第8話 イカルス号事件の怪 - 羊毛と石炭の鎖 (上)
慶應三年(一八六七年)八月六日、深夜。
長崎・丸山。日本三大花街の一つに数えられるこの遊里は、昼間の殺伐とした政争や商取引を忘れさせる、阿片のような甘く退廃的な空気に包まれていた。東シナ海から吹き付ける湿り気を帯びた熱風が、遊郭の紅殻塗りの格子の隙間を抜け、石畳の路地を舐めるように吹き抜けていく。
その風には、遊女たちが塗りたくる安物の鉛白粉の粉っぽい匂いと、入江の泥に埋もれて腐りかけた魚の腸、そして南山植民地から運び込まれた無煙炭が燃える、鐵の錆びたような生臭い煤煙の臭気が、複雑怪奇に混じり合っている。それは、文明と野蛮、繁栄と貧困が同居する、この国際貿易都市特有の体臭であった。
時刻は丑三つ時を回り、三味線の音も途絶え、通りには不気味な静寂が支配し始めていた。その静寂を破るように、二人の異人の千鳥足が、不規則なリズムを石畳に刻んでいた。
英国海軍測量船「イカルス号」所属の水夫、ロバート・フォードとジョン・ハッチングスである。彼らは、入安島のサトウキビから蒸留された、眼球が潰れるほど度数の強いラム酒を浴びるほど煽り、意識の半分を泥酔の海に沈めていた。
「クソッタレな国だ、ここは。蒸し風呂みてえに暑くて、酒はガソリンみてえな味がしやがる」
フォードが呂律の回らない舌で悪態をつき、道端の地蔵に唾を吐きかけた。彼らにとって、この極東の島国はエキゾチックな楽園などではない。上官の怒号と船底の過酷な労働から逃れ、安い銭で本能を処理するためだけの掃き溜めに過ぎなかった。
「おい、ロブ。誰かいるぞ」
ハッチングスが、濁った目で路地の奥を指差した。ガス燈の青白い光が届かぬ闇の奥、一軒の揚屋の軒下に黒い影が揺らめいていた。それは、幽霊でも野良犬でもない。白袴を身につけ、顔を深い編み笠で隠した一人の侍であった。
「なんだァ?ジャパニーズ・モンキーが、俺たちに芸でも見せてくれるのか?」
フォードが下卑た笑い声を上げ、ふらつく足取りで影に近づこうとした、その時だった。
ヒュッ
風を切る音さえもしなかった。ただ、銀色の閃光が、湿った夜気を一瞬だけ切り裂いた。それは、道場剣術のような礼儀正しい立ち会いではない。解剖学的な正確さで人体の急所を破壊するためだけに繰り出された、冷徹な「作業」であった。
ドサリ
フォードの身体が、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。その背中には、袈裟懸けに深々と脊椎まで達する斬撃が刻まれていた。鮮血が噴水のように吹き上がり、石畳を黒く染めていく。
ハッチングスが悲鳴を上げようと息を吸い込んだ瞬間、二撃目が彼の喉元を薙いだ。声にならない空気の漏れる音と共に、二人目の英国人が崩れ落ちる。
下手人は、血振るいもせず、無造作に刀を鞘に納めた。
カチリ
鍔鳴りの音が静寂を取り戻した路地に小さく響く。編み笠の下から覗く目は、激情に燃える攘夷志士のそれではない。依頼された仕事を淡々と完遂した、職人の冷たい眼差しであった。
石畳に広がる二つの黒い血溜まりに、ガス燈の青白い光が反射し、油膜のように揺らめいている。この瞬間、単なる酔っ払いの喧嘩は、国際問題へと変貌した。それは、大英帝国という眠れる獅子の尾を踏みつけ、日本列島全土を火の海に変えかねない、極めて危険な導火線に火が点けられた瞬間であった。
◆
翌八月七日 長崎・大浦 英国領事館
小高い丘の上に建つこの煉瓦造りの洋館は、眼下に長崎港を一望できる絶好の位置にある。 執務室の窓からは、湾内に停泊する英国東洋艦隊の威容が見えた。旗艦「オーシャン」をはじめとする黒塗りの軍艦群は、その腹に最新鋭のアームストロング砲を抱き、煙突からは南山産の無煙炭を燃やす黒煙を吐き出している。それは、大英帝国の力が、物理的な質量を持ってこの国を圧迫していることの証明であった。
だが、今の執務室の空気は、その艦隊の圧力をも凌ぐほどに、落雷の直前のような静電気を帯びて張り詰めていた。南山から輸入されたオーク材の重厚な執務机を、拳で叩き割りそうな勢いで激昂している男がいる。
駐日英国公使 ハリー・パークス
赤ら顔に、燃えるような青い瞳。感情が高ぶるとこめかみの血管が蛇のように浮き上がるこの外交官は、「暴れ牛」という不名誉な異名を持つ。そして今、彼はその異名通りの狂乱状態にあった。
「野蛮人どもめ! これは卑劣なるテロルだ! 女王陛下の制服を着た水兵を、背後から闇討ちにするとは、騎士道精神の欠片もない!」
パークスの怒号が、領事館の分厚い漆喰の壁をビリビリと震わせる。彼は、机上のインク壺を掴むと、壁に掛かった日本地図に向かって投げつけた。ガラスの砕ける音と共に、黒いインクが四国・土佐のあたりに染みを作る。
「落ち着いてください、公使閣下。血圧が上がります」
傍らで控える通訳官、アーネスト・サトウが、冷静さを保とうと努めながら諌める。だが、その顔色は蒼白だ。この「暴れ牛」が一度暴走を始めれば、外交儀礼などという柵は簡単に踏み倒されることを知っているからだ。
「落ち着いていられるか、サトウ! これは帝国への挑戦だ! 目撃証言はあるのだ! 現場近くの茶屋の女将が証言している! 『白袴を履いた、土佐訛りの言葉を使う侍』だったとな!」
パークスは唾を飛ばしながら叫んだ。 その証言の真偽など、彼にとっては些末な問題だった。重要なのは、土佐藩という名前が出てきたことだ。当時、英国外交は微妙な舵取りを迫られていた。薩摩・長州を中心とする武力倒幕派に接近しつつあった彼らにとって、現状を大きく変えない「大政奉還」を提案し、現執権政府との妥協点を探ろうとする土佐藩(特に後藤象二郎や坂本龍馬)の動きは、目の上の瘤であった。
土佐が提唱する公議政体論が実現すれば、徳川家は政治の中枢に残り続け、英国が期待する「完全なるレジーム・チェンジ」は遠のく。パークスにとって、この事件は、土佐藩を政治的に抹殺し、倒幕の火蓋を切らせるための、天が与えた絶好の口実となり得るのだ。
「土佐だ。間違いなく土佐藩の仕業だ! 奴らは、表面上は恭順を装いながら、腹の中では攘夷の毒を煮えたぎらせているのだ! 犯人を即刻引き渡せ! さもなくば、我が艦隊は土佐の須崎港へ向かい、高知城下を更地にするまで砲撃を加える!」
その場に呼び出されていた土佐藩執政・後藤象二郎は、顔面から完全に血の気を失い、借りてきた猫のように縮こまっていた。彼は震える膝を必死に抑えながら、パークスの剣幕に圧倒されていた。
土佐には、英国艦隊と一戦交える力などない。数年前、薩摩が英国と戦った「薩英戦争」の惨状は、彼も聞き及んでいる。アームストロング砲の炸裂弾は、木造の城下町を紙細工のように焼き尽くしたという。もし今、土佐が砲撃されれば、土佐藩は朝敵ならぬ「国際社会の敵」として孤立し、物理的にも政治的にも消滅する。それは、坂本龍馬と描き上げた「大政奉還」という壮大な絵図面が、灰燼に帰すことを意味していた。
「ま、待ってくだされ公使殿。調査を。きちんとした調査を…。土佐藩士がそのような凶行に及ぶとは、にわかには信じ難く」
後藤の声は、蚊の鳴くように細かった。パークスは机をバンと叩き、鼻先数センチまで顔を近づけて恫喝した。
「問答無用! 三日待つ。七二時間だ。 それまでに犯人の首を持ってこなければ、これは戦争状態と見なす! オーシャン号のボイラーには、すでに火が入っているぞ。貴様の城が燃える様を、特等席で見たくなくば、走れ!」
パークスの一方的な最後通牒に、後藤はよろめきながら逃げるように領事館を後にした。大浦の坂道を下りながら、後藤は絶望的な空を仰いだ。真夏の太陽が、残酷なほど眩しく輝いている。
(終わりじゃ。土佐は終わった)
だが、彼の脳裏に、ふと一人の男の顔が浮かんだ。南山の荒野を飄々とした顔で歩き回り、鉄と火薬の匂いを纏った男。計算尺とリボルバーで、世界の理をねじ伏せる男。彼が縋れる相手は、この長崎の闇社会と南山の経済圏を鮫のように自在に泳ぎ回る「フィクサー」、坂本龍馬ただ一人であった。
◆
長崎・丸山。日本三大花街の筆頭に数えられるこの場所の中でも、別格の格式を誇る史跡料亭「花月」。極彩色の硝子障子が嵌め込まれた広間「竜の間」は、今宵、奇妙な静寂と、むせ返るような酒の匂いに包まれていた。
朱塗りの円卓を囲んでいるのは、着飾った芸妓たちではない。土佐藩の参政・後藤象二郎と、海援隊隊長・坂本龍馬の二人きりであった。卓上には、長崎名物の卓袱料理が所狭しと並べられている。東坡肉、ハトシ、そして広州から輸入された鮫のフカヒレ姿煮。だが、後藤の箸は微動だにせず、彼の視線はただ一点、目の前の男に釘付けになっていた。
坂本龍馬は、相変わらずこの格式高い料亭には似つかわしくない、場違いな「南山スタイル」で寛いでいた。糊の効いた紋付袴ではなく、煤けた着流しの上に、明望の中国人街で仕立てた厚手のオイルドコットン・コートを無造作に羽織っている。
畳の上にあぐらをかいたその足元には、脱ぎ捨てられた拍車付きのカウボーイブーツが転がり、革と馬糞とグリースが混じったような、荒野の匂いを放っていた。彼は、目の前の豪勢な料理には目もくれず、懐から取り出した南山特産の干し肉を、琥珀色の密造ラム酒で流し込んでいた。
英国領事館から蒼白な顔で駆け込んできた後藤が、一息に事情をまくし立てるのを、龍馬はニヤリと笑いながら聞いていた。まるで、講談師が語る他国の戦争話でも楽しむかのような風情だ。
「龍馬、笑い事ではない! 土佐が火の海になるぞ!」
後藤の悲鳴に近い叫びが、広間の空気を震わせた。彼の髷からは脂汗が滴り落ち、膝の上に置かれた拳は小刻みに震えている。パークス公使の怒号と、長崎港に向けられたアームストロング砲の砲口が、まだ彼の網膜に焼き付いているのだ。
「慌てるな、後藤さん。英国は吠えちょるが、牙は抜けちょる。わしがその虫歯を、ちっくと疼かせてやるき」
龍馬の目は、ラム酒を煽っているにもかかわらず、少しも酔ってはいなかった。それは、蒸気機関車のボイラー圧を確認し、鐵道の配当利回りを計算する技師のように、冷徹で乾いた光を宿していた。
「まず、下手人は土佐もんじゃあない。海援隊の若い衆でもない」
「なぜ分かる! パークスは目撃証言を握っているのだぞ! 『白袴の土佐侍』だと!」
後藤が卓を叩いて詰め寄るが、龍馬は干し肉の繊維を歯で引きちぎりながら、涼しい顔で答えた。
「簡単な理屈じゃ。事件当夜、海援隊の連中は、刀の手入れなぞしちゃおらんかった。 奴らは、南山あがりの荒くれ者たちと、別の料亭、すぐそこの引田屋で、賭場を開いちょったからじゃ」
「と、賭場だと??」
「おうよ。賭けていたのはサイコロの目じゃあない。南山鐵道の未公開株の相場じゃ」
龍馬は、卓上の冷めたフカヒレ皿を指差した。
「あいつらは昨晩、すき焼きをつつきながら、明望郊外の土地投機話に花を咲かせていたんじゃ。 『北嶺の炭鉱まで線路が伸びれば、あの荒地が金山に化ける』とな。芸者衆も一緒じゃった。その場に居なかったことなら、丸山の遊女たちが全員で証明するきに、心配はいらん」
龍馬は、懐から数枚の紙切れ、南山物産が発行した為替手形や、株券の写しを取り出し、トランプのカードのように卓上に放り投げた。ヒラヒラと舞い落ちる紙片には、漢数字ではなく、アラビア数字で金額が書き込まれている。
「それにのう、後藤さん。よう考えてみい。 わしらの隊士は、もはや刀の切れ味なんぞより、回転式拳銃の装弾数と、計算尺の目盛りの方を好む連中じゃ。あいつらにとって、酔っ払いの異人を斬るなんてのは、弾薬の無駄遣い以外の何物でもない。 人を斬る生臭い感触よりも、銭を数える乾いた音の方を好む連中じゃ。一文の得にもならん人殺しをするほど、海援隊は暇じゃあない」
それは、武士の潔白証明というよりは、経済人としての合理的判断に基づく無罪主張であった。かつて尊王攘夷を叫んで脱藩した志士たちの姿は、そこにはない。彼らは今や、南山物産の下請けとして、武器と資源を運び、利ざやを稼ぐ「武装商社マン」に変貌していたのだ。彼らの魂は、大和魂ではなく、資本主義の精神によって駆動していた。
「……だ、だが……」
後藤は頭を抱え、呻くように言った。
「理屈は分かった。だが、パークスは納得すまい。 奴が欲しいのは、真実の犯人ではないのだ。土佐を叩き、幕府との妥協路線を粉砕するための生贄が欲しいのじゃ!
博打が何だ、花魁がなんだと言っても、奴らは土佐がやったという既成事実を作るためなら、証言などいくらでも捏造するぞ!」
後藤の懸念はもっともだった。外交とは正義の追求ではなく国益の押し付け合いだ。大英帝国の艦砲射撃の前では、一介の商社のアリバイなど、木の葉のように吹き飛ぶ。
龍馬は、グラスに残ったラム酒を一気に飲み干すと、音を立てて立ち上がった。
チャリ、とブーツの拍車が鳴る。
「分かっちょる。相手は、七つの海を支配する強欲な獅子じゃ。正論が通じる相手じゃあない」
龍馬は、オイルドコートの襟を立て、円卓の向こうにある窓へと歩み寄った。格子戸を開け放つと、長崎の夜景が広がっていた。港には、英国艦隊の停泊灯が、まるで葬列の送り火のように点々と連なっている。
「じゃきに、わしらが切るカードは、犯人捜しの証拠品じゃあない。血のついた刀でもない。もっと強力で、もっと凶悪なジョーカーじゃ」
龍馬は、懐から一枚の電信用紙を取り出した。そこには、暗号のような数字の羅列が記されている。
「この国は今、南山という巨大な胃袋と、へその緒で繋がれちょる。そして英国もまた、その胃袋から出る餌を食らって肥え太っとる。 羊毛と石炭。 この二つの鎖をじゃらつかせてやれば、猛獣も猫のように大人しくなるはずじゃ」
龍馬は、南山の方向、漆黒の海の彼方にある南の空を見つめた。そこには、彼の盟友であり、今や南山経済界の王として君臨する男がいるはずだ。
「五代の才助(友厚)どんに電信を打つ。『英国の喉元に、ナイフを突きつける準備をせよ』とな」
もしも現代のビジネスマンがその言葉を聞いていれば、それは攘夷志士の決意表明というよりは、巨大企業の役員が敵対的買収を仕掛ける直前の指令のように聞こえたかもしれない。
第8話 (下)に続く
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