第5話 薩摩の飢餓 - 経済封鎖(エコノミック・ブロッケード)』
慶応三年(一八六七年)七月
南半球の南山・明望港は、冬の澄み渡った青空の下、かつてない活況に沸いていた。入安島から運ばれた銅鉱石、北嶺島の羊毛、そして無人島から採掘された「白い黄金」グアノ(硝石原料)。それらを満載した蒸気船団が、黒煙の帯をたなびかせて次々と出港していく。
行き先は、横濱、上海、サンフランシスコ、そしてロンドン。
南山物産が叩き出す莫大な利益は、海底ケーブルを通じて瞬時に信用状(L/C)へと変わり、徳川幕府の金庫を潤していた。だが、その地球規模の繁栄の陰で、日本列島の南端、薩摩藩・鹿児島城下には、死神の影が忍び寄っていた。
◆
日本列島の南端 薩摩藩・鹿児島城下
かつて「東洋のマンチェスター」を夢見た島津斉彬の遺産、磯の集成館工場群は、夏の日差しの中で、巨大な墓標のように静まり返っていた。
本来ならば、反射炉の煙突からは黒煙が噴き上がり、溶鉱炉が唸りを上げているはずであった。だが、今の煙突から吐き出されているのは、頼りない黄色い煤煙のみ。それは、まるで病人の吐息のように弱々しく、周囲に鼻をつく硫黄の臭気を撒き散らしていた。
工場の一角、大砲鋳造場
技師たちが沈痛な面持ちで囲んでいるのは、冷却中の鋳型から取り出されたばかりの、一五〇ポンド砲の砲身である。その表面には、蜘蛛の巣のような無数の亀裂が走っていた。
「また、駄目ごわすか」
低い、地響きのような声がした。西郷吉之助(隆盛)である。薄汚れた木綿の着流しに身を包んだその巨躯は、以前と変わらぬ威容を誇ってはいるものの、眉間には深く険しい皺が刻まれ、全身から発する空気は重く澱んでいた。肉体は壮健だが、精神が摩耗しているのだ。
「申し訳ございもはん、西郷さぁ」
工場長が、煤まみれの顔で土下座した。
「火力が、足りんのです。筑豊から取り寄せた粉炭では、どうやっても炉の温度が上がりきらん。鉄が溶けきる前に固まりよる。これでは、大砲どころか、蒸気船のシャフト一本作れもはん」
原因は明確であった。「南山炭」の欠乏。北嶺炭田から産出される、高カロリーで不純物の少ない最高級瀝青炭。これなしでは、近代的な製鉄も、精密な蒸気機関の稼働も不可能だ。 だが、今の薩摩にその黒いダイヤは届かない。徳川慶喜と小栗上野介が発令した「重要物資管理令」により、南山からの戦略物資は東国および親藩にのみ供給され、薩摩・長州への転売は、海軍による海上封鎖で完全に絶たれていた。
「鉄はある。技術もある。じゃっどん、燃やす石がなか」
西郷の横で、大久保一蔵(利通)が、噛み殺すような声で呟いた。彼の懐には、藩の金庫番から受け取った報告書が入っている。それは、薩摩という軍事国家の動脈硬化を告げる診断書であった。
『集成館稼働率、四割五分ニ低下ス』
二人は無言のまま工場を出て、炎天下の城下町へと足を向けた。かつて七七万石の富を誇った城下は、奇妙な静けさと閉塞感に包まれていた。路地裏に飢えた子供の姿はない。薩摩の豊かな火山灰土は、今年も十分なサツマイモや穀物を実らせており、民の胃袋を満たすだけの食料はあふれている。だが、町には活気というものがまるでなかった。商店の棚には品物が並んでいるが、買い手がいない。あるいは、物々交換で済ませようとする者ばかりで、「銭」が動いている気配がないのだ。行き交う下級武士たちの目は、空腹ではなく、出口の見えない将来への不安と殺気で濁っている。
「一蔵。銭相場はどうなっちょる」
「最悪じゃ。今朝の相場で、天保通宝一枚が、芋二つ分じゃ」
大久保は苦渋に満ちた顔で答えた。 外貨(メキシコドルや南山銀貨)の流入が止まった薩摩藩は、藩内経済を回すために、禁じ手である天保通宝の密造(贋金づくり)に手を染めていた。だが、貿易という裏付けのない通貨は、単なる金属片に過ぎない。刷れば刷るほど価値が暴落する悪性インフレ(ハイパーインフレ)が進行していた。モノはあるのに、それを媒介する血液(通貨)が腐っている。それが今の薩摩の病巣であった。
さらに追い打ちをかけたのが「砂糖戦争」の敗北である。薩摩のドル箱であった奄美の黒糖は、今年も豊作であり、倉庫には山のように積まれている。だが、それは単なる甘いゴミと化していた。南山・入安島から大量に流入した、安くて白くて甘い「南山白糖」によって、大坂市場から駆逐されたからだ。
「作物は獲れておる。蔵には黒糖が腐るほどある。じゃっどん、売れん」
大久保は吐き捨てるように言った。
売れなければ、外貨が入らない。外貨がなければ、最新のアームストロング砲も、軍艦も買えない。
薩摩藩は飢えて死ぬのではない。東国・南山経済圏という巨大な繁栄の蚊帳の外で、田舎の大名へと転落し、緩慢な「窒息死」を迎えようとしていた。
大久保は、道端で無気力に座り込む若者たちの姿に、自分たちの未来を重ね合わせた。このままでは、戦をする前に薩摩は時代から取り残されて朽ち果てる。「閉塞」という名の目に見えない壁が、じりじりと二人を押し潰そうとしていた。
◆
城山の麓、鶴丸城の一室。
薩摩藩の重鎮、大久保と西郷は重苦しい沈黙の中で向かい合っていた。卓上に置かれているのは酒肴ではない。空っぽの弾薬箱と、錆びついたエンフィールド銃が一丁。そして、長崎の武器商人トーマス・グラバーから届いた、無情な請求書であった。
「また、断られたか」
西郷が、太い眉を寄せて呻くように言った。その巨躯は心なしか痩せ、眼光には飢えた狼のような険しさが宿っている。
「はい、吉之助さぁ。グラバーの野郎、足元を見おって。『代金は金貨か南山銀貨のみ。藩札は紙屑だ』とほざきよった」
大久保は、冷静さを装っているが、膝の上に置かれた拳は白く変色するほど握りしめられている。
「それに、肝心の『硝石』が入ってこん。南山物産が、欧州市場のグアノを買い占め、日本向けの供給ルートを完全に絞り上げてきおった。これでは、鉄砲があっても弾が作れん」
これこそが、将軍・徳川慶喜と勘定奉行・小栗上野介が仕掛けた、近代的な兵糧攻め。「経済封鎖」であった。幕府は、軍艦を一隻も動かすことなく、薩摩を殺そうとしていた。南山という「資源の蛇口」を閉めるだけで、薩摩藩の経済は窒息し、軍事力は干上がりつつあったのだ。
「弾がなければ、戦はできん。戦ができなければ、幕府を倒すどころか、薩摩は座して死を待つのみじゃ」
西郷は、空の弾薬箱を拳で殴りつけた。ベキッ、という乾いた音が、枯れ木の折れる音のように響いた。
「一蔵。才助はどうしちょる?あいつなら、何か手を打てるはずじゃ」
大久保は、痛ましげに目を伏せた。才助。すなわち、南山物産の明望支店長、五代友厚である。彼らの幼馴染であり、薩摩が生んだ稀代の商才。今や南山の経済を牛耳る「五代様」だ。
「手紙は出した。だが、返事はない。あいつは今や、徳川の金庫番じゃ。故郷を見捨てて、商売を選んだのかもしれん」
◆
同時刻。南山共和国・明望
南山物産・明望本店の支店長室
窓の外には、繁栄を謳歌する港の絶景が広がっているが、五代友厚の心は、鉛のように重く沈んでいた。彼の手元には、二通の書類があった。一通は、江戸の小栗上野介から届いた、最高機密扱いの命令書。
『対薩摩輸出禁止令』
硝石、鉛、銅、そして最新鋭の機械類。これらを薩摩藩、およびその関係者へ販売することを厳禁し、違反した場合は「利敵行為」として厳罰に処すという、冷酷無比な通達である。そしてもう一通は、ボロボロになった和紙に書かれた、盟友・大久保利通からの密書。そこには、プライドの高い大久保がなりふり構わず記した、『助けてくれ』という文字が踊っていた。文面から滲み出る悲鳴のような懇願。
「一蔵どん。…吉之助さぁ」
五代は、南山産の極上葉巻を噛みしめた。味がしない。
彼は、この南山で成功を掴んだ。マオリの族長の娘を娶り、巨万の富を築き、一国の経済を動かす地位にある。だが、その根っこにあるのは、やはり薩摩の赤土だ。故郷の友が、自分の扱う商品のせいで干からびて死のうとしている。それを黙って見過ごすことができるのか?
しかし、情に流されて硝石を横流しすればどうなるか。小栗の諜報網(目付)は優秀だ。必ず露見する。そうなれば、五代の地位はおろか、南山物産という組織そのものが危機に晒され、彼が夢見た「日本の近代化」という巨大なプロジェクトが水泡に帰す。故郷を取るか、国家の未来を取るか。それは、商売人としての損得勘定を超えた、魂の決断を迫る問いであった。
部下の南新三郎が、心配そうに様子を窺っている。五代は、窓ガラスに映る自分の顔を睨みつけた。ロンドン仕立てのフロックコートを着た、成功者の顔。だが、その奥にある瞳だけは、まだ薩摩隼人の色を失っていない。
「…新三郎。…俺は、商人だ」
五代は、自分に言い聞かせるように、低く呟いた。
商人は、情けでは動かない。だが、商売の「均衡」が崩れることは嫌う。もし徳川が強くなりすぎて、薩摩が完全に潰れればどうなるか。国内の競争がなくなり、緊張感が消えれば、南山の武器も資源も売れなくなる。徳川一強の独占市場は、南山物産にとっても利益にならない。それは、あまりにも苦しい詭弁だった。だが、五代にとっては、自分を納得させ、そして小栗の目を欺くための、唯一の正解でもあった。
五代は、命令書の裏に素早く万年筆を走らせた。
『在庫調整』
入安島行きの輸送船『サザンクロス号』の積荷目録を書き換える。硝石二〇トン、鉛一〇トン。決済用銀貨五〇〇〇南山両、名目は『鉱山発破用』および『現地警備隊用』。そして、その輸送船がフィリピン沖で「海賊」に遭遇するというシナリオ。
運良く通りかかった長崎のグラバー商会の船が海賊を撃退し、漂流していた積荷を回収したという、三文芝居のような筋書きだ。グラバーという男は、金さえ積めば悪魔とも取引する。
新三郎は、差し出された書き換え済みの書類を見て息を呑み、そして深く一礼した。主の覚悟を、無言で受け取ったのだ。部下が退出した後、五代は深く椅子に沈み込んだ。これで、薩摩は首の皮一枚繋がるだろう。だが、それは同時に、終わるはずだった内戦の火種に油を注ぎ、多くの血を流すための燃料を提供したことに他ならない。
五代は、友に救いの手を差し伸べたと同時に、友に「戦え」という残酷な剣を渡したのだ。五代は、大久保からの手紙を、暖炉の炎に投じた。紙片は一瞬で燃え上がり、黒い灰となって崩れ落ちた。。
◆
一ヶ月後。慶応三年八月
長崎・大浦のグラバー邸の地下倉庫に、数個の木箱が運び込まれた。
「NANZAN NITRATE(南山硝石)」の焼印が削り取られ、「肥料」と書き直されたその箱を前に、薩摩藩の密使は涙を流して感謝したという。その報告を受けた大久保利通は、鹿児島城下の一室で、無言のまま北の空、南山の方向を向いて手を合わせた。
そして、その横で、西郷隆盛は硝石の入った袋を鷲掴みにし、その冷たい感触を確かめると、獰猛な笑みを浮かべた。
「才助の野郎、粋な真似をしよる。これだけあれば、十分に花火が上げられる」
西郷の目には、もはや迷いはなかった。
追い詰められた獣が、起死回生の一撃を放つ前の、静かな殺気だけがあった。
「一蔵。もう、後戻りはできん。幕府が俺たちを干殺しにするなら、俺たちは幕府ごと日本を焼き払ってでも生き残る。鉛と硝石の一部は長州に回してやれ」
そして目を細めて部下らに指示を出した。
「おはんらは、この銀貨で『ええじゃないか』の仕掛け、準備にかかれ」
五代が送った「慈悲」という名の硝石は、皮肉にも、西郷という怪物を檻から解き放つための「最後の鍵」となってしまったのである。経済封鎖という冷徹な「理」の締め付けは、薩摩という圧力釜の限界を超えさせ、暴発という名の「情」の爆発を引き起こそうとしていた。
(第3部 第5話 完)
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