第四話 煉瓦と硝子のバベル - 安政震災記 -
安政二年(一八五五年)秋
帝都・江戸は、かつてない繁栄と、かつてない危うさの同居する奇妙な季節を迎えていた。
嘉永の産業革命以来、隅田川の河口には工場の煙突が林立し、南山植民地からもたらされるゴム、錫、そして莫大な富が、この巨大都市の血管を駆け巡っていた。
大名小路には、従来の木造長屋に代わり、富裕な諸藩が競って建てた「煉瓦造り」や「擬洋風」の屋敷が建ち並び始めていた。特に 會津、薩摩、水戸といった雄藩の上屋敷は、ガラス窓を多用し、夜になればガス灯の青白い光が漏れる、文明開化の象徴であった。
しかし、その地盤は脆弱だった。
急速な都市化による埋め立て地の拡大、地下に張り巡らされたガス配管と上下水道、そして重量のある煉瓦建築。江戸は徳川三百年の木造建築のOSの上に、無理やり産業革命という最新アプリをインストールした、不安定なシステムそのものだった。人々は南山景気に浮かれ、相場師は米とゴムの先物取引に熱狂し誰も足元の軋みに気づいていなかった。
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十月二日 夜十時
和田倉門内の 會津藩上屋敷。その書斎で、容保は国元から届いた新しい蒸気タービンの設計図を広げていた。傍らには、義姉であり正妻である照姫がいる。彼女は 會津塗の盆に、南山産のコーヒーを載せて運んできたところだった。
「殿、根を詰めすぎてはいけません。……眉間の皺が、戻らなくなりますよ」
照姫が笑う。医学書を読みこなし、藩医と共に薬草園まで作るこの才媛は、容保にとって唯一、心の鎧を脱げる存在だった。
「……すまない、照。だが、このタービンがあれば、 會津の紡績はさらに……」
言いかけた言葉は、地鳴りにかき消された。
ドォォォォン!!
突き上げるような縦揺れ。それは、従来の地震とは異質の”音”を伴っていた。
書斎の天井から、シャンデリアが落下して砕け散る。
「きゃあっ!」
「照!」
容保は反射的に照姫を抱き寄せ、堅牢な紫檀の机の下へと滑り込んだ。
直後、轟音と共に書斎の壁が弾け飛んだ。
木造ならば「しなる」ことで衝撃を逃がせたかもしれない。だが、 會津藩が誇った最新鋭の「煉瓦積み」の壁は、想定外の横揺れに対し、脆くも崩壊したのだ。赤煉瓦の塊が雨のように降り注ぎ、自慢のガラス窓が凶器となって室内を切り裂く。
そして、何よりも恐ろしい音が響いた。
シュゥゥゥゥ――ッ!!
「……ガスの音だ!」
容保の顔色が変わる。庭園のガス灯へ続く地下配管が破断したのだ。
「照、鼻と口を覆え! 火花が出れば終わりだ!」
二人は瓦礫の隙間を縫い、手探りで庭へと脱出した。
その直後、背後の屋敷から青白い炎が噴き上がり、爆風が二人を吹き飛ばした。
屋外に出た容保の目に映ったのは、地獄絵図だった。
和田倉門周辺の大名屋敷街は、自らの重みに耐えきれずに倒壊した煉瓦建築の墓場と化していた。炎が夜空を焦がし、逃げ惑う人々の悲鳴が余震の地鳴りと重なる。
「殿! ご無事ですか!」
煤だらけになった家老・田中土佐が駆け寄ってくる。
「余は無事だ! ……だが、屋敷が」
會津藩邸もまた、半壊していた。だが、深刻なのは長屋だった。
「長屋の被害が甚大です! 崩れた煉瓦塀の下敷きになった者が多数……!」
容保は震える手を強く握りしめ、自分に言い聞かせた。今は君主だ。嘆く時ではない。
彼は懐から呼子笛を取り出し、鋭く吹き鳴らした。
「聞け! これより 會津藩は戦時体制に入る! 敵は地震だ!」
容保の声が響く。
「第一班、蒸気ジャッキとツルハシを持て! 瓦礫の下の生存者を救出する! 一分一秒が勝負だ!」
「第二班、延焼阻止! ポンプを回せ! 下水でも泥水でもいい、とにかく水をかけろ!」
「第三班、庭園を開放せよ! 備蓄倉庫の乾パンとゴムシートを全て出せ! 近隣の被災者も受け入れる!」
そして、容保は照姫に向き直った。
「照。……頼めるか」
照姫の着物は泥と煤で汚れ、額からは血が滲んでいる。だが、その瞳は恐怖に曇ってはいなかった。
「はい。……藩医を総動員します。エーテルと包帯、あるだけ持ってこさせます。…殿は、殿の戦いを」
「頼む」
二人の手が一瞬だけ、強く握り合わされた。
それが合図だった。
照姫は裾をからげ、帯を締め直すと、負傷者が運び込まれる庭園の芝生へと走った。
「おのれら、武家の女でしょう! 泣いている暇があったら、晒を裂いて包帯をお作り!
生きる者を優先します! 黒札(死亡)と赤札(重傷)を間違えるでない!」
彼女の叱咤が、パニックに陥っていた女中たちを動かした。
「南蛮姫」と陰口を叩かれていた彼女の医学知識が、この夜、数百の命を繋ぎ止めることになる。
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夜が明けても、悪夢は終わらなかった。むしろ、本当の危機はここから始まった。
震災から三日後。江戸城・西の丸。
緊急招集された幕閣会議は、瓦礫の山となった江戸と同様、混乱の極みにあった。
老中首座・阿部正弘は、憔悴しきった顔で諸侯を見渡した。
「……死者、行方不明者、合わせて一万を超える見込みだ。特に、大名小路と下町の被害が甚大である」
ここで、守旧派の筆頭である水戸藩の代表が声を荒げた。
「これは天罰である! 南蛮渡来のガスだの煉瓦だの、土の神を穢すような真似をするから、大地が怒ったのだ! 直ちにすべての洋式建築を禁じ、ガス管を撤去すべきである!」
それに同調する声が上がる。
「そうだ! 南山との交易も一時停止し、神事を行い、穢れを祓うべきだ!」
容保は、包帯を巻いた手で机を叩いた。
「戯言を申すなッ!」
その一喝に、広間が静まり返る。
「天罰などで人が死ぬか! 人が死んだのは、我々の備えが足りなかったからだ!
燃えたのは木だからだ! 崩れたのは、基礎工事を疎かにしたからだ!」
容保は懐から、一枚の紙を取り出した。
それは、日本橋の相場師から早馬で届けられた、最新の市況報告だった。
「見よ! 震災の翌日から、米と木材、そして南山ゴムの価格が三倍に跳ね上がっている!
商人どもは、復興特需を見込んで買い占めに走っているのだ!
今ここで南山との交易を止めればどうなる?
物資は途絶え、江戸は飢えと寒さで、地震以上の死者を出すぞ!」
容保の指摘は的確だった。
江戸はすでに南山からの輸入物資なしには成立しない経済構造になっていた。特に、仮設住宅や雨除けに必要なゴムシートと、食料となる缶詰の供給が止まれば、被災民による暴動は必至だった。
「では、どうせよと言うのか、 會津殿!」
「 會津が責任を持つ」
容保は断言した。
「 若松の本領に打電した。新潟港にある 會津の備蓄米と、南山行きの輸送船に積まれた資材を、すべて江戸へ回す。…幕府も、御金蔵を開き、相場への介入を行うべきだ」
それは、一藩の財政を傾けかねない決断だった。
だが、容保は知っていた。ここで江戸という市場が死ねば、 會津の未来もないことを。
容保の決断に、 會津本領は即座に応えた。
国家老・西郷頼母は、若松城にて電信を受け取るや否や、凄まじい手腕でロジスティクスを構築した。
「殿が江戸で戦っておられる! 會津の意地を見せよ!」
阿賀野川の水運と、整備されたばかりの街道を使い、米俵と木材、そして精密機械部品が新潟港へ集められた。
新潟港では、上海へ向かう予定だった大型蒸気船「白虎丸」と「朱雀丸」が、積荷の高級工芸品を降ろし、代わりに建築資材と食料を満載して、全速力で江戸へ向かった。本来なら一週間かかる航路を、ボイラーの限界まで圧力を上げ、三日で東京湾へ突入させたのである。
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震災から五日目
品川沖に現れた 會津の蒸気船団を見て、絶望に暮れていた江戸市民は歓声を上げた。
「 會津の船だ! 米と味噌が届いたぞ!」
船から降ろされたのは、単なる物資ではなかった。
南山・入安島の開拓地で使われているプレハブ式仮設住宅の部材と、大量の缶詰であった。和田倉邸の焼け跡に設営された対策本部で、容保はその報告を聞き、ようやく安堵の息をついた。
傍らには、徹夜続きで目の下に隈を作った照姫がいる。彼女は、配給された缶詰のスープを容保に差し出した。
「殿、少しは腹に入れてください。…… 會津の皆が、届けてくれましたよ」
「ああ……温かいな」
スープの湯気越しに見る照姫の顔は、煤で汚れ、やつれていたが、今まで見たどの姿よりも美しく、頼もしかった。
「照。……この国は、まだ死んではおらぬな」
「はい。殿がいらっしゃる限り」
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だが、復興の方針を巡っては、再び幕府内で激論が交わされていた。
「元通りの木造の江戸に戻す」とする保守派に対し、容保は「燃えない不燃都市への改造」を主張していたが、予算と工期の壁に阻まれていた。
そこへ、一人の男が現れた。海軍伝習所教官、勝海舟である。
彼は震災直後から、品川の艦隊を使って被災者の海上避難を行っていたが、ようやく陸に上がってきたのだ。
「よお、殿様。随分と派手にやられましたな」
勝は瓦礫の山となった和田倉邸に現れるなり、ニヤリと笑った。その手には、泥だらけの大きな図面ケースが握られている。
「勝! 無事だったか」
「俺は悪運が強いんでね。……それより殿様、アンタ、幕閣の爺さんたち相手に苦戦してるそうじゃねえか」
「ああ。あやつらは伝統を盾に、改革を拒んでいる。金がない、技術がないの一点張りだ」
勝は図面ケースを開き、一枚の巨大な地図を机に広げた。
それは、焼け野原となった江戸の地図の上に、太い赤線が引かれたものだった。
「金ならある。技術もある。……足りねえのは『覚悟』だけだ」
勝が指差したのは、大通りを拡幅し、区画ごとに「防火帯」としての公園や運河を設けた、全く新しい都市計画図だった。
「こいつは、倫敦大火の後の復興案と、南山・明望の都市計画をパクったもんだ。名付けて『不燃郭計画』」
「……これをやるには、大名屋敷も町人の土地も、大幅に削らねばならんぞ」
「だからこそ、今やるんです。焼けちまった今なら、更地だ。……殿様、アンタの 會津屋敷、この計画だと半分になりますぜ。飲めますか?」
勝の挑発的な視線。容保は即答した。
「飲もう。 會津が手本を示さねば、誰も従わぬ」
「へっ、流石は”質の悪い狼”だ。……なら、金の話だ」
勝はもう一枚の書類を出した。
「南山植民地の開発公債、これを担保に、英国とフランスから復興借款を引く。パークスとロッシュにはもう話を通してある。彼らも、投資先である江戸が廃墟のままじゃ困るからな」
「……外債か。国を売ると罵られるぞ」
「売るのは『未来の利益』だ。魂までは売らねえ。……それに、この工事には大量の鉄とセメントが要る。南山の資源と、東国の工場がフル稼働することになる。……つまり、こいつはただの復興じゃねえ。日本経済を一段上の階梯に引き上げる巨大な官製投資(公共事業)だ」
容保は地図を見つめた。
そこには、煉瓦と鉄筋コンクリートで補強され、広い道路とガス灯が整備された、近未来の帝都の姿があった。それは、彼が夢見た強靭な国の姿そのものだった。
「勝。……其の方、やはり天才だな」
「っ! もっとほめてもいいですよ! 俺は数字が解る男ですから!」
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震災から一ヶ月
江戸の町には、槌音が響き渡っていた。
勝の「不燃郭計画」に基づき、主要な通りは拡幅され、瓦礫は埋め立て地に再利用された。
焼け落ちた大名屋敷の跡地には、鉄骨と煉瓦を組み合わせ、地震の揺れを逃がす「柔構造」を取り入れた、新しい庁舎や病院が建設され始めていた。
和田倉邸の仮設テントの前で、容保と照姫は並んでその光景を見ていた。
冬の風は冷たかったが、照姫が容保の肩に掛けた、南山羊毛のショールが温かい。
「……変わりますね、江戸も」
照姫が呟く。
彼女の尽力により、野戦病院は閉鎖され、重傷者は新設された「 會津記念病院」へと移送されていた。彼女の医療チームが確立したトリアージと衛生管理の手法は、幕府医学所によって正式に採用されることになった。
「ああ。だが、失ったものも多い」
容保は、未だ包帯の取れない自分の手を見た。
「だが、守れたものもある。……照、其の方がいてくれてよかった」
容保の言葉に、照姫は頬を染め、そっと彼の手を握り返した。
「私は、殿が夢見る国を、共に見てみたいのです。……強く、優しく、そして誰もが安心して暮らせる国を」
その時、遠くから汽笛が聞こえた。
品川沖に、南山からの第二次救援船団が入港したのだ。その船には、復興資材と共に、新しい時代の息吹が満載されているはずだ。
「行こう、照。……我々の仕事は、これからだ」
容保は照姫の手を引き、復興の槌音が響く街へと歩き出した。
その背中を、瓦礫の中から立ち上がりつつある鋼鉄の帝都の朝日が照らしていた。




