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第9話 インフレと偽金 - 崩れゆく信用 (上)

 慶應三年(一八六七年)九月


 イカルス号事件という外交的危機を、坂本龍馬の奇策によって紙一重で回避した日本列島は、安堵の息をつく暇もなく、奇妙な熱狂と不安が入り混じった季節を迎えていた。


 江戸 日本橋


 日本橋の界隈は、空前の「南山景気ナンザン・ブーム」に沸き返っていた。南洋の植民地から絶え間なく運び込まれる資源と、そこへ送り出される移民たちによって生み出される莫大な富。それが徳川幕府という巨大なポンプによって吸い上げられ、関東平野へと還流していたのである。


 目抜き通りには、南山産の硬木アイアンウッドを敷き詰めた舗装道路が整備され、馬車のわだちが新しい時代の音を奏でている。  夕刻ともなれば、入安島のガス田から精製された天然ガスを用いたガス燈が、文明の青白い光を投げかけ、夜の闇を駆逐していく。


 屋台からは、以前なら破戒とされた「牛鍋」の甘辛い匂いが漂っていた。南山の牧場で大量生産され、塩漬けや氷詰めで運ばれてきた安価な牛肉、そしてさらに安い羊肉マトンは、江戸っ子たちの胃袋を急速に占領しつつあった。「四つ足は食わぬ」という禁忌も、「安くて旨くて力がつく」という実利の前には無力だったのだ。


 人々は、丈夫で長持ちする南山綿の着物を着て、錆びにくい南山鐵てつの釘で家を直し、そして「南山両」の相場に一喜一憂する。


 金貨、銀貨、銅貨(銭)、そして兌換だかん紙幣。南山の富を裏付けとしたこれらの通貨は、幕府の威信そのものであり、日本経済の新たな血液となっていた。表面上、それは「パクス・トクガワ(徳川の平和)」がもたらした、黄金時代の到来に見えた。


 だが、その繁栄の足元で、不気味な軋み音が響き始めていた。最初は、長屋の井戸端会議の些細な愚痴だった。  


「お米の値段が、また上がったよ」  


「おかしいねえ。南山から安い肉や小麦が入ってきてるっていうのに」  


「値段が、おかしい」  


 それが、庶民の口から漏れる最初の不満であり、やがて来る破局の前奏曲プレリュードだった。


          ◆


 江戸城・勝手方勘定奉行所


 幕府の金庫番にして、この未曾有の経済成長を設計した稀代のテクノクラート、小栗上野介忠順は、南山から輸入したマホガニー製の重厚な執務机の上に積み上げられた報告書の山を前に、苦渋の表情を浮かべていた。  彼の緻密な頭脳が、目の前の数字の矛盾に悲鳴を上げていたのである。


「米価が、先月の三割高。味噌、醤油、薪炭しんたんに至っては五割高だと? 馬鹿な」


 小栗は、南山製の計算尺を放り出し、慣れ親しんだ象牙のそろばんを弾き直した。  


パチ、パチ、パチ


 乾いた音が室内に響くが、何度計算しても結果は変わらない。


「南山からの輸入食料は増えているのだぞ。供給が増えれば、価格は下がる。それが経済の鉄則だ。…なぜ上がる?」


 市場にはモノが溢れている。なのに値段が上がる。それは、アダム・スミスの『国富論』にも、学問所の経済講師が書いた教科書にも載っていない、異常な現象だった。まるで、市場に流れる「通貨」の量だけが、何者かの手によって勝手に増殖しているかのように。


「上野介様。南町奉行所より、奇妙なものが届いております」


 部下が、恭しく桐の箱を差し出した。その顔色は優れない。小栗が蓋を開けると、そこには束ねられた紙幣が入っていた。  


「慶應通宝」


 南山の資源収入と南山両との交換を担保に、幕府が満を持して発行した、日本初の本格的な兌換紙幣である。その表面には、精緻な鳳凰の透かしと、複雑な幾何学模様が多色刷りで印刷され、裏面には「此の手形壱枚ヲ以テ、南山銀貨壱両ト引替フ可申候」という文言が、財務総裁の印と共に刷り込まれている。それは、徳川の威信と、南山の富を象徴する「紙の宝石」のはずだった。


「これが、どうした」


「浅草の米問屋が持ち込んだものです。『色が、僅かに違う気がする』と」


 小栗は、胸ポケットから金縁の片眼鏡モノクルを取り出し、装着した。紙幣を窓からの光にかざす。  


 紙の質感。インクの乗り。透かしの模様。どれをとっても、幕府の印刷局(かつての講武所を改装した最新鋭工場)で作られた正規品と寸分違わない。だが、小栗の鋭敏な指先が、微かな違和感を捉えた。


「…厚い」


 紙が、ほんの僅かに厚い。そして、インクの匂いに混じって、鼻をつく独特の刺激臭が漂ってくる。それは、南山の印刷インク特有の油の匂いではない。もっと原始的で、火山性の…硫黄サルファーの臭気だ。


 小栗は、引き出しから正規品の慶應札を取り出し、並べてみた。肉眼では区別がつかない。彼はイギリスから取り寄せた高倍率のルーペを覗き込んだ。


 数分後。小栗は呻くように呟いた。


「…やられた」


 正規品の鳳凰の尾羽の数は三二本。持ち込まれた札の羽は、三三本あった。それは、あまりにも精巧な、そして悪意に満ちた「贋作フェイク」であった。


 単なる模倣ではない。本物を作るのと同等の技術とコストをかけなければ、これほどのものは作れない。


「これは、町人の手慰みではない。国家規模の設備と技術を持った組織による、組織的な犯行だ」


 小栗の脳裏に日本地図が浮かぶ。このレベルの印刷技術を持ち、かつ硫黄の臭いが染み付く場所。そして何より、徳川の経済を崩壊させる動機を持つ場所。


 答えは一つしかなかった。


 南の果て。薩摩である。


「西郷め。大砲が買えぬなら、銭で戦うつもりか」


 小栗は戦慄した。背筋に冷たいものが走る。これは、戦争ではない。経済という人体に、偽札というウイルスを注入し、信用という血液を腐らせる、史上最悪の「経済テロリズム」であった。南山の富で潤う徳川の繁栄。そのアキレス腱が「信用」であることを、敵は見抜いていたのだ。


          ◆


同時刻 日本列島の南端、薩摩藩・鹿児島城下


 錦江湾から吹き付ける風は、南洋の湿気と、桜島が吐き出す火山灰のざらついた粒子を孕んで、城下町を灰色に染め上げていた。


 かつて七七万石の威容を誇り、琉球貿易と密貿易で潤っていたこの街は、今、重苦しい閉塞感と、爆発寸前の静寂に支配されていた。徳川幕府経済圏による海上封鎖と資源禁輸措置は、薩摩という軍事国家の「近代化」という動脈を完全に遮断していたからだ。


 誤解を恐れずに言えば、薩摩は飢えてはいなかった。シラス台地が育むサツマイモや、近海の魚介類は豊富であり、伝統的な自給自足経済は機能している。人々が餓死して道端に転がるような地獄絵図ではない。


 だが、ここには「未来」がなかった。南山から輸入される安価で高品質な綿布や鉄器が入ってこないため、物価は高騰し、庶民の生活水準は江戸時代中期に逆戻りしていた。武士たちは、錆びた刀を研ぎながら、使い道のない鬱屈を溜め込んでいる。


 東国が「蒸気と電気」の光を浴びて疾走する一方で、薩摩だけが「薪と蝋燭」の薄暗がりの中に置き去りにされている。その相対的な剥奪感こそが、物理的な飢餓よりも深く、薩摩人の誇りを傷つけていたのである。


 その灰色の街を、一台の駕籠かごが急いでいた。向かう先は、いそ地区。かつての名君・島津斉彬が「東洋のマンチェスター」を夢見て築き上げた、一大工場群「集成館しゅうせいかん」である。


 海岸沿いに聳え立つ集成館の石造りの建物は、夕闇の中で巨大な墓標のように見えた。象徴であった反射炉の煙突からは、もう何ヶ月も黒煙が上がっていない。


 南山からの高カロリーな無煙炭と、高品質な鉄鉱石の供給を絶たれた溶鉱炉は火を落とし、冷え切っている。木炭では火力が足りず、近代的な製鉄は不可能なのだ。本来なら、蒸気ハンマーが大地を揺らし、旋盤が唸りを上げているはずの場所。だが、今の工場内を支配しているのは、油の切れた機械の臭いと、埃っぽい沈黙だけであった。


 駕籠から降りた二人の男、西郷吉之助と大久保一蔵は、無言のまま工場長の案内で奥へと進んだ。  彼らは、静まり返った工場フロア、そこには、動かす燃料のない最新鋭の輸入工作機械が、主を失った騎馬のように虚しく並んでいた。そこを通り抜け、工場の最深部、かつて火薬庫として使われていた半地下の石室への重い扉を開けた。


 扉が開かれた瞬間、鼻をつく刺激臭が二人を包み込んだ。酢酸、油、そして微かな硫黄の臭い。そこは、地上の静寂とは隔絶された、熱気あふれる「戦場」であった。


 遮光された窓の下、南山からの密輸品であるアセチレンランプの強烈な白色光が、作業台を照らし出している。そこでは、数十人の男たちが、息を詰めて作業に没頭していた。彼らは皆、元・集成館の精鋭技師たちである。職を失い、行き場を失った彼らの技術と情熱は今、たった一つの目的「徳川の心臓を止める」ことに注ぎ込まれていた。


 その中央で、薬品で変色した前掛けをし、高価な顕微鏡を覗き込んでいた一人の小男が、顔を上げた。


 市来四郎いちき しろう


 かつて島津斉彬の側近として、写真術ダゲレオタイプや火薬製造、電信技術の研究にその生涯を捧げてきた、薩摩きっての「技術官僚テクノクラート」である。


 彼はステレオタイプな狂気の科学者ではない。その瞳にあるのは、困難な課題を与えられた技術者特有の、静かで冷徹な探究心と、主君への忠誠心だけであった。


「市来さぁ。首尾はどうごわすか」


 西郷の低い声に、市来はゆっくりと眼鏡の位置を直した。その指先は、銅板の腐食液で黄色く染まっている。


「西郷どんか。…ええ、ようやく『安定』し申した」


 市来の声は、連日の徹夜作業による疲労で枯れていたが、そこには確かな自信が滲んでいた。彼は、作業台の上に積まれた刷り上がったばかりの紙幣の束から、一枚をピンセットで慎重に摘み上げた。


 慶應通宝、額面は一両。まだインクの溶剤の匂いが残るその紙片は、ランプの光を受けて、本物以上に鮮やかに、そして恐ろしく精巧に輝いていた。


「一番の難関は、紙でごわした」


 市来は、紙幣を指で弾いてみせた。パチン、と小気味よい音がする。


「幕府が使うているのは、南山産の特殊な草粉パルプを混入した洋紙に近い強靭な紙。これを再現するために、屋久杉の繊維を苛性ソーダで煮溶かし、さらに古い和紙を裏打ちして高圧でプレスする工程を開発し申した。


 厚み、手触りのコシ、そして繊維の配向。…指先の感覚だけでこれを見抜ける者は、江戸にもそうはおらんでしょう」


 市来の説明は、淡々としていた。彼にとって、これは犯罪ではなく「リバース・エンジニアリング(逆行分析)」という高度な技術的挑戦なのだ。彼は次に、紙幣を光にかざし、透かしの鳳凰を指差した。


「そして、この透かし。写真術の応用でごわす。感光剤を塗った銅板に、本物の札を焼き付け、酸で腐食させて原版を作りました。 線の太さは、一毛(いちもう ※約0.03ミリ)の狂いもありもはん」


「見事じゃ」


 大久保が、感嘆とも恐怖ともつかぬ息を漏らした。


 斉彬公が「国を守るため」に育てた技術が、今や「国(幕府)を崩すため」に使われている。その皮肉に、大久保は胸が痛む思いがした。


「じゃっどん、市来さぁ。ここじゃ」


 西郷が、紙幣の一点を太い指で指し示した。鳳凰の尾羽の部分である。


「……本物は三二本。こいつは、三三本になっておる」


 市来は、薄く笑った。それは、職人が会心の悪戯を仕掛けた時の顔だった。


「ご明察。しかし西郷どん、これは失敗ではありもはん。私の『署名』であり、時限爆弾の導火線でごわす」


「導火線?」


「…ええ。完璧すぎる偽物は、ただ流通して終わります。それでは、徳川の経済を潤す手助けをするだけじゃ。 我々の目的は、本物を作ることじゃなか。『偽物が混じっている』という疑心暗鬼を植え付けることじゃ」


 市来は、ルーペ越しにその「三三本目の線」を見つめた。


「小栗のような目利きの役人が、血眼になって探して、ようやく見つかる程度の『瑕疵かし』をあえて残す。するとどうなる? 奴らは、市場にある全ての札を疑わねばならんくなる。本物さえも『偽物ではないか』と疑われ、検査のために流通は止まり、店先での支払いは滞る。信用という名のガラス細工に、ヒビを入れる。それが、この一本の線の役目でごわす」


 西郷は唸った。


 市来四郎という男は、単なる技術屋の枠を超えていた。彼は、自らの技術が社会に及ぼす心理的な影響まで計算に入れているのだ。


 インクには、桜島の火口付近から採取した高純度の硫黄が極微量混ぜられているという。それは、南山特有の石油系インクに近い光沢を出すためであると同時に、微かな、しかし生理的な不快感を催す刺激臭を紙幣に残すためであった。この臭いは、人々の無意識下に「何かがおかしい」という不安の種を撒くことになる。


 西郷は、積み上げられた偽札の束――総額にして三〇万両相当――を見渡した。それは、大砲一〇〇門にも匹敵する破壊力を持つ、静かなる兵器であった。


「大久保さぁ。これで、戦えるな」


「ああ。徳川の城は、南山の富という堅牢な石垣の上に建っちょる。じゃが、その石垣を繋いでいる漆喰は、信用という実体のない脆い泥じゃ。南山からの物資が届く。幕府が支払いを保証する。その約束だけが、慶應札に価値を与えちょる。ならば、その約束を反故ほごにさせ、泥を水で洗い流すまでじゃ」


 大久保の口調は冷徹そのものだったが、その拳は白く変色するほど握りしめられていた。これは、誇り高き薩摩武士が選んだ、最も汚い戦争だ。真正面から戦えば、幕府軍の南山製ガトリング砲とスナイダー銃に粉砕される。ならば、戦う前に敵の経済圏を内部から腐らせる。インフレという名の見えない火を放ち、豊かな東国を、物資不足に喘ぐ薩摩と同じ地獄に引きずり込むのだ。


「市来さぁ。工員たちの様子は」


 西郷が、作業台に向かう男たちの背中に視線をやった。


「彼らは、皆、覚悟を決めております」


 市来は、静かに答えた。


「ここにいるのは、食い詰めた者、家族を養えぬ者、そして、戦で死に場所を失った者たちです。この仕事が終われば、彼らは生きてここを出られぬことも、承知の上です」


 彼らは、このプロジェクトが露見すれば、即座に処分される運命にある。あるいは、偽札の運搬人として敵地へ送り込まれ、二度と帰らぬ旅に出る。その顔には、悲壮感よりも、ようやく自分たちが藩の役に立てるという、一種の宗教的な安らぎすら漂っていた。彼らは、薩摩という「家」を守るための人柱なのだ。


 西郷は、深く目を閉じた。  


(すまん。おはんらの命、泥にまみれさせる)


 だが、迷いはなかった。ここで手を引けば、薩摩は緩慢な死を迎えるだけだ。座して死ぬよりは、天下の悪鬼となって、徳川の喉笛を食いちぎる。それが、西郷が選んだ修羅の道であった。


「運び出しは、今夜じゃ」


 西郷は、目を開き、力強く宣言した。


「偽札の束は、『枕崎産・特選鰹節かつおぶし』の箱に詰めろ。鰹節の燻した匂いが、インクの臭いを誤魔化してくれる。 …五代の才助(友厚)が作った『闇ルート』を、逆用させてもらう。 博多の密貿易商、下関の長州商人、そして大坂の地下組織アンダーグラウンド。全部使うて、この毒を日本の血管に流し込む」


 市来は、作業着の袖で額の汗を拭い、深く一礼した。


「承知。科学サイエンスの力で、徳川の算盤ソロバンを狂わせて見せましょう。斉彬公も、草葉の陰で苦笑いされているかもしれもはんが」


 市来は、再びプレスのレバーを握った。


 ガシャン、ガシャン、ガシャン。


 その規則的な金属音は、徳川幕府の終わりの始まりを告げる、不吉な時計の秒針のように、地下室に響き渡っていた。


 こうして、三〇万両分の「毒」は、鰹節や干しアワビの箱に詰められ、闇夜の錦江湾から送り出された。


 目指すは、天下の台所・大坂、そして将軍のお膝元・江戸。南山の繁栄に酔いしれる東国の経済は、まだ自分たちの血管に致死性のウイルスが注入されたことに、気づいてはいなかった。



第9話 (下) に続く


最後までお付き合いいただき感謝します。

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