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第3話 三〇〇〇万フランの燃料 - 帝国を買う資源

第2部-第29話のプリンス・トクガワのエピソードの全長版です。

一八六七年(慶応三年)四月


 北半球の春、花の都パリは、爛熟しきったフランス第二帝政末期の徒花あだばなとも言うべき、狂騒的かつ退廃的な祝祭の只中にあった。


 セーヌ川の湾曲部に抱かれた広大なシャン・ド・マルス広場は、鉄と硝子、そして蒸気機関が奏でる轟音の交響曲シンフォニーに包まれていた。


 一八五一年のロンドン、一八五五年のパリ、一八六二年のロンドンと続き、これが四回目となる万国博覧会。皇帝ナポレオン三世が、傾きかけた帝国の威信と、自身の寿命を賭けて開催した、一九世紀最大の「帝国主義の品評会」である。


 オスマン男爵による大改造を終えたばかりのパリの街並みは、幾何学的な直線を誇示し、その広大無辺な並木道ブールバールを、クリノリン・ドレスの裾を揺らす貴婦人と、山高帽を被った紳士たちが、まるで世界の全てを手に入れたかのような顔で闊歩している。


 しかし、その華やかな表層の下では、きな臭い火薬の匂いが漂っていた。


 東のプロイセンでは、「鉄血宰相」ビスマルクが北ドイツ連邦を樹立し、フランスへの包囲網を狭めつつある。大西洋の向こう側では、南北戦争という史上初の大規模近代戦を終えた北米合衆国アメリカが、余りある軍事力と産業力を背景に、再び太平洋へとその巨体を向け始めていた。


 さらに南半球に目を転じれば、ペルーとチリが、スペイン艦隊相手に硝石とグアノ(鳥糞石)の利権を巡って砲火を交える「チンチャ諸島戦争」の余燼よじんがくすぶっている。世界は今、産業革命という名の加速装置によって、富と暴力が桁違いに膨れ上がる「大競争時代」へと突入していた。


 そんな時代の空気を凝縮した万博会場には、世界四二カ国から集められた最新鋭のクルップ社製五〇トン攻城砲から、開通間近のスエズ運河の巨大模型、エジプトのミイラ、そして植民地から連れてこられた珍奇な動物や人間そのものに至るまで、人類の知性と野蛮の全てが、巨大なガラスのショーケースの中に陳列されていた。


      ◆


 その会場の一角、セーヌ川の川風が吹き抜ける一等地に、連日、黒山の人だかりができていた。彼らの視線の先にあるのは、檜皮葺ひわだぶきの屋根に紅殻塗りの柱を持つ、エキゾチックな木造建築「日本館」である。


 館内では、江戸から選りすぐられた、揃いの法被を着た鳶職人が威勢よく提灯を張り替え、柳腰の艶やかな着物姿の茶汲み女(その正体は、没落した旗本の娘たちとも噂されている)が、神秘的な緑色の液体(抹茶)を振る舞っている。壁には葛飾北斎や歌川広重の浮世絵が飾られ、その遠近法を無視した大胆な構図と、鮮烈な色彩は、マネやモネ、ドガといった若き印象派の画家たちを、脳髄が痺れるような熱狂の渦に叩き込んでいた。


 世に言う「ジャポニズム」の旋風である。


 だが、この熱狂を冷ややかな、というよりは狩人が獲物を値踏みするような計算高い目で見つめる二人の日本人が、日本館の二階バルコニーの影にいた。


 一人は、まだ少年のあどけない面影を残しながらも、その双眸には徳川の血筋特有の、怜悧で底知れぬ光を宿した貴公子。


 徳川昭武とくがわ あきたけ


 時の将軍・徳川慶喜の異母弟であり、若干一四歳にして水戸藩三五万石の当主。「プリンス・トクガワ」として欧州外交界にその名を轟かせつつある若き獅子である。


 彼の装いは、欧州人が期待した「チョンマゲに二本差しのサムライ」というオリエンタリズムの玩具ではない。兄・慶喜とお揃いの、南山産メリノ羊毛の最高級生地を用い、パリの仕立て屋が心血を注いで縫製した、濃紺のフランス式大礼軍服を隙なく着こなしている。胸には、十字架ではなく葵の御紋をあしらった「南十字星大勲章」が輝き、腰には日本刀ではなく、純銀の護拳を持つサーベルを吊っていた。  その立ち姿は、東洋の封建領主というよりは、プロイセンのユンカーか、あるいはハプスブルク家の若き大公のような、洗練された「近代君主」のそれであった。


 そしてもう一人は、その背後に控える、眼光鋭い小柄な男。


 渋沢栄一しぶさわ えいいち二七歳


 一橋家の家臣にして、この使節団の会計(金庫番)を一手に握る、武蔵国の農民出身の異才である。身長は五尺そこそこ(一五〇センチ台前半)と小柄で、ずんぐりとした体躯だが、その内側には蒸気機関車並みの馬力が秘められている。髷を切り落とし、少し大きめのフロックコートに身を包んでいるが、その無骨な手は、くわを握って藍玉を作っていた百姓の手であり、同時に算盤を弾いて数万両の金を動かす「勘定の鬼」の手でもあった。


 彼は、常に懐に忍ばせている革表紙の分厚い手帳を取り出し、油断なく周囲を観察している。その目は、芸術を愛でる目ではなく、ここにある全ての事象を貸方と借方に仕分けする、冷徹な経済人の目であった。


「栄一。欧州人は、随分と浮世絵がお好きなようだね」


 昭武は、眼下で絵草紙を奪い合うように買い求める紳士淑女たちを見下ろし、あえて流暢なフランス語ではなく、重々しい水戸訛りの日本語で呟いた。その口調には、一四歳という若さに似合わぬ、老成した皮肉が混じっている。


「これではまるで、動物園のパンダ(レッサーパンダ)か、見世物小屋の奇人変人だ。彼らは、我々を『対等な文明人』として見ているのではない。『愛らしい未開人』として消費しているだけだ」


「はい、民部公子みんぶこうし。仰る通りでございます」


 渋沢は、手帳に素早く数字を書き込みながら、(今日の茶屋の売り上げだけで、一週間の滞在費が賄える計算だ) 答えた。


「彼らにとって、日本は極東の神秘のワンダーランド。紙と木でできた、儚くも美しい、おとぎの国に見えているのでしょう。プロイセンの鉄の大砲や、アメリカの無骨な蒸気機関に疲れた彼らにとって、浮世絵の二次元的な世界は、さぞかし心地よいアヘンのような夢心地なのでしょうな」


 渋沢は、ペン先で群衆を指した。


「ですが、夢はいつか覚めます。浮世絵が何万枚売れようと、所詮は紙切れ。国家の予算からすれば駄賃にもなりませんし、大砲の一門も買えません。それに、あのナポレオン三世という古狸は、夢を見るようなロマンチストではありません。メキシコ出兵の失敗で火の車になった台所事情をどうにかしたい、ただその一心で動く、強欲な現実主義者リアリストです」


「違いない。兄上(慶喜)も、よく言っていた。『フランス人は愛を語るが、最後に信じるのは金だ』とな」


 昭武は、軍帽のつばを指でなぞり、ふっと口元を緩めた。それは、少年の笑みではなく、策士の笑みだった。


「だからこそ、見せてやらねばならんのだ。可愛いパンダの毛皮の下には、鋼鉄の爪と、無尽蔵の胃袋があるということを」


 渋沢は、手帳をパチリと閉じた。その音は、まるでピストルの撃鉄を起こす音のように、乾いて響いた。


「手はずは整っております、公子。本日の来賓リストには、ロスチャイルド家の当主、クルーゾー製鉄所の重役、そしてスエズ運河会社の理事たちが名を連ねております。皆、金を持て余し、次なる投資先を血眼になって探している亡者どもです」


「よろしい。では、参ろうか、栄一。我々の本当の『商品』が待っている」


 渋沢が顎でしゃくった先には、優美な数寄屋造りの日本館の隣に、もう一つ、周囲の景観とは明らかに異質な、圧倒的な存在感を放つパビリオンが建設されていた。


 その名も「徳川領・南山物産館(Pavillon des Ressources de Nanzan)」


 日本館が「過去と伝統」を象徴するならば、こちらは「現在と力」の象徴だ。


 入り口には、北嶺島ほくれいとうの山岳地帯から発掘されたとされる、全長一〇メートルにも及ぶ太古の巨大爬虫類。英国の古生物学者オーウェン教授によって「南山竜ナンザンサウルス」と名付けられた恐竜の全身骨格化石が、天を突くように展示され、その虚ろな眼窩で来場者を威圧している。


 建物自体も、南洋のジャングルから切り出された、直径一メートルを超す巨大な「鐵木アイアンウッド」の柱を、横須賀製鐵所で圧延された鋼鉄の梁が支え、壁面はすべて江戸・品川硝子製造所の板ガラスで覆われているという、荒々しくも力強い構造だ。


「兄上からの厳命だ。『ジャポニズムという撒き餌で小魚を集め、南山というもりで鯨を仕留めろ』とな」


 昭武は、軍服の襟を正し、若き外交官の顔を引き締めた。これは、文化交流などという生易しいものではない。国家の信用クレジットという実体のないものを、物理的な資源リソースで裏付けし、巨額の資金を引き出すための、ヒリつくような「投資説明会ロードショー」なのだ。


          ◆


 物産館の重厚な鐵木アイアンウッド製の観音開き扉を一歩跨ぐと、そこは外の喧騒が嘘のように遮断されていた。だが、その静寂は図書館のそれではない。巨大な商談が決まる直前の、張り詰めた緊張感と、金貨が擦れ合う幻聴が支配する空間であった。


 このパビリオン自体が、一つの巨大な産業製品であった。


 南洋のジャングルから切り出され、明望の製材所で加工された巨木を柱とし、天井には横須賀製鐵所で圧延された鋼鉄のトラスが幾何学的な美しさで組み上げられている。そして、天窓には江戸・品川硝子製造所が総力を挙げて製造した板ガラスが嵌め込まれ、柔らかな自然光が館内を照らしていた。


 それは、鐵と硝子という、一九世紀の産業革命を象徴する素材が、日本の伝統的な木造建築技術と融合した、建築史上のオーパーツのような威容を誇っていた。


 中央に設けられた入安島の熱帯雨林を再現した巨大温室では、極彩色の羽を持つ極楽鳥が生きたまま放し飼いにされ、人工の滝がマイナスイオンを撒き散らしている。


 だが、そんな生物学的な驚異に目を向ける者は、この部屋には一人としていない。


 フロックコートの襟を立て、シルクハットを小脇に抱えた紳士たち――ロスチャイルド家の代理人、クルーゾー製鉄所の重役、あるいはスエズ運河会社の理事といった、欧州経済の心臓部を牛耳る「金を持った怪物たち」が群がっているのは、ガラスケースの中に無造作に、しかし計算され尽くした照明の下に積み上げられた、「泥と石」の山であった。


 彼らの視線は、獲物を狙うハゲタカのように貪欲だが、その視線の先にある「獲物」を守るように、屈強な男たちが壁を作っていた。


 昭武の周囲を固める随員たちである。


 彼らは皆、水戸藩出身の精鋭であり、髷を切り落とし、フランス式の軍服に身を包んでいるが、その眼光の鋭さと、腰のサーベルに置かれた手の位置は、彼らが本質的には「武士」であることを雄弁に物語っていた。


 彼らは無言のまま、近づこうとする有象無象を威圧し、選ばれた資本家だけを昭武の前へと通している。その整然とした警護陣形は、この少年が単なる外交官ではなく、東洋の強力な軍事政権の「プリンス」であることを、言葉以上に雄弁に語っていた。


 その厳重な警戒網の中心で、怪物たちが値踏みしている「商品」は、三種類あった。


 一つは、濡れたような黒い光沢を放つ、巨大な塊。


 南山諸島・北嶺島の地下深く、第三紀層から産出された、最高品位の無煙炭である。煙を出さず、高い発熱量を誇るこの「黒いダイヤモンド」は、蒸気船のボイラーを傷めず、艦隊の隠密性を高める戦略物資として、海軍関係者の垂涎の的であった。


 もう一つは、血のような赤みを帯びた重厚な岩石。


 入安島のジャングル、フライ川流域の露天掘り鉱山から切り出された、含銅率二〇パーセントを超える驚異的な銅鉱石である。  電信網の爆発的な普及により、世界中で銅の需要が供給を追い越している中、この高純度の鉱石は、精錬コストを劇的に下げる「赤い金」そのものであった。


 そして、厚手のガラス瓶に詰められた、白い粉末。


 南山の無人島群に数万年かけて堆積した海鳥の糞――グアノ。  窒素とリン酸を豊富に含み、連作障害で痩せ衰えた欧州の農地を蘇らせる魔法の肥料であり、同時に、戦争の世紀には欠かせない黒色火薬の主原料となる硝石の結晶。  当時の国際市場において、金と同等の価値で取引される「白い黄金」である。


「プリンス・トクガワ。これは、本当に驚くべきデータですな」


 感嘆の声を漏らしたのは、フランス最大の投資銀行、クレディ・モビリエの重役にして、皇帝の側近でもあるペルヌ子爵であった。彼は、鼻眼鏡パンスネを落としそうになりながら、壁一面に掲げられた巨大な統計図表に見入っている。


『南山における羊毛生産量の推移(対前年比一五〇%増)』


『北嶺炭田の推定埋蔵量(英国ウェールズ炭田に匹敵)』


『徳川・南山通商圏の人口動態予測と市場規模』


 南山の首都・明望めいぼうにある「明望学派」の統計学者たちが、最新の統計学を用いて作成したこれらのデータは、南山という土地が、単なる未開の植民地ではなく、徳川幕府が管理する、高度に組織化された巨大な「生産基地」であることを、冷徹な数字で証明していた。


「南山における銅の推定埋蔵量が、現在市場を独占しているチリ全土に匹敵する?それに、この石炭の発熱量。これならば、マルセイユからサイゴンまでの航路における燃料補給が、劇的に効率化される」


「ええ、ムッシュ・ペルヌ。誇張ではありません。これは、南山物産の五代友厚トモアツ・ゴダイ支店長が、プロイセン人地質学者リヒトホーフェン男爵を招聘して作成させた、最新の地質調査書に基づくものです」


 昭武は、一四歳とは思えない落ち着き払った態度で、流暢なフランス語で応じた。


 その背後で、渋沢栄一が黒革の鞄から分厚い報告書を取り出し、ペルヌ子爵の秘書へと恭しく、しかし事務的に手渡す。その連携は、まるで精密な時計仕掛けのように滑らかだ。


「我が国は、貴国の技術支援により、横須賀製鐵所をはじめとする重工業化を推し進めております。蒸気機関を作り、大砲を鋳造し、甲鉄艦を建造する。しかし、工場という『頭脳』だけでは、国は富みません。それを動かす燃料と、製品となる素材、すなわち『肉体』が必要です。それが、この南山です」


 昭武は、手にした象牙の指し棒で、壁の世界地図を叩いた。


 そこには、日本列島と南山諸島、そしてそれらを結ぶ太い航路図が赤く記されている。


「日本と南山は、物理的には三〇〇〇カイリの海で隔てられていますが、経済的には一つの生命体です。繊細で洗練された文化と技術を持つ『頭脳』としての日本本土。そして、無限の資源と野蛮なまでの生命力バイタリティーを持つ『肉体』としての南山新天地。……この循環サイクルこそが、徳川の国債ボンドの裏付けなのです」


 パリの有力紙『ル・モニツール・ユニヴェルセル』が「東洋のプロイセン」「太平洋を跨ぐ双頭のダブルヘッド・イーグル」と書き立てた通りの構図を、昭武は完璧に演じてみせた。


 それは、兄・慶喜と、その知恵袋である小栗上野介、そして現場の渋沢栄一によって練り上げられた、完璧なセールストークであった。


「なるほど。東洋の神秘の島国かと思えば、貴国は自前の植民地と、それを開発する産業基盤、そしてそれを輸送する商船隊まで持っているというわけか」


 銀行家の目の色が、骨董品を愛でる好事家の目から、投資対象のリスクとリターンを査定する、冷徹な捕食者の目に変わった。彼らが恐れているのは、貸した金が返ってこないこと(デフォルト)だ。日本という極東の田舎の地域覇権国が、薩長というテロリスト集団との内戦で崩壊すれば、借款は焦げ付く。


 だが、この南山という、物理的な価値を持つ「担保」があるなら話は別だ。たとえ日本本土が焼け野原になろうとも、江戸が火の海になろうとも、南山の山々から銅が掘り出され、グアノが採掘される限り、徳川は借金を返せる。


 いや、むしろこの資源開発の利権に一枚噛むことこそが、欧州の相場が飽和状態にある今、莫大な利益を生むフロンティアとなる。


「それで、プリンス。今回の追加借款ローン、希望額は?」


 ペルヌ子爵は、単刀直入に切り出した。

 

 周囲の喧騒が一瞬、遠のく。


 随員たちの手が、無意識にサーベルの柄に触れる。渋沢が、固唾を飲んで昭武の背中を見つめる。


「三〇〇〇万フラン」


 昭武は即答した。眉一つ動かさず、まるで今日の天気を答えるような気軽さで。周囲のフランス人随員たちが、息を呑む音が聞こえた。三〇〇〇万フラン。当時の日本の国家予算を軽く吹き飛ばすほどの巨額だ。最新鋭の甲鉄艦を艦隊単位で揃え、数個師団を完全武装させてもお釣りが来る。


「ほう。大きく出ましたな。担保は?」


「北嶺島・大黒山だいこくやま銅山の、今後一〇年間の産出銅・独占引受権。および、入安島産グアノの、欧州向け優先供給権」


 昭武は、渋沢から受け取った一枚の書類、五代友厚の署名が入った「資源供給確約書」を提示した。


「現在の相場で換算すれば、元利を含めても五年で償還可能です。もちろん、その間の利払いには、横濱税関の収入と、南山物産の収益を充てます」


 ペルヌ子爵は数秒間沈黙し、頭の中でそろばんを弾いた。チリとの戦争で疲弊したスペインに代わり、世界の銅市場を支配できる可能性。枯渇する一方の肥料市場における優位性。


 リスクはある。だが、リターンはあまりに魅力的だ。


 彼はゆっくりと顔を上げ、満足げに頷いた。


「悪くない取引ディールですね。皇帝陛下(ナポレオン三世)も、これなら首を縦にお振りになるでしょう」


 その言葉は、単なる金銭の貸借契約成立を意味するだけではない。フランス帝国という巨大な後ろ盾が、徳川幕府という「株式会社」の出資者として、その存続を全面的に保証したことを意味していた。

 

 資源館のガラス屋根を通して、パリの春の陽光が、昭武の胸の勲章を眩いばかりに照らし出した。

 それは、遠く離れた日本の兄・慶喜が、遠隔操作で放った「利権」という名の砲弾が、見事に標的に命中した瞬間であった。


          ◆


 その時、会場の入り口がにわかにざわめき、近衛兵が奏でるファンファーレが高らかに鳴り響いた。

 

 人波がモーゼの海のように左右へと割れ、豪奢な軍服に身を包んだ小太りの男が、きらびやかな護衛騎士団を引き連れて現れた。シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト。フランス皇帝、ナポレオン三世その人である。


 彼は焦っていた。大西洋の向こうではメキシコ出兵が泥沼化して国庫を蝕み、ライン川の彼方では「鉄血宰相」ビスマルク率いるプロイセンが不気味なほどの急速さで軍備を増強している。国内では共和派の突き上げが激しさを増し、支持率は低下の一途を辿っていた。起死回生の外交的勝利と、枯渇した財政を潤す新たな金脈を求めていた彼にとって、極東の親仏政権・徳川幕府との結びつきは、帝国の延命を賭けた最後の希望の一つだった。だが、その徳川が、薩摩などという辺境の反乱分子ごときに脅かされているというロッシュ公使からの報告に、彼は苛立ちを募らせていたのだ。


民部公子プリンス・トクガワ。久しいな」


 皇帝は、昭武の前に歩み寄った。その顔色は過労と持病のせいで優れないが、口髭の下の双眸は、獲物を探す老いた鷲のように鋭く光っている。


「貴国のパビリオンは見せてもらった。浮世絵も芸者も美しい。だが、私が知りたいのは、徳川に『力』があるかどうかだ。芸術ではなく、物理的な力が」


 昭武は、皇帝の威圧感に一歩も引くことなく、優雅な礼で応じた。周囲を固める水戸藩の親衛隊が一斉に直立不動の姿勢をとる。彼らの隙のない挙動は、皇帝の護衛騎士たちに「我々もまた、死を恐れぬ職業軍人である」という無言のメッセージを送っていた。


陛下マジェステ。立ち話もなんでございます。よろしければ、別室にて『本題』を」


 昭武が流暢なフランス語で促すと、皇帝は短く頷いた。昭武、栄一、そして皇帝とペルヌ子爵、数名の側近だけが、資源館の奥に設けられた貴賓室へと消えていく。重厚な鐵木アイアンウッドの扉が閉ざされ、その前には水戸藩士とフランス近衛兵が背中合わせに立ち、ロスチャイルド家の代理人や新聞記者たちを完全にシャットアウトした。


 扉の向こうで行われた会談は、わずか三〇分ほどであったという。 予備折衝の段階で提示された「南山産の銅とグアノ」という圧倒的な物的担保は、既に皇帝の心を捉えていた。この密室で行われたのは、その確認と、より具体的な「軍事同盟」に近い密約の締結であった。


 昭武は、兄・慶喜から託された直筆の親書と、南山物産が発行した資源引受証をテーブルに並べ、冷徹な論理で「徳川への投資がいかに安全で、かつ高利回りか」を説いたとされる。情に訴えるのではなく、利に訴える。それは、ナポレオン三世という「冒険的投資家」の琴線に最も触れるアプローチであった。


 やがて、扉が開かれた。出てきた皇帝の顔からは、先刻までの焦燥の色が消え、満ち足りた勝負師の笑みが浮かんでいた。その横で、昭武もまた、一四歳の少年とは思えぬ堂々たる態度で微笑んでいる。皇帝は、待機していた銀行団と記者たちに向かって、わざとらしく昭武の肩を抱き寄せ、高らかに宣言した。


「諸君、喜んでくれたまえ! 我がフランス帝国は、東洋の盟友・日本の徳川執政府(幕府)との間に、強固で恒久的なパートナーシップを再確認した!」


 皇帝の声が、資源館の高い天井に響き渡る。


「徳川の近代化と南山の開発に対し、フランスは技術と資金を惜しまない。要請されていた三〇〇〇万フランの追加借款ローン、満額で承認する(ウィ)!」


 ドッ、と会場がどよめき、次いで割れんばかりの拍手が巻き起こった。それは単なる融資の決定ではない。フランス帝国が、日本における徳川幕府という「政権」の存続を全面的に保証し、薩長をはじめとする反乱勢力を「敵」とみなすと宣言したに等しい瞬間であった。


     ◆


 皇帝の口から放たれた「承認ウィ」という短い言葉は、直ちに物理的な電気信号へと変換され、一九世紀最大の通信インフラ網を駆け抜ける長い旅に出た。


 パリのオペラ座裏にある中央電信局。そこでは皇帝の声明を受け取った通信士が、興奮で指を震わせながらモールス信号を打鍵した。信号は銅線を走り、南仏マルセイユへ。そこから、地中海の底を這う海底ケーブルへと飛び込む。


 青い海の底、沈没船や古代の遺跡の横を、徳川の勝利を告げる電流が光の速さで駆け抜ける。信号は、建設工事が佳境を迎えているスエズ運河の陸揚局で中継され、熱砂の砂漠を越え、紅海へと潜る。


 そこから先は、皮肉にも宿敵・大英帝国が敷設した海底ケーブルイースタン・テレグラフ・カンパニーの独壇場だ。アデンの灼熱、ボンベイの喧騒、そしてマラッカ海峡の湿気。英国の植民地行政官たちが、ロンドンの茶相場やアヘンの取引情報をやり取りしているその横を、フランスの巨額資金が徳川へ流れ込むという彼らにとって致命的な情報が、暗号化されたパルスとなって素通りしていく。英国の情報部がその意味に気づき、本国へ報告を上げる頃には、もう手遅れだ。


 信号はシンガポールを経由し、南シナ海の荒波の下をくぐり抜け、香港、そして上海へ。上海の電信局では、南山物産の駐在員が待ち構えていた。彼は送られてきた暗号を解読するや否や、即座に快速通報艦に乗り込み、長崎へと急行する。……はずだったが、今は若干事情が異なる。一昨年、南山産の銅をふんだんに使った海底ケーブルが、既に九州・長崎まで到達していたのだ。


 長崎・大浦の外国人居留地。英国商人トーマス・グラバーが、薩摩藩の五代友厚(表向きは敵対しているが、裏では繋がっている旧友)に送る硝石の密輸手配に頭を悩ませているその地下数メートルを、徳川の資金力を告げる電流が通過した。


 信号は関門海峡を越え、整備されたばかりの山陽道の電信線をひた走る。かつては飛脚が何日もかけて走った道を、電気仕掛けの飛脚は瞬きする間に跳躍し、大坂を経て、ついに京都へと到達した。


 京都・二条城、黒書院


 ガス燈が青白く輝く執務室で、最新式のウエスタン・ユニオン社製電信機が、いつものようにカタカタと紙テープを吐き出し始めた。その音が、今日はまるで勝利の凱歌のように、あるいは敵対者への死刑宣告のように、静まり返った城内に響き渡った。


「上様、パリの昭武様より、入電」


 小栗上野介が長く伸びた紙テープを恭しく読み上げる。その声は、感動を押し殺すように微かに震えていた。


『パリ・ミッション、完了コンプリート。三〇〇〇万フラン、確保セリ』


 それは、薩長が英国商人グラバーの袖の下にすがりつき、足元を見られながら中古の小銃を数千挺買い集めている間に、幕府が国家予算の数倍に匹敵する「無制限の燃料」を手に入れたことが確定した瞬間であった。慶喜は、手にした万年筆を置き、天井のガス燈を見上げた。地球の裏側で行われた弟の奮闘と、それを支えた渋沢の計算、そして海を越えて届いた情報の重み。  


 近代戦とは、剣の腕で決まるのではない。金と情報、そして兵站ロジスティクスの太さで決まるのだという冷徹な事実を、彼は改めて噛み締めていた。


          ◆


 その夜。皇帝の晩餐会という煌びやかな戦場から撤退した一行は、宿舎であるリヴォリ通りのホテル・デュ・ルーヴルへと戻っていた。このホテルは、今回の万博に合わせて建設されたばかりの、パリでも最大級の豪華ホテルである。ガス燈が煌々と輝くロビー、深紅の絨毯が敷き詰められた大階段、そして最新式の水圧エレベーター。すべてが「一九世紀の繁栄」をこれ見よがしに誇示している。


 だが、その一室、随員たちの寝室の奥にある書斎だけは、華やかなパリの空気とは無縁の、線香とインクと脂汗が混じり合ったような、生々しい実務の匂いに満ちていた。  時刻は深夜二時を回っているが、窓の外にはガス燈の真珠の首飾りをかけたようなパリの夜景が広がり、遠くのカフェからは微かにアコーディオンの調べと酔客の笑い声が聞こえてくる。


 しかし、机に向かう渋沢栄一の脳裏にあるのは、そんな優雅な文明の光景ではない。彼の眼前に積み上げられているのは、山のような羊皮紙の契約書と、南山物産から送られてきた船荷証券、そして横濱正金銀行の裏書き手形である。


 渋沢は上着を脱ぎ捨て、ワイシャツの袖を捲り上げ、左手に愛用の五つ玉の算盤、右手にフランス製の鉄ペンを握りしめ、鬼のような形相で数字の海を泳いでいた。


 パチ、パチ、パチパチ……


 静寂の中に、算盤の珠を弾く乾いた音だけが響く。それは、武蔵国の農村で藍玉あいだまの商いをしていた頃から変わらぬ、彼のリズムであった。


「三〇〇〇万フラン。換算して約五〇〇万両、か」


 渋沢は、計算の結果を帳簿に書き込み、ふぅと深く息を吐き出した。そして、冷え切ったコーヒーを一口啜り、万年筆を置いて独りごちた。


「…凄いな」


 その言葉は、金額の大きさに対する驚嘆ではない。この巨大な資金調達スキームを構築した主君、徳川慶喜と、そのシステムそのものに対する、戦慄に近い畏敬の念であった。


 彼は、この欧州への旅で、フランク・ド・ロートシルト(ロスチャイルド)家の銀行家や、ペルヌ子爵といった資本の魔術師たちと渡り合い、「合本組織カンパニー」という西欧独自の仕組みを肌で学んだ。


 多くの人々から小口の資金を集め、巨大な事業を成し遂げ、その果実(利益)を出資比率に応じて分配する。一滴の水を集めて大河となし、岩をも砕く力を生み出すその仕組みは、農民出身の渋沢にとって、目から鱗が落ちるような合理的発見であった。


 だが、徳川慶喜がやろうとしていることは、その教科書的な「合本」のスケールを遥かに超えている。  「国家」という枠組みを使って、日本本土という高度な消費・製造市場と、南山という無尽蔵の資源供給地を連結し、一つの巨大な「財閥コンツェルン」として運営しようとしているのだ。


「日本は頭脳、南山は肉体……か」


 渋沢は、慶喜がよく口にし、先ほどの会談で昭武も引用した言葉を反芻した。確かに合理的だ。恐ろしいほどに。


 南米では今、スペインとペルー・チリ連合軍が、グアノと硝石の利権を巡って「チンチャ諸島戦争」という血みどろの殺し合いを演じている。だが、徳川はどうだ? 自前の植民地(南山)から安価に資源を調達することで、国際相場の変動に左右されず、血を流すこともなく、黙っていても富が転がり込む絡繰り(システム)を作り上げている。この絡繰りが完成すれば、日本は永遠に南山の資源を喰らい続け、南山は永遠に日本の下請けとして汗を流し続けることになる。


 渋沢は、手元の南山物産の報告書に目を落とした。そこには、銅の増産のために現地へ送り込まれた苦力クーリーや無宿人の数と、マラリアによる損耗率が、ただの数字として記されている。百姓の倅として、土の匂いと労働の尊さを知る渋沢の胸に、ちくりとした痛みが走る。


「これは繁栄の永久機関か。それとも、人の業を燃料にして走る暴走列車か」


 その時、背後の扉がきしむ音がした。渋沢はハッとして振り返り、椅子から立ち上がって平伏した。


「誰かと思えば、民部公子みんぶこうし。このような夜更けに、いかがなされました」


 そこに立っていたのは、寝間着の上にガウンを羽織った徳川昭武であった。昼間の軍服姿の凛々しさは影を潜め、一四歳の少年らしい華奢な肩と、隠しきれない疲労の色が、その美しい顔立ちに深い陰影を落としている。彼は、眠れぬ夜に耐えかねて、唯一心を許せるこの忠実な家臣のもとを訪れたのだろう。


「ああ、すまない、栄一。座ってくれ。明かりが見えたのでな」


 昭武は、長椅子に力なく腰を下ろした。


「あのナポレオンとかいう古狸との化かし合いで、神経が昂って眠れんのだ。兄上は、いつもこのようなヒリつくような駆け引きを、京の都で毎日やっておられるのかと思うと気が遠くなる」


「上様は、化け……いえ、稀代の英傑でございますから」


 渋沢は苦笑交じりに答え、昭武のために新しいコーヒーを淹れ直した。砂糖を多めに、ミルクをたっぷりと入れて。


「契約の細部を確認しておりました、公子。これをご覧ください」


 渋沢は、一枚のリストを提示した。三〇〇〇万フランの使い道である。


 シャスポー後装式小銃:二万挺(弾薬二〇〇万発を含む)

 クルーゾー社製一二ポンド野砲:五〇門

 装甲艦(コルベット級):二隻(横須賀での建造費含む)

 陸軍士官学校教官招聘費

 パリ・上海間の電信使用権


「これで、幕府軍は名実ともにアジア最強となります。薩摩や長州が、英国商人から払い下げられた南北戦争の中古品を数千挺かき集めたところで、もはや勝負にもなりません」


 昭武は、コーヒーカップを両手で包み込み、その湯気の中に浮かぶ未来を見つめるように呟いた。


「兄上は、本当に戦争をする気だろうか」


 それは、冷徹な兄を持つ弟としての、偽らざる不安であった。彼は知っている。兄・慶喜が一見すると冷徹すぎる近代合理主義者に見えて、その内側に徳川の人間特有の情熱と虚無を併せ持っていることを。


「戦争は、コストがかかります。上様は、無駄な出費を何よりも嫌われます」


 渋沢は、努めて明るく、論理的に答えた。


「上様の狙いは抑止です。圧倒的な武力、圧倒的な資金力を見せつけることで、薩長に戦っても勝ち目はないと悟らせる。戦わずして勝つ。それが政治家としての慶喜公の計算でしょう」


 渋沢は言葉を継いだ。


「この三〇〇〇万フランという金額自体が、最大の武器なのです。この金が動いたという情報だけで、ロンドンの金融街シティでは日本の公債価格が跳ね上がり、逆に薩摩への融資は焦げ付きを恐れて停止するでしょう。金脈を断たれた軍隊など、干からびた案山子かかしも同然です」


 昭武は少し安心したように頷いた。だが、渋沢自身の腹の底には、拭いきれない冷たい塊が居座っていた。


 (計算の上では、そうだ。一〇〇回やれば一〇〇回、徳川が勝つ)


 渋沢は心の中で独りごちた。彼は農民として、そして一橋家の家臣として、多くの人間を見てきた。世の中には損得勘定で動く人間ばかりではない。自分の命はおろか、国が焦土になることさえ厭わず、「大義」や「面目」、あるいは「情念」という名の狂気で暴走する人間がいることを、彼は知っていた。


 薩摩の西郷隆盛。長州の木戸孝允。あるいは、京の都で暗躍する岩倉具視。彼らは、この「経済的敗北」を、大人しく受け入れるだろうか?  「ああ、金がないから負けました」と、膝を屈するような連中だろうか?


 いや、違う。追い詰められれば追い詰められるほど、彼らは論理という土俵を蹴り飛ばし、暴力ウォーという、最も原始的で、最も強力なちゃぶ台返しに出るはずだ。彼らにとって、南山の銅も、パリの金貨も、叩き潰すべき徳川の汚れに見えているに違いないのだ。


「……いずれにせよ、賽は投げられました」


 渋沢は万年筆を取り、契約書の最後の欄に、徳川昭武の代理人として署名をした。ペン先が紙を走る音が静寂を切り裂く。


「我々にできるのは、勘定を合わせることだけです。たとえ、その支払いが、金ではなく血でなされることになろうとも」


「…栄一?」


「いえ、独り言です。さあ、公子。もうお休みください。明日はクルーゾー製鉄所の視察がございます。鉄と炎の現場です。軍服が煤で汚れるかもしれませんよ」


 渋沢は、いつもの飄々とした笑顔を作って見せた。


 ドンッ!


 その時、窓の外で腹に響く音がした。パリの夜空に、万博の成功と皇帝の外交的勝利を祝う大輪の花火が打ち上げられたのだ。 赤、青、白。トリコロールの火花が、漆黒の空を引き裂き、セーヌ川の水面を毒々しいほどに鮮やかに染め上げる。


 昭武は「綺麗だな」と呟いて窓辺に歩み寄った。 だが、渋沢の目には、その鮮烈な赤い光は、祝いの火花には見えなかった。それは、遠い極東の島国でこれから起ころうとしている、戦火の予兆のように、網膜の裏で不気味に明滅していた。


 (勘定は、合わないかもしれん)


 未来の資本主義の父は、その鋭敏な嗅覚で、来るべき時代の血の匂いを嗅ぎ取っていた。



(第3部 第3話 完)

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