開化の香りよ!』
…なんて言い合いが、あちこちで起きております」
客席から、乾いた笑いが起きた。それは、誰もが身に覚えのある光景だったからだ。
「…おかしな話ですよ。 南山から届いた牛鍋の肉は、一鍋五十文で食える。肉は余ってるんです。 なのに、その横にある白い飯、こいつが一膳で百文しやがる。 『牛は安いが、米は高い』
…南山の牛が草を食い尽くしちまったんじゃねえかって、専らの噂です」
圓朝の諧謔は、江戸の奇妙なねじれ現象を鋭く突いていた。南山物産が大量に供給する「輸入品(肉、小麦、綿花、鉄製品)」は、供給過剰で値崩れを起こしている。
一方で、それらを買い求めるための「通貨(慶應札)」に対する信用が、偽札の蔓延によって崩壊し、貨幣価値が暴落。結果として、輸入に頼らない国産品(米、味噌、炭)の価格が、天井知らずに高騰していたのだ。
スタグフレーションとハイパーインフレの悪魔合体。江戸っ子たちは、南山綿の安物を着て、南山牛のすき焼きをつつきながら、米が食いてえと泣いているのである。
寄席の帰り道、圓朝は日本橋の袂で、群衆が騒いでいるのを目撃した。一軒の米問屋が、打ちこわしに遭っている。「売り惜しみをするな!」「偽札でも受け取れ!」と叫ぶ男たちが、戸板を破り、米俵を引きずり出している。
それを警護すべき町方同心たちは、遠巻きに見ているだけだ。彼らの給金もまた、価値の落ちた慶應札で支払われており、命を張って暴徒を止める義理などなかったからだ。
「こりゃあ、落語のオチにしちゃあ、笑えねえな」
圓朝は、懐に入っている慶應札の束を握りしめた。
朝には一両の価値があったこの紙切れが、夕方にはただの紙屑になっているかもしれない。その恐怖が、百万都市の理性を、ゆっくりと、しかし確実に蝕んでいた。
◆
西の商都 大坂
ここでは、混乱はより深刻かつ、冷徹な数字の形をとって現れていた。
豪商・加島屋
その帳場では、まだ二十歳にもならぬ一人の若き女性が、算盤を弾く手を止め、目の前に積み上げられた札束を凝視していた。
彼女の名は、広岡浅子
後に南山生命や北嶺女子大学の設立に関わり、南洋の女性実業家として名を馳せることになる傑物であるが、この時はまだ、嫁ぎ先の加島屋を支える若き商才の塊であった。
「ご新造さん、また両替の依頼です。どうあしらいますか?」
手代が、困り果てた顔で尋ねる。店先には、慶應札を銀貨に換えろと迫る商人たちが殺到している。
「…全部、断りなはれ」
浅子は、きっぱりと言い放った。その声には、年齢に似合わぬ威厳があった。
「交換比を下げてでも、ですか? 五割引きなら」
「あかん。一割でも、五割でも、受け取ったらウチが死ぬわ」
浅子は、積み上げられた札束から二枚を取り出し、手代の目の前に並べた。
「よう見よし。こっちが先月発行された札。こっちが今朝持ち込まれた札。 鳳凰の尾羽の数、数えてみ」
手代が目を凝らす。
「あっ、一本多い…?」
「そうや。三二本と三三本。たった一本の線やけど、これが地獄の入り口や」
浅子は、ため息交じりに札を放り出した。彼女は、この数週間、市場に出回る札を徹底的に分析していた。そして気づいてしまったのだ。
この偽札が、単なる小悪党の仕業ではなく、極めて高度な技術と、明確な悪意を持った「何者か」によって、計画的に散布されていることに。
彼女は、経済学の古典『グレシャムの法則』など知らなかった。だが、商人の直感で理解していた。
「悪貨は良貨を駆逐する」
偽物が混じった瞬間、人々は本物の銀貨を箪笥の奥に隠し、怪しい紙幣だけを市場に放出する。結果、市場には価値のない紙切れだけが溢れ、真の富は循環を止める。それは、経済の窒息死を意味していた。
「これは、商売やない。戦や」
浅子は、窓の外、怒号が飛び交う北浜の通りを見下ろした。彼女の目には、見えない敵の姿が映っていた。徳川でも、南山でもない。この精密な偽造技術を持ち、徳川の信用を破壊することで利益を得る者。
南の果てで牙を研ぐ、飢えた狼たち。
「旦那様たちに伝えとき。これからは、慶應札は一切信用したらあかん。取引はすべて現物か銀貨のみ。さもないと、加島屋いう巨船も、紙屑の海に沈むで」
彼女のような鋭敏な感性を持つ者だけが、この狂乱の正体が「金融攻撃」であることに気づき始めていた。だが、気づいたところで、個人の力ではどうすることもできない。巨大な波が、堤防を越えて押し寄せてくるのを、ただ呆然と見ているしかなかった。
◆
そして、震源地に近い京の都。ここでは、不安はもはや恐怖を通り越し、奇妙な「祝祭」へと変貌しようとしていた。
四条河原
夕闇が迫る中、ボロ着を纏った一団が、ふらふらと通りを練り歩いていた。彼らは、薩摩藩が雇った「世直し」の先触れという名目の、食い詰めた浪人や無宿人たちであった。彼らの手には、空から降ってきた(と主張する)伊勢神宮のお札や、偽の慶應札が握られている。
その行列を、路地裏の居酒屋から冷ややかな目で見つめる男がいた。
京都町奉行所同心、駒井重五郎
彼は、南山製の安酒(密造ラムを水で薄めたもの)をちびりちびりと舐めながら、この街の変貌を肌で感じていた。
「…ええじゃないか、ええじゃないか…」
最初は、蚊の鳴くような声だった。だが、そのリズムは、疫病のように伝染した。
明日食う米がない者。借金に追われる者。南山成金を妬む者。
社会の底に溜まっていた澱のようなルサンチマンが、その単純なリズムに共鳴し始めたのだ。
「旦那、ありゃあ何ですかい? 祭りですかい?」
居酒屋の主人が、不安げに尋ねる。
「祭りなもんか。…ありゃあ、葬式だよ」
駒井は、卓上に数枚の小銭を叩きつけた。
「銭が紙屑になり、法が通じなくなり、誰も彼もがヤケクソになってる。世の中がおかしくなっちまったことを、皆で笑って誤魔化してるのさ」
駒井の目には、行列の中に混じる、鋭い目つきの男たちの姿が見えていた。薩摩の工作員たちだ。
彼らは踊り狂う群衆を巧みに誘導し、南山物産の出張所や、幕府御用達の豪商の店へと向かわせている。
「世直し」という名の組織的な略奪。治安を守るべき奉行所も、新選組も、この数万の群衆を前には手が出せない。下手に弾圧すれば、それが引き金となって暴動が全土に波及することを知っているからだ。
「ええじゃないか、ええじゃないか! 南山の異人をぶっ殺せ! 銭のなる木をへし折れ!」
歌声は次第に大きくなり、怒号へと変わっていく。
空からは、偽札が桜吹雪のように舞い落ちる。
人々はそれを拾い、笑い、そして破り捨てる。
価値のない金を拾い、価値のない命を燃やす。その光景は、近代化という階段を上り始めた日本が、足を踏み外して転げ落ちていく様を象徴しているようだった。
駒井は、十手を懐にしまい込み、深くフードを被った。もはや、一介の同心にできることはない。嵐が過ぎ去るのを待つか、それとも嵐に飲み込まれるか。 京の夜空が、放火の炎で赤く染まり始めていた。
社会を覆う不安という名のガスは、充満しきっていた。西郷吉之助が擦ったマッチの火は、偽金という導火線を走り抜け、ついに「ええじゃないか」という名の爆発を引き起こしたのである。それは、陽気な踊りなどではなかった。来るべき内戦の前夜に催された、葬送のパレードであった。
(第3部 第9話 完)
最後までお付き合いいただき感謝します。
気に入っていただけたら、ページ下部よりブックマークと評価をお願いします。




