第8話 イカルス号事件の怪 - 羊毛と石炭の鎖 (下)
ここで、坂本龍馬という稀代の策士が盤面に叩きつけた「切り札」の正体、すなわち、当時の世界経済における「南山領域(徳川幕府直轄の南山総督府管轄地域)」の真の立ち位置を、冷徹に解剖しておく必要がある。
慶應三年(一八六七年)当時、南半球に広がる南山領域(北嶺島・南山島・入安島・その他周辺多数の諸島部)は、もはや単なる未開のフロンティアでも、流刑地でもなかった。そこは、幕府と東國(関東・東北・北陸)から吸い上げられた莫大な資本と、職を失った武士や技術者たち・職と食を求める労働者が結びつき、大地に眠る無尽蔵の資源を掘り出し、加工し、世界中へ供給する、巨大にして歪な「産業の複合体」と化していた。
その実態を一言で表現するならば、大陸規模の「露天掘り鉱山」であり、地平線の彼方まで続く「牧場」であり、そして入江ごとに黒煙を上げる「巨大な町工場」であった。重工業の中核となる大型蒸気機関や精密工作機械こそ、まだ欧米からの輸入に頼っていたものの、南山はすでに「世界の工場」の下請けとして、無視できぬ存在感を放っていたのである。
明望の港湾地区には、千トン級の木造汽帆船、南山特産の硬木と南山鉄で建造された、頑丈さだけが取り柄の貨物船が所狭しと並び、東南アジア、南アジア、清国、そして英領豪州へと向けて出港していく。
積荷は多岐にわたる。入安島で精錬された銑鉄や銅のインゴット。北嶺炭田から切り出された無煙炭。 そして、「南山製」の焼印が押された農具、釘、針金、そして堅牢な回転式拳銃や小銃弾といった加工製品たち。これらは欧米製や日本本国のそれに比べれば精度や堅牢度では劣っていたが、圧倒的な価格競争力を武器に、アジア市場を席巻しつつあった。
そして、この巨大な供給基地の最大の顧客(太客)こそが、皮肉にも、今まさに長崎で牙を剥いている大英帝国だったのである。龍馬が見抜いた「鎖」は、主に三つの鎖で構成されていた。
◆
第一の鎖は、「羊毛」である。
一九世紀、大英帝国の繁栄を支えていた産業革命のエンジンは、マンチェスターの綿織物だけではない。ヨークシャー地方、特にリーズやブラッドフォードを中心とする伝統的な羊毛工業こそが、帝国の威信を着飾る紳士服や軍服の素材を生み出していた。一八六〇年代、その原料供給地として南山諸島の存在感は、本家豪州植民地を脅かすほどに飛躍的に高まっていた。
南山内陸部に広がる乾燥した赤土の大地。そこに、欧州から持ち込まれ、現地の過酷な環境に適応するよう品種改良された南山メリノ種が放牧されていた。その羊毛は、繊維が長く、強靭で、染色性に優れているという特質を持っていた。英国の織物工場にとって、高級羅紗を織るために欠かせない戦略物資となっていたのである。
当時、英国が輸入する羊毛の約一五パーセント、上質な梳毛に限れば二〇パーセント近くが南山産であり、その取引を一手に握っていたのが、徳川の東インド会社たる南山物産と、その提携先である英国系商社ジャーディン・マセソン商会であった。
もし、日本との戦争でこの供給が止まればどうなるか。ヨークシャーの工場地帯では、原料不足により織機が停止する。数万人の労働者がレイオフされ路頭に迷う。彼らの不満は暴動となり、社会不安を引き起こすだろう。さらに、南山羊毛の輸入手形を扱っているロンドンのシティ(金融街)では、信用収縮が起き、関連企業の株価が大暴落する。
たかが東洋の島国との小競り合いのために、帝国の経済基盤を揺るがすリスクを冒せるか。答えは否である。
◆
第二の鎖は、さらに致命的な「石炭」である。
蒸気船の時代、石炭は産業の血液であり、海軍の機動力そのものであった。英国海軍が誇る東洋艦隊。その威容を支える黒塗りの軍艦群は、その燃料の多くを、南山・北嶺島のワイカト炭田から産出される南山炭に依存していた。
当時、アジアで調達できる石炭の質は玉石混交だった。日本本土の石炭(筑豊炭や常磐炭)は、まだ採掘技術が未熟な上、煤が多く、カロリーも低い。これを軍艦のボイラーで焚けば、黒煙が視界を遮り敵に位置を知らせてしまうだけでなく、燃焼効率の悪さから速力が低下し、最悪の場合、釜を傷めて航行不能に陥る。 対して南山炭は、高カロリー・低硫黄・低灰分の良質な瀝青炭であり、ウェールズ産の最高級無煙炭に匹敵する性能を持っていた。
英国艦隊は、わざわざ南山から運ばれてくるこの「黒いダイヤ」を、横浜や長崎の幕府貯炭所で購入し、釜に焚べていたのである。いわば、英国の軍艦は、徳川幕府が供給する餌(石炭)を食べなければ、動くことさえできない鉄の浮き袋に過ぎなかった。
龍馬は、この兵站の急所を正確に突いたのだ。
◆
そして第三の鎖は、「食料」である。
南山の広大な牧草地で育てられた牛や羊は、羊毛だけでなく、肉としても加工された。明望の缶詰工場では、最新の真空調理技術によって「コンビーフ」や「マトンシチュー」の缶詰、ライムやレモンのしぼり汁の瓶詰が大量生産され、塩漬け肉の樽詰めと共に大量に海を越えていった。これらは、新鮮な食料の調達が困難な熱帯植民地、シンガポール、香港、インドなどに駐留する英国陸軍や、長い航海を続ける商船員たちの胃袋を支えていた。安価で、保存が利き、高品質な南山の食糧加工品群。それがなければ、帝国の兵士たちは壊血病と栄養失調に苦しむことになる。
龍馬は、南山の荒野で干し肉を齧りながら、この「世界の帳簿」を骨の髄まで理解していた。目の前で吠えている大英帝国は確かに強大だ。鋭い爪と牙を持っている。だが、その首には、見えない首輪が嵌められている。
「羊毛」という経済の鎖。
「石炭」という軍事の鎖。
「食料」という生存の鎖。
これらの鎖の端を握っているのは、ヴィクトリア女王ではない。南山物産の総帥・五代友厚であり、その背後にいる徳川慶喜であった。龍馬はその鎖をほんの少し引き絞るだけで、ライオンを窒息させることができると知っていたのだ。
◆
慶應三年(一八六七年)八月
南国土佐の陽光が、海面を焼いた鉄板のように照りつける須崎港。その湾内に、異様な威圧感を放つ黒鉄の巨影が侵入していた。英国海軍・東洋艦隊所属のコルベット艦「バジリスク号」。その舷側には、最新鋭のアームストロング砲がずらりと並び、砲口のカバーは外され、いつでも須崎の町を瓦礫の山へと変える準備が整っていた。
そのバジリスク号の監視下で、波間に揺れている土佐藩の蒸気船「夕顔丸」。狭苦しい船室の空気は、今まさに発火点に達しようとしていた。テーブルを挟んで対峙するのは、世界最強の帝国の代理人と、極東の小国の、そのまた地方政府の代理人たち。
英国側からは、駐日公使ハリー・パークスと、通訳官アーネスト・サトウ。
土佐側からは、藩の命運を背負わされた執政・後藤象二郎と、海援隊隊長・坂本龍馬。
張り詰めた沈黙を破ったのは、パークスの怒号だった。
「ミスター・サカモト! 貴様、そのふざけた格好は何だ!」
パークスの青い瞳が、侮蔑と怒りで燃え上がる。無理もない。国家の存亡を賭けた重大な外交交渉の場に現れた坂本龍馬は、武士の正装である紋付袴を身に着けていなかった。彼が纏っているのは、明望の中国人街で仕立てさせた、煤と油にまみれた厚手のオイルドコットン・コート。 髷は無造作に革紐で束ねられ、足元には、南山の荒野で牛を追う牧童たちが愛用する、拍車付きの革長靴を履いている。
歩くたびに、ジャラ、ジャラ、と不遜な金属音が鳴る。その姿は神聖なサムライというよりは、西部劇に出てくる胡散臭い山師か、あるいは法と暴力を背負った保安官そのものであった。
「犯人を引き渡せ。さもなくば、この交渉は決裂だ。一時間後には、我が艦隊の砲門が火を噴くことになる」
パークスが、マホガニーのテーブルを拳で叩いて恫喝する。その背後、窓の外にはバジリスク号の砲門から見える大口径砲がゆっくりと微調整し、夕顔丸に照準を合わせているのが見える。
後藤象二郎は顔面蒼白になり、脂汗を滴らせながら膝を震わせていた。土佐の侍としての気概はあるが、彼は物理的な力の差を理解できる知性を持っていた。相手は、世界地図を赤く塗り替えてきた大英帝国なのだ。
だが、龍馬は動じない。彼は、まるで馴染みの居酒屋にでもいるかのように、ブーツのまま足を組み、懐から油紙に包まれた塊を取り出した。南山特産の干し肉である。岩塩と黒胡椒がまぶされたその固い肉を、パークスの目の前でバリリと音を立てて噛みちぎる。
野性的な咀嚼音。そして、口元を手の甲で拭うと、懐から取り出した一枚の書類を、トランプのカードのようにテーブルへと滑らせた。
「パークス公使。まあ、そう青筋を立てていきり立ちなさんな。大砲を撃つのは、これを見てからでも遅くはない」
サトウが、滑ってきた書類を拾い上げた。それは、犯人の自白書でもなければ、土佐藩の降伏文書でもなかった。南山物産・明望本店が発行した、ロンドンのシティ宛ての巨額の為替手形の写し。
そして、もう一枚。「次年度羊毛・石炭・および工業製品優先供給契約」に関する「破棄通告書」の草案であった。
サトウが息を呑み、その内容をパークスに耳打ちする。パークスの眉が吊り上がり、疑惑と警戒の色が混ざり合う。
「なんのつもりだ、サカモト。金で解決しようというのか? 我が英国を侮辱する気か!」
「侮辱? 滅相もない。これは純粋な『商談』じゃ」
龍馬は干し肉を奥歯で噛み砕きながら淡々と言った。その声には情動も焦りもなく、ただ冷徹な計算だけがあった。
「パークスさん。死んだ二人の水夫は気の毒じゃった。下手人は必ず見つけ出し、日本の法で裁く。じゃが、もし貴国が感情に任せて戦争を始めれば、優先供給契約はただの紙屑になる」
龍馬はテーブルの上の紙を指先で弾いた。
「土佐を撃てば、それは日本への宣戦布告とみなされる。 そうなれば幕府は英国に対し、南山からの戦略物資の禁輸に踏み切るでしょう。南山物産の五代の才助(友厚)どんは、すでにその手はずを整えて、明望の港で待機しちょる」
パークスは鼻で笑った。
「ハッ! 禁輸だと? 馬鹿な! 南山が英国市場を失えば、困るのは貴様らの方だ。日本は貴重な外貨を失い、経済は破綻するぞ!」
「いかにも。日本は痛い。血を吐くほど痛いじゃろう」
龍馬は、ニヤリと笑った。それは、喉元にナイフを突きつけられた状態で、さらに相手の急所に銃口を押し付ける、冷酷な勝負師の笑みだった。
「じゃがのう、パークスさん。英国は、もっと痛いはずじゃ」
龍馬は、指を一本ずつ立てて、英国の急所を数え上げた。
「一つ、羊毛。 南山のメリノウールが止まれば、ヨークシャーの織物工場は止まる。何万人の労働者が路頭に迷い、ロンドンで暴動を起こすか、わしには想像もつかん。
二つ、石炭。 貴国の自慢の軍艦は、南山の無煙炭がなくては、ただの黒い鐵の浮き袋じゃ。日本近海の質の悪い石炭では、満足に速力も出ず、釜を壊す。ロシアの艦隊が南下してきた時、石炭切れで漂流するおつもりか?」
そして、龍馬は三本目の指を立てた。
「そして三つ。これが一番、ボディブローのように効くはずじゃ。南山の工場群の製品群じゃ」
龍馬は、自分の腰に吊るしたリボルバーと、着ているコートを指差した。
「今や南山は、単なる牧場でも鉱山でもない。亜細亜太平洋地域最大の『町工場』じゃ。 明望の工場では、毎日何千個もの缶詰が作られ、何万本もの釘や針金、農具が打ち出され、そして千トン級の堅牢な貨物船が建造されちょる。 香港やシンガポール、澳門やムンバイの英国商人が扱っている雑貨の、何割が『Made in Nanzan』か、ご存知か?」
前述したが、当時、南山の工業力は、重工業こそ未熟だったが、軽工業と食品加工においては、圧倒的なコスト競争力を誇っていた。南山産の安価なコンビーフ缶詰や柑橘の瓶詰は、英国商船員の胃袋と健康を支え、南山製のスコップやツルハシは、マレーのスズ鉱山やインドの鉄道建設現場で使われていた。
そして、南山の硬木と鉄で作られた、安くて頑丈な一〇〇〇トン級の機帆船は、東南アジアの沿岸貿易の主役となりつつあった。南山は、大英帝国のアジア植民地経営における、かけがえのない「下請け工場」となっていたのである。
「これらの供給が止まれば、アジアの英国植民地は干上がる。インドの鉄道工事は止まり、船員は壊血病になり、商人は売り物を失う。 水夫二人の命代として、大英帝国の広大な国益をドブに捨てる気か?本国の議会が、そしてシティの資本家たちが、それを許しますろうか?」
サトウが、震える声で通訳する。パークスの赤ら顔が、みるみるうちに蒼白になり、そして急速に冷めていった。額の血管の脈動が静まり、青い瞳から狂気が消え、代わりに冷徹な計算の色が浮かぶ。
彼は激情家だが、馬鹿ではない。彼は外交官であり、大英帝国の利益を守る番犬である。番犬の仕事は、飼い主(本国政府と資本家)の利益を守ることであり、プライドのために無駄吠えをして、飼い主の財布を損ねることではない。クリミア戦争以降、虎視眈々と南下を狙うロシア帝国を牽制するためにも、極東艦隊の足を止めることは、地政学的な敗北を意味する。
龍馬は、テーブルの上の書類を、指先でコツコツと叩いた。それは、死刑執行のカウントダウンのようなリズムだった。
「わしらは、土佐の人間じゃが、同時に南山の株主でもある。喧嘩をするより、商売を続けようじゃあないか。 犯人探しは、わしらに任せてもらいたい。必ず納得のいく落とし前をつける」
パークスは、ギリリと歯噛みをした。その音は大英帝国のプライドが、計算高いエコノミック・アニマルの論理の前に砕け散る音だった。彼は拳を握りしめ、数秒間の、永遠にも似た沈黙の後、力なく椅子に背を預けた。それは、敗北のポーズだった。
「…よかろう」
パークスは、絞り出すように言った。
「ただし、徹底的な捜査と、遺族への十分な、いや、十分以上の賠償を要求する」
「承知いたしました。見舞金は南山両で支払いましょう。ポンドの為替手形でも構わんが」
勝負あった。夕顔丸の船室に安堵の空気がどっと流れ込む。後藤象二郎は、へなへなと椅子に崩れ落ちた。龍馬は一発の弾丸も撃つことなく、ただ計算尺と一枚の紙切れ、そして南山という巨大な経済圏の重みだけで、世界最強の大英帝国艦隊を撤退させたのである。
龍馬は残ったジャーキーを口に放り込み、窓の外のバジリスク号を見上げた。その砲門が、まるで飼い慣らされた犬のように、ゆっくりと砲口を逸らしていくのが見えた。それは、武士の刀が商人の帳簿に敗北した瞬間でもあった。
◆
イカルス号事件の結末は、単なる地方の殺人事件の解決に留まらず、日本を取り巻く国際政治の地殻プレートを、軋みを立てて移動させる巨大な変動をもたらした。
事件から数日後 長崎・大浦の英国領事館
ハリー・パークス公使は、本国外務省へ送る公信の草稿を前に、深い溜息をついていた。 机上にはアーネスト・サトウが作成した膨大な貿易統計資料が積み上げられている。
『対南山貿易依存度調査』
その数字は冷酷なまでに雄弁であった。英国の繊維産業が必要とする羊毛の二割、東洋艦隊が消費する無煙炭の四割、そしてアジア植民地の食糧事情を支える缶詰や塩漬け肉の過半数が、いまや「南山領域(徳川幕府経済圏)」から供給されている。
もし薩摩や長州の求めに応じて英国艦隊が火を噴き、徳川との全面戦争になれば、この物流網は瞬時に寸断される。ヨークシャーの工場は止まり、艦隊は燃料を失って漂流し、ロンドンの株価は暴落するだろう。
パークスは、ペン先にインクをたっぷりと含ませ、苦渋の決断を紙面に刻み込んだ。
『徳川(東國・南山ブロック)は、倒すには大きすぎる(Too Big to Fail)。彼らが支配する物流の動脈を破壊すれば、大英帝国もまた、その返り血を浴びて窒息することになるだろう』
それは、これまで薩摩・長州の倒幕路線に好意的であった英国外交が、急速に、そして不可逆的に「厳正中立」へと舵を切った瞬間であった。西郷隆盛らが喉から手が出るほど欲していたアームストロング砲による援護射撃の可能性は、坂本龍馬という一人の男が突きつけた「請求書」によって、完全に消滅したのである。
◆
その報せは、電信という見えない糸を伝って、京の都へ、そして飢えた狼たちの巣窟へと届いた。
数日後 京都・薩摩藩邸の奥まった一室。
そこは、真夏の蒸し暑さと、行き場のない焦燥感が澱んで腐臭を放つような、陰鬱な空間であった。上座に座る西郷吉之助(隆盛)の巨躯は、以前にも増して痩せ細り、眼窩は髑髏のように深く落ち窪んでいた。だが、その瞳の奥には、獲物を待ち続ける老獣の、狂気じみた光が宿っている。彼の手には、長崎の藩士から早馬で届けられた密書が握られていた。
『英国艦隊、動かず。パークス公使、幕府との通商維持を最優先と宣言』
そして、その決定的な転換を仕掛けたのが、あの男、坂本龍馬であるという報告。西郷は無言のままその密書を握りつぶした。
クシャリ、という乾いた音が、部屋の隅々まで響き渡る。それは、薩摩藩が抱いていた起死回生の希望が砕け散る音でもあった。薩摩は詰んでいた。徳川と南山による経済封鎖(兵糧攻め)により、藩の経済は破綻しインフレは庶民の生活を破壊し、下級武士たちは明日の米にも事欠く有様だ。
彼らに残された道は、ただ一つ。戦争という名の博打に打って出て、東國の富を暴力で奪い取るしかない。だが、その博打を始めるための元手(軍事支援)を、龍馬は商売の論理で封じ込めてしまったのだ。
「坂本さぁは、商人になりすぎもした」
西郷の唇から漏れた声は、井戸の底から響くように低く、そして冷たかった。
「徳川の銭の力で英国を黙らせ、南山の資源で異人の腹を満たし、そうやって、我らの手足を縛りよった。 あのお人は、血を流さぬことが善と言う。 じゃっどん、血を流さねば、薩摩は干からびて死ぬのじゃ。あのお人の平和は我らにとって、だらだらと生きながらの死に装束に他ならん」
西郷の脳裏に、かつて共に笑い、日本の未来を語り合った龍馬の笑顔が浮かんだ。カウボーイハットを被り、リボルバーを腰に吊るし、南山の乾いた風を纏って現れた、あの自由な男。
だが、今の西郷の目には、龍馬はもはや盟友としては映らなかった。彼は強大すぎる「株式会社徳川」の代理人であり、薩摩という飢えた野獣を檻に閉じ込めようとする、冷酷な調教師にしか見えなかった。
「徳川と手打ちをし、南山の配当にありつけと、あのお人は言うじゃろう。 じゃが、それは飼い犬の生き方じゃ。薩摩隼人は、犬にはなれん」
西郷は、握りつぶした紙屑を、行灯の火にかざした。紙は瞬く間に燃え上がり、西郷の顔を赤く照らした。その相貌は、もはや人のものではなく、修羅のそれであった。
「坂本さん…」
最後はふと表情を寂しげな笑いに戻し呟いた。そして、その呟きは、黒い煙となって京都の闇に溶けていった。それは、近代的な理性が、前近代的な情念(殺意)によって断罪された瞬間であった。
◆
歴史の審判を下す時が来た。イカルス号事件とは、一体何であったのか。
表面上は、酔っ払った水兵と攘夷浪人による、ありふれた殺傷沙汰に過ぎない。だが、その本質を解剖すれば、それは近代国家が持つ「法」と「経済」の論理が、前近代的な「攘夷」の情念と正面衝突し、前者が後者を完膚なきまでにねじ伏せた、日本史上初の象徴的な事件であったと言える。
坂本龍馬という男は、日本という閉鎖された狭い土俵の上で相撲を取ることを拒否した。彼は、「南山」という外部装置、巨大な資源と資本の溜池を土俵に接続することで、大英帝国という巨人の足元を崩し、見事に手玉に取ったのである。正義やメンツではなく、損益分岐点という共通言語で語りかけることで、彼は戦争を回避した。
それは、日本人が初めて国際金融資本主義という魔物の扱い方を体得した瞬間でもあった。しかし、その勝利はあまりにも鮮やかすぎた。そして、あまりにも「ドライ」すぎた。血と汗と涙、そして怨念をエネルギー源とする日本の古い土着の神々(薩摩や長州の志士たち)にとって、計算尺一つでケリをつける龍馬のやり方は、理解不能な魔術であり、自らの存在意義を否定する冒涜ですらあった。
龍馬は、外部(南山・英国)との回路を開くことで日本を救ったが、その回路の遮断機となっていた自分自身を、「国内の情念(薩長の殺意)」という過電流の標的として晒すことになった。 彼は、あまりにも優秀な「絶縁体」であったがゆえに、焼き切られる運命にあったのだ。
英国水兵の血は、長崎の雨に流された。しかし、その血の代償として確認された「南山と英国の経済的紐帯」は、その後の歴史において決定的な意味を持つことになる。やがて訪れる戊辰戦争において、英国をはじめとする列強諸国は、「日本の内戦が南山からの供給網を阻害しない限り、不干渉を貫く」という方針を固めた。これにより、戊辰戦争は「国際紛争(植民地戦争)」への拡大を免れ、あくまで日本国内の「内戦」として局地化されることが決定づけられたのである。
もし、龍馬がこの事件を解決していなければどうなっていたか。英国艦隊のアームストロング砲は土佐の高知城を粉砕し、それに呼応してフランスが幕府側に軍事介入し、日本列島は列強の代理戦争の草刈り場と化し、南北に分断された悲惨な植民地となっていたかもしれない。
坂本龍馬は、自らの命を削って日本の独立という帳簿の帳尻を合わせた。彼は、己の血肉を担保として差し出し、日本の未来という債権を守り抜いたのである。
その計算式の解が正しかったことが証明されるのは、彼が凶刃に倒れ、その死体の上を時代が通り過ぎ、やがて南山共和国が正式に建国された後のことである。
明望の丘に立つ龍馬の銅像は、今もリボルバーを腰に、懐に計算尺を忍ばせ、ニヤリと笑っている。その視線の先には、彼が見ることのできなかった「商人が戦争を管理する世界」が広がっている。
(第3部 第8話 完)
最後までお付き合いいただき感謝します。
気に入っていただけたら、ページ下部よりブックマークと評価をお願いします。




