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第27話 将軍の死 - 最後の良心の消滅

慶応二年(一八六六年)七月二十日 大坂城


 この日の大坂は、まるで巨大な蒸し器の中に閉じ込められたような、逃げ場のない湿熱に覆われていた。淀川の河口から吹き込む風は、本来ならば涼気を運ぶはずのその流れに、南山・北嶺島から運ばれた高カロリーの石炭を燃やす工場の煤煙と、過密化した城下町の堀に滞留する汚水の臭いをたっぷりと吸い込み、城内の空気を黄色く澱ませていた。


 それは、二百六十年にわたり日本列島を支配してきた徳川の巨塔が、外敵によってではなく、自らの巨大すぎる質量と、内側から湧き出す腐敗の熱によって、ゆっくりと溶解していく死臭のようでもあった。


        ◆


 本丸御殿の最奥、「将軍御座所」


 分厚い襖と御簾によって外界から隔絶されたこの空間だけは、異様な静謐さと、人工的な冷気に満たされていた。部屋の四隅には、南半球の現在は真冬の南山島の結氷湖から切り出され、おが屑と断熱材に包まれてはるばる海を渡ってきた巨大な「天然氷」の塊が、クリスタルの鉢の中で音もなく涙を流している。  


 だが、その氷が完全に溶けきり、鉢の水がぬるま湯となって久しい時刻。第十四代将軍・徳川家茂は、その短い、あまりにも短すぎる二十一年の生涯を閉じようとしていた。


 豪奢な絹の布団に横たわる家茂の身体は、脚気衝心(脚気による心不全)特有の浮腫によって痛ましく膨れ上がり、呼吸をするたびに肺に溜まった水が喉の奥でゴロゴロと不吉な音を立てていた。枕元には、オランダ人の御典医ボードウィンや、幕府医官・松本良順らが処方した、南山・入安島で栽培されたキナの木から精製された特効薬『キニーネ』の空き瓶が、無力なガラスの残骸として転がっていた。


 南山の最新医学と、東國の莫大な富をもってしても、激務と心労によって限界を超えて酷使された若き君主の心臓を、再び力強く鼓動させることはできなかったのである。


「上様、お薬を」


 小姓が震える手で薬湯を差し出すが、家茂はわずかに首を横に振った。その瞳は既に現世の像を結んでおらず、天井の板目を通して、遥か遠くの何かを見つめているようであった。


 彼が見ていたのは、小栗上野介が熱っぽく語ってくれた、南山の抜けるように青い空だったのか。それとも、江戸で自分の帰りを待つ妻・和宮の姿だったのか。


 家茂の手が、布団の上を彷徨った。彼が最期まで握りしめていたのは、小栗が報告した「長州征伐中止」の朗報でもなければ、西國への救援米送付を却下された非情な決裁書でもなかった。それは、正室・和宮から贈られた、京の西陣織の小さな御守りであった。


「無事のお帰りを」と、一針一針に祈りを込めて縫われた、古風で、温かい布切れ。


 皮肉なことであった。南山の羊毛ウールで作られた最新鋭の西洋式軍服を纏い、東國の圧倒的な産業力と軍事力を背負って上洛した若者が、死の淵で最期に縋ったのは、冷たい鐵でも、力強い蒸気機関でもなく、古き良き日本の、手の温もりを感じさせる小さな布切れだったのである。


「……みや、さん……」


 家茂の唇から、かすかな呼気が漏れた。それが最期の言葉となった。


 午後二時。大坂城本丸御殿に、医師の沈痛な宣告が響き渡った。


 その瞬間、徳川家茂という一人の若者の死は、単なる肉体の消滅を超えた、歴史的な意味を持つこととなった。彼は、優秀な独裁者ではなかったかもしれない。だが、彼は東國のテクノクラートたちが弾く冷徹な計算尺と、西國の飢えた民たちが抱く怨嗟の情念との間に立ち、その身を削って摩擦熱を吸収する、唯一無二の「緩衝材バッファ」であった。


 彼がいたからこそ、小栗の急進的な改革も「民のため」という建前を保てたし、西國諸藩も「家茂公には弓引けぬ」という最後の一線を守っていた。篤実で、誠実で、誰よりも平和を願っていた「徳川の良心」。その安全弁が、今、弾け飛んだのである。


          ◆


「……逝っちまったか」


 軍艦奉行・勝海舟は、白布をかけられた主君の亡骸を見下ろし、絞り出すように呟いた。


 彼の目には、涙はなかった。あるのは、手塩にかけて育てた息子を失った父親のような、あるいは巨大な堤防が決壊するのを目の当たりにした治水技師のような、絶望的な徒労感であった。


 勝は、周囲の側近たちが止めるのも聞かず、土足のまま遺体の枕元へ歩み寄ると、その冷たくなりかけた手を、武骨な掌で包み込んだ。


 むくんでしまった手。だが、勝には覚えている感触があった。かつて神戸の海軍操練所で、あるいは品川の海で、目を輝かせて「勝、海とは広いのだな」と語りかけてきた、好奇心旺盛な少年の手のぬくもりを。


「……馬鹿野郎が。なんで先に逝きやがる」


 勝の声が震えた。


 家茂は、勝にとって単なる主君ではなかった。頑迷な幕閣たちの中で唯一、勝の語る「海軍」や「世界」の話を、子供のように素直に聞き入れ、その夢に乗ってくれた理解者であった。勝のべらんめえ口調を笑って許し、時には「父のように思うておる」とまで言ってくれた若者。


「上様…あんたは、徳川に残された最後の『人肌』だったんだぜ」


 勝は、誰に聞かせるでもなく独りごちた。これで、東と西を繋ぐパイプは完全に切れた。情けをかける者はいなくなった。


 ふと、背後でひそひそとした話し声が聞こえた。幕府の官僚たちが、青ざめた顔で額を寄せ合っている。


「……上様の死は隠さねばならん」「ご遺体はどうする? 仮埋葬か?」「この暑さだ、腐敗が進む。密かに荼毘に付すべきでは……」


「ふざけんじゃねえぞ!」


 勝の怒号が、湿った空気を切り裂いた。


 彼は官僚たちを睨みつけた。その眼光は、荒れ狂う冬の日本海のように鋭く、殺気立っていた。


「仮埋葬だ? 荼毘だ? 誰の許しを得てそんな世迷い言をほざいてやがる! この御方はな、天下の将軍だぞ! 江戸で案じておられる宮様(和宮)と、江戸で案じておられる天璋院様のもとへ、きちんとお返しするのが筋ってもんだろうが!」


「し、しかし勝殿! 輸送中に長州に見つかれば…それに、遺体の保存が…」


「そのために俺がいるんだろうが!」


 勝は、亡骸にかけられた白布を優しく直し、宣言した。


「俺が連れて帰る。蒸気軍艦『長鯨丸ちょうげいまる』を出す。南山の氷をありったけ船倉に積み込め。ボイラーの圧を限界まで上げろ。俺が舵を取る。誰にも邪魔はさせねえ」


 それは、軍艦奉行としての命令を超えた、一人の男の意地であった。


 政治的な損得勘定など知ったことか。


 この若者は、たった一人で、二十一歳の細い肩に日本の重荷を背負い、文句ひとつ言わずに死んでいったのだ。せめて最期くらい、愛する妻と母の待つ家へ、一番速い船で帰してやりたい。それができなきゃ、何のための蒸気船か。何のための海軍か。


 勝は、窓の外、黒煙を吐く輸送船団を見やった。


 船団は長州から撤退し、東へと戻っていく。それは「損切り」という名の合理的な撤退だったが、それを命じた新しい主(慶喜)には、家茂のような痛みや迷いは一切ないだろう。慶喜ならば、遺体など「輸送の邪魔になる荷物」としか見なさないかもしれない。だからこそ、勝自身が運ばねばならなかった。


「次にあの椅子に座るのは、血の通った人間じゃねえ。『高性能な計算尺』だ」


 勝は、噛み潰した葉巻を床に吐き捨てた。


 一橋慶喜。あの男は、日本という国を「巨大な商社」に変えるつもりだ。利益の出ない藩は切り捨て、役に立たない伝統は破壊する。そこには「徳」も「義」もない。あるのは「数字」だけだ。


 これからの日本は、損得勘定だけで動く、冷たいてつの塊になっちまう。だからこそ、最後に残されたこの「人肌」だけは、俺の手で守り抜く。


「…行くぞ、上様。…江戸へ、帰りましょう」


 勝は、周囲の人間を怒鳴りつけ、担架の手配を急がせた。その背中は、悲しみに暮れる忠臣のものではなく、嵐の海を前にして舵輪を握る、不敵な船乗りのそれであった。


 だが、その目尻には、光るものが一筋だけ伝っていた。


 廊下の向こうでは、すでに次の時代の足音が、巨大な歯車の回転音と共に近づいてきていた。


 蒸気と鉄、そして終わりなき計算が支配する、徳川幕府最後の挑戦、「連邦国家」への改造計画が、今、静かに始動しようとしていたのである。


          ◆


 江戸城・大奥


 かつて三千人の女たちが、絹擦れの音と白粉の香りを競い合わせたこの巨大な伏魔殿も、度重なる財政難によるリストラと、天璋院自身が発した厳格な質素倹約令によって、今では古寺のような閑散とした静寂に包まれていた。


 長い廊下には、西に傾きかけた午後の日差しが長く伸び、埃の粒子が黄金色の帯となって舞っている。  その一番奥深く。御仏間で、亡き夫・家定の位牌に手を合わせていた天璋院のもとへ、取次役の老女が、まるで幽鬼でも見たかのように顔色を失って転がり込んできた。


「て、天璋院様…! か、勝安房守が、軍艦奉行・勝様が、御錠口おじょうぐちを強引に突破して…!」


「安房守が? 男子禁制の奥へ、土足で踏み込むような男ではありません。よほどの事があったのですか」


 天璋院が数珠を置くのと同時であった。襖が乱暴に開け放たれ、本来ここにはいるはずのない男——勝海舟が姿を現した。


 その出で立ちは異様だった。いつもの小ざっぱりとした洋装軍服ではなく、埃と煤にまみれた旅装束。肩で息をし、その額には脂汗が滲んでいる。だが、何より天璋院を戦慄させたのは、勝の瞳に宿る、暗く、底知れぬ「絶望」の色であった。


 勝は、天璋院の姿を認めると、その場に崩れ落ちるように片膝をついた。平伏ではない。糸が切れた操り人形のような、脱力の姿勢だ。


「勝、どうしたのです。その姿は」


「…申し訳ありませんでした」


 勝の声は、擦れたやすりのように掠れていた。


「大阪城より、馬車と蒸気船を乗り継いで駆けつけやしたが。上様が、家茂公が薨去されました…逝っちまいましたよ…」


 カシャン。


 天璋院の手から、愛用していた伊万里焼の茶碗が滑り落ちた。乾いた破砕音が、静まり返った広間に鋭く響き渡る。飛び散った磁器の破片と、畳に広がる緑茶の染み。それはまるで、ひび割れた大地に広がる地図のように見えた。だが、天璋院はそれを拭おうともせず、ただ勝の背中を凝視したまま凍りついた。


「……いつ、です」


「三日前の、未の刻。脚気衝心かっけしょうしんだそうでさぁ。…馬鹿な話だ。将軍が、食い物の偏りで死ぬなんてよ」


 勝は、悔しさに顔を歪め、畳を拳で叩いた。彼は知っていたのだ。家茂の死因が単なる病ではなく、京での激務と、長州征伐という泥沼の戦争、そして何より慶喜らによる政治的な突き上げによる心労ストレスであることを。


「俺が…もっと早く、南山の薬を届けていれば。あるいは、あのくそ真面目な性格を、俺みたいに適当にひん曲げてやれていれば…」


 勝海舟という男は、合理の塊である。幕府の寿命が尽きかけていることも、時代の流れが薩長にあることも、誰よりも冷徹に計算できている。だが、その計算高い頭脳の真ん中に、家茂という若き主君への「情」だけが、計算外のバグとして居座っていた。彼は、家茂の純粋さを愛していたのだ。


 篤姫は、ふらつく足取りで立ち上がり、飾り棚へと歩み寄った。そこには、ガラスケースに入った一羽の剥製が置かれている。極彩色の羽毛を持つ、南国の鸚鵡オウムである。


 かつて家茂が、南山の商人から買い求め、満面の笑みで天璋院に贈ってくれたものだ。鮮やかな赤と緑の羽毛。それは、灰色の政治闘争に明け暮れる江戸城の中で、唯一の鮮烈な色彩であり、家茂が夢見た「豊かで、新しい日本」の象徴だった。


 天璋院の脳裏に、あの日の家茂の声が蘇る。


『母上。ご覧ください、この鳥の美しい色を。南山という国には、このような鳥が空を舞い、民は誰もが腹一杯に飯を食い、笑って暮らしているそうです。私は、いつかこの日本も、南山のような明るい国にいたします』


 そう語る家茂の横で、勝は『へえ、そいつは骨が折れますぜ』と憎まれ口を叩きながらも、頼もしそうに若き将軍を見つめていたはずだ。


 だが、その言葉はもう永遠に失われた。ガラス玉の瞳をした鸚鵡は、何も映さず、ただ虚空を見つめているだけの美しい死骸と化していた。家茂の亡骸と同じように。


「…切れましたな、勝」


 天璋院の口から、氷のように冷たい言葉が漏れた。彼女は剥製の冷たいガラス越しに、遥か西の空、故郷である薩摩の方角を見つめた。そこに見えるのは桜島の噴煙ではない。西郷隆盛や大久保利通といった、かつての幼馴染たちの、岩のように強固で、そして冷酷な倒幕の意思であった。


「薩摩と徳川を繋いでいた、最後の細い糸が、家茂公という、優しすぎる『かすがい』が、これで砕け散りました」


 篤姫の声が震え始める。彼女は、薩摩から徳川へ嫁いだ、公武合体と東西融和の生ける象徴であった。


 実父・島津斉彬の遺志を継ぎ、この伏魔殿で、薩摩という「火薬庫」と、幕府という「老朽船」が衝突しないよう、義理の息子である家茂を通じて、見えない糸を必死に紡ぎ続けてきたのだ。


「あの者たちは、もはや遠慮などしますまい。彼らは徳川を倒すという目的のためだけに、喜んで修羅となり、鬼となり、この江戸を焼きに来ましょう」


 天璋院はその場に崩れ落ちた。御守殿の豪華な打掛が、衣擦れの音を立てて畳に広がる。その背中は、最愛の我が子を失った母のそれであると同時に、これから始まる血で血を洗う内戦と、実家である薩摩と敵対せねばならぬ修羅の時代への、絶望的な恐怖に震える一人の女性の姿であった。


「…させませんよ」


 低い、地を這うような声が聞こえた。顔を上げると勝が立っていた。先ほどまでの絶望の色は消え、そこには「修羅場」を前にした男の、凄味のある薄笑いが浮かんでいた。


「江戸は焼かせねえ。薩摩だろうが長州だろうが、南山だろうが…俺がまとめて相手をしてやらあ」


 勝は、懐から手ぬぐいを取り出し、乱暴に涙を拭うと、散らばった茶碗の破片を、素手で一つ一つ拾い上げ始めた。指先が切れ、血が滲むのも構わず、彼は淡々と作業を続ける。それはまるで壊れてしまった幕府という器を、己の手で継ぎ合わせようとするかのような仕草であった。


「天璋院様。あんたは泣いててくだせえ。泣き止んだら、腹くくってもらいますぜ。これからの徳川家を支えられるのは、慶喜公なんぞじゃねえ。あんたがただ」


 勝は、血のついた破片を懐にしまうと、天璋院に向き合って平伏した。その背中には主君を死なせた悔恨と、それゆえにこそ「この落とし前は俺がつける」という、狂気じみた覚悟が漂っていた。


「御遺骸は、某が指揮する軍艦にて、秘密裏に江戸へお運びしておりやす。…ですが、公表はなりません。長州との停戦が確定し、世情が落ち着くまでは、上様の死は機密。……あくまで御病気療養中として振る舞っていただきやす。」


 勝は畳に額を擦り付けた。


「……このような残酷な役目、万死に値します。ですが、徳川の家を、日本を守るためには…」


「…よいのです、勝」


 天璋院は、涙をこらえ、気丈に言った。


「そなたの苦しみ、察して余りあります。上様のご遺志を継ぎ、泥を被る覚悟なのでしょう。下がりなさい。あとは、私が引き受けます」


「…ははっ。…かたじけのうございます……行きやす。仕事が山積みだ」


 勝が去った後の大奥には、再び重苦しい静寂が戻ってきた。ただ、鸚鵡の剥製だけが、変わらぬ鮮やかさで、主のいない部屋を寂しげに見下ろしていた。


 勝が退出していく足音が遠ざかると、天璋院は張り詰めていた糸が切れたように、その場に崩れ落ちた。だが、泣いている時間はなかった。彼女には、もう一人、この残酷な真実を伝えねばならぬ相手がいた。


「……滝山たきやま。これより宮様のもとへ参りなさい」


 控えていた筆頭老女・滝山が、主の言葉にハッと顔を上げた。


「人払いをし、決して誰にも聞かれぬよう、お伝えするのです。……上様が、旅立たれたと」


 滝山の肩が、小刻みに震えている。


「……そして、宮様には、くれぐれも『お声を出して泣くことはならぬ』と伝えなさい。……それが、徳川の家に嫁ぐということです」


 天璋院の声は厳しかったが、その瞳からは、とめどなく涙が溢れていた。


          ◆


慶応二年(一八六六年)夏。江戸城・大奥。


天璋院の住まう御仏間から、長い渡り廊下を隔てた先にある、

和宮親子内親王の居室。


 勝という嵐が去った後の大奥は、まるで台風の目に入ったかのような、不気味なほどの静寂に包まれていた。西日が差し込む廊下には、逃げ遅れた埃が金粉のように舞っている。その奥にある和宮の部屋は、武骨な江戸城の中にありながら、京のみやびが色濃く残る、異質な結界のような空間であった。


 畳には有職故実ゆうそくこじつに則った高貴なへりがあしらわれ、黒柿くろがきの違い棚には、愛らしい御所人形や、精巧な銀細工の香炉が置かれている。窓の外から聞こえる蝉時雨は、江戸特有の油蝉の、脂っこく騒々しい鳴き声だ。だが、幾重にも垂らされた御簾みすの内側に漂う空気だけは、数百年の時が止まった京都御所のように、白檀びゃくだんの香りと共に静謐に澱んでいた。


 その部屋の中央で、一人の女性が、まるで美しい博多人形のように微動だにせず、手元の小さな「銀板」を見つめていた。第十四代将軍御台所・和宮。時の帝(孝明天皇)の妹宮であり、公武合体という政治的要請によって、住み慣れた都からこの東夷の地へと下った、悲劇の皇女である。


 彼女が白魚のような指で握りしめていたのは、一枚の銀板写真ダゲレオタイプであった。写っているのは、まだあどけなさの残る青年の姿。まげを結ってはいるが、身につけているのは伝統的な直垂ひたたれではない。南山・明望の工場で織られ、横濱のイギリス人職人が仕立てた分厚い羊毛ウールの西洋式軍服である。その胸には、南山開発公社から献上された「開拓記念章」の十字星が誇らしげに輝き、腰にはサーベルを吊っている。夫、徳川家茂の姿であった。


 写真の中の夫は、少し照れたように、しかし力強く微笑んでいる。この写真を撮ったのは、フランスから招かれた写真師だと聞いた。マグネシウムの閃光と轟音に驚きながらも、「これが文明というものか」と目を輝かせていた夫の声を、昨日のことのように思い出す。


『宮さん。余は、この新しい軍服を着て、日の本を強い国にするのだ。南山のように、誰もが豊かに暮らせる国に。そうしたら、そなたを連れて南の海へ行こう。そこには、一年中花が咲き乱れる楽園があるそうだ』


 彼はそう言って笑った。南山の羊毛は、冬の寒さには強いが、日本の湿った夏には重く、暑苦しい。だが彼は、「これが新しい時代の鎧だ」と言って、汗を流しながらも脱ごうとはしなかった。その健気で、真面目すぎる横顔が、和宮には愛おしく、同時にどこか危うく見えた。


 政略結婚であった。兄である天皇からは「東夷を懐柔せよ」と命じられ、幕府からは「人質」として迎えられた。そこには愛などあろうはずがなかった。


 だが、奇跡は起きた。


 この無機質な江戸城という「籠」の中で、二人は互いの孤独を慰め合い、いつしか真実の夫婦となっていた。彼は、慣れない京風の生活に合わせてくれ、彼女のために南山の珍しい菓子や小物を、子供のように嬉々として運んでくれた。彼だけが、この広い関東平野で、彼女の心を理解する唯一の「家族」だった。


 ふと、胸騒ぎがした。


 ここ数日、大奥の空気が重い。表向きは「上様は病気療養中」とされているが、先ほど、普段は大奥に足を踏み入れることのない軍艦奉行・勝安房守が、御広敷おひろしきの錠口を強引に突破し、義母の天璋院との緊急面会を求めたという噂を耳にしたのだ。あの飄々とした勝が、なりふり構わず押し入るなど、尋常な事態ではない。


 大坂からの便りは、ぷっつりと途絶えていた。


          ◆


 和宮の居室の襖が、静かに、しかし重々しく開かれたのは、夕闇が迫り、蝉の声がひぐらしの悲しげな音色に変わる頃であった。現れたのは、大奥を取り仕切る筆頭老女・滝山である。いつもは鉄仮面のように厳格な彼女の顔色が、今日はろうのように蒼白く、目元が赤く腫れているのを、和宮は見逃さなかった。


 滝山は、和宮の側仕えたちをすべて下がらせ、人払いを命じると、御簾の前で深々と平伏した。その震える背中が、言葉にならぬ凶事を雄弁に語っていた。


「宮様。天璋院様より、内々のご伝言がございます」


 そのただならぬ気配に、和宮は銀板写真を袖の奥深くに隠し、居住まいを正した。心臓の鼓動が早鐘のように高鳴る。


「申しなさい。先ほど、勝安房守が参ったとか。そのことですか」


「は…」


 滝山は言葉を詰まらせ、畳に額を擦り付けたまま、嗚咽を漏らした。歴戦の老女が、主君の前で泣き崩れるなど、あってはならぬことだ。だが、今の彼女を責めることは誰にもできなかった。


「心してお聞きくださいませ。安房守の報告によりますと…上様におかせられましては…去る七月二十日、ひつじの刻…」


 滝山の声が、涙で途切れる。


「御病気、養生叶わず…大坂城にて、薨去こうきょあそばされました」


 最後まで聞く必要はなかった。


 和宮の時が、止まった。蝉の声も、風の音も消えた。世界から色が失われ、ただ目の前の老女の震える背中だけが、モノクロームの映像のように網膜に焼き付いた。心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたように痛む。呼吸ができない。


「…そうですか」


 長い、長い沈黙の後、和宮の唇から漏れたのは、信じられないほど静かな言葉だった。取り乱すことも、叫ぶこともなかった。あまりの悲しみは、人を静寂の中に閉じ込めるのだと、彼女は初めて知った。


「…上様は、苦しまれましたか」


「いえ、安房守によれば、南山の氷で冷やされたお部屋で、安らかに、眠るように逝かれたと」


「…よかった」


 和宮は袖の中で、硬く冷たい銀板写真を握りしめた。写真の中の夫はまだ笑っている。南山の軍服を着て未来を見つめている。だが、その身体はもう、この世にはない。冷たいひつぎに入れられ、黒煙を吐く蒸気船に乗せられ、波に揺られて帰ってきたのだ。生きて帰るという約束は果たされなかった。 南の楽園へ行くという夢は、大坂の泥の中で散ったのだ。


「滝山。天璋院様からの言伝ことづては、他にもありましょう。上様のお顔を、すぐに拝することはできますか」


 和宮の問いに、滝山はさらに深く頭を垂れた。その姿は、罪人が判決を待つかのようであった。


「…おそれながら。天璋院様より、厳命がございます」


「何です」


「『公表までは、決してお声を出して泣いてはなりませぬ』と。上様の死は国家機密。長州との和睦が成り、世情が落ち着くまでは、あくまで御病気療養中として振る舞わねばなりませぬ。喪服を着ることも、御仏前で読経することも、ご遺体に対面して涙を流すことも、表向きは禁じられます」


 なんと残酷なことか。最愛の夫が死んだというのに、妻として泣くことすら許されない。喪に服すことさえ、政治という冷徹な怪物によって禁じられる。


 これが、徳川の、将軍家のごうなのか。


 あの優しかった夫を、死してなお、政治の道具として使い続けるというのか。


 和宮の細い肩が、わずかに震えた。悔しさと、悲しみと、そして幕府という巨大な機構に対する静かな怒りが彼女の中で渦巻いた。だが、彼女は泣かなかった。唇を噛み締め紅が滲むほどに強く結んだ。彼女は、もはや京の軟弱な姫君ではない。武家の棟梁の妻なのだ。夫が命を削って守ろうとしたこの徳川家を、私の涙で汚すわけにはいかない。


「承知しました。天璋院様にお伝えなさい。和宮は、取り乱したりはいたしませんと」


 気丈な声に、滝山が驚いて顔を上げた。和宮は濡れた瞳で老女を見据え、一つだけ問いかけた。


「滝山。もう一つだけ、聞きたいことがあります」


「は、はい」


「上様のお手元に、私が託した御守りは、ありましたか。あの方がご出立の際、私が縫った、西陣の御守りです」


「はい…!」


 滝山は、懐から包みを取り出した。白布に包まれた、小さな錦の袋。それは手垢と脂で汚れ、擦り切れていたが、間違いなく彼女が贈ったものであった。


「勝安房守が、上様のご遺体よりお預かりし、天璋院様を通じて宮様へお返しするようにと。上様は、最期の瞬間まで、宮様の西陣織の御守りを、しっかりと握りしめておられたそうです」


 その瞬間、和宮の瞳から、一筋の雫がこぼれ落ちた。  


 ああ、届いていたのだ。


 東國の鉄と蒸気、南山の資本と合理性。それらが支配する殺伐とした戦場の中で、夫は最期に最新鋭の軍服でも、冷たい銃でもなく、私の祈りを必要としてくれたのだ。その事実だけで彼女の凍った心に、小さな、しかし消えることのない灯がともった。


 和宮は、御守りを両手で受け取り胸に抱きしめた。そこには夫の残り香と、微かな温もりが残っているような気がした。


 彼女は立ち上がった。


 その小柄な背中には、皇女としての気品と、徳川の御台所としての凄絶な覚悟が宿っていた。


「滝山、お聞き」


「はっ」


「私は、京へは帰りませぬ」


 その言葉に、滝山は雷に打たれたように目を見開いた。夫が亡くなれば、彼女は用済みの人質である。京の朝廷は、あるいは実家の兄(天皇)は、すぐにでも彼女を呼び戻そうとするだろう。いや、これから始まるであろう倒幕の戦火から逃れるためにも、京へ帰るのが最も安全で合理的な道であるはずだ。


「宮様! 何をおっしゃいますか! これから江戸は戦場になりかねませぬ! 天璋院様も、宮様だけは京へお返しせねばと」


「いいえ。帰りませぬ」


 和宮の声は、凛としていた。


「上様は、この江戸の地で、東と西の懸け橋となろうとして倒れました。ならば、その妻である私が、自分だけ安全な京へ逃げ帰るなど、できるはずがありませぬ」


 彼女は窓の外、西の空を見つめた。そこは夫の命を奪った大坂の空が繋がっている。


「徳川の世がどうなろうと私はここに留まります。たとえ兄上が官軍を差し向け、この城を取り囲もうとも。私は上様の御霊みたまと共にこの城の最後を見届けます。ここが私の家なのですから」


 それは、政治的な判断ではなかった。天璋院が徳川という家を守るために戦うのならば、和宮は家茂という愛した男の生きた証を守るために、その身を運命の濁流に投じる覚悟を決めたのである。


 かつて「東夷」と忌み嫌ったこの武骨な城。だが、愛する男と共に過ごしたこの場所は、今や彼女にとって、京の御所よりも大切な我が家となっていた。


「参りましょう。天璋院様がお待ちです。あの御方はお強い方ですが、今は、二人で支え合わねばなりませぬ。泣いている暇はありませんよ、滝山」


 和宮は静かに歩き出した。その足取りは、もはや「籠の鳥」のそれではない。自らの意志で嵐の中を飛び続けることを選んだ、気高き白鳥の姿であった。


 慶応二年、夏


 秘められた将軍の死は、二人の女性、天璋院と和宮を、絶望の淵に突き落とした。だが同時に、その絶望は彼女たちの中に、来るべき破滅の時まで徳川の最期を支え続ける、鋼のような芯を一本、通すことになったのである。


 大奥の長い廊下に、吊るされた風鈴が夕風に揺れてチリンと鳴った。それは、過ぎ去りし平和な日々の終わりと、二度と戻らぬ季節への鎮魂歌のように、いつまでも虚しく響いていた。


        ◆


 一方、京都・二条城。西国における幕府の橋頭堡であり、将軍後見職として一橋慶喜が政務を執るこの城は、大坂城の悲嘆とは無縁の油とインクと、張り詰めた神経が支配する無機質な空間であった。


 京の夏は、湿気を含んだ熱気が盆地に澱む。城外では油照りの太陽の下、蝉が耳障りなほどに鳴き喚いていたが、黒書院の奥深くにある慶喜の執務室だけは、南山から輸入された氷柱こおりばしらによって冷やされ、異様なほどの静寂が保たれていた。


 一橋慶喜、後の徳川慶喜は、家茂の死の報を聞いても、眉一つ動かさなかった。彼は黒漆塗りの卓上に広げられた膨大な書類、倫敦証券取引所の相場表、横須賀製鉄所の月次決算書、そしてフランス公使ロッシュからの借款契約書から目を離さず、手元の万年筆を走らせていた。


 その傍らには、バカラのカットグラス。注がれているのは、ロッシュから贈られた年代物のボルドーワインである。血のように赤黒い液体が、氷の冷気で濡れたグラスの中で揺れていた。


「逝ったか。時期が悪いな。いや、損切り(ロスカット)には好機か」


 慶喜の独白は、肉親の死を悼むものではなかった。それは、工場の生産ラインで主要な旧型機が故障した際、その廃棄コストと新型への入れ替え時期を見積もる、冷徹な工場長マネージャーの呟きに似ていた。


 側近の老中・板倉勝静が、青ざめた顔で畳に額を擦り付けて進言する。


「慶喜様! そのような、そのような悠長なことを仰っている場合ではございません! 直ちに大坂へ下り、喪を発し、将軍宣下をお受けください!

 今、幕府には強力な指導者が必要です。貴方様しかおりません!」


「断る」


 慶喜は即答した。視線は、対長州戦費・損益分岐点試算表に釘付けになったままだ。


「こ、断るとは…何故でございますか! 徳川の危機でございますぞ! 兵たちも動揺しております!」


「板倉よ。感情で物を語るな。数字を見ろ」


 慶喜はようやく顔を上げた。 その瞳に宿っているのは、悲しみでも野心でもない。外科医が手遅れの患部を見定めるような、あるいは相場師が暴落するチャートを見つめるような、凍てつく理知の光であった。


 彼は水戸学の英才教育を受け、尊王攘夷の御輿として担がれてきたが、その本質は南山の思想すらも飲み込んだ、極めて近代的な合理主義者リアリストである。彼にとって将軍職とは、神聖な血統の座ではなく、機能としての職務ジョブに過ぎない。


「今の幕府カンパニーを見ろ。巨額の負債を抱え、組織は硬直化し、西国という不良債権に足を引っ張られ、沈没寸前の泥舟だ。家茂は、その泥舟の船長として、真面目に舵を取りすぎたが故に、過労死したのだぞ」


 慶喜はペンを置き、グラスを手に取った。


「あの若者は、優しすぎた。篤姫殿の願い、幕臣たちの期待、諸藩の顔色…そういった情のすべてを背負い込み、自らの命を摩耗させた。美しい生き様だが、経営者としては三流だ」


「なっ!上様を、愚弄なさるのですか!」


「事実を述べているに過ぎん。いいか、今、私が慌てて将軍になればどうなる? 長州征伐という勝ち目のない戦争の敗戦処理、その貧乏くじを引かされ、諸藩の顔色を窺うだけの調整役に堕ちる。それでは、何も変えられん。私の市場価値が下がるだけだ」


「し、しかし! では、徳川はどうなるのです! このままでは四分五裂いたします!」


「四分五裂、上等だ。一度、壊れればいい」


 慶喜の口から出た言葉に、板倉は息を呑んだ。


「焦るな、板倉。市場マーケットが、私を渇望するまで待つのだ」


 慶喜は薄く笑い、ワインを一口含んだ。その仕草は洗練されており、もはや髷を結った武士には見えなかった。


「幕臣たちも、諸藩の大名たちも、今はまだ私を小賢しい男、油断ならぬ策士と警戒している。だが、家茂という重石が取れ、西国の脅威が増し、統治不能の混乱カオスが訪れれば……彼らは必ず泣きついてくる。『慶喜公、どうか助けてください。全権を委ねますから』とな」


 彼は計算していたのだ。自分という存在を安売りせず、幕府という組織が機能不全に陥り、誰もが強いリーダーを求める極限状態パニックまで待つ。


 そこで初めて、彼は救世主として登場する。ただし、それは旧来の、諸大名の合議に縛られる征夷大将軍としてではない。


 朝廷から行政権を完全に委任され、諸藩を従属させ、南山の富と東国の軍事力を背景に日本全土を統治する、完全なる中央集権体制の頂点。いわば「大日本・南山連邦」の初代総裁プレジデントとして君臨するために。


(家茂よ、ゆっくり休むがいい。お前の優しさでは、この乱世は渡れん。ここから先は、情けも義理も通用しない。私が、この国を枠組みごと作り変えてやる)


 慶喜の脳裏には、南山の商人たちから見せられた「合本会社」という組織図が焼き付いている。株主(朝廷・諸藩)の利益を守りつつも、経営権(独裁権)は社長が握る。その構造こそが、今の日本に必要だと信じて疑わない。


「喪に服せ、板倉。今は静観の時だ。長州との戦も適当なところで手仕舞い(クローズ)にする。勝つ必要はない、負けなければいいのだ」


「は……ははっ…」


 板倉は、主君のあまりの変貌と、その底知れぬ構想に圧倒され、ただ平伏することしかできなかった。


 慶喜はワインを飲み干した。その味わいは、鉄錆のように渋く、そして権力の蜜のように甘美であった。


 大坂城が深い喪の静寂と涙に包まれる中、ここ二条城の一室では、次なる時代の怪物が、その覚醒の時を静かに待っていた。家茂という最後の「人間」が退場し、歴史の舞台には、感情を持たぬシステムと、生存本能剥き出しの野獣たちだけが残されたのである。


 西の空には、不吉な赤黒い夕焼けが広がり、京の町を染め上げていた。それは、来るべき動乱と、慶喜が描く冷徹な新時代の幕開けを告げる、血の色であった。






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