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第2話 南半球の熱源- 過去なき者たちの島

日本列島から南へ約三〇〇〇カイリ。太平洋の怒濤を越えた先に、その島々は浮かんでいる。かつて、欧州の探検家たちが「未知の南方大陸テラ・アウストラリス・インコグニタ」の一部と夢想したその列島は、太古の地殻変動という名の神の気まぐれによって豪州大陸側へ大きく寄り添うように移動し、東洋の海洋国家・日本の「南山諸島なんざんしょとう」という名で地図に刻まれる運命を背負わされていた。


慶応三年(一八六七年)一月


 北半球に位置する京都が、骨の髄まで凍てつかせるような底冷えと、陰鬱な政争の厚い雲に覆われていたその頃、赤道を遥かに越えた南半球に位置するこの島国は、燃えるような真夏の盛りを迎えていた。


 天頂から降り注ぐ陽光は、日本本土の柔らかなそれとは、物理的に質が異なる。オゾン層の希薄な南洋の空を突き抜けてくる紫外線は、皮膚を焦がす暴力性を帯びており、南極海から吹き上げる偏西風、船乗りたちが「吠える四〇度線ロアリング・フォーティーズ」と恐れる湿った暴風は、この地が決して軟弱なリゾート地などではなく、人間が自然と取っ組み合いをして生きる、過酷な開拓の最前線であることを、絶え間ない風切り音と共に宣言していた。


 南山諸島の主島・北嶺島ほくれいとう


 南緯三〇度から四〇度付近に横たわるこの島々は、まさに神が人の住むために誂えたような、奇跡的な豊饒の大地であった。その気候は、劇的な恩恵に浴している。北からの暖かな東豪州海流と、南からの冷涼な南極海流の支流が、この島々の周辺で絶妙に交じり合う(カクテルされる)ことで、年間を通じて極めて温暖な環境が保たれているのだ。


 主島である北嶺島と南山島(南島)の大部分は、農業に最適とされる西岸海洋性気候に属し、北端部こそ亜熱帯の様相を呈するが、全体としては「常春の楽園」と呼ぶにふさわしい。日本列島を毎年のように悩ませる台風の襲来もここでは極めて稀であり、環太平洋造山帯の一部でありながら、火山活動も旅の疲れを癒やす温泉という最高の恵みだけを残して不思議と鳴りを潜めている。


 だが、ここには一つの歴史的な「不可解」が存在した。これほど住みやすい環境、これほど豊かな土壌にありながら、歴史上、マオリ族をはじめとするポリネシアの大航海者たちは、なぜかこの島々に永住・定着することなく、あくまで季節ごとの狩猟場、あるいは通過点として扱ってきたという事実である。


 彼らの伝承によれば、この島は「神々が眠る場所」であり、人が長く留まればマナ(霊力)に圧倒されると恐れられていたとも、あるいは単に、彼らの持ち込んだ熱帯性の作物(タロイモやヤムイモ)が、この島の温帯気候には馴染まなかったためとも言われている。


 その結果、この巨大な空席は、一六世紀末に豊臣秀吉が「南山(なんざん)」と名付け、続く江戸幕府が鎖国という殻に閉じこもることなく、せっせと余剰人口を送り込んでくるその時まで、歴史によって予約済みの状態に置かれていたかのようですらあった。


 そして、奇妙な現象はその後で起きた。日本人が定住し、鉄器を持ち込み、水田を拓き、都市を築き始めると、それまでこの地を敬遠していたポリネシアの人々が、まるで開店を待ちわびていた客のように、続々と海を渡って来訪し始めたのである。


 彼らにとって、鉄と米を持ち、自然を飼い慣らす術(テクノロジー)を持った日本人は、荒ぶる神の地を鎮めた「先住の兄」として映ったのかもしれない。彼らは日本人の先住権(マナの優先権)を認めた上で、その豊かな経済圏の一員となることを選び、共にこの島で暮らし始めた。


 こうして、南山は「日本人の島」であると同時に、南太平洋のあらゆる海洋民族が集う「約束の地」となったのである。


      ◆


 その南山諸島の玄関口。激しい海流が削り取った天然の円形湾カルデラに抱かれるようにして、南山行政府の首都機能を有する大都市・明望めいぼうは存在している。


 人口、約一五万人


 この数字は、同時代の英領豪州ブリティッシュ・オーストラリアにおけるゴールドラッシュの中心地メルボルンや、北米西海岸の玄関口サンフランシスコと肩を並べる規模である。


 二〇〇年前、関ヶ原の戦いの余波と、徳川初期の棄民政策によってこの地に流れ着いた「最初の日本人ファースト・セトラー」たちの子孫が築き上げたこの街は、今や環太平洋の物流と金融のハブとして、ボイラーの圧力計が振り切れる寸前のような、危うくも力強い活況を呈していた。


 街の景観は、極めて特異である。すり鉢状の急斜面には、無数の白木の日本風長屋と、英国風の赤煉瓦造りの洋館、そしてポリネシア風の高床式建築が、無秩序かつエネルギッシュに混在してへばりついている。


 メインストリートである「大通ブロードウェイ」には、南山産の無煙炭を焚いて走る蒸気トラムが黒煙を上げて行き交い、その脇を、最新流行のクリノリン・ドレスを着た婦人と、腰に二本差しではなくリボルバーを吊ったチョンマゲ頭の男、そして精悍な刺青を顔に施したマオリの紳士が、当たり前のように肩を並べて歩いている。ここでは、江戸の情緒と、ヴィクトリア朝の重厚さと、開拓地の粗野さが、熱帯の太陽の下で煮込まれ、極彩色のアマルガム(合金)を形成していた。


 そして、この都市の心臓部である港湾地区。そこに立ち込める空気は、一種独特な「カクテル」であった。


 南極海から運ばれる濃密な海水の塩気。無数の蒸気船や工場が吐き出す石炭の煤煙スモッグ。市場に山積みされた干し魚や、脂ぎった羊肉マトンが炭火で焼ける香ばしい匂い。路地裏から漂う東南アジア由来の香辛料と、あくせくと働く人々の汗の臭い。


 これらが強烈な日差しで煮詰められ、一種の興奮剤となって大気を満たしている。だが、明望の住人にとって、これは決して悪臭ではない。それは「カネの匂い」であり、未だ見ぬ明日への「野心の香り」であった。


      ◆


「おい! 何をもたもたしている! クレーンの蒸気圧を上げろ! 次の船が沖でイラついてるんだよ!」


 埠頭の一角で、現場監督とおぼしき男が怒号を上げ、景気付けに空に向けてコルト製リボルバーの空砲を放った。乾いた銃声が、カモメの鳴き声と汽笛の不協和音ディソナンスに重なる。


 蒸気を噴き上げ、歯車を軋ませて旋回する巨大な英国製ガントリー・クレーンの下では、数千人の沖仲仕たちが、まるで砂糖に群がる蟻の行列のようにタラップを行き来していた。


 彼らの背負っている麻袋の中身こそが、この国の血管を流れる血液であり、徳川幕府を支える筋肉だ。  赤道直下の熱帯雨林気候に属する植民地・入安島いりあんとうのジャングルから切り出された、未精製の銅鉱石。


 北嶺島の地下深く、太古の地層から掘り出された、黒いダイヤモンドと称される高品質な無煙炭と、豊富な鉄鉱石や銅鉱石。今はまだ低率産出に抑えられているものの、その気になれば年間二〇〇トンという、世界中の相場師を失神させるほどの産出量を誇る金鉱山から掘り出される金塊・銀塊。


 そして、南山の広大な牧草地で刈り取られたばかりの、脂ぎった羊毛の俵。それらは、ここ明望で一度陸揚げされ、精錬・加工された後、再び船に乗せられ、横濱へ、上海へ、あるいはサンフランシスコへと輸出されていく。


 近年では、友好国から極秘裏に開発を依頼されるほどの非金属レアメタルや、まだその真価を誰も知らないウランの鉱床までもが発見され、南山の資源地図は、まるで宝の地図のように書き換えられ続けている。


 荷揚げ人足たちの姿は、この「南山」という未来の国家の特異な成り立ちを、雄弁に物語っていた。彼らの肌の色は、一様に南洋の太陽に灼かれた深い小麦色、あるいは赤銅色をしている。


 一見して、彼らを「日本人」か「マオリ」かと区別することは、もはや無意味であった。一六〇〇年代の入植開始以来、初期の日本人移民たちは、広大な無主の地であったこの島々で、彼らが来るやいなや渡ってきた先住民たちと、時には争い、時には酒を酌み交わし、積極的な通婚を重ねてきた。その結果、独自の「南山人ナンザン・クレオール」という新しい民族が形成されつつあったからだ。


 彼らは、日本人のような顔立ちでありながら、ポリネシア系特有の巨岩のような逞しい骨格と筋肉を併せ持ち、平均身長は当時の日本人(五尺二寸程度)を遥かに凌駕する六尺(約一八〇センチ)に達する者も珍しくない。


 肉体労働者達の、その太い腕や胸板には、マオリの勇者の証である幾何学模様の刺青タ・モコが、日本の伝統的な和彫りの桜吹雪や唐獅子牡丹と融合した、独特の意匠で刻まれている者も少なくない。大陸から流れてきた苦力クーリー達ですら、豊かな食生活と厳しい肉体、労働により筋骨流流とした体になっている。髷を結っているのは、最近、東北の飢饉で食い詰めて本土から流れてきたばかりの貧相な新参者ニューカマー達位のものだ。


 南山生まれの男たちは、皆、短く刈り込んだ頭髪に、汗止めの鉢巻を締め、ダボシャツの袖を捲り上げて働いている。その瞳には、儒教的な謙譲の光はなく、海洋民族特有の陽気で獰猛な輝きが宿っていた。


 彼らの口から飛び交う言葉もまた、独特の進化を遂げていた。  


「オイ、そこのウィンチ、もっと『ハヤ』く巻け! 『カイ』(飯)の時間に遅れるぞ!」  


「うるせぇ! 『ボイラー』の調子が悪いんだよ! 『マナ』(気合)入れて回せ!」


 日本語をベースに、マオリ語の単語や、主要な交易相手である英領豪州ブリティッシュ・ゴーシュウ訛りの英語が混在した「南山弁ピジン・ジャパニーズ」。それは、文法などお構いなしの、この港街の生命力を象徴するような、荒っぽくも機能的な言語であった。


 ここには、日本本土を五月蝿く縛る「士農工商」などというかびの生えた身分制度は存在しない。


 あるのは、「稼ぐ者」と「稼げない者」、

「チャンスを掴む者」と「指をくわえて見ている者」


 そして何より、「今日という日を、泥と汗にまみれて生き抜く者」への敬意という、剥き出しだが極めて公平なルールだけであった。


       ◆


 その喧騒を見下ろすように、港を見下ろす高台の一角に、一際異彩を放つ赤煉瓦造りの洋館が鎮座していた。 地上四階建て、ヴィクトリア様式と日本の城郭建築が奇妙に同居したその威容は、この街のランドマークである。  


「南山物産・明望本店」


 正面玄関の柱には、日本の豪商・三井組の「丸に井桁三文字」の暖簾と共に、南半球の夜空を象徴する四つの星「南十字星サザンクロス」をあしらった紺碧の社旗が、湿った夏風にはためいている。この会社こそが、徳川の資本と南山の資源、そして三井の商才が結合して生まれた、世界でも類を見ない武装商社にして、事実上の「東インド会社」的国策企業であった。


 その三階、港を一望できる広大な執務室の窓際で、一人の男が眼下の光景を眺めながら、極上のハバナ産葉巻の紫煙を満足げにくゆらせていた。


 五代友厚ごだいともあつ通称、才助さいすけ


 年齢は今年で三二歳。男盛りである。かつて薩摩藩の英才として長崎海軍伝習所で学び、藩命を帯びて英国留学を果たしたこの男は、欧州の産業文明の圧倒的な力を見せつけられ、攘夷などという寝言がいかに無意味かを骨の髄まで理解した。帰国後、彼は薩摩という狭い檻に収まることを良しとせず、無限の可能性を秘めたこの南山フロンティアへと飛び込んだのである。


 彼は現在、薩摩藩籍を一応は残したまま、幕府の息がかかったこの巨大商社「南山物産」の明望支店長ゼネラル・マネージャーという、実質的な南山経済の舵取り役を任されていた。


 その風貌は、洗練の極みにある。艶やかに撫で付けられた黒髪、手入れの行き届いた口髭、そしてロンドンの名店「ヘンリー・プール」で仕立てさせたチャコールグレーのフロックコート。その立ち居振る舞いは、シティ・オブ・ロンドンの銀行家も舌を巻くほどの紳士然としているが、眼鏡の奥で光る眼光の鋭さと、時折見せる不敵な笑みは、薩摩隼人の野性と、開拓地の荒くれ者を束ねるボスの凄みを隠そうともしていない。


 五代の私生活もまた、南山という土地柄を体現していた。現地明望の名士の娘(日本人とマオリの混血で、燃えるような瞳を持つ美女だと言われている)を妻に娶り、公私共にこの多民族社会に深く根を下ろしている。


 彼は常々、部下にこう語っていた。「商売とは、血を交じり合わせることだ。金と金、人と人、文化と文化。混ざり合って初めて、新しい価値が生まれる」と。


支店長マネージャー。江戸の『本社』から、至急電が入っております」


 ノックと共に部屋に入ってきたのは、部下の書記官・みなみ新三郎であった。彼もまた、南山生まれの二世である。髷ではなく短髪、袴ではなくズボンを履き、日本語と英語、そしてマオリ語を自在に操る、典型的な「南山紳士」の卵だ。その表情は、興奮と緊張で紅潮している。


 五代は、ゆっくりと振り返り、葉巻をクリスタルの灰皿に押し付けた。


「慌てるな、新三郎。江戸からの電信など、ろくな知らせではないと相場が決まっている。どうせ、また『金を送れ』か『物を出せ』のどちらかだ」


 五代は無造作に紙片を受け取り、素早く目を通した。一瞬、その眉が跳ね上がり、次いで口元が三日月のように裂けた。


『北嶺島・大黒山だいこくやま銅山ノ採掘権ヲ担保トシ、仏国ヨリ追加融資ヲ受諾セリ。直チニ増産体制ヲ整エ、次便ニテ銅地金五〇〇トンヲ横濱へ送レ —— 慶喜』


 五代は、愉快でたまらないといった様子で、低く笑った。


「ククッ。慶喜公も、相変わらず人使いが荒い。いや、荒いどころではないな。これは悪魔的だ」


「あ、悪魔的、でございますか?」


「ああ。考えてもみろ。大黒山の銅山は、先月ようやく試掘が終わり、本格的な鉱脈を確認したばかりだぞ? まだ銅など一グラムも精錬できていない。それを、もうパリの銀行家に担保として切り売りし、数千万フランもの大金を引き出したのだ。まさに、獲らぬ狸の皮算用を、国家規模でやってのける。実に、話が早くて気持ちがいい」


 五代は、電信紙を指で弾いた。


「いかがなされますか? 現場からは、これ以上の増産は機材も人手も足りないと悲鳴が上がっております。先日の労働争議ストライキの傷跡もまだ癒えておりませんし、これ以上急がせれば、ボイラーが破裂するか、人間が壊れるかです」


 新三郎の懸念はもっともだった。現場は既に限界稼働フル・オペレーションを超えている。


「掘らせろ」


 五代は即答した。その声には、悲壮感など微塵もない。あるのは、不可能を可能にすることに無上の喜びを感じる、巨大なプロジェクト・リーダーの歓喜だけだ。


「人手が足りなければ、入安島から苦力クーリーを連れてこい。あるいは、佐渡の金山から無宿人を買い叩け。金は出す。蒸気ポンプも、シカゴから最新型のコーリス・エンジンを取り寄せてある。いいか、新三郎。これは『仕事』ではない。『祭り』だ」


「ま、祭り……ですか?」


「そうだ。南山の底力を世界に見せつける、でかい祭りだ。五〇〇トンの銅など、南山の埋蔵量からすれば砂粒一つに過ぎん。だが、その砂粒一つを期日通りに届けることで、日本の、いや徳川の『信用クレジット』が確立する。信用さえあれば、金は無限に湧いてくる。その金で、我々はさらに南山を拓く。この循環サイクルを回すのだ」


「は、はいっ! 直ちに手配いたします!」


 新三郎が駆け出していく背中を見送りながら、五代は再び窓の外へ視線を向けた。黒い煙を吐き出す精錬所の煙突群。その向こうには、入港待ちをする蒸気船の列が、水平線まで続いている。 世界地図を塗り替えるほどの物流が、今、この男の指先一つで動いている。


「見ろ。あれが南山の心臓だ。あそこが動いている限り、日本は死なん。俺たちは今、歴史という巨大な蒸気船のボイラーに、石炭をくべているのだ」


 五代は、マホガニーの机の引き出しから、封蝋された一通の手紙を取り出した。封蝋には、丸に十の字――島津家の家紋が押されている。それは、故郷の盟友であり、現在は倒幕運動の急先鋒となっている大久保利通(一蔵)から、極秘ルートを通じて届いた密書であった。


 五代は、その封を切り、懐かしい筆跡を目で追った。  


『…南山の硝石と鉛を、極秘裏に長崎のグラバー経由で流してくれぬか。代金は後払いで頼む。…薩摩は今、干上がりそうだ』


 文面からは、幕府による経済封鎖によって困窮し、干からびつつある薩摩藩の、なりふり構わぬ悲鳴が聞こえてくるようだった。かつて共に欧州の地を踏んだ友が、今は敵対する陣営で、プライドを捨てて頭を下げている。


「一蔵どん…あんたも大変だな」


 五代は、独りごちた。普通ならば、敵に塩を送るような真似はしない。ましてや、五代は今や徳川のビジネス・パートナーである。だが、五代の胸中にあるのは、単純な友情だけでも、冷徹な損得だけでもなかった。


「すまんが、こっちは商売が面白くてたまらんのだ…それに、薩摩が簡単に潰れてしまっては、徳川の危機感もなくなり、南山への投資が鈍るからな」


 五代は、その手紙を丁寧に折りたたむと、引き出しの奥、鍵のかかる小箱へとしまった。燃やしはしなかった。それは、彼なりの「保険」であり、友への無言の回答でもあった。


「商売に私情は禁物だが、幼馴染のよしみだ。裏口バックドアくらいは開けておいてやるさ。ただし、代金はきっちり耳を揃えて払ってもらうぞ。この南山では、タダで手に入るのは日焼けとマラリア、そして希望くらいなものだからな」


 五代は立ち上がり、帽子掛けからパナマ帽を手に取った。鏡の前で、口髭の角度を入念に整える。その顔は、もはや薩摩武士のものではなく、世界を股にかける「怪商」の顔であった。


「よし、行くか。現場を見に行く。大黒山の視察だ」


 五代は、呼び鈴を鳴らして秘書を呼んだ。


「馬車を回せ。それと、とびきり上等なスコッチ・ウィスキーを一本用意しろ。あそこには今、面白い男がいるからな。長州を追い出された、稀代の軍略家にして、偏屈な合理主義者が」


          ◆


 明望駅から、南山物産が敷設した私鉄の蒸気機関車に揺られること、およそ三時間。車窓の景色は、煉瓦造りの市街地から、羊の群れが白い雲のように点在する牧草地へ、そしてジュラ紀の恐竜が顔を出しそうな、巨大なシダ植物が生い茂る鬱蒼とした原生林へと変わっていく。


 南山諸島独特の太古の森。その緑の海を切り裂くように敷設された鉄路の先、白い蒸気と熱気、そして人間の野心が立ち上る巨大な谷間が見えてきた。


 大黒山だいこくやま銅山。先月の試掘で、推定埋蔵量一〇〇万トンという、当時の世界常識を覆す超弩級の鉱床が確認されたばかりの、「徳川幕府の新たな財布」となるべき場所である。


 五代が駅に降り立つと、そこは戦場のような喧騒――いや、巨大な建築現場特有の、未来への期待に満ちた前向きな熱気に包まれていた。


 巨大な選鉱場が轟音を立てて岩石を砕き、無数のトロッコが血管の中を流れる赤血球のようにひっきりなしに行き交う。坑夫たちの威勢の良い怒号、蒸気ポンプの噴出音、そして大地を揺るがす発破の爆発音。  それらは、強制労働の悲鳴ではなく、人類が未開の大地に叩きつける挑戦状のような力強さを持っていた。


 五代がロンドン仕立ての高級な革長靴を汚すのも構わず歩を進めると、路肩で休憩していた坑夫たちが、泥と煤で真っ黒になった顔で、白い歯を見せて笑いかけてきた。


「おう! 五代の旦那! わざわざご視察とは恐れ入るねぇ!」


「へへっ、旦那。今日の発破は凄かったぜ! 山が一つ吹っ飛んだみてぇだ!」


「今夜の酒代は弾みやがれよ! あんたの持ってくるスコッチじゃねえと、喉の煤が落ちねえんだ!」


 彼らの目は、死んだ魚のような本土の貧農のそれとは違い、ギラギラと生き生きとしていた。


 元々は、東北の飢饉で食い詰め、口減らしのために売られてきた無宿人や、借金で首が回らなくなった博徒たちが殆どだ。だが、ここでは彼らは「腕一本で稼ぐ技術者」であり、産業の最前線を支える戦士だ。


 泥と汗にまみれてはいるが、その表情には、自らの手で運命を切り開き、あわよくば一攫千金を掴んでやるという、開拓者特有の不敵な自負があった。


 五代は彼らにパナマ帽を挙げて応え、丘の上に建つ、急造だが堅牢な造りの鉱山事務所の管理棟へと入っていった。


      ◆


北嶺鉱山地区 管理棟


 赤錆びた大地と、蒸気機関が吐き出す黒煙に覆われた荒涼たる風景の中に、その建物は異質なほどの幾何学的な清潔さを保って鎮座していた。南洋の強い日差しを遮るために厚く塗られた純白の漆喰壁と、現地の「鐵木アイアンウッド」を用いた堅牢な柱は、ここが単なる作業小屋ではなく、一つの「城塞」であることを主張しているようだった。


 その一室にある「鉱山開発本部・支配人室」の扉を開けた瞬間、五代友厚は、戦場の最前線から、突如として大学の実験室へと迷い込んだような錯覚を覚えた。


 外の喧騒、削岩機の轟音や、多国籍な工夫こうふたちの怒号とは裏腹に、室内は真空のような静寂と、冷徹な秩序に支配されていた。


 壁一面には、北嶺炭田および銅山の精密な地質断面図、日々の採掘量を記録した折れ線グラフ、そして数千人に及ぶ労働者の配置図が、まるで軍隊の作戦図のようにびっしりと貼り巡らされている。床には塵一つなく、棚に並ぶドイツ語やオランダ語の鉱山学書は、背表紙の高さまで定規で測ったように整列していた。


 その部屋の中央、部屋の主たる男は、巨大な製図机に向かい、背を丸めていた。手には象牙の計算尺。机上には、冷め切ったコーヒーが入ったブリキのマグカップと、食べかけの堅パン、そして山積みになったデータシート。男は、五代が入室しても顔を上げず、ただ計算尺の中滑尺カーソルを忙しく動かし、数値を書き殴り続けている。


 大村益次郎おおむら ますじろう  かつての名を村田蔵六といった。


 この男こそ、去る慶応二年(一八六六年)の第二次長州征伐(四境戦争)において、石州口の戦いを指揮し、密輸したミニエー銃と精緻な散兵戦術を駆使して、数に勝る幕府軍を完膚なきまでに叩き潰した、稀代の軍事的天才である。その「長州の英雄」が、なぜ今、名を捨て、敵であるはずの徳川の、しかも最果ての植民地・南山にいるのか。運命の歯車は、彼自身の脳内に巣食う、あまりに純粋で、それゆえに狂気じみた「合理性」という悪魔によって狂わされたのだ。


「やあ、五代君か。定刻通りだね。君の乗った特別列車は、私の計算より一分三十秒遅れて到着したようだが」


 大村は、依然として計算尺の目盛りから目を離さずに言った。その額は、「火吹きダルマ」とあだ名される通り異常なほど広く飛び出し、感情を排した鋭い眼光が、この男の尋常ならざる知性と、社会的不適合者ギリギリの変人ぶりを雄弁に物語っている。服装は、機能一点張りの厚手の木綿シャツに、泥だらけだが手入れの行き届いた革ブーツ。帯刀はしていない。腰にあるのは、南山製の回転式拳銃ではなく、水平器とノギスが入った工具袋だ。


「大村先生…いや、支配人とお呼びした方がよろしいですか。お久しぶりです。相変わらず、時間と数字には厳しいですね。どうです、ここでの暮らしは」


「悪くない」


 大村は、ようやく顔を上げた。その無愛想で、能面のように張り付いた表情筋がわずかに緩み、微かな、しかし心底からの愉悦を含んだ笑みが浮かんでいる。


「実に、悪くないよ」


 彼は計算尺を置き、凝り固まった肩を回した。


「昨年の夏、石州口で浜田藩の兵どもを追い散らした時は痛快だったがね。勝った後に、猛烈な虚無感に襲われたよ。所詮は、狭い日本の中での、コップの中の嵐だ。 それに、長州の空気は私には毒が強すぎた」


 大村は、懐から南山産の粗悪な紙巻きたばこを取り出し、マッチを擦った。


「私がミニエー銃の射程と装填速度を計算し、弾薬の補給線を必死に維持している横で、松下村塾上がりの連中は何と言ったと思う? 『皇国の精神で勝った』だの、『死を恐れぬ大和魂の勝利だ』だのと、本気で叫んでおるのだ。 私が『百姓に鉄砲を持たせれば、計算上、武士より効率的な火力が提供できる』と説けば、『草莽崛起そうもうくっき』という詩的な精神論に曲解される。 あそこでは、数式よりもポエムが優先される。微分積分よりも、吉田松陰の亡霊の言葉が重んじられる。 …私の頭の中の豆腐が、腐ってしまいそうだったよ」


 大村益次郎にとって、長州藩という組織は、もはや耐え難い「非理性のカルト集団」に変貌しつつあった。一八六七年の長州は、海峡封鎖による経済的困窮と、過激化するナショナリズムの結合により、テロリズムへと走る「武装暴徒」となり果てていた。そこには、彼が愛する「静謐な論理」が入り込む余地はなかったのだ。


 そんな折、南山物産の五代から届いた一通の手紙。  


『村田先生。狂人相手に消耗するのは時間の無駄です。南山に来ませんか。あそこには、身分も因習もない。あるのは物理法則と、あなたの計算で切り崩すべき未開の山々だけだ』


 その招待状は、軍人としてではなく、技術者としての魂への誘惑だった。提示されたポストは、「南山物産・鉱山開発本部・支配人」


 彼は躊躇なく、村田蔵六という名を捨て、大村益次郎として新たな戦場へ亡命したのである。


 大村は立ち上がり、ブラインドを開けて窓の外を指差した。眼下には、巨大な露天掘りの採掘現場オープン・ピットが広がっていた。


 蟻のように動く数千人の労働者。唸りを上げる蒸気掘削機スチーム・ショベル。そして、規則正しく配置された発破の白煙。その眼差しは、自分の子供を見守る父親のように温かく、同時に実験動物の生態を観察するマッドサイエンティストのように冷徹だった。


「だから、来たのさ。この蒸気と鉄の国へ。 ここには、くだらんメンツも派閥も、家柄も伝統もない。あるのは物理法則と兵站(ロジスティクス)、そして達成すべき数値目標ノルマだけだ。

五代君。軍隊を動かすのも、山を掘るのも、理屈は同じだよ。 いかに効率よく、資源・人員(リソース)を配分し、渋滞箇所ボトルネックを解消するか。敵が幕府軍から岩盤』に変わっただけだ」


 大村にとって、この北嶺鉱山は巨大な実験場であり、彼が指揮する「自然に対する包囲殲滅戦」の最前線だった。彼が導入した軍隊式の組織管理と、弾道計算を応用した発破技術により、南山の鉱産出量は、彼が着任してからの半年で三倍に跳ね上がっていた。


「上様(慶喜公)から、さらなる増産の命令が出ました。無茶な話ですが、来月までに銅地金五〇〇トン、無煙炭一万トンです」


「分かっている。そのための計算は、もう済んでいる」


 大村は、まるで明日の天気を告げるように淡々と答え、壁の巨大な工程表を愛用の指し棒で叩いた。


「現在の稼働率では不可能だ。精神論でツルハシを振るわせても、人間は疲労し、ミスを犯し、死ぬだけだ。 だから、第三坑道の排水系を刷新する。シカゴから届いた新型のコーリス式蒸気ポンプを二台直列で接続し、毎分の排水量を倍増させる。 これで、地下水脈による浸水で閉鎖していた深層鉱脈へのアクセスが可能になり、採掘効率が三〇%上がる。これは兵站の確保だ」


 彼はさらに、別の表、カロリー計算表と献立表を指した。


「それと、坑夫たちの食事だ。現在の麦飯と干し魚中心の日本式献立では、熱量が絶対的に不足している。 この炎天下で重労働を行うには、タンパク質と脂質、そして塩分が足りん。 南山産の牛肉と羊肉、廃棄予定の内臓肉でも構わん、それを一人当たり毎日二〇〇グラム、根菜と共に煮込んだシチューにして支給しろ。 金はかかるが、私の計算によれば、それで作業効率が一五%向上し、脚気や壊血病による離脱率が二〇%低下する。差し引きすれば、十分に元が取れる投資だ」


 五代は舌を巻いた。この男は人間さえも熱量という燃料で動く熱機関として、あるいは整備が必要な生物兵器として見ているのだ。


「相変わらず、身も蓋もない。人間には心があるんですよ、先生」


「心? …ああ、士気モチベーションという変数のことか。それも計算済みだ」


 大村は真顔で答えた。


「先日、第四区画の坑夫たちが騒いだ時もそうだ。あれは暴動ではない。彼らは『換気が悪くて熱がこもる』『飯が不味い』『体が痒い』という、仕組みの不具合を生体反応として報告してきただけだ。 長州なら『気合が足りん!』と斬り捨てるところだが、私は違う。 送風機を増設して坑内温度を下げ、給金を一割上げ、そして彼らの宿舎に『風呂』を作ってやった」


「風呂、ですか」


「ああ。日本人は風呂が好きだからな。入安島の原住民も、意外と気に入っているようだ。 温水による血管拡張と代謝促進による肉体的な疲労回復、そして『汚れを落とす』という行為による精神的な……そう、鋭気を養う効果だ。 たったそれだけの設備投資で、生産性が五%も上がったのには、私も驚いたよ。人間の『心』という要素も、方程式に組み込めば有用な働きをするらしい」


 五代は、この合理の塊のような、しかしどこか倒錯した人間愛を持つ男を見て、苦笑しつつも深い畏敬の念を覚えた。


 かつて長州で「百姓に武器を持たせた」と批判された男は、ここ南山で「荒くれ者に風呂とシチューを与え」、世界で最も効率的な産業軍団を作り上げていたのだ。


「頼りにしていますよ、先生。あなたがいれば、南山は安泰だ。 この国が、いずれ『共和国』として独立する日が来れば、あなたが陸軍大臣だ」


「よしてくれ。私は肩書きには興味がない。 …だが、この南山国防軍の構想ブループリントは、すでに頭の中にある。 精神論を排し、火力と機動力を最優先する、世界で最も合理的な軍隊だ。長州が捨てた『理』を、ここで拾い上げて結晶化させるのも、一興かもしれん」


 大村は再び計算尺を手に取り、微細な目盛りを読み取り始めた。


「ところで、五代君。君も精が出るな。 故郷サツマの友人が、兵糧攻めで困っているんだろう? 『硝石』がなくて、火薬が作れんと」


 唐突な、そして核心を突く問いかけに、五代は心臓を鷲掴みにされたようにハッとした。


「…な、何を」


「隠しても無駄だ。君の部下…南新三郎だったか。彼が在庫表の数字をいじっているのを見逃してやったのは、私だぞ?」


 五代の背中に冷たい汗が流れた。この男は、鉱山の地下深くの岩盤だけでなく、五代の裏帳簿まで透視していたのか。


「硝石一〇〇トン、鉛五〇トン。 帳簿上は『第三坑道拡張工事による大規模発破用』および『現地警備隊の演習用消耗分』として処理しておいた。 これなら、小栗殿の監査が入っても、私が『技術的に必要だった』と証言すれば通る」


 大村は、ニヤリと、悪戯を見つけた子供のような、あるいは共犯者のような笑みを浮かべた。


「裏でこっそり長崎のグラバー経由で、薩摩へ流してやるための在庫確保……私の計算に入れておいたよ。 君が言わなくても、そうするだろうと思ってな」


 五代は絶句した。大村益次郎。かつて長州軍を率い、薩摩とも対峙したはずの男が、なぜ。


「なぜです、先生。あなたは長州を捨てた。薩摩に義理などないはずだ」


「勘違いするな。義理や人情で動いたのではない」


 大村は、計算尺で空中に放物線を描いた。


「釣り合いだよ、五代君。 今の日本は、徳川(東国)という巨人が強くなりすぎている。 このまま薩摩が飢えて死ねば、競争がなくなり、緊張感が消える。 緊張感がなければ、軍需物資の需要も減り、技術革新も停滞し、徳川の株価も上がらん。

適度な紛争、適度な脅威こそが、南山の産業を活性化させ、私の作った爆破筒や、君が売る銅の価値を高めるのだ」


 大村は、冷徹に言い放った。


「敵に塩を送るいや、火薬を送るのも、巨大な経済戦争の一部だ。 薩摩には、せいぜい派手に暴れてもらわねば困る。それが、私の計算式における定数なのだよ」


 五代は、深く帽子を取り、脱帽した。  この男は、五代の苦悩さえも、そして日本の内戦さえも、巨大な産業連関表の一部として処理しているのだ。「理性の亡命者」は、ここ南山で、戦争すらもビジネスと数式に還元する、恐るべき「産業の参謀総長」へと進化を遂げていたのである。


「承知いたしました、支配人。 その計算、謹んで利用させていただきます。薩摩の西郷どんも、まさか長州を追い出された男に救われるとは、夢にも思わんでしょう」


「礼には及ばん。私はただ、この巨大なからくりをいじるのが面白いだけだ。 さあ、仕事に戻りたまえ。次の発破まで、あと四分二〇秒だ」


 大村益次郎は、再び数字の海へと没入していった。  その背中は、かつて戦場で指揮を執っていた時よりも、遥かに雄弁に、そして力強く、「新時代の戦争」を物語っていた。


          ◆


 事務所の重厚なドアを開けて外へ出ると、先ほどまで谷間を叩きつけていたスコールは嘘のように上がり、天頂には南半球特有の、目が覚めるような「南山ブルー」の青空が広がっていた。


 大気を洗浄したばかりの湿った風が、亜熱帯の木々の樹冠を揺らしながら吹き抜けていく。


 ふと見上げれば、大黒山の稜線から対岸の原生林にかけて、巨大な二重のダブル・レインボーが架かっていた。その色彩の鮮やかさは、日本本土で見られる淡い水彩画のようなそれとは異なり、原色のペンキを空にぶちまけたかのように強烈で、毒々しいまでの生命力に満ちていた。


 その虹の凱旋門アーチをくぐるようにして、谷底の鉄路から鋭い汽笛が轟いた。


 ヴォォォォッ!


 それは、文明という怪物が上げる産声だ。明望めいぼう鉄工所が、米国ボールドウィン社の技術を盗……参考にして独自に組み上げた、総重量六〇トンの「C型タンク機関車」である。


 漆黒の鉄塊は、白い蒸気を爆発的に吐き出しながら、直径一・五メートルの動輪を軋ませ、二〇両にも及ぶ貨車を牽引して走り去っていく。


 貨車に満載されているのは、赤黒く鈍い光を放つ銅鉱石と、精錬されたばかりの地金インゴット。その総重量は一便だけで三〇〇トンを下らない。ロンドンの金属取引所(LME)において、南米チリ産の銅を駆逐し、相場を暴落させる事になる「ナンザン・コッパー」の奔流が、今まさに世界へ向けて放流されたのだ。


 五代は、まだ雨水を含んでぬかるむ赤土の大地を躊躇なく踏みしめた。


 グシャリ


 という湿った音と共に、泥が跳ね上がり、仕立ての良いズボンの裾を汚す。普通の紳士ならば顔をしかめる場面だろう。だが、五代は足元を見下ろし、愛おしそうに目を細めた。


 この泥の中にこそ、砂金が含まれ、銅が眠り、無煙炭が埋まっている。その感触は、確かに物理的には汚れてはいるが、決して不快ではなかった。それは、虚飾に満ちた政治の世界の泥沼とは違う、これから何かを生み出すための、豊穣で正直な土の感触だったからだ。


「南山フロンティア、か」


 五代は、去りゆく列車の黒煙を目で追いながら、独りごちた。本土では、薩摩の大久保や長州の木戸たちが、誰が主導権を握るかで血眼になり、京の都では公家たちが千年一日せんねんいちじつの先例にしがみついている。


 だが、ここには何もない。徳川の家紋も、島津の十字も、ここでは単なる「会社のロゴマーク」に過ぎない。マオリの刺青も、武士の刀も、ここでは等しく「個人の装飾品」だ。血統も、家柄も、過去の栄光も、この赤土の前では無力だ。問われるのは、今日どれだけ掘ったか、明日どれだけ稼ぐか、それだけだ。


 五代は、パナマ帽を被り直し、その整えられた口髭の端を吊り上げた。


「悪くない。ここには、過去はないが、未来だけはある」


 ここには、食い詰めた浪人も、国を追われた革命家も、一攫千金を夢見る山師も、食人族の末裔と恐れられた戦士もいる。


 彼らは皆、何かしらの過去を捨てて、この海を渡ってきた。そして今、村田蔵六という合理の怪物が描く設計図の上で、五代友厚という商人が指揮する楽団の一員として、ハンマーを振るい、蒸気機関を回している。


 荒くれ者たちが集い、天才たちが知恵を絞り、剥き出しの欲望と冷徹な計算が交錯する島。


 そこは、日本の繁栄という華やかな舞台を支える薄汚れた「楽屋裏」であると同時に、アジアとも欧米とも異なる、新しい時代の息吹が産声を上げる、熱く、騒がしく、そして野蛮な希望に満ちた「揺り籠」でもあった。



(第3部 第2話 完)

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