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第1話 株式会社徳川幕府(トクガワ・インコーポレイテッド)

第三部開始です。

慶喜が 将軍位についてから、戊辰戦争直前までの約1年間を描いていきます 。

慶応三年(一八六七年)一月


 三方を山に囲まれた京都盆地特有の、湿気を孕んだ重たい冷気は、千年の歴史を誇る都を容赦なく締め上げていた。鴨川の水面からは白く濁ったもやが立ち上り、瓦屋根に降り積もった雪は、数日経っても溶ける気配を見せない。洛中の町家では、人々が薄い布団にくるまり、わずかな炭火で暖を取りながら、長引く不況と政情不安に震えていた。


 この古都は今、骨の髄まで凍てつかせるような底冷え、京言葉で言う「底冷え」の極致に沈んでいた。


 だが、その凍てつく闇の只中、二条城の奥深くに位置する「黒書院」の内部だけは、季節の摂理を無視した異様な熱気に支配されていた。


 それは、生き物の肌から発せられる温もりではない。巨大な製鐵所の溶鉱炉が発するような、あるいは蒸気機関車のピストンが高圧で擦れ合うような、人工的で、油の匂いが混じる金属質の熱であった。


 外観こそ、狩野派の障壁画に彩られた古式ゆかしい書院造のままである。しかし、一歩その敷居を跨げば、そこは一九世紀の産業革命が凝縮された異界であった。


 格天井からは、横濱の照明器具工房で製造された最新式の「瓦斯燈ガスとう」シャンデリアが吊り下げられている。ガラスのホヤの中で燃焼する青白い炎は、蝋燭や行灯の頼りない揺らぎとは無縁であり、外科手術室のように冷徹な光度で室内を暴き立てていた。


 その光が照らし出すのは、畳の上に敷かれた分厚いペルシャ絨毯と、その中央に鎮座する巨大なマホガニー製の執務机である。南山の熱帯雨林から切り出され、現地の職工によって磨き上げられたその銘木は、血のように赤黒く、圧倒的な質量で見る者を威圧していた。


 部屋の隅では、北米合衆国ユナイテッド・ステーツから輸入されたばかりの、ウエスタン・ユニオン社製最新式電信機が、不規則なリズムで


 カチ、カチ、カチ…


と硬質な打刻音を刻み続けている。


 その音は、大坂の米相場か、あるいはロンドンの金利か。細い銅線を通じて世界中から吸い上げられた「情報」が、物理的な振動となってこの部屋に吐き出されているのだ。それはまるで、変貌しつつある「徳川幕府」という巨大な怪物の、不整脈気味の心拍音のようにも聞こえた。


 その執務机の向こう側、南山産牛革張りの回転椅子に深く腰掛け、分厚い和綴じの大福帳(帳簿)に目を通している男がいた。


 徳川慶喜


 この男の姿に、もはや戦国以来の武骨な武将の面影はない。頭髪は、髷を潔く切り落とし、欧州の紳士に倣って撫で付けた洋風の短髪。腰にあるべき大小二本の日本刀は影も形もなく、丸腰である。


 その身に纏うのは、窮屈な直垂ひたたれかみしもではない。桐生シルクのスタンドカラーのシャツ・南山・北嶺島ほくれいとうの高地で品種改良されたメリノ種羊毛を用い、深川の縫製工場で仕立てられたスラックス、そして濃紺のフロックコートであった。


 胸元には、フランス皇帝ナポレオン三世から贈られたレジオン・ドヌール勲章と、自らが制定した黄金の「葵勲章」が、ガス燈の光を弾いて鈍く、しかし傲慢に輝いている。


 慶喜の白い指先には、イタリア・トリノの職人が削り出したという、美しいマーブル模様の万年筆が握られていた。彼はそのペン先を、インク壺の漆黒の液体に浸し、帳簿の数字をなぞる。


「上野介。今月の『北嶺』からの上納金(配当)、予測より二割、いや二割三分ほど少ないな」


 慶喜は、筆を止め、低い声で言った。その口調には、怒りも焦りも、感情の色が希薄だ。ただ、複雑な数式の中に計算の合わない項を見つけた数学者のような、冷たい不満と探究心だけが漂っていた。


 机の前に、まるで鋼鉄の彫像のように直立不動で控えていた男、勘定奉行改め会計総裁・小栗上野介忠順は、手元のメモに視線を落とすことなく、即座に答えた。


 彼もまた、慶喜の命により、髷を落とし、ロンドンのサヴィル・ロウで仕立てられた最新流行のチャコールグレーのスリーピース・スーツを身に纏っている。しかし、その腰には、武士の魂の最後の欠片として、無骨な脇差が一振りだけ、違和感たっぷりに帯びられていた。


「は。先週、南山諸島・北嶺島の第三鉱区におきまして、現地坑夫らによる騒乱が発生いたしました。彼らは賃金の加増と労働環境の改善を求めて第一坑道に立てこもり、ボイラーを占拠したため、一時的に出炭および選炭作業が停止いたしました」


「騒乱、か。また現地の連中か? それとも、入安島いりあんとうから連れてきた苦力クーリーか」


 慶喜は万年筆の軸を指で回しながら、呆れたように、しかしどこか口元を緩ませて問うた。


「あの南山の連中は、まったく。少し目を離すとすぐに騒ぎ出す。無学で粗暴で、礼儀を知らん。まるで、元気が有り余って家具を壊す駄犬だな」


「いえ、上様。今回主導したのは、日本本土から流れた無宿人や、食い詰めた浪人たちです。彼らは『権利』という言葉をどこかで拾い食いしたらしく、組合ユニオンらしきものを結成しておりました」


「厄介な知恵をつけたものだ」


「現地の代官所は、即時鎮圧のために駐留軍の出動許可を求めてきましたが、私は独断でこれを却下し、彼らの要求通り、日当を銀二(もんめ)引き上げさせました」


「ほう?」


 慶喜は、回転椅子の背もたれに体を預け、眼鏡の奥の小栗の瞳を覗き込んだ。


「武断派のそちにしては、弱腰ではないか。見せしめに数人斬り捨てれば、翌日には残りの者たちは大人しく石炭を掘ったであろうに」


 小栗は表情一つ変えず、淡々と、しかし確信に満ちた口調で返した。


「弱腰ではございませぬ。純粋な計算の結果でございます。武力で排除し、彼らを殺傷あるいは投獄すれば、新たな人足を集め、蒸気掘削機の操作を教育するのに最低でも一ヶ月を要します。現在の石炭相場に基づけば、その一ヶ月間の生産停止による逸失利益は、賃上げによる人件費の増大分を遥かに上回ります」


 小栗はそこで言葉を切り、眼鏡の奥の瞳を光らせた。


「彼らは反乱を起こしたのではなく、実力行使による取引を求めてきたのです。ならば、銃弾ではなく金で解決するのが、最も安上がりで、かつ持続可能な統治かと」


 小栗の言葉を聞き、慶喜は微かに口角を上げた。それは、優秀な部下を持つ経営者の満足げな笑みであり、同時に、手のかかる「南山の民」に対する、ある種の歪んだ愛着を含んでいた。


「フン。合理的だ。それでいい。それに、権利を主張してストライキを起こすほどの気概があるなら、まだ見込みはある。ただ従順なだけの死んだような農民よりは、よほど使い道があるというものだ。カネを増やしてやれ。その分、死ぬ気で掘らせろ」


 慶喜は、手にした万年筆のキャップをカチリと閉めると、再び目の前の大福帳に視線を戻した。彼らの交わす会話には、古来より儒学者が説いてきた「民への慈悲」や、武士道が重んじる「面目」といった湿った言葉は一切登場しない。


 この部屋の空気を支配しているのは、ただ純粋な損得勘定(P/L)と、統治の効率性(C/P)、そして国家という巨大なシステムをいかに安定稼働させるかという、冷徹な工学的思考のみである。


 かつての将軍たちは「徳」で国を治めようとした。仁愛を説き、質素倹約を旨とし、天災が起きれば自らの不徳を恥じて改元を行った。だが、慶喜は知っている。南山という、欲望と物理法則が剥き出しになった実験場で得られた知見によれば、近代国家という怪物を動かす燃料は、形のない「徳」や「祈り」などではなく、重さを量り、数えることのできる「金」と「資源」なのだということを。


 これこそが、慶喜が構築した新体制、世に言う「慶応の改革」の正体であった。それは、単なる幕政の立て直しではない。徳川幕府という、三〇〇年続き、制度疲労でキシキシと悲鳴を上げていた巨大な軍事・行政組織を、西欧由来の概念である近代的な合本組織(株式会社)へと、その骨格から作り変える大手術であった。将軍は、もはや封建的な武家の棟梁ではない。日本という巨大な経済圏を管理し、利益を追求する総裁として振る舞う。


 老中たちは取締役として各事業部を統括し、諸藩はフランチャイズ加盟店として、中央の定めた規格レギュレーションに従って経営を行う。


 そして、この巨大な「株式会社徳川」の屋台骨を物理的に支えているのが、太平洋の彼方にある「南山」であった。


 慶喜は、軋む音を立てて革張りの回転椅子を半回転させ、背後の壁一面に掲げられた巨大な地図を見上げた。最新の測量技術と、イタリアの多色刷り印刷技術によって描かれたその地図には、東アジアの勢力図が鮮明に浮かび上がっている。


 北には、眠れる獅子から切り刻まれる肉塊へと変わりつつある清国。西には、ユーラシア大陸を飲み込もうとするロシア帝国の影。そして中央には、蒸気と煤煙に覆われ、欧米列強の背中を必死に追いかける、日本列島が鎮座している。


 この時代、嘉永の産業革命を経て、日本は急速な変貌を遂げつつあった。東京湾沿岸、横濱、横須賀、品川、そして浦安にかけての臨海部には、煉瓦造りの工場群が林立し、その煙突からは昼夜を問わず黒煙が吐き出され、空を灰色に染め上げている。


 もちろん、英国のマンチェスターや、米国のピッツバーグに比べれば、その規模はまだ小さい。だが、横濱製鐵所では自国産の高炉が稼働し、横須賀造船所では、ようやく二〇〇〇トン級の鉄骨木皮コンポジット船の建造が可能になった。蒸気機関の製造においても、欧州の模倣から脱し、どうにか国産化の端緒につき始めたところだ。世界的に見れば、統一を果たしたイタリア王国や、普墺戦争を経て台頭するプロイセンに次ぐ、「第二集団の先頭」といった位置付けであろうか。アジアにおいて唯一、自力で産業革命の入り口を突破した国として、列強もその潜在能力を警戒し始めていた。


 だが、その未熟ながらも力強い「産業の筋肉」を動かすには、莫大なカロリーが必要だ。そのカロリー源こそが、地図の南端、太平洋上に弓なりに横たわる列島、かつて地理学者たちがNZランドと呼んだ島々が、太古の地殻変動によってオーストラリア大陸寄りへ約一八〇〇キロメートルも移動してきたとされる南山諸島(南山島・北嶺島)、そして赤道直下の緑の魔境、入安島(いりあんとう/英名:ニューギニア)であった。


 この時代の南山は、後世の観光パンフレットに描かれるような未来的な文明国ではない。総人口は約一五〇万人。その内訳は、日本本土の口減らし政策によって送り込まれた貧農出身の開拓移民、佐渡や蝦夷地から移送された流刑囚くずれ、一攫千金を夢見て世界中から流れ着いた山師、そして独自の文化を守りつつも時代の波に翻弄される現地の人々(マオリやパプア系諸族)が入り混じる、混沌とした人種の坩堝るつぼである。


 南山諸島の主都である明望めいぼうの中心部こそ、石造りの官庁街や駅舎が並び、ガス燈や蒸気トラムが走る英米の都会のような景観を呈しているが、一歩郊外へ出れば、そこは泥と油と欲望にまみれた、荒々しい「資源採掘キャンプ」に過ぎない。酒場では毎晩のように賭博と喧嘩が繰り返され、安酒の匂いと石炭の煤、そして男たちの汗臭さが充満している。そこには、江戸のような洗練された教養もなければ、京都のような雅な礼節もない。あるのは、今日を生き延び、明日には大金持ちになるという、野卑で強烈なエネルギーと、過酷な労働だけだ。


 だが、その汚れた泥濘ぬかるみの下には、産業革命の血肉となる、世界が渇望してやまない宝が眠っていた。


 北嶺島ほくれいとうの地下深くに広がる、瀝青炭や無煙炭の分厚い鉱脈。南山島の山々を形成する、純度の高い鉄鉱石。


 そして、入安島いりあんとうのジャングル奥地に眠る、露天掘り可能な巨大銅鉱床と金鉱山、絶海の無人島群から削り取られる「白い黄金」グアノ(リン鉱石・硝石)。


 これらの一次産品は、現地の荒くれ者たちの手によって大地の底から引きずり出され、南山の粗末な港から蒸気船に積み込まれる。黒潮に乗って太平洋を北上した船団は、横濱や大坂の港に横付けされ、その腹から黒いダイヤモンド(石炭)や赤い金(銅)を吐き出す。それらは、品川や浦安の工場地帯へと運ばれ、高炉で溶かされ、精錬され、あるいは最新鋭の銃砲となり、あるいは世界市場へ輸出される電信線や鉄道レールとなって、莫大な外貨を徳川の金庫へと還流させるのだ。


「日本は頭脳(工場)であり、南山は肉体(鉱山)だ」


 慶喜は、地図上の南山諸島を、万年筆の尻でカツカツと叩きながら独白した。


「南山という、泥と汗にまみれた強靭な肉体があるからこそ、我々日本人は、煤煙に曇る空の下とはいえ、絹の座布団に座って、文化や政治という高尚な営み(オペラ)に興じることができる。そうだろ、上野介」


 慶喜の問いかけに、小栗は眼鏡の位置を指で直しながら、事務的に、しかし冷徹な共感を込めて頷いた。


「仰せの通りでございます。南山は、幕府と東国資本が全霊を賭けて開発した天領であり、実態としては経済植民地。その構造が生み出す圧倒的な資源供給能力こそが、植民地化の魔手を伸ばす英仏、あるいは南下を企てるロシアといった欧米列強に対抗しうる、我が国唯一にして最強の『担保コラテラル』でございます」


 彼らは理解していた。現在の日本の繁栄が、南山というフロンティアでの過酷な収奪と、入安島のジャングルでマラリアに倒れる移民たちの犠牲、そして「本土による植民地支配」という歪な二重構造の上に成り立っていることを。


 だが、彼らは躊躇しない。十九世紀という、力が正義であり、弱者は食われるだけの運命にある弱肉強食の時代において、国家と民族を生き残らせるためには、綺麗事という名のオブラートなど不要なのだ。


 喰われる羊になるくらいなら、喰らう狼になる。  そのための牙が南山の鉄であり、そのための筋肉が南山の石炭であった。


       ◆


 その時、重厚なマホガニー製の扉が、ためらいがちに三回ノックされた。革張りの回転椅子から慶喜が「入れ」と短く応じると、扉が静かに開き、老中首座・板倉勝静が、まるで目に見えない重りを両肩に乗せたような足取りで入室してきた。


 慶喜や小栗が、南山産メリノ羊毛で仕立てられた洋装を纏い、時代の最先端を走る「株式会社徳川」の役員としての相貌を呈しているのに対し、板倉の姿は対照的であった。


 彼は、伝統的な麻のかみしもを身につけ、月代さかやきも丁寧に剃り上げている。それは、この急速に変貌する組織の中で、彼だけが取り残された古き良き武士の化石であるかのようにも見えた。


 その眉間には、常に胃の腑を締め上げられるような苦渋の皺が刻み込まれ、顔色は心なしか土気色を帯びている。この新体制において、彼はうるさい株主(外様大名や親藩)への根回しや、形式ばかりを重んじる取引先(朝廷や公家衆)との折衝を一手に引き受ける「総務担当の大番頭」という、最も神経をすり減らす損な役回りを押し付けられていたのである。


「上様。ご歓談中、誠に恐れ入ります」


 板倉は、敷居のところで深々と平伏した。その声には、疲労の色が滲んでいる。


「なんだ、板倉。顔色が悪いぞ。また薩摩の西郷あたりが、何か難癖をつけてきたか?」


 慶喜は万年筆を置き、少しだけ労わるような口調で尋ねた。


「いえ、薩摩ではございませぬが。先ほど、京の学習院を通じて、公家衆より連名の苦情状が届いております」


 板倉は懐から奉書紙の束を取り出し、恭しく差し出した。


「曰く、『近頃の都の物価高騰は目に余るものがある。これは幕府が、南山よりもたらされる富と物資を独占し、不当に利を貪っているからではないか』と。特に、過激な攘夷派として知られる三条実美さんじょう さねとみ卿あたりは、幕府の不正を暴くためとして、自らの手による南山視察団の派遣と、北嶺島炭鉱の帳簿公開を強硬に求めてきております」


「視察だと? ハッ、笑わせる」


 慶喜は、差し出された書状を受け取ることもなく、鼻で笑い飛ばした。


「公卿ごときに、泥と汗と石炭の粉塵にまみれた鉱山経営の何が理解できるというのだ。彼らは、南山へ行けば、木になっているマンゴーのように金貨が手に入るとでも思っているのか?」


 慶喜は、卓上の冷えたコーヒーを一口飲み、吐き捨てるように続けた。


「彼らが欲しいのは、国家の行く末を憂う真実などではない。ただの小遣いだ。物価高騰を口実に、幕府から見舞金を引き出したいだけの乞食根性よ。上野介、官房機密費から適当に見繕って、三条の鼻先に積んでやれ。ついでに、南山産の最高級ブランデー『南十字星サザンクロス』もダース単位で添えてな」


「承知いたしました」


 小栗は手帳に素早くメモを走らせた。


「処理項目:対公家工作費。名目は『学術振興寄付金』として処理します」


 その事務的なやり取りを見て、板倉は困惑と焦燥がない交ぜになった顔で食い下がった。


「し、しかし、上様。金で頬を叩くような、そのような露骨なやり方は、かえって人心の離反を招きます。公家たちの不満は、金銭だけの問題ではございません。徳川に対する根深い不信感が…」


 板倉は言葉を選びながら、意を決して続けた。


「薩摩の大久保や、長州の木戸といった連中は、そこを突いて『徳川は南山と結託し、国を私物化している』『帝をないがしろにしている』と喧伝しております。上様が以前より構想なされている『大日本南山連邦(グレイト・ジャパン・ナンザン・フェデレーション)』本当に、これを公になさるおつもりですか? 時期尚早ではございませんか?」


 その言葉を聞いた瞬間、慶喜の手が止まった。室内の空気が、一瞬にして凍りつく。


 慶喜はゆっくりと回転椅子を回し、板倉を射抜くような視線で見据えた。その瞳の奥には、凡人には理解できない高みから世界を見下ろす者特有の、冷徹な理知の光が宿っていた。


「板倉。そちは、今の日本がまだ一つの国としてまとまっていると、本気で思っているのか?」


「は…? そ、それは、天子様のもと、万民が等しく」


「寝言だ」


 慶喜は一喝した。その声は決して大きくはなかったが、鞭のように空気を切り裂いた。


「現実を見ろ。西国と東国では、もはや見ている景色も、使っている通貨も、信じている正義も違うのだ。薩長は、ジャーディン・マセソン商会を通じて英国と結び、アームストロング砲と自由貿易論を輸入している。対して我々は、ロッシュ公使を通じて仏国と結び、南山の資源を担保に巨大な産業国家を作ろうとしている。これは既に、国内問題ではない。二つの異なる国家原理による内戦なのだ」


 慶喜は立ち上がり、音もなく黒板の前に歩み寄った。彼は白いチョークを手に取り、そこに幾何学的な図形を描き始めた。中心に小さな円。その周りを、衛星のように取り囲む三つの大きな円。そして、それらを繋ぐ太い線。


「私が目指すのは、もはや制度疲労を起こした封建的な幕藩体制の修繕ではない。…連邦フェデレーションだ」


 慶喜の指が、黒板を叩く。カツ、カツ、と乾いた音が書院に響く。


「中心には皇帝(天皇)を置く。だが、それはあくまで祭祀王としての象徴、英国で言うところの『君臨すれども統治せず』という存在だ。

その周囲を、徳川家(東国産業圏)・南山行政府(資源供給地)そして諸藩連合(西国農業圏)という名の、独立した統治体が取り囲む」


 慶喜は、三つの円を包括する大きな枠を描き足した。


「そして、これら全ての利害を調整するために『公議所』という名の議会を設置する。その公議所の『永久議長』にして、連邦全土の軍事・外交・経済の最終決定権を一手に握る『総裁』こそが、この私、徳川慶喜だ」


「帝には、雲の上で安らかに和歌を詠み、国の安寧を祈っていただく。泥にまみれ、血を流し、金勘定に追われる政治という汚れ仕事は、全て我々政治専門家プロフェッショナルが引き受ける。欧州流に言えば立憲君主制だが、実質は徳川による開発独裁だ。これ以外に、列強の植民地にならずに日本が生き残る道はない」


「し、しかし、それでは、薩長が黙っておりません! 彼らは王政復古を掲げ、帝による親政を、古の姿に戻すことを、」


「だからこそ、だ」


 慶喜の口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。それは、圧倒的な実力で敵をねじ伏せる力を持つ者だけが浮かべる、絶対者の笑みであった。


「彼らに王政復古などという、千年昔の夢を見させてはならん。現実を見せつけるのだ。圧倒的な富。圧倒的な技術。そして、圧倒的な破壊力。

『徳川に逆らえば、明日の飯も食えなくなる』

『徳川の鉄道と電信なしでは、一日たりとも暮らせなくなる』

という、冷厳な事実を、骨の髄まで叩き込んでやるのだ」


 慶喜は、チョークを粉受けに放り投げ、小栗に向き直った。


「上野介。パリの万博会場にいる昭武あきたけからの報告はどうなっている?」


「は。先ほど、マルセイユ経由で電信が入りました。『ナポレオン三世陛下、追加融資三〇〇〇万フランを快諾。担保は、先日発見された北嶺島・大黒山だいこくやまの銅山採掘権』

それと、南山艦隊の第三輸送船団が、間もなく横須賀軍港に入港します」


「積荷は?」


「最新鋭のシャスポー銃二万挺。アームストロング砲五〇門。そして、スネル兄弟がかき集めてきた、米国南北戦争の余剰物資サープラス。スペンサー七連発銃と、ガトリング機関砲が、山のように」


 板倉は絶句し、膝から崩れ落ちそうになった。それは、一国の軍隊を丸ごと近代化させるに足る、途方もない物量であった。当時の日本にある火器の総数を、たった一度の輸送で塗り替えるほどの規模だ。


「…せ、戦争を…この日本で、欧米のような大規模な戦争を、なさるおつもりですか」


「まさか」


 慶喜は鼻で笑った。


「戦争など、コストがかかるだけで利益はない。弾薬一発の値段で、どれだけの米が買えると思う? これは『抑止力』だ。圧倒的な力を見せつければ、賢い人間なら膝を屈する。無駄な抵抗はやめて、徳川の経済圏に入った方が得だと悟るはずだ。相手が、損得計算のできる人間ならばな」


 カチ、カチ、カチ…


 部屋の隅で、電信機が再び新たな情報を吐き出し始めた。小栗がその長く伸びた紙テープを読み取り、わずかに眉をひそめる。


「上様。大坂・堂島の米相場が、また高騰しております。南山米の緊急放出も追いつきません。それと、三河地方で不穏な動きが。民衆が集団で踊り狂い、商家の打ちこわしを始めているとの報告が…」


 慶喜は、窓の外、雪の降りしきる京の冬空を見上げた。繁栄の光が強くなればなるほど、その足元に広がる影もまた、濃く、深く沈殿していく。慶喜の作り上げた「バブルの塔」は、南山の黄金と、民衆の底なしの欲望という、極めて不安定な地盤の上に聳え立っていた。


「さあ、忙しくなるぞ、上野介、板倉」


 慶喜は、フロックコートの裾を翻し、再び書類の山へと向かった。その背中は、一国の宰相というよりは、嵐の予感が漂う海原へ船出する、巨大な黒船の舵輪を握る、孤独な船長のようであった。


慶応三年。

日本史上、最も長く、最も熱く、そして最も奇妙な一年が、今、その幕を開けようとしていた。



(第3部 第1話 完)

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