第4話 暴力装置の夜明け - 誠なき治安維持
慶応三年(一八六七年)九月
王城の地と謳われ、千年もの間、雅な伝統を育んできた京都は今、未曾有の繁栄と、その影で腐敗する果実のような甘ったるい退廃の空気に包まれていた。
四条大橋から見下ろす鴨川の川面は、両岸に林立する南山物産の出張所や、舶来品を扱うハイカラな西洋料理店、そして新興成金たちが夜毎宴を開く料亭から漏れる瓦斯燈の青白い光を映し出し、まるで不夜城の堀のように煌めいている。
通りには、南山から輸入された高品質な無煙炭を焚いて走る蒸気乗合馬車の軌道敷設工事が夜通し進められ、槌音が絶えることはない。路地裏からは三味線の音色に混じって、バンドネオンの物悲しい調べや、どこか投げやりな酔客が歌う「ええじゃないか」の狂騒的なリズムが聞こえてくる。
だが、その人工的な光が届かぬ闇の奥底、高瀬川沿いの湿った木屋町通の一角に、時代から取り残されたような不気味な静寂が漂う材木問屋があった。表向きは倒産して閉鎖された空き家だが、その奥まった堅牢な土蔵には、薩摩藩の密偵と通じ、現状への不満を募らせた過激派浪士たちが潜伏していた。彼らは卓上に、密輸された揮発油と鉱業用の爆薬筒を並べ、狂気じみた将軍暗殺計画の謀議を巡らせていたのである。
深夜二時
土蔵の厚い扉の隙間から、彼らの息潜める気配と、殺気立った熱気が漏れ出している。その時、静寂を切り裂いたのは、かつてのような「御用改めである!」という古風な怒号でもなければ、高らかな名乗りでもなかった。
ヒュッ、という短く鋭い指笛の信号音。それだけが、終わりの合図だった。
ドォォォォンッ!!
腹の底に響く重低音と共に、土蔵の扉が内側に吹き飛んだ。それは幕府が雇い入れたフランス軍事顧問団の指導に基づき、横須賀で精製された高純度の黒色火薬を鉄製の筒に密閉した「破砕筒」による、原始的だが強力な爆破作業である。
もうもうと立ち込める黒色火薬特有の白煙と、飛び散る木片。視界が遮られ、硫黄の臭気が充満する中、浪士たちが刀を抜くよりも早く、黒い影の集団が雪崩れ込んでくる。
新選組。
だが、その姿は、三年前の池田屋事件の時とは似ても似つかぬものに変貌していた。かつて京雀たちに恐れられた、象徴的な浅葱色のダンダラ羽織は、今や西本願寺の屯所での儀礼用、あるいはパレード用衣装に過ぎない。
彼らが身に纏っているのは、南山産羊毛で織られた濃紺の詰襟軍服であり、その上には軽量かつ強靭な鎖帷子を内蔵した、黒革製の防刃ベストが装着されている。
足元は音の鳴る草鞋ではなく、靴底に滑り止めの鉄鋲を打った、南山製の頑丈な編み上げ軍靴。その足音が、正確なリズムを刻んで土間を制圧していく。
「な、何だ貴様らは! 武士の情けも…!」
爆発の衝撃で耳をやられた浪士の一人が、半狂乱で叫び、闇雲に長刀を振り回して突進した。白煙の中から現れた黒い悪魔に、恐怖で我を忘れたのだ。
対峙したのは、三番隊組長・斎藤一。
彼は抜刀しなかった。腰の愛刀「鬼神丸国重」には指一本触れていない。代わりに、左手で構えた黒い棒、フランス警察が使用する硬化ゴム製の「特殊警棒」を、最小限の動作で振り抜いた。南山の工場でゴムの加硫処理を施され、芯に鉛を仕込んだその重量級の棍棒が唸りを上げる。
ガキンッ!
鈍く、重い音が響き、振り下ろされた刀の峰が正確に弾き飛ばされる。鋼鉄とゴムの衝突が生んだ衝撃は、浪士の手のひらを痺れさせ、握力を瞬時に奪い去った。と同時に、斎藤は踏み込み、警棒の先端で浪士の手首の尺骨を的確に打ち砕いた。
「情けなら、評定所で乞うがいい」
斎藤は、激痛に悶絶して前かがみになった男の顎を、冷徹なアッパーカットのような動きで警棒のグリップエンド(柄頭)でカチ上げたた。
ゴッ、という骨のきしむ音がして、男は糸が切れた操り人形のように崩れ落ち、脳震盪を起こして白目を剥く。
その背後から、別の浪士が槍を繰り出してくるが、斎藤は眉一つ動かさない。彼の右腰には、大小の刀と共に、革製のホルスターに収まった重厚な鉄の塊が吊るされている。南山工廠が、北米合衆国のスミス&ウェッソン社から正式な製造ライセンスを取得し、北嶺島の鋼鉄を用いて量産を開始したばかりの「No.2アーミー」三二口径回転式拳銃。
カチリ。
斎藤は、抜き撃ち(クイックドロウ)の動作で銃口を向け、視線だけで標的を捉えると、親指で撃鉄を起こした。その動作に、躊躇いはない。剣客としての矜持よりも、治安維持官としての効率を選んだ男の指先だ。
ズドンッ!
乾いた銃声が狭い土蔵に反響し、新たな硝煙が鼻をつく。放たれた一〇グラムの鉛弾は、槍を構えた浪士の右太腿を正確に貫通した。心臓でも頭部でもない。
彼らにとって、死体は埋葬料がかかるだけの一文の得にもならない産業廃棄物だが、生きた人間は、南山の鉱山や入安島のプランテーションへ送るための、貴重な「労働資源」だからだ。
「確保! 次!」
斎藤の短く事務的な指示が飛ぶ。それに呼応して、後続の隊士たちが、まるで一つの生き物のように有機的かつ流れるような動作で制圧を進めていく。
隊士の一人が、背負っていた奇妙な箱型の装置を構えた。 技術者たちが、写真撮影用の照明技術を応用して試作した、「携帯用マグネシウム・フラッシュ・ランプ」である。
彼が点火装置を引くと、レンズの奥でマグネシウム粉末が激しく燃焼し、真昼の太陽ごとき強烈な閃光が土蔵の闇を焼き尽くした。
「うわぁっ! 目が、目がぁ!」
暗闇に慣れていた浪士たちの網膜が灼かれ、彼らは顔を覆ってうずくまる。その隙を見逃さず、別の隊士が火消しの鳶口を振るい、怯んだ浪士の足首を引っ掛けて転倒させた。
ドサリ、ドサリと床に這いつくばる浪士たち。その背中に、隊士たちは容赦なく膝を乗せて体重をかけ、呼吸を封じる。そして懐から取り出したのは、捕縛用の麻縄ではない。川崎の金属加工場でプレス成形された、「アダムス型・ラチェット式鋼鉄手錠」
ジャラッ、カチカチカチ…
冷たい金属音と共に、浪士たちの手首が背後で締め上げられる。 一度嵌れば、鍵がない限り絶対に外れないその拘束具は、彼らの自由と、武士としての誇りを物理的に剥奪した。
そこには、剣戟の火花散る時代劇のようなドラマなど、一ミリも存在しない。あるのは、工場のライン作業のように洗練され、マニュアル通りに徹底的に効率化された「治安維持業務」だけであった。彼らはもはや、一対一の決闘を行う剣客ではない。集団戦術と装備の優位性で対象を無力化する、近代的な警察機動隊の原型であった。
突入からわずか十分後。土蔵の中は完全に鎮圧され、六名の浪士が芋虫のように床に転がされていた。
その中の一人、まだ若い長州訛りの男が、口元から血を吐きながら、憎悪に満ちた目で斎藤を睨みつけた。
「卑怯者め。武士の魂を金で売ったか、この西洋かぶれの壬生狼が!」
斎藤は、表情一つ変えず、懐から銀色のシガレットケースを取り出した。 南山産の労働者向けの安価な両切り紙巻きたばこ(シガレット)を一本抜き出し、まだ熱を帯びたランプの火で先端を赤く灯した。紫煙を深く吸い込み、天井に向けて長く吐き出しながら、彼は無表情に若者を見下ろした。
「魂だと? そんな不確かなものは、帳簿には載らんよ。お前たちの命は、これより南山の銅山開発のために、一人の労働者として有効活用される。精々、国の産業発展のための人柱になれることを喜ぶんだな」
斎藤は、ブーツの踵で吸いかけの煙草を無造作にもみ消すと、踵を返した。その背中には、かつての「誠」の文字が染め抜かれた羽織の代わりに、ただ冷たい鉄の理法だけが張り付いていた。
◆
作戦終了後、午前三時半。
西本願寺の広大な敷地内に移転した新選組屯所は、眠りにつくどころか、早朝の魚河岸のような、血生臭くも機能的な活気に満ちていた。かつて僧侶たちが読経を行っていた畳敷きの広間は、全て杉のフローリング板張りに改装され、壁一面には會津藩の測量方が作成した「京都市街五千分の一精密地図」が貼り出されている。そこには、赤(過激派潜伏区域)、黄(要注意区域)、青(平穏)の色分けがなされ、無数のピンが神経細胞のように突き刺さっていた。それはもはや浪士隊の詰め所ではなく、近代的な軍隊の作戦司令室の様相を呈している。
その一角にある副長室。
南山・明望から輸入されたマホガニー製の重厚な執務机に向かい、一人の男が書類の山と格闘していた。
新選組副長、土方歳三
かつては、武州多摩のバラガキと呼ばれた喧嘩屋であり、「鬼の副長」として隊士を震え上がらせたこの男も、今やウールの三つ揃えを着こなし、髷を切り落とした短髪を、江戸・日本橋の柳屋から取り寄せた「柳清香」杏油とジャコウの香りが漂う整髪料―で撫で付けている。彼の手元にあるのは、かつての『局中法度』ではない。
『第三四半期・治安維持活動報告書』および『南山物産向け・労働力供給契約書』といった、数字と捺印の羅列である。
机の隅では、フランス・ディニエ社製の印字式モールス電信機が、真鍮製の歯車をチリチリと鳴らしながら稼働していた。ゼンマイ駆動の時計仕掛けでインクのついた円盤が回転し、送られてきた電気信号に合わせて紙テープに符号を印字していく。それは、京都所司代や會津藩邸、そして大坂城の慶喜とを結ぶホットラインであり、組織の神経中枢であった。
「…入れ」
ノックの音に、土方は顔も上げず、紙テープを目で追いながら応じた。入室してきたのは、任務を終えたばかりの斎藤一と、二番隊組長の永倉新八であった。永倉は、返り血と煤で汚れた軍服の上着を脱ぎ、筋肉隆々の太い腕を露出させている。
「今夜の収穫は?」
土方は、万年筆を走らせながら問うた。その声は、部下の安否を気遣うものではなく、業務の成果を問う管理者のそれだ。
「木屋町の倉庫にて過激派六名を確保。二名は抵抗が激しく、やむなく『損耗(射殺)』しました。押収品は、薩摩藩邸の裏印がある金子が五十両。棒詰火薬が二箱」
斎藤は淡々と報告し、さらに風呂敷に包まれた数丁の鉄屑を机上に置いた。
「それと、回転式拳銃が三丁。ですが、これは純正品ではありません。大坂の町工場あたりで密造された模造品です」
永倉が横から口を挟み、その中の一丁を手に取ってシリンダーを回した。ガリガリと不快な金属音がする。
「見てください、副長。ライフリングも切っちゃいねえ。鋳鉄製のフレームに、火薬量を増やした弾を無理やり詰め込んだ代物だ。撃った瞬間にシリンダーごと破裂して指が吹っ飛ぶ。相当な粗悪品ですよ。こんな鉄屑を売りつけられる浪士たちも哀れなもんだ」
斎藤の報告と永倉のボヤキを聞き、土方は舌打ちをしてペンを止めた。
「チッ、また二名も殺したのか。斎藤、言ったはずだぞ。できるだけ『生かして』捕らえろと」
土方は椅子に深く背を預け、神経質そうにこめかみを揉んだ。
「死体は埋葬料と清掃費がかかるだけの負債だが、生きた人間は金を生む『資源』だ。南山物産の五代からは、入安島の銅山開発のために、どうしてもあと五〇〇人の工夫が欲しいと矢の催促が来てるんだ。前科者だろうが過激派だろうが、手足がついてりゃ金になる」
「副長、そうは言いますがね」
永倉が、卓上の水差しからコップに水を注ぎ、がぶりと飲み干して言った。
「向こうも必死なんですよ。南山行きの奴隷船…いや、移民船に乗せられるくらいなら、ここで腹を切ったほうがマシだ、なんてほざく連中もいましてね。最近の浪士は、剣の腕はからっきしだが、死に急ぐ根性だけは一丁前だ」
「死に急ぐ、か。感傷だな」
土方は、冷ややかに吐き捨てた。 彼は立ち上がり、窓のブラインドを指で押し下げ、白み始めた東の空を見上げた。
「奴らは分かっていない。時代はもう、尊王攘夷だの佐幕だのといった思想やメンツで動いているんじゃない。巨大な『経済』という化け物の胃袋の中で、消化されているだけだということをな」
土方は、壁の地図に歩み寄り、木屋町の地点に赤いピンを一つ突き刺した。この地図上のピンの数だけ、京の治安は守られ、同時に南山の鉱山へ労働力が供給される。治安維持活動と経済活動が完全にリンクした、完璧な循環システム。
「押収した金子は、雑収入として計上しろ。大坂製の粗悪銃は危険だが、分解して金属資源として再利用だ。横須賀へ送れば屑鉄として買い取ってくれる」
土方はディニエ式電信機のスイッチを切り、振り返った。
「それと、山崎を呼べ。捕らえた六名の『出荷手続き』を進めさせる。南山行きの定期便は明後日、大坂港を出る。それに間に合わせろ」
◆
屯所の裏手、かつては隊士たちの剣術稽古場だった場所の一角に、頑丈な鉄格子で囲まれた収容施設が建設されていた。
そこには、今夜捕らえられた浪士たちを含め、数十名の男たちが押し込められている。彼らは皆、猿轡をされ、手足を鎖で繋がれているが、その扱いは決して粗略ではなかった。傷の手当てを受け、栄養価の高い南山産の干し肉とビスケットを与えられている。
なぜなら、彼らは商品だからだ。
その収容所の前で、一人の男が帳簿を片手に、囚人たちを一人ひとり吟味していた。
監察方・山崎烝
かつては変装して市中を探索する密偵だった彼は、今や南山の電信技術と情報網を駆使し、京都市中の動静をデータ化して管理する「情報将校」へと進化していた。
彼は、南山物産の社章が入った巨大な荷馬車、鉄格子がはめられた護送車の前に立ち、御者と何やら言葉を交わしている。
「こいつは胸に古傷がある。鉱山労働には不向きだ。こっちの若いのは筋がいい。北嶺島の炭鉱送りだな」
山崎は、まるで競り市の仲買人のような手つきで、囚人たちの等級を判別していく。その横で、斎藤一は煙草の煙をくゆらせながら、その光景をぼんやりと眺めていた。
「山崎。こいつらの行く末は、どうなるんだ」
「ん? ああ、斎藤さん。大半は、大坂から蒸気船に乗せられて、南山か入安島行きですよ。向こうじゃ人手不足が深刻らしいですからね
ま、十年も真面目に働けば、放免されて現地の農場主になれるかもしれん。ここで首を斬られるよりは、よほど人間らしい余生じゃないですか」
山崎は、悪びれる様子もなく笑った。だが、斎藤の胸中には、鉛のような重いしこりが残っていた。
(俺たちは、京の治安を守っているんじゃない。…南山の鉱山へ送る『筋肉』を収穫しているだけだ)
池田屋事件の夜、彼が感じた「マッチポンプ」の感覚は、三年の月日を経て、より巨大で、より洗練された国家的なシステムへと進化していた。
敵である過激派浪士が持っている銃も、南山製。
彼らを制圧する我々の装備も南山製。
そして、捕らえられた彼らが送られる先も南山。
すべては、徳川と南山という巨大な帳簿の中で完結している。血と暴力さえもが、循環する経済の一部として消費されているのだ。
「出荷完了だ! 馬車を出せ!」
山崎の合図と共に、護送車が重い車輪の音を響かせて動き出した。檻の中から、恨めしそうな視線を向ける浪士たち。だが、彼らの声は猿轡に阻まれ、ただのうめき声として朝霧の中に消えていく。
◆
翌日の昼下がり。重苦しい殺戮の夜が明け、非番となった二番隊組長・永倉新八と、三番隊組長・斎藤一は、久しぶりに屯所を出て京の街へと繰り出した。二人が足を踏み入れた河原町通は、人と物資の洪水で溢れかえり、目眩がするほどの熱気に包まれていた。
世に言う「慶応バブル」。 南山との貿易が本格化したここ数年、京の経済は狂った独楽のように回転数を上げ続けていた。
南山・北嶺島の大規模農園から、蒸気船に乗って次々と運び込まれる安価な綿花、精製された白砂糖、そして缶詰に加工された食肉。それらが市場に溢れかえる一方で、慢性的な財政難に喘ぐ幕府が発行する不換紙幣「慶応札」の乱発により、物価は乱高下を繰り返している。 昨日は一両で買えた米が、今日は二両出しても買えない。だが、南山から輸入された派手な更紗や硝子細工は、飛ぶように売れていく。
誰もが、明日の価値が保証されない紙切れ(紙幣)を嫌い、現物か、あるいは信用力の高い南山銀貨を求めて、血眼になって走り回っていた。
路地裏の屋台からは、石炭コンロの煤煙と共に、醤油と砂糖で脂っこい肉を煮込む、甘辛く濃厚な匂いが漂ってくる。
牛鍋である。
かつては「四つ足」として忌避され、穢れとされていた牛肉食も、南山から生きたまま輸送された肉牛や、氷漬けにされた羊肉、そして大量のコーンビーフ缶詰が流入したことで、またたく間に「文明開化の滋養食」として庶民の間に定着しつつあった。
仏教的な禁忌は、脂の乗った肉の旨味と、「これを食えば南山人のように強くなれる」という俗説の前に、あっけなく敗北したのだ。
「へい、お待ち! 南山風ラム肉の串焼き、二丁! サービスで『クミン』をたっぷり振っときましたぜ!」
南山帰りの出稼ぎ労働者だという、浅黒い肌をした屋台の親父が、炭火で焼いたばかりの串を差し出した。永倉はそれを受け取り、行儀悪くかぶりついた。口の周りを脂で光らせながら、彼は唸った。
「うめぇな。昔は、こんな獣臭い肉なんて食えたもんじゃなかったが、この南山胡椒の刺激に慣れちまうと、どうにも病みつきになりやがる」
「味覚も変われば、世の中も変わるさ。人もな」
斎藤は、渡された串にはすぐには手を付けず、冷めた目で通りを行き交う人々を観察していた。人々の服装も、以前の京風情とは様変わりしている。
着流しに英国製の山高帽を合わせ、腰には刀ではなく南山製のリボルバーを吊った新興商人。入安島の原住民が染めたような、極彩色の更紗を、法被のように羽織った若者たち。そして、パリの最新流行だというクリノリン・ドレス、鳥籠のような骨組みでスカートを膨らませた衣装を、無理やり着込んだ商家の娘が、狭い路地で立ち往生している滑稽な姿。
そこには、伝統的な日本の「わび・さび」や慎ましさは微塵もなく、無秩序で、どこか狂気じみた極彩色の混沌、「南山様式」とでも呼ぶべき奇妙な活気が渦巻いていた。それは、急激な経済成長と外国文化の流入が生み出した、一種の文化的な熱病であった。
だが、その狂騒の底には、得体の知れない黒い不安が澱んでいるようにも見えた。華やかな大通りの一本裏に入れば、そこには物価高騰に苦しみ、その日の米にも事欠く下層民たちが蹲っている。彼らの落ち窪んだ目には、羨望と憎悪がない交ぜになった険しい光が宿っていた。
路地の奥では、ボロ布を纏った集団が、何やら呪文のような歌を口ずさみながら、手足を奇妙に動かして踊っている姿が見え隠れする。「ええじゃないか、ええじゃないか」そのリフレインは、まだ小さなさざ波に過ぎない。だが、社会の歪みが限界に達した時、民衆の鬱屈は政治的な主張ではなく、すべてを破壊しすべてを肯定する集団ヒステリーという形で爆発しようとしていた。
「おい、斎藤。見ろよ」
永倉が、食いかけの串を持ったまま、自嘲的な苦笑いで顎をしゃくった。通りすがりの子供たちが、軍服姿の二人を見て、ひそひそと指差して笑っているのだ。彼らの視線は、二人が腰に帯びた大小の刀に注がれている。
「『見て、お侍さんごっこだ』、だとよ。最近、軍服に刀を差して歩いてると、園芸場の道化になった気分だぜ。『まだあんな重たい鐵の棒きれを腰に下げてんの?』『お父ちゃんが持ってる回転式拳銃の方が強いのにね』ってな」
永倉は、寂しげに腰の愛刀「播州住手柄山氏繁」の柄を親指で撫でた。
神道無念流の免許皆伝であり、その剣速は新選組随一と謳われた彼にとって、刀は単なる武器ではなく、魂そのものであり、自らの存在証明であった。だが、この新しい世界では、それは単なる「旧時代の遺物」であり、実用性を欠いた装飾品として扱われつつある。子供たちの残酷な無邪気さは、その事実を鋭利な刃物のように突きつけてきた。
「時代が変わったんだ、新八」
斎藤は、懐からシガレットケースを取り出し、一本くわえて火をつけた。紫煙を吐き出しながら、彼はその煙の向こうにある現実を淡々と言語化した。
「個人の武勇で、歴史が動く時代は終わったんだ。宮本武蔵も、千葉周作も、これからは博物館のガラスケースの中に飾られる展示品だ。俺たちはもう、武士ではない。組織という巨大な機械の歯車として、どれだけ正確に、どれだけ効率よく回れるか。それだけが価値なんだ」
斎藤の言葉は、冷徹な真理だった。昨夜の戦闘が証明している。 剣豪の技よりも、集団戦術。
名刀の切れ味よりも、警棒による打撃と手錠による拘束。そして何より、個人の「死」よりも、労働力としての「生」を管理すること。それが、南山という黒船がもたらした「鐵の理法」であった。
「世知辛いねぇ。本当に、世知辛い」
永倉は、串に残った最後の一切れの肉を、まるで失われゆく時代の欠片を惜しむように見つめた。だが、次の瞬間、彼はそれを未練がましく口に運ぶことはせず、道端の野良犬に向かって放り投げた。
「俺はただ、強い奴と命懸けで斬り合って、その後で美味い酒が飲みたかっただけなんだがな。どうやら、そんな酔狂が許される場所は、もう何処にもなさそうだ」
野良犬が、南山風味の肉に飛びつき、貪るように食らう。その浅ましい姿は、金と欲望に踊らされる今の京の都そのもののように見えた。二人は無言のまま、蒸気乗合馬車の警笛が鳴り響く雑踏の中へと消えていった。その背中に帯びた日本刀だけが、置き去りにされた過去の墓標のように、午後の日差しを浴びて鈍く光っていた。
◆
その日の夕刻。西の愛宕山に沈みゆく太陽が、鴨川の水面をどす黒い茜色に染め上げていた頃。西本願寺屯所の副長室に、一通の封書が届けられた。差出人の名はなく、封蝋には南山物産の社章である「南十字星」と、五代友厚個人のサインである「G」の文字が刻印されている。それは、大坂と京都を結ぶ南山物産の専用通信線と、五代が京の街に張り巡らせた「商業スパイ網」が捉えた、極めて高度な、そして致命的な情報であった。
土方歳三は、ペーパーナイフで慎重に封を切り、中に入っていた薄い和紙を取り出した。そこに記されていたのは、特定の浪士団による襲撃計画などという、可愛いものではなかった。読み進めるにつれ、土方の表情から感情というものが欠落していく。それは、恐怖を超えた先にある、絶対零度の怒りと冷徹さであった。
「副長。これは……?」
傍らに控えていた山崎烝が、土方の許可を得て報告書を覗き込み、その顔色をさっと青ざめさせた。普段は死体を見ても眉一つ動かさないこの男が、唇を震わせている。
「信じられません。正気ですか、薩摩は」
「正気だとも。奴らにとってのな」
土方は、苦虫を噛み潰したような顔で、報告書を机の上に叩きつけた。
「薩摩の西郷吉之助。あの男は、もはや浪士を使って幕府要人を暗殺するような、手ぬるい方法は取らん」
土方は、窓の外、黄昏に沈みゆく京の街を睨みつけた。
「奴の狙いは、京の民草そのものだ。裏で糸を引き、無頼の徒を扇動して『ええじゃないか』の狂乱を拡大させる。同時に、大坂の米市場で買い占めを行い、人工的な飢餓を演出する。そして仕上げに、御所の風上に火を放ち、混乱に乗じて天意という名の大義名分を強奪する気だ」
報告書には、西郷が蘭芳から密かに輸入した大量の灯油と、暴徒に配布するための粗悪な火縄銃や竹槍の備蓄場所までもが記されていた。
西郷隆盛
彼は徳川と南山による経済的包囲網によって薩摩藩がジリ貧に追い込まれた結果、生存のためにあらゆる手段を講じるようになった、革命の怪物である。彼が学んだのは、フランス革命のジャコバン派が用いた恐怖政治と、清国で起きた太平天国の乱における狂信的な集団戦術であった。
「民衆の不安と狂気を煽り、暴動という形で巨大な熱病を引き起こす。統治能力を麻痺させ、この街を無政府状態に陥れる。それが奴の描く革命のシナリオだ」
「防げますか。相手は特定の組織ではありません。飢えと熱狂に突き動かされた、一万、二万という暴徒化した民草です」
山崎の声には、絶望の色が滲んでいた。いかに新選組が精鋭揃いとはいえ、所詮は数百名の部隊に過ぎない。津波のように押し寄せる群衆を前にしては、刀も警棒も無力だ。
土方は無言のまま、執務机の最下段にある、鍵のかかった引き出しを開けた。取り出したのは、一枚の分厚い決裁書類。表紙には『特別装備緊急配備計画書』とあり、右肩には南山軍事顧問団の承認印である「極秘」のスタンプが押されている。
土方はその書類を広げた。そこに描かれていたのは、複雑な歯車と複数の銃身を組み合わせた、悪魔的な機械の図面であった。
「ガトリング機関砲(六連装)一八六二型」
土方が、呪文のようにその名を口にした。 北米合衆国の医師、リチャード・ジョーダン・ガトリングが発明し、南北戦争でその威力を証明した大量殺戮兵器。
南山兵器工廠が、この殺戮機械の製造権を買い取り、北嶺島の高品質な鋼鉄を用いて改良を加えた最新モデルである。
手回しのクランクを回転させることで、六本の銃身が次々と弾丸を装填・発射・排莢し、一分間に三五〇発もの一四ミリ鉛弾を吐き出す。それはもはや「銃」ではない。人間という有機物を挽肉へと加工するための工業機械であった。
「南山物産が、北米の余剰在庫を買い叩き、明望で再整備した四門が、明後日、大坂に陸揚げされる」
土方は、万年筆のキャップを外した。 そのペン先は、これから流れる血の量を予感させるように、鈍く黒光りしていた。
「次は、路地裏でのチャンバラごっこじゃ済まねえぞ、山崎。一万、二万という暴徒が、津波のように押し寄せてくる。それを止めるには、もはや刀やリボルバーでは足りん。『面制圧』が必要だ」
「副長。それを市街地で…民に向けて使うおつもりですか」
山崎が息を呑む。ガトリング砲を市街地で掃射すれば、その被害は甚大なものになる。暴徒だけでなく、多くの無関係な人間が巻き込まれることは避けられない。だが、土方の瞳には、一点の曇りも迷いもなかった。そこにあるのは、冷徹な計算式だけだ。
京ね都の民草締めて一五万人の安全と、幕府の権威を守るための必要経費。その天秤の上では、数千の暴徒の命など、帳簿上の数字に過ぎない。
「使うさ」
土方は、躊躇なく書類の決裁欄に、自身の印鑑を叩きつけた。
ダンッ!
朱肉の赤が、まるで飛び散った血飛沫のように書類に滲んだ。
「鐵の理法で、この街を冷やしてやる。熱病に冒された患部は、外科手術で切除するしかない。たとえ、どれだけの血が流れようとな」
土方は立ち上がり、軍服の襟を正すと、南山製の板ガラスが嵌め込まれた窓を大きく開け放った。 湿った夜風が吹き込み、机上の書類をバタバタと煽る。眼下には、夕闇に沈みゆく京の街が広がっていた。鴨川沿いには無数のガス燈が灯り始め、その青白い光は文明の輝きであると同時に、どこか死人の肌のような禍々しさを帯びていた。
遠く、河原町の方向から、風に乗って奇妙なリズムが聞こえてくる。
ドンドコ、ドンドコ、ドン……
太鼓や鉦の音に混じって、数千人の喉から絞り出されるような、うねるような合唱。
「ええじゃないか、ええじゃないか、ええじゃないか…」
それは、陽気な祭囃子などではない。社会の底が抜け、秩序が崩壊していく様を祝う、破滅へのファンファーレであり、これから始まる大火傷へのカウントダウンのように、彼らの耳に届いていた。
土方は、懐から銀時計を取り出し、時間を確認した。その時計もまた、南山で採れた銀で包まれている。
「残り時間は少ない。山崎、全部隊に第一種戦闘配備を通達しろ。休暇中の者も叩き起こせ。これより新選組は、警察活動から『防衛戦闘』へ移行する」
「承知!」
山崎が弾かれたように敬礼し、部屋を飛び出していく。一人残された土方は、窓枠に手をつき、夜の闇を見つめ続けた。
新選組の近代化。それは、彼ら自身が望んだ進化だったのか、それとも時代の濁流に飲み込まれ、生存のために選ばざるを得なかった適者生存の結果だったのか。その答えを知る者はいない。ただ確かなのは、彼らがもう二度と、あの浅葱色のダンダラ羽織を着て、純粋に「誠」という名のロマンチシズムを信じて走ることはできないという事実だけであった。
彼らは今や、徳川幕府という巨大企業が保有する、最も効率的で、最も冷酷な「暴力装置」となっていたのである。
(第3部 第4話 完)
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