第五話 北限のクロニクル
雪が降っていた。
安政六年(一八五九年)九月
暦の上では秋だというのに、江戸の空からは白いものが舞い落ちていた。
それはまるで、これからこの国を覆うことになる長い冬の時代を予見するような、不吉で、それでいて奇妙に美しい光景だった。
俺、勝海舟は、品川の第二台場の胸壁に背を預け、その雪を見上げていた。
懐中時計 -會津の時計師がスイスの技師と共同開発した防水型だ -の針は、午前八時を回ろうとしている。品川沖には、黒煙を吐く六隻の艦隊が停泊していた。
旗艦は、會津藩が独自に建造した一五〇〇トン級のスクーナー型蒸気コルベット「樅」。
そのマストには、日の丸と共に、太く力強い「會」の字が染め抜かれた藩旗が、寒風に翻っている。
「……追い出し部屋にしては、随分と豪華な見送りじゃねえか」
俺は紫煙を吐き出しながら、独りごちた。
この日、會津藩二十三万石は、長年務めた江戸湾警備の任を解かれ、蝦夷地警備の任を命じられた。表向きは「北方の守り、ロシアの南下に備える重責」だ。
だが、裏の事情を知らぬ者は幕閣にも諸侯にもいやしねえ。
これは「左遷」だ。時の大老・井伊直弼による、東国産業派、とりわけその急先鋒である會津松平家に対する、露骨な厄介払いだった。
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事の発端は、その三ヶ月前に遡る。
江戸城・表御殿。老中部屋での密議だ。
大老・井伊直弼は、彦根の赤鬼なんて呼ばれちゃいるが、彼は単なる頑固者じゃねえ。西国経済圏の利害を代弁する、冷徹なリアリストだ。
彼が赤鬼なんぞと呼ばれるようになったのは、昨年の西陣騒動がきっかけだ。
南山からの安価な綿織物と、東国の機械紡績糸が大量に流入したことで、京の西陣織や西国の手工業が壊滅的な打撃を受けた。職人や問屋が暴徒化し、輸入商社を焼き討ちしようとした際、井伊は京都所司代の警察力ではなく、彦根藩の赤備え部隊を投入した。
それも、槍や刀ではない。輸入したばかりのミニエー銃による一斉射撃で、暴徒を容赦なく鎮圧したのだ。鴨川が血で赤く染まったあの日以来、彼は恐怖と畏敬を込めて赤鬼と呼ばれるようになった。秩序のためなら、躊躇なく引き金を引く男だと。
「會津公は、やり過ぎだ」
井伊は、南山産の高級茶をすすりながら、容保公に向かって言い放ったという。
「品川に要塞を築き、若松で精密機械を作り、南山との独自交易ルートまで開拓する。……公儀の頭越しに、あまりに力を持ちすぎた。東国の煙突から出る煙で、京の空が曇ると帝も憂いておられる」
この頃、日本の経済は二つに裂けていた。
俺たち東国勢は、南山・入安の資源と直結し、重工業と精密機械で富を築いていた。
対して井伊が基盤とする近畿・西国勢は、伝統的な対清貿易と農業、そして権威と伝統が主体だ。東の「鉄と蒸気」が、西の「絹と米」を圧倒し始めていた。西国の焦りは、そのまま幕閣内の権力闘争に直結する。
「會津には、北へ行ってもらおう。蝦夷地全土の警備と開拓。…これぞ、国体護持の要石よ」
井伊の言葉は、完璧な官僚答弁だった。
だが、その本音は透けて見える。
『會津の精鋭部隊と、その背後にある産業資本を江戸から引き剥がす。その隙に、京と大坂を中心とした中央集権体制を固める』東国の手足を捥ぎ、頭(江戸)を空っぽにする。見事な策だ。俺が井伊の立場でもそうするだろうよ。
だが、あの”質の悪い狼”こと松平容保が、尻尾を巻いて逃げるわけがねえ。
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「勝。……寒くなるな」
雪の舞う品川台場に、容保公が現れた。
数年前の「泥まみれの少年」の面影は、もうない。
二十四歳。英国製の上質なフロックコートの上に、ラッコの毛皮の襟がついた厚手の軍用マントを羽織っている。その背後には、最新式のスペンサー七連発騎兵銃を背負った護衛兵の精鋭たちが、影のように控えていた。彼らは公には姿を見せないが、常に主君の半径五メートル以内を警戒している。
「ええ、寒くなりますよ。蝦夷はヒグマとロシア人の国だ。……で、殿様。本当に行くんですかい? 今ならまだ、仮病を使ってでも江戸にしがみつく手はある」
俺の軽口に、容保公は薄く笑った。その頬の火傷痕が、雪の白さに浮き上がって見える。
「断じて否、だ。勝、其の方は地図を『平面的』に見すぎている」
彼は懐から、一枚の図面を取り出した。
それは蝦夷地の地図だが、通常のものとは違う。石狩、夕張、釧路……各地に黒い印がつけられ、そこから海岸線へ向かって太い線が引かれている。
「井伊は、余を”流刑地”に送るつもりだろう。だが、余にとって蝦夷は”宝の山”だ」
容保公の指が、石狩の地を叩いた。
「石炭だ。南山までの長い航路、蒸気船の最大の弱点は燃料補給にある。今までは九州の炭に頼っていたが、あれは西国の首根っこだ。だが、蝦夷の炭鉱を開発すれば、東国艦隊は無尽蔵のエネルギーを自前で手に入れる」
さらに、彼の指は沿岸部をなぞった。
「そして、海産物。南山では今、入植者が増えすぎて食糧不足が懸念されている。ゴム農園で働く者たちは、常に腹を空かせているのだ。蝦夷のニシン、鮭、昆布。これらを若松の技術で缶詰にし、北から南へ直送する」
俺は息を呑んだ。
「……なるほど。北の石炭で船を動かし、北の食料で南の労働者を養い、南のゴムと鉄でまた船を造る。……永久機関を作る気ですか」
「そうだ。これは左遷ではない。『北のエンジン』と『南のエンジン』を直結させる、巨大な循環器の構築なのだ。家老の頼母と土佐が、すでに技師団を連れて先発した。五年だ。五年で蝦夷を、東洋のマンチェスターに変えてみせる」
出航の刻限が迫っていた。
品川の宿場通りから、地響きのような音が近づいてくる。
會津藩 蝦夷派遣軍 総勢三千
その行軍は、安政二年のあの「泥まみれの演習」とは、隔世の感があった。
先頭を行くのは工兵隊だ。彼らが曳いているのは、大八車ではない。若松の工場でライセンス生産された、南山製のゴムタイヤを装着した蒸気牽引車だ。煙突から黒煙を吐き、泥濘んだ雪道をものともせずに、分解された製材機や採掘ドリルを運んでいく。
続く歩兵隊は、もはや戦国武者の仮装行列ではない。全員が防寒仕様のウール製軍服を着用し、背嚢には缶詰と毛布、そして腰には帯刀と共に、若松で製造されたS&W式拳銃を下げている。
彼らの目は、左遷される兵のそれではない。新天地へ向かう開拓者の、希望と野心に満ちた目だ。
沿道の江戸市民は、言葉を失って見送っていた。
そして、その群衆の中には、鋭い視線に混じって、明らかに異質な気配があった。
彦根藩や薩摩藩の間者どもだ。
彼らは戦慄したはずだ。會津が北へ去ることを喜ぶと同時に、その中身-圧倒的な技術力とその運用体系-が自分たちの理解を超えていることに。
井伊直弼の計算が、ここで一つ狂ったのだ。彼は會津を遠ざけたつもりだが、実際には會津に「翼」を与えてしまったのだから。
「……見ろ、勝。あれが余の『牙』だ」
容保公は、愛おしそうに兵列を見つめた。
「彼らはもう、刀では戦わぬ。ツルハシと蒸気ハンマーで、大地の富と戦うのだ。……だが、もし誰かがその富を奪おうとすれば、そのハンマーは直ちに敵を砕く武器となる」
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だが、俺には一抹の不安があった。
「殿様。…北の守りはそれでいいでしょう。だが、留守になる江戸と京はどうなります? 赤鬼さんが睨みを利かせてるとはいえ、會津という重石が取れれば……」
會津が去れば、都のパワーバランスは崩れる。西国の野心家たちが跳梁跋扈し、過激な思想を持つ浪人たちが暴発するだろう。井伊は強権で抑え込むつもりだろうが、圧力鍋の蓋を無理やり押さえれば、いつかは爆発する。
「……承知している」
容保公の表情が曇った。
「余が去れば、都は荒れるだろう。井伊殿の手腕も、いつまで通じるか……。だが、今は耐える時だ。中途半端な力で介入すれば、泥沼に嵌る」
彼は俺の方を向き、真剣な眼差しで言った。
「勝。其の方は江戸に残れ。そして海軍を育てろ。…余が北で鉄を掘り、南山がゴムを作る。だが、それを繋ぐのは船だ。海さえ押さえていれば、たとえ本土が火の海になろうとも、我々の文明は生き残る」
「……随分な言い草だ。俺に泥水をすすれってか」
「頼む。……照も、連れてはいけぬのだ」
その言葉に、俺はハッとした。
照姫。あの気丈な姫君は、今回は江戸に残るという。
「照は、震災後に建てた會津記念病院の院長として、江戸の医療を支えると言って聞かぬ。……余が北で基地を作るまで、彼女はここを守るつもりだ。彼女を……頼めるか」
容保公の手が、微かに震えていた。
愛する者を、火薬庫のような江戸に残していく。その苦渋。
大老・井伊直弼は、照姫を事実上の人質として江戸に留め置くことを暗に求めたとも聞く。
容保公はその屈辱を飲み込み、国家の設計図を優先させたのだ。
「……承知しました。姫様の髪一本、赤鬼の手下にも触れさせませんよ」
俺が請け負うと、彼は短く頷いた。
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正午
旗艦『樅』の汽笛が、雪雲を震わせた。
タラップを登る容保公の背中に、俺は敬礼を送った。
「殿様! ……土産は鮭の缶詰でいいですよ! 特級品のな!」
俺の減らず口に、彼は一度だけ振り返り、ニヤリと笑ってみせた。かつて品川の泥の中で見せた、あの不敵な笑みだ。
「期待しておれ! ……勝、死ぬなよ!」
艦隊が黒煙を上げ、江戸湾を滑り出していく。
雪は激しさを増していた。
視界が白く染まる中、遠ざかる會津艦隊の航跡だけが、黒く、太く、海面に刻まれていた。
それは、来るべき動乱の時代 -「万延・文久の変革期」へと続く、最初の一筆だったのかもしれねえ。
西からは、赤鬼の圧政に反発する狼たちが牙を研いでいる。
北からは、會津という熊が力を蓄えて機会を窺っている。
そして真ん中の江戸には、俺たちのような古狸が腹の探り合いをしているってわけだ。
「……面白くなってきやがった」
俺は襟を立て、寒風吹きすさぶ台場を後にした。
雪は降り積もる。
だが、その下の土壌では、すでに次の時代の種が、蒸気の熱で芽吹こうとしていたのさ。




