第30話 帝の崩御 - 毒とプロパガンダ
慶応二年(一八六六年)十二月二十五日 京都
千年の歴史を誇る王城の地は、数日前から降り続く重い雪によって、死装束の白無垢を纏ったかのような、不吉な静寂に包まれていた。
東山三十六峰から吹き降ろす風、所謂「比叡颪」は、古都の木造家屋の隙間を容赦なく通り抜け、人々の骨の髄まで凍てつかせる冷徹さを持っていた。だが、京都守護職・會津中将、松平容保にとっては、その冷気さえも、むしろ心地よい清涼剤のように感じられた。降り積もる雪は、この古都の路地裏に澱む陰謀の悪臭や、蛤御門の変以来こびりついて離れない血の穢れを、一時とはいえ、その純白で覆い隠してくれるからだ。
黒谷、金戒光明寺。城塞化された會津藩本陣の一室。
容保は、執務室の窓硝子、江戸の隅田ガラス工廠で製造された、歪みのない透明な板ガラス越しに、墨絵のような雪景色を眺めながら、ここ数ヶ月で初めてとなる、深い安堵の息を漏らしていた。
室内は暖かい。黒光りする鋳鐵製の暖炉が設置されているからだ。強化ガラス越しの赤い炎の揺らめきを見つめながら、容保は机上の電信用紙に視線を落とした。そこには、禁裏御守衛総督・一橋慶喜(この時点では既に将軍宣下を受けているが、容保の心理的距離感はいまだ「一橋公」であった)からの、極秘の報告が印字されていた。
『主上(帝)ノ痘瘡、順調ニ快方ニ向カウ。熱発ハ治まり、食欲モ回復セリ。拝』
天然痘。古来よりあばた神として恐れられ、数多の皇族や貴人の命を奪ってきた死の病が、孝明天皇を襲ったのは、つい十日前のことであった。報せを受けた時、容保は目の前が真っ暗になるほどの絶望を感じた。帝は過激な攘夷論者が跋扈する京において、幕府と會津にとって唯一無二の理解者であり、精神的支柱である。公武合体を望み、長州ら過激派を暴徒として嫌悪する帝が健在である限り、いかに薩摩や長州が裏で手を組もうとも、彼らは「朝敵」の汚名を着ることを恐れ、決定的な行動には出られない。
帝の命こそが、徳川の、いや、日本の秩序を繋ぎ止める最後の「楔」であった。
「南山・薬務局が献上した解熱剤と、高栄養の濃縮肉汁が効いたようだな。やはり科学というものは嘘をつかぬ」
容保は、机の上に置かれた小さな小瓶を手に取った。南山特有の植物から精製された解熱鎮痛剤。遮光性の茶色いガラス瓶には、金文字で『南山・北嶺十字屋薬舗謹製』というラベルと、成分分析表の数字が誇らしげに貼られている。同じものを帝に献上した際、伝統を重んじる典薬寮の漢方医たちは、この得体の知れぬ南洋渡りの薬の使用に強硬に反対したという。だが、話を聞きつけた慶喜は「帝を殺す気か」と彼らを一喝し、強引に投与を断行してくれた。
結果は、劇的であった。高熱にうなされていた帝は、服用からわずか半日で意識を取り戻し、その後は驚異的な回復を見せたという。膿疱は乾き始め、峠は越えたと、主治医である高階経由も太鼓判を押した。
「これで、日本は救われた」
容保は瓶を愛おしげに撫でた。この小瓶の中には、南山の入安島で汗を流す開拓民たちの労働と、明望の薬師寮で顕微鏡を覗き込む技術者たちの知恵が詰まっている。啓蒙君主と自称しても、會津という古い武家の棟梁である容保にとって、慶喜が推し進める急進的過ぎる近代化や、「株式会社」などという商人の論理には、生理的な嫌悪感がないわけではない。だが、この「南山の力」が、敬愛する帝の命を救ったという事実は、何よりも重かった。
(一橋公のやり方は冷徹に過ぎるが、その力が帝をお守りするための盾となるのであれば、我ら會津もまた、その歯車となるに吝かではない)
容保は少し冷めた茶をすすった。帝さえご健在であれば、来たるべき慶応三年の政局も乗り切れる。 長州との手打ち、兵庫開港問題、そして慶喜が構想する「連邦政府」への移行。難題は山積みだが、帝の叡慮という錦の御旗さえあれば、薩摩の大久保や西郷といえども、表立って弓を引くことはできないはずだ。
雪はまだ降り続いている。この雪が止む頃には、帝の全快の祝賀能が催されることだろう。その時こそ、心からの笑顔で参内しよう。容保はそう信じて疑わなかった。
◆
その安堵は深夜の急使によって、繊細な硝子細工のように粉砕されることとなった。
時刻は、丑三つ時を回っていた。本陣の静寂を破ったのは、雪を踏みしめる切迫した足音と、衛兵の鋭い制止の声であった。
「何事だ」
仮眠をとっていた容保は、長年の京暮らしで培われた勘、殺気にも似た不吉な予感によって即座に覚醒し、枕元の刀を掴んだ。障子の向こうで、側近が震える声で告げた。
「との! 二条城より、緊急の使いが!」
襖が開かれる。そこに平伏していたのは、慶喜の側近中の側近、平岡円四郎の配下の者であった。 雪と泥にまみれ、肩で息をするその男の顔色は、蝋のように蒼白であった。彼は、容保の顔を見るなり、堰を切ったように、しかし押し殺した声で言った。
「會津中将・松平容保様。直ちに、直ちに参内されたし!」
「参内? この深夜にか! 帝の御容態に、御急変でもあったのか」
容保の問いに、使者は顔を歪め畳に額を擦り付けた。その口から漏れた言葉は、容保の鼓膜を打ち、脳髄を凍りつかせるに十分な破壊力を持っていた。
「主上におかせられましては、先刻ご容態が急変し、九穴より出血し崩御、あそばされました」
ドサリ
容保の手から、刀が滑り落ちた。
鞘が畳を打つ鈍い音が、時が止まったかのような部屋に響き渡る。
「な、何を申す」
容保は、自分の声が、遠い別の場所から聞こえてくるような錯覚に陥った。
「快方に向かわれたはずだ。南山の薬が、効いたはずだ!」
「は…。夕刻までは、粥を召し上がるほどにお元気であらせられました。それが夜に入り、突如として激しい苦悶と共に」
使者はそこまで言って言葉を詰まらせた。彼の目には単なる悲しみ以上のもの、得体の知れぬ恐怖と疑惑の色が宿っていた。
「…毒か」
容保の口から無意識にその言葉が漏れた。九穴からの出血。急変。それは、天然痘の症状ではない。猛毒による中毒死の兆候だ。
誰が?
決まっている。帝の存在を最も邪魔に思い、帝の死によって最も利益を得る者たちだ。岩倉具視。大久保利通。西郷隆盛。あるいは…。
容保の脳裏に、冷徹な仮面を被った男の顔、徳川慶喜の顔が一瞬よぎり、彼は慌ててその不敬な想像を振り払った。違う。慶喜公にとって、帝は最強の政治的カードだ。自らそのカードを捨てるはずがない。 だとすれば、やはり薩長か。
「馬鹿な。まさか、そこまですると言うのか」
容保は立ち上がった。全身の震えが止まらない。これは、単なる崩御ではない。これは「宣戦布告」だ。何者かが、徳川という巨木を支える根を、断ち切ったのだ。
「出立する! 供をせよ!」
容保は叫んだ。窓の外では雪が風に煽られ、狂ったように舞い踊っていた。白無垢のような静寂は消え失せ、そこにあるのは、血に飢えた修羅たちが跋扈する、底なしの闇だけであった。
慶応二年の終わり。日本の歴史という奔流はこの夜を境に、引き返せぬ瀑布へと落下を始めたのである。
◆
御所・小御所
歴代天皇が武家の奏上を受け、重要な政務を執り行ってきたこの檜皮葺の建物は、今、物理的な重圧すら感じさせるほどの沈黙と、鼻孔を塞ぐような濃厚な抹香の匂いに支配されていた。
容保は冷え切った廊下を、足袋の裏から伝わる冷気を無視して早足に進んだ。すれ違う女官や公家たちの視線が、彼に突き刺さる。それは主君を失った悲しみの目ではない。何か見てはいけないものを見てしまった共犯者の怯えか、あるいは、これから始まる血で血を洗う政争の予感に震える、小動物のそれであった。
容保は帝の御寝所である「夜御殿」の前に辿り着いた。 だが、彼の歩みは、そこで無情にも阻まれた。幾重にも垂らされた御簾の前に、一人の男が立ちはだかっていたからである。
公家・岩倉具視。過激な攘夷発言と公武合体派への妨害工作により、幕府から蟄居謹慎を命じられ、本来ならば、洛北の岩倉村に幽閉されているはずの男である。その男が、なぜ、今ここにいるのか。しかも、喪服代わりの鈍色の直衣を纏い、我が世の春を謳歌するかのように堂々と。 その事実だけで、事態の裏側にあるどす黒い脚本が、容保の脳裏に透けて見えた。
「會津中将様。夜分のご参内、痛み入りまする」
岩倉は、爬虫類を思わせる細い目を細め、慇懃無礼に頭を下げた。その声は、湿った蛇が枯れ葉の上を這うような、独特の粘着質を帯びていた。
「しかしながら、時すでに遅し。主上におかせられましては、すでに隠れあそばされました。穢れを避けるため、これより先は、関白殿下と我ら近臣以外、何人たりともお目通りは叶いませぬ」
岩倉の口元には、主君を失った悲嘆の色など微塵もなかった。むしろ、難解な細工物を完成させた職人のような、あるいは長年邪魔だった大木を切り倒した庭師のような、不気味な達成感と、歪んだ全能感が漂っていた。
容保の全身の毛穴が泡立った。悲しみよりも先に、激しい怒りと疑念が、マグマのように噴き上がった。
「岩倉殿。蟄居中の貴殿がなぜここに? 誰の許しを得て、禁裏に入った!」
容保の声が震えた。殺気を抑えきれなかった。だが、岩倉は動じることなく、懐から扇子を取り出し、口元を隠して笑った――ように見えた。
「オホホ……非常時でございますゆえ。朝廷の危機に、身の不遇を嘆いている場合ではございませぬ。して、中将様。何かご不満でも?」
「不満だと? 貴様、白々しい! 主上の容態は安定しておられたはずだ! 夕刻までは、粥を召し上がるほどに回復されていたと聞いている!」
容保は、岩倉に詰め寄った。彼の脳裏には、先ほどまで安堵と共に握りしめていた、あの茶色の小瓶の感触が残っていた。
「薬はどうした! 南山から献上した、特效薬の『キニーネ』と解熱剤だ! あれを正しく投与していれば、急変などありえぬ! 典医たちは何をしていた! まさか、薬を飲ませなかったのではあるまいな!」
容保の咆哮が、静まり返った御殿に響き渡る。だが、岩倉は、まるで駄々をこねる子供をあやすかのように、ゆっくりと首を横に振った。
「薬? ああ、あの南蛮渡来の、毒々しい色の液体のことでございますか」
岩倉の目が、冷酷な光を帯びた。
「中将様。ここは神州・日本、それも清浄なる禁裏でございます。南山などという、穢れた流刑地から持ち込まれた、得体の知れぬ『毒』かもしれぬものを、玉体に入れるわけにはまいりませぬ」
「…なに?」
「ゆえに、我らが処分いたしました。下水へとな」
時間が止まった。容保は、自分の耳を疑った。処分した? 下水へ? あの薬には、南山の入安島でマラリアと戦う開拓民たちの執念と、明望で顕微鏡と格闘した学者たちの叡智が詰まっていた。それは、帝の命を救う唯一の希望だったのだ。 それを、この男は、「穢れ」という一言で、ドブに捨てたというのか。
「き、貴様…正気か!」
「正気でございますとも。その代わり、主上には、古来より皇室に伝わる由緒正しき秘薬と、祈祷を捧げました。しかし、天命には逆らえませなんだ」
岩倉は、扇子の隙間から、凍てつくような視線を容保に突き刺した。
「中将様。主上は、天寿を全うされたのです。これ以上、腐りきった幕府に心を痛められることなく、新しい時代の幕開けのために、自ら神去られたのです。そう、解釈すべきではございませんか?」
その瞬間、容保の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。その音は、彼が幼い頃から叩き込まれてきた忠義や尊王といった道徳律が、粉々に砕け散る音であった。
証拠はない。帝の死因が、天然痘の急変なのか、岩倉らが盛った秘薬と称する毒物なのか、あるいは南山の薬を廃棄したことによる未必の故意なのか。検視など行われるはずもない。全ては、闇の中だ。
だが、岩倉の目が雄弁に語っていた。邪魔者は消したと。
孝明天皇は、公武合体論者であり、過激な倒幕を嫌っていた。彼が生きている限り、薩摩や長州は大義名分を得られない。 だから、彼らは殺したのだ。自分たちの革命にとって、最大の障害物となった現人神を、物理的に排除したのだ。
戦慄が走った。
彼らは、帝さえも殺すのか。 口を開けば尊王だの勤皇だのと叫ぶ彼らが、自らの政治的野心のためならば、崇拝すべき対象であるはずの帝さえも、盤上の駒として使い捨て、毒を盛るのか。
(……これが、この国の現実か)
容保は、拳を握りしめ、爪が掌に食い込んで血が滲むのを感じた。痛みだけが、彼がまだ正気を保っていることの証明だった。彼が信じていた皇室の尊厳。彼が命を賭して守ろうとしていた徳川の正義。それらは、岩倉具視や大久保利通といった、目的のためには手段を選ばぬ怪物たちが跋扈するこの政治の泥沼において、あまりにも無垢で、あまりにも脆弱な硝子細工に過ぎなかった。
南山の科学? 合理主義? そんなものが何になる。どんなに優れた薬も、どんなに正しい論理も、殺意という名の狂気の前では、あまりにも無力ではないか。
容保の肩から、力が抜けた。それは諦めではなかった。かつて彼の中にあった、甘えた理想主義との決別であった。
「左様か。天寿、か」
容保は激昂しなかった。岩倉に斬りかかることもしなかった。今ここで岩倉を斬れば、會津は御所にて刃傷沙汰を起こした逆賊となり、それこそ彼らの思う壺だ。
彼はゆっくりと顔を上げた。
その瞳から、かつて家茂や帝に愛された、少年のような純粋な光は消え失せていた。代わりにそこに宿っていたのは、深淵を覗き込んだ者だけが持つ、光の一切届かない、凍てつくような無であった。それは、後に戊辰の戦場で敵軍を震え上がらせることになる、會津の鬼の誕生の瞬間でもあった。
「よく、分かった。岩倉殿、貴殿の忠義、しかと見届けた」
容保は氷のような声でそう言い捨てると、踵を返した。背後で、岩倉が「オホホ……」と低く笑う声が聞こえた気がした。
御殿の外へ出ると、雪はさらに激しさを増していた。白い闇が、御所を、京の都を、そして日本の未来を塗り潰していく。容保は懐に入れたままだった南山の薬瓶を、雪の中に放り投げた。音もなく埋もれていく茶色のガラス瓶。それはこの国が捨て去った「良心」の墓標のように見えた。
◆
黒谷・會津本陣への帰路。雪は夜明けが近づくにつれて激しさを増していた。視界を遮るほどの白い吹雪は、京の都を覆い尽くし、生きとし生けるものの体温を奪い去ろうとしていた。
その中を、数騎の騎馬武者が無言で進んでいく。先頭を行く馬上の人、松平容保は、手綱も握らず、ただ虚空を見つめていた。彼の軍服の肩には雪が積もり、睫毛には氷柱が下がっているが、彼はそれを払おうともしない。その姿は、魂の抜け殻のようでもあり、あるいは極寒の中で研ぎ澄まされた氷の刃のようでもあった。
随伴する側近の家老・田中土佐が主君のあまりの沈黙に耐えかね、恐る恐る馬を寄せた。
「殿。如何なされました」
田中の声は震えていた。寒さのせいではない。主君が纏う空気が、あまりにも変質してしまったことへの恐怖からだ。
「悔しゅうございます。主上のご無念いかばかりか。殿、仇を、討たれますか?」
仇討ち。それは武士にとって最も分かりやすく、そして美しい解決策だ。岩倉具視を斬り、薩摩屋敷を焼き討ちにし主君の恨みを晴らして腹を切る。昨日の容保ならば、迷わずその道を選んだかもしれない。それが「會津の義」だからだ。
だが、容保はゆっくりと首を横に振った。
「仇? 誰を斬るのだ、土佐。岩倉か? 大久保か? それとも、毒を盛った実行犯の医師か?」
容保の声は、雪に吸い込まれるように低く、そして乾いていた。
「奴らを斬ったところで、帝は帰らぬ。それに奴らを殺せば、次は奴らの配下が仇討ちを叫んで我らを殺しに来る。血が血を洗い、京は焦土となり、その隙に列強が土足で踏み込んでくるだけだ」
「し、しかし! では、このまま泣き寝入りせよと仰せですか! 正義は、どこにあるのですか!」
「正義か」
容保は、自嘲気味に呟いた。彼は、腰に帯びた名刀・和泉守兼定の柄には触れず、代わりに手に持っていた一本の杖を強く握りしめた。それは妻の照姫が、南山の商人を通じて取り寄せ、容保の健康を案じて贈ってくれた洋杖であった。材質は入安島のジャングル奥地に自生するという、水に沈むほど重く硬い「鐵木」。その漆黒の棒身の中には、護身用の鉛の芯が仕込まれているという。重く、硬く、そして冷たい。それは人を殺めるための「武器」でありながら、紳士の装いとしての理知を装った、近代文明そのもののような道具であった。
「余の忠誠心は、今夜、死んだ」
容保は、吐く息と共に、自分の中にあった「徳川の忠臣」「帝の赤子」としての熱い部分を、雪の中に吐き捨てた。守るべき聖域は汚され、信じるべき現人神は殺された。仁義も、道徳も、誠も、岩倉のような怪物の前では無力だった。
ならば、残されたものは何か。
「この国は、もはや仁義や道徳では治まらぬ。あるのは、物理的な力と、冷徹な契約、そして違反者を罰する法のみだ」
容保の脳裏に、かつて嫌悪すら感じていた男たちの顔が走馬灯のように過ぎる。
「感情で国は守れぬ」と言い放った一橋慶喜。
「数字こそが正義だ」と説いた小栗上野介。
そして義父の蔵書にあった、トマス・ホッブズの言葉『万人の万人に対する闘争』。
彼らは正しかったのだ。この世は綺麗な道徳で動いているのではない。欲望と暴力が渦巻く混沌なのだ。その混沌を制御できるのは、高潔な人格者ではない。より強大な力と、感情を持たぬ法を操る、冷酷な管理者だけなのだ。
「余は、鬼になろう。いや、鬼ですら生ぬるい」
容保は杖の石突きで、雪に覆われた石畳をカツンと叩いた。その音は彼自身の宣戦布告の合図だった。
「これより、余は法の番人となる。帝を殺し、京を焼き、民の安寧を乱す者は、それが公家だろうが、志士だろうが、あるいは公儀だろうが、容赦なく、この理の杖で粉砕する」
本陣の門が見えてきた。篝火に照らされた黒谷の山門は、まるで地獄の入り口のように口を開けている。だが、今の容保に躊躇はない。
門をくぐる時、松平容保の顔つきは変わっていた。そこには、かつての運命に翻弄され、胃痛に顔をしかめる若き貴公子の面影はない。あるのは韮澤の溶鉱炉で不純物を焼き尽くし、冷水で焼き入れを行った鋼鉄のように、硬質で、冷徹で、そして決して折れることのない統治者の顔であった。
「土佐、聞け」
容保は馬を降りると、出迎えた家臣団に向かって、静かだが腹の底に響く声で命じた。
「直ちに新選組を呼べ。近藤と土方に伝えよ。今夜より、不逞浪士の捕縛は無用。抵抗する者は、その場で斬り捨てよとな」
「は…はっ!?」
「それと、渋川商会に電信を打て。『至急、最新式のガトリング砲を十門、買い付ける』とな。代金は、米の先物で払うと伝えろ」
家臣たちが息を呑む中、容保はステッキを突き本陣の奥へと消えていった。その背中は、もはや「悲劇のヒーロー」のそれではなかった。来るべき内戦の時代を、感情を捨てて勝ち抜こうとする、一人のリアリストの背中であった。
慶応二年十二月二十五日 孝明天皇崩御
それは幕末という時代の精神的な支柱が折れた日であり、同時に松平容保という一人の武士が、絶望の果てに近代的な政治家へと脱皮した、冷たく静かな夜明けでもあった。雪は全ての罪と涙を覆い隠し、ただ白く、白く降り積もっていく。その雪の下で新しい時代の種子が、血を吸って芽吹こうとしていた。
◆
少し時を戻し前夜 午後10時 二条城、黒書院
外では雪が激しさを増し、古都の闇を白く塗り潰していたが、近代化改修が施されたこの部屋の中だけは、別世界の文明が息づいていた。壁には江戸から取り寄せたガス燈が設置され、青白い炎が、ゆらぎのない一定の光度で室内を照らし出している。その人工的な光の下で、徳川慶喜は一人、読書に耽っていた。
彼の手にあるのは、論語でも孫子でもない。分厚い革表紙に金文字で『ON LIBERTY(自由論)』と刻まれた洋書、英国の哲学者ジョン・スチュアート・ミルの著書であり、十代のころ読んだそれの、復刻した原書であった。慶喜は、ボルドー産の赤ワインが入ったカットグラスを傾けながら、その難解な英文を目で追っていた。『個人の自由への干渉が許される唯一の根拠は、自衛のためである』 その一節を反芻し、彼は薄く笑った。この国の政治には、まだ早すぎる概念だ。だが統治者たる自分が、この論理を知っていることは、無知な群衆を操る上で絶大な武器となる。
その静謐な時間は、廊下を走る荒々しい足音によって破られた。
「上様! 一大事にございます!」
襖が乱暴に開け放たれ、側近の老中・板倉勝静が転がり込んできた。 普段は冷静なこの男が、髪を振り乱し、顔面を土気色に変えて震えている。慶喜は、本から目を離さず、ページを一枚めくった。
「騒々しいぞ、板倉。……長州が攻めてきたか? それとも、横浜の相場が暴落したか」
「そ、そのような事ではございませぬ……! 御所より、急使が……!」
板倉は、息も絶え絶えに、しかし絶望的な事実を口にした。
「……主上におかせられましては……先刻、崩御あそばされました」
慶喜の手が止まった。
一瞬の沈黙。
ガス燈の燃焼音だけが、シュルシュルと微かに響く。周囲の予想に反して、慶喜は驚愕に目を見開くこともなければ、悲嘆に暮れて声を荒らげることもなかった。彼は、読みかけのページに革の栞を挟み、本を丁寧に閉じると、持っていたワイングラスを音もなくテーブルに置いた。その所作は、まるで数時間前からその報告が来ることを予期していたかのように、あまりにも落ち着き払っていた。
「そうか。切れたか」
短く、低く漏れたその言葉。それが、帝の命運を指すのか、それとも徳川と朝廷を繋いでいた最後の「命綱」を指すのか。平伏して震える側近たちを他所に、慶喜の脳内では、すでに高速で損益計算が開始されていた。
孝明天皇という存在は、慶喜にとって、貸借対照表上の最大の「無形固定資産」であった。口では「攘夷」を叫びながらも、心情的には徳川家という老舗に依存し、長州ら過激な新興勢力を「暴徒」として毛嫌いする帝。この帝を「玉」として抱え込んでいる限り、幕府は「官軍」としての正統性を保ち、薩長を「朝敵」という檻の中に封じ込めることができた。その最強の資産が、今、償却不能な損失となって消滅したのだ。
帝という重石がなくなれば、朝廷という神輿は軽くなり、誰でも担げるようになる。岩倉具視あたりが、幼い新帝を擁して好き勝手に動き出す未来は、火を見るよりも明らかだった。
「死因は?」
慶喜は、感情のこもらぬ声で問うた。その声色は、工場の事故報告を求める現場監督のように冷徹だった。
「は…。表向きは『天然痘の急変』とされておりますが、急使の報告によれば、九穴からの出血、および激しい苦悶の表情があったと。典薬寮の医師たちも、首を傾げており……」
「ふん。砒素だな」
慶喜は即断した。薬学書を含め乱読癖の彼にとって、その症状が意味するところは明白だった。天然痘の膿疱が体内で破裂したとしても、そのような出血の仕方はしない。それは、典型的な重金属中毒の症状だ。
「岩倉か。あるいは、薩摩の大久保か。焦りおって」
慶喜の口元に、冷ややかな笑みが浮かんだ。彼らには見えていたのだ。「慶応の改革」によって幕府が南山の資本と技術を取り込み、急速に強大化していく未来が。正面から戦っても勝ち目はない。そう悟った倒幕派が、一発逆転を狙って放った「禁じ手」であることは明白だ。彼らは、ルールブックを書き換えるために、審判を殺したのだ。
「上様! これは由々しき事態です!」
板倉が、畳を叩いて叫んだ。
「これは明らかに弑逆! 謀反でございます! 直ちに會津・桑名の兵を動かし、御所の門を閉ざし、下手人を捜索せねば!」
「座れ、板倉。慌てるな」
慶喜は、あくびを噛み殺すように、椅子に深く座り直した。
「今さら兵を出して何になる。死んだ者は生き返らん。下手人を探したところで、実行犯の下手人が見つかるだけで、黒幕には届かんよ」
「し、しかし! このままでは、帝の御無念が……!」
「感情でモノを言うな。数字を見ろ」
慶喜は、テーブルの上のワイングラスを指先で回した。赤黒い液体が、血のように渦を巻く。
「嘆いている暇があるなら、この損失をどうやって利益に転換するかを考えよ」
「り、利益、でございますか? 帝の崩御を?」
板倉は絶句した。主君の思考回路は、もはや人間の倫理を超越している。
「そうだ。彼らは『禁じ手』を使った。帝殺しという、万死に値する大罪を犯したのだ。だが、証拠はない。ならば、どうする?」
慶喜は、部屋の隅、闇の中に控えていた男に視線を送った。会計総裁・小栗上野介。この部屋で唯一、慶喜と同じプロトコルを持つ男は、主君の意図を即座に理解し、ニヤリと不敵な笑みを浮かべていた。
「事実を作るのでございますね、総裁閣下」
「その通りだ」
慶喜は、楽しげに目を細めた。
「岩倉らは、毒殺の証拠を隠滅したつもりだろう。だが、それが致命的な隙となる。疑わしきは罰せず? 否。政治の世界では、疑わしきは黒だ」
慶喜は立ち上がり、黒板の前に歩み寄った。彼は白いチョークを手に取り、そこに大きく文字を書き殴った。
『帝ハ、薩摩ニ殺サレタ』
「小栗。使える媒体は全て使え。江戸、大坂、京の瓦版屋。講釈師、落書、街角の噂話。あらゆる手段を用いて、この情報をばら撒け」
慶喜の声に熱がこもる。それは、軍事演習の号令よりも遥かに危険な響きを持っていた。
「『薩摩が、偽の勅語を作るために帝を毒殺した』。『南山の薬を捨てて、帝を見殺しにした』。嘘でも構わん。…いや、あながち嘘でもないな」
小栗が、手帳にメモを取りながら補足する。
「承知いたしました。二条城の印刷機を使えば、一晩で三〇〇〇枚のビラを刷れます。帝の無念のご薨去と、薩摩の陰謀説を。見出しは『帝弑逆サル! 薩摩ノ暴挙カ?』これなら、町雀も食いつきます」
「うむ。民衆の怒りを煽れ。會津の兵にも、その噂を吹き込め」
慶喜は、ワインを一気に飲み干した。
「これは、戦争だ。だが、大砲や鉄砲を撃ち合うだけが戦争ではない。情報という名の弾丸で、奴らの政治的生命を抹殺する。徳川の恐ろしさを、田舎侍と貧乏公家どもに教えてやろうではないか」
慶喜の瞳の奥で、冷徹な理知の光が妖しく輝いた。彼は、帝の死さえも「燃料」として、自らのシステムを加速させようとしている。
翌朝より、京大坂の市井には、おびただしい数の怪文書が出回ることになる。そこには、まことしやかに帝の毒殺説が記され、薩摩・長州・岩倉への激しい憎悪が煽られていた。日本の歴史上類を見ない、大規模な「情報操作戦争」の幕開けであった。
◆
翌日。京の都は、夜半に降った雪が泥濘に変わるのと歩調を合わせるように、ドス黒く濁った「噂」によって、異様な興奮と恐怖に包まれていた。
発端は、河原町、祇園、先斗町といった繁華街の辻々に、夜明けと共に貼り出された怪文書であった。それは、従来の瓦版のような、墨一色で刷られた粗末な木版画ではない。北米合衆国から輸入された最新の石版印刷技術を用い、上質な洋紙に、鮮烈な赤と黒のインクで刷られた、見たこともないほど鮮明なビラであった。
その紙面には、明朝体の活字で、衝撃的な見出しが踊っていた。
『帝、毒殺サル! 下手人ハ薩摩ノ芋侍ナリ!』 『南山ノ名医、御遺体ヨリ猛毒「亜砒酸(ヒ素)」ヲ検出ス!』
本来であれば、帝の崩御を勝手に報じるなど不敬極まりない大罪であり、町奉行所や京都守護職によって即座に剥がされ、刷った人間は獄門に処されるはずの代物である。だが、奇妙なことが起きていた。市中を見回る新選組や京都見廻組の隊士たちは、そのビラの前で立ち止まる市民を追い払うどころか、ニヤリと笑って黙認し、時には「よく読んでおけ」となぞと言い捨てて通り過ぎていくのである。
この「お上の黙認」こそが、噂に最強の信憑性を与えた。「お上が止めないということは、これは真実なのだ」と、人々は解釈したのである。
さらに、小栗の指示で動員された瓦版屋たちが、威勢の良い掛け声と共に「号外」を配り歩いた。そこには、もっともらしい「証拠」が、講談のような面白おかしい文体で掲載されていた。
「事件当夜、帝の薬湯に白い粉を混ぜる女官を目撃したという、匿名の古参女官の証言」
「御所の裏門である朔平門から、闇に紛れて走り去る、薩摩訛りの大男の目撃談」
そして極め付けは、紙面の半分を割いて掲載された、仏蘭西ソルボンヌ大学薬理学研究所による『毒物成分分析書』の写しである。
そこには、フラスコやビーカーの挿絵と共に、『As₂O₃(亜砒酸)』といった複雑な化学式や、毒性の強さを示すグラフが記されていた。京の町人の誰一人として、その記号の意味など理解できない。だが、理解できないからこそ、その整然と並んだ「西洋の科学文字」は、呪術的な説得力を持って彼らの脳髄を直撃した。
「仏蘭西の進んだ科学が言っているのだから、間違いあるまい」
紙の白さと、インクの鮮やかさが、そのまま「真実の輝き」として誤認されたのである。
これらの情報の九割九分は小栗上野介の配下が一夜にして捏造し、あるいは事実を巧妙に歪曲した偽情報であった。だが、人々はそれを信じた。熱狂的に、そして飢えた犬が肉に食らいつくように信じた。
なぜなら、帝が天然痘から回復しつつあったことは、周知の事実だったからだ。會津公が献上した 南山の薬で快方に向かっていたはずの帝が、なぜ急死したのか。
その「不自然な空白」を埋めるための物語を、人々は渇望していた。そして何より、ここ数年の薩摩藩の横暴さ、「官軍」を気取り、京の街を我が物顔で歩き、物価を釣り上げてきた彼らの態度、に対し、市民の反感が鬱積していたことが、噂の引火点となった。
茶屋で、銭湯で、井戸端で、ひそひそ話が瞬く間に怒号へと変わっていく。
「聞いたか? 薩摩の西郷どんが、帝を殺したんやて」 「おそろしや。口では勤皇、勤皇と言うておきながら、自分の邪魔になれば帝でも殺すんか」 「南山の薬で治りかけてたのに、毒を盛るとは、まさに鬼畜生や。仏蘭西の先生が『ヒ素』が出た言うてはるんやから、間違いあらへん」 「そや! 許せへん! 薩摩の芋侍を追い出せ!」
市井の声は、一夜にして「薩摩憎し」という巨大な奔流へと傾いた。それは慶喜が計算した通りの「民意の暴走」であった。
京都・二本松にある薩摩藩邸。その堅牢な門前は異様な殺気に包まれていた。武装した兵士ではない。鍬や棒を持った農民、石を握りしめた子供、そして罵声を浴びせる商人たちが、遠巻きに藩邸を取り囲んでいたのである。
「人殺し! 帝を返せ!」 「毒殺魔! 京から出て行け!」
ガツン! 子供が投げた石が、藩邸の板塀に当たって乾いた音を立てた。門番の薩摩藩士が顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。
「無礼者! ここをどこと心得る! 天下のご公儀、薩摩藩邸じゃぞ! 叩き斬るぞ!」
だが、その威嚇は逆効果だった。群衆は怯むどころか、「見ろ! 逆賊が刀を抜いたぞ!」「また殺す気か!」と叫び、さらに多くの石礫が雨あられと降り注いだ。
米屋は薩摩への納入を拒否し、飛脚は薩摩宛の手紙を受け取らない。物理的な包囲ではない。「社会的な兵糧攻め」が、薩摩藩邸をじわじわと締め上げ始めていた。
大砲一発撃つことなく、慶喜は薩摩を孤立無援の逆賊へと突き落としたのである。それは前近代的な武士たちが初めて直面する、情報という見えない刃による一方的な虐殺であった。
◆
洛北、岩倉村。比叡山の麓に位置するこの寒村は、都の喧騒から隔絶された流刑の地のごとき静寂に包まれていたが、蟄居中の岩倉具視の隠れ家だけは、まるで火薬庫の中にいるような、張り詰めた緊張と重苦しい空気が充満していた。
岩倉は、配下の者が京の街角から剥がしてきた一枚の怪文書―南山の鮮やかな赤インクで『帝、毒殺サル!』と刷られたビラ―を、骨が白く浮き出るほど強く握りしめ、青ざめた顔で震えていた。その震えは、寒さから来るものではない。得体の知れぬ「近代の怪物」に、喉元を噛み切られようとしている恐怖から来るものであった。
「おのれ、慶喜! ぬけぬけと、よくもここまで…!」
岩倉は、歯噛みしながら呻いた。彼には分かっていた。帝の死因が本当に毒殺であったかどうか、そして仮にそうであったとして、誰が手を下したのか。それは、この策謀の当事者である彼自身にとってさえ、もはや藪の中の出来事である。
だが、慶喜という男にとって、真実などというものは、政治的価値を持たないゴミ同然なのだ。彼がやっているのは、事実の究明ではない。「帝は薩摩に殺された」という、大衆が最も興奮し、最も消費しやすい物語を捏造し、それを印刷技術という「拡声器」を使って一点突破で拡散することだ。それによって、岩倉や薩摩が積み上げてきた「勤皇の志士」というブランドを粉砕し、彼らを「朝敵」という名の掃き溜めへと引きずり下ろそうとしている。
これは、刀や鉄砲を使った戦争ではない。
信用という名の無形資本を奪い合い、相手の政治的生命を抹殺する、極めて近代的で、かつ陰湿な「宣伝工作戦」であった。公家社会の陰湿な足の引っ張り合いには慣れている岩倉でさえ、これほど大規模で、組織的で、かつ「科学的で公平な装い」をした中傷攻撃は、見たことも聞いたこともなかった。
同席していた薩摩藩の実力者、大久保利通が、苦渋に満ちた表情で口を開いた。いつもは鉄仮面のように感情を表に出さないこの男も、今日ばかりは焦燥の色を隠せないでいた。
「岩倉様。これは、誠にマズイごわす」
大久保は、懐から数通の手紙を取り出し、卓上に叩きつけた。
「京の公卿たちも、この噂に完全に動揺しておりもす。昨日まで我らに好意的であった三条家の家臣さえも、『毒殺の下手人とは会えぬ』と、我々との面会を拒絶し始めました。それどころか、薩摩藩邸に出入りする御用商人までもが、『人殺しの片棒は担げぬ』と言って、納入を断り始めております」
「兵糧攻めか」
「はい。このままでは、我々は戦う前に逆賊として孤立し、飢え、そして幕府に討伐の大義名分を与えてしまうことになりもす」
大義名分。それこそが彼らが最も欲し、そして今、慶喜によって最も鮮やかに奪い取られたものであった。「帝を弑した逆賊・薩摩を討つ」。これほど分かりやすく、正義に満ちたスローガンはない。會津や桑名の兵はもちろん、今まで中立を保っていた諸藩までもが、雪崩を打って幕府軍に加勢するだろう。
「分かっておる! 分かっておるわ!」
岩倉はヒステリックに叫び、卓上の茶器を払い落とした。
ガシャン、と砕ける音が、彼らのプライドが砕ける音のように響いた。
「だが、どうする!? 今から『違います、病死でした』と弁明したところで、誰が信じる!? 慶喜は『フランスの科学的証拠』まで捏造して突きつけてきているのだぞ! 民衆は、難しい理屈よりも、分かりやすい『悪者』を求めているのだ!」
岩倉は、自らの髪を掻きむしった。さらに悪いことに彼らが後ろ盾として頼みとしていた英国公使パークスでさえ、この騒動に動揺を見せているという。
『女王陛下の政府は、暗殺者を支援することはできない』 。今朝方届いたパークスからの書簡には、外交辞令に包まれてはいるが、明確な「距離を置く」という意思表示が記されていた。南山の資源力と慶喜の近代軍を評価した英国は、この「スキャンダル」を口実に、薩長への支援から手を引こうとしているのだ。
「ハメられた」
岩倉は、天井を仰いだ。慶喜の仕掛けた罠は、あまりにも鮮やかで、そして脱出不可能であった。彼らは、帝を排除することで盤面をひっくり返そうとした。だが慶喜は、その反則すら利用して、彼らを盤上から弾き飛ばそうとしている。
「一蔵(大久保)よ。もはや、道は一つしか残されていないようだな」
岩倉の声から、ヒステリックな響きが消えた。代わりに、追い詰められた獣だけが発する、暗く、澱んだ殺気が満ちてきた。
「…はい」
大久保もまた、覚悟を決めたように頷いた。その瞳には、かつての冷静な政治家の光はなく、血路を開くためには修羅となることも厭わぬ、狂気じみた決意が宿っていた。岩倉村の雪深い空の下で、二人の謀略家は、日本という国を地獄の業火に投げ込むための、最後の一線を越えようとしていた。
◆
数日後。孝明天皇の仮葬儀は、かつてない厳戒態勢の中で重苦しく、しかし機械的な正確さで執り行われた。
御所の周囲、および葬列が通る大路を固めるのは、伝統的な装束に身を包んだ近衛兵ではない。濃紺のフランス式軍服に身を包み最新鋭の連発銃を構えた「幕府陸軍伝習隊」。そして、京都守護職・會津藩の精鋭部隊であった。
彼らは、もはや京の人々が知る「温厚で朴訥な會津侍」ではなかった。袖には、敵味方を識別するための白い布を巻き、これまた最新鋭のスペンサー騎兵銃を背負い、抜き身の槍を握りしめている。その眼光は、参列者の中に紛れ込んでいるかもしれない下手人(薩摩藩士)を監視し、少しでも不審な動きがあれば即座に斬り捨てるという、殺気に満ちた「鬼」のそれであった。彼らは帝の御霊を守るという名目で、事実上、御所と京の都を完全な軍事制圧下に置いていた。
葬列を見送る仮設の観閲席。喪服に身を包んだ徳川慶喜の横顔は、主君を失った悲しみなどなく、計画通りに事が運んだことへの冷徹な満足感に彩られていた。彼の目には涙はない。あるのはこの壮大な儀式さえも演出として利用し、自らの権力基盤を回す燃料に変えた男の、完璧な自負だけであった。
「見事な手際ですな、総裁閣下」
背後から、低く、硬質な声がかかった。慶喜が振り返ると、そこには京都守護職・松平容保が立っていた。だが、その姿は数日前までの彼とは別人のようだった。
憔悴し、苦悩に満ちていた悲劇の貴公子の面影は消えていた。彼は南山製の黒いフロックコートを隙なく着こなし、手にはあの鐵木のステッキを握りしめている。その瞳は深海のように静かで、底知れぬ冷たさを湛えていた。
「容保か」
慶喜は、興味深そうに眉を上げた。
「噂は広まったぞ。帝は薩摩に殺されたとな。真偽のほどは定かではないが、民衆は信じた。これで薩摩は完全に孤立した」
「真偽など、どうでもよろしゅうございます」
容保は、表情一つ変えずに答えた。
「重要なのは、それが秩序を守るための有効な真実として機能しているかどうか。それだけでございます」
その言葉に、慶喜は微かに目を見開いた。この生真面目な會津中将が、これほどドライなイギリス流の合理主義を口にするとは。
「変わったな、會津。かつての忠良なる忠臣は、どこへ行った?」
「雪と共に、解けて消えました」
容保は、遠ざかる葬列の棺、おそらく毒殺されたであろう帝の亡骸を見つめながら、淡々と言った。
「私が守るのは、もはや徳川の情でも皇室の神聖でもありません。この国を崩壊させぬための鉄の枠組み(システム)だけでございます。そのためならば、毒も飲みましょうし、嘘もつきましょう」
慶喜は、口元を歪めて笑った。それは、初めて容保という男を「対等な共犯者」として認めた笑みであった。
「いいだろう。頼りにしているぞ、法の番人。これより始まる大掃除には、貴公のような冷たい刃が必要だ」
「御意」
二人の視線が交錯する。そこには信頼や友情はない。あるのは目的を共有する者同士の、乾いた契約だけであった。
◆
一方、その光景を遠く離れた東山の影から見つめる二つの影があった。岩倉具視と大久保利通である。 彼らは、市中の薩摩排斥運動から逃れるため、薄汚れた商人に変装し泥にまみれて潜伏していた。
「見たか、一蔵、あれが、慶喜の作った『新しい幕府』だ」
岩倉の声は、憎悪で嗄れていた。御所を取り囲む近代軍。鬼と化した會津兵。そして、それを冷ややかに見下ろす慶喜と容保。そこには、公家や志士が入り込む隙間など、一ミリも残されていないように見えた。
「強固でごわす。真正面からぶつかれば、薩摩とて粉砕されもんそ」
大久保は悔しげに唇を噛んだ。慶喜は、政治、経済、軍事、そして情報。全ての面において完璧な城塞を築き上げている。今のまま戦えば、彼らは「帝殺しの逆賊」として、歴史のゴミ箱に捨てられるだけだ。
「ならば、どうする」
岩倉の問いに、大久保は沈黙した後、低い声で答えた。
「盤面を、ひっくり返すしかごわはん」
「ほう?」
「慶喜の支配する幕府という土俵で相撲をとれば負ける。ならば、土俵そのものを壊し、新しい土俵を作る。徳川という枠組みを完全に否定し、古代の、そして全く新しい『王』の権威を取り戻す」
岩倉の目が、爬虫類のように妖しく光った。
「王政、復古か」
「左様。慶喜が征夷大将軍である限り、奴は最強だ。だが、もし将軍という役職そのものが不要となり、全ての権限を天子様にお返しするとしたら?そして、その天子様を、我らが完全に掌握するとしたら?」
それは、クーデターではない。革命だ。慶喜が積み上げた論理の積み木を、根底から蹴り飛ばす禁断の秘策。幼い新帝(明治天皇)を擁し、慶喜から官位も領地も剥奪しただの「徳川慶喜」という個人に戻して葬り去る。
「面白い。やるなら、徹底的にだ。毒を食らわば皿まで。慶喜が作ったその近代とやらを、我らの神話で塗り潰してやろうではないか」
岩倉は、懐から取り出した南山の毒々しいビラを、手の中でクシャリと握り潰した。雪の降る京の空の下。徳川慶喜というリヴァイアサンは、いよいよその巨大な顎を開き、西國の敵対者たちを丸呑みにせんと動き出していた。だが、その喉元には、岩倉と大久保という二本の毒針が、深く、静かに突き刺さろうとしていたのである。
(第2部 完)
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