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第26話 小栗の損切り - 隠された忠義

慶応二年(一八六六年)七月二日 江戸城・西の丸


 かつて将軍の私邸として風流な静寂に包まれ、茶の湯の音だけが響いていたこの壮麗な御殿は、今や日本列島と南洋にまたがる巨大な徳川経済圏を統御するための、冷徹極まりない近代官庁へと変貌を遂げていた。大広間の畳は無惨にも剥がされ、代わりに堅牢なオーク材が敷き詰められている。その上には、英国製の重厚なマホガニー事務机が整然と並び、入安島の銅山から産出した銅線を通じて、大坂、横濱、新潟、そしてルソンや台湾を経由して遠く明望からの情報を刻一刻と吐き出す電信機が、神経質な打鍵音を響かせていた。


 カタカタカタ、タターン…


 その乾いたリズムだけが、城外の堀で鳴く蝉時雨よりも騒々しく、この空間の空気を支配していた。硝子の入った障子窓の向こうには、夏の入道雲が湧き上がっているが、室内の男たちの顔には、季節感など味わう余裕は微塵もなかった。漂うのは、強力な珈琲の香りと焦げ付くような焦燥感だけであった。


 御用部屋の上座。老中首座・板倉勝静いたくら かつきよをはじめ、老中・稲葉正邦いなば まさくに松平康英まつだいら やすひでといった幕閣の最高幹部たちが、蒼白な顔で沈黙している中、陸軍奉行並にして勘定奉行・小栗上野介忠順だけが、まるで氷の彫像のように背筋を伸ばし、手元の帳簿に万年筆を走らせていた。


 彼の目の前には、長州征討軍総督・小笠原長行からの敗戦報告書、いや正確に言えば「事業失敗報告書」が積み上げられている。『芸州口、膠着』『石州口、壊滅』『小倉口、炎上』


 どの電文も、徳川の威信が西國の泥にまみれ、地に落ちたことを告げていた。だが、小栗が注視していたのは、兵の死傷者数ではない。消費された物資の仕入簿価、遺棄されたアームストロング砲の減価償却費、そして契約を解除して逃亡した請負兵たちへ請求する違約金額、そして積み上げた今回の遠征の総経費額(トータルコスト)であった。


「上野介。其の方は、悔しくないのか」


 沈黙に耐えきれなくなった老中・稲葉正邦が、震える声で問いかけた。彼は京都所司代の経験もあり、朝廷や諸藩に対する幕府の権威失墜を誰よりも恐れる保守派であった。


「我が精鋭なる幕府歩兵隊が、長州の百姓兵ごときに敗走したのだぞ。天下の恥辱である! 直ちに予備兵力を動員し、横須賀の艦隊を総動員して長州を焼き払うべし! 武門の意地を見せねば、諸藩への示しがつかぬ!」


 他の老中たちも、「左様!」「徹底抗戦だ!」「神州の穢れを払え!」と口々に叫ぶ。彼らの血管には、まだ戦国以来の「武士の面目」という熱い血が流れていた。彼らにとって、戦争とは名誉のやり取りであり、勝敗は精神の優劣で決まるものであった。


 小栗は、書き終えた数字の最後にインクの染み一つ作らずピリオドを打ち、ゆっくりと顔を上げた。  その瞳は、感情を一切排した、爬虫類のように冷徹な光を宿しているように見えた。だが、その奥底には、誰よりも深く現状を憂う、焦燥の炎が蒼く燃えていた。


「面目、でございますか。そのような曖昧なもののために、これ以上、我々の資産をドブに捨てろと仰せですか」


「なっ、資産だと? 国家の威信の話をしておるのだ! 徳川が舐められては、統治が成り立たん!」


「同じことでございます」


 小栗は懐から、愛用している象牙の計算尺、仙台工科校恰製の「南山式対数尺」を取り出し、カチリと操作した。その滑らかなスライド音は、老中たちの怒鳴り声よりも鋭く響いた。


「皆様、現実をご覧じろ。今回の征討における戦費は、すでに三五〇万両を超過しております。これは、現在進行中の横須賀製鉄所の第二期拡張工事と、南山・北嶺島への鉄道敷設予算の三年分に相当します」


 彼は計算尺で机を軽く叩いた。


「対して、長州を焦土にして得られるものは何でしょう?荒れ果てた田畑と、我々を憎悪する幾万もの貧民。そして彼らを養うための莫大な統治維持費ランニング・コストです。あの土地には、南山のような有望な鉱脈もなければ、商品作物もない。あるのは反骨精神という、一文の金にもならない厄介な情念だけです」


 小栗は立ち上がり、壁に掲げられた巨大な地図、日本列島と南山領域が同縮尺で描かれた「徳川通商圏全図」の前へと歩み寄った。


「長州征討という事業プロジェクトは、投資対効果リターンが見込めない不良債権化しております。これ以上の深入りは、幕府財政を破綻させ、フランスのソシエテ・ジェネラル銀行からの信用を失墜させ、ひいては南山開発という国家百年の計を頓挫させることになります」


「金か。また金の話なのか! 上野介、貴様は武士の魂を算盤そろばんに変えてしまったのか! 将軍家は商人ではないのだぞ!」


 激昂し、扇子を投げつける稲葉に対し、小栗は微動だにせず、冷ややかに、しかし断定的に言い放った。


「いいえ、徳川は商人であらねばなりません。今や列強各国は軍事力は無論の事ですが、軍事力を含めた経済力で覇を競っております。フランスのロッシュ公使も申しておりました。『戦争とは利益を生むための外交手段に過ぎない』と。利益を生まぬ戦争など、先に破綻しか見えない狂人の道楽です」


 小栗は地図上の「西國」の部分を、無造作に手の甲で叩いた。


 バシッ、という音が乾いた空気に響く。


「我々の本体は、もはや痩せた本州の西半分にはありません。東國の工業地帯や消費地たる各都市を結ぶ流通網と資源の宝庫である南山。この二つを結ぶ『環太平洋経済圏』こそが、守るべき徳川の新しい城なのです。長州や薩摩などという、古い土地にしがみつく地方勢力に構っている暇はないのです」


「では、どうせよと言うのだ。 負けを認めて逃げろと言うのか。 天下の将軍家が」


 老中首座・板倉勝静が苦渋に満ちた顔で問うた。


「負けを認めるのではありません。『損切り(ストップ・ロス))』をするのです」


 小栗の言葉は、日本刀の斬撃のように鋭く、場の空気を断ち切った。


「これ以上の損失拡大を防ぐために、不採算事業から撤退する。これは敗北ではなく極めて高度な『経営判断』です。直ちに停戦を布告し全軍を撤収させます。浮いた戦費は全て南山航路の新型蒸気船建造と、横濱の港湾整備に回します。西國が『勝った勝った』と勝利の美酒に酔っている間に、我々はさらに強大な力を蓄えるのです」


 老中たちは言葉を失った。彼らは理解できなかったのだ。戦争を「勝ち負け」ではなく「収支決算」で語るこの男の論理が。だが、同時に反論もできなかった。実際に御金蔵の鍵を握り、フランスや英国の銀行団と対等に渡り合い、南山や海の向こうからの資源供給を差配できるのは、この小栗ただ一人だったからだ。彼がいなければ、明日の幕府の支払いは止まり、横須賀の工場の煙突から煙は消える。


「禁裏御守衛総督・一橋公(徳川慶喜)は、何と仰せだ」


 老中首座・板倉勝静が、縋るような視線を投げかけて問うた。当時、京にあって将軍後見職として幕政の実権を握りつつあった一橋慶喜の意向は、この場にいる誰の言葉よりも重い。彼が首を縦に振らぬ限り、いかに勘定奉行が数字を並べ立てようとも、撤兵など不可能である。


 小栗は一瞬だけ目を伏せた。長い睫毛が彼の頬に濃い影を落とす。その脳裏をよぎったのは、計算高く、常に自らの政治的立場を最優先する慶喜の冷ややかな顔ではなかった。大坂城の奥深く、南山から運ばれた天然氷で冷やされた寝所で、高熱にうなされながらも、東國の民と兵の安否を気遣う、若き主君・家茂の蒼白な顔であった。


 実は、この冷徹極まりない「損切り」の提案の裏には、小栗上野介という男の、誰にも見せたことのない隠された、そして痛切な忠義が隠されていた。


 第十四代将軍・徳川家茂


 まだ二十一歳という若さでありながら、その高潔な人柄と、誰に対しても誠実であろうとする姿勢は、汚れきった幕末の政治空間において、奇跡のような清廉さを放っていた。小栗のような合理主義の塊のような人間にとって、家茂のような存在は、本来ならば「甘い」「非効率」と断ずべき対象であるはずだ。だが、小栗は心底からこの若き君主に惚れ込んでいた。


 彼が夢見る「富国強兵」も、「南山開発」も、すべてはこの心優しい主君が、煩わしい旧弊や貧困に苦しむことなく、笑顔で民を統治できる国を作るための手段に過ぎなかったのである。


(上様は、優しすぎる)


 小栗は万年筆を握る手に力を込めた。家茂は今、脚気衝心(脚気による心不全)に冒され、大坂城で生死の境をさまよっている。それにも関わらず、彼は病床から「長州の民もまた、赤子せきしである。無益な殺生は好まぬ」と和平を望んでいた。もし、この無益な戦争が長引けばどうなるか。心優しい家茂は、戦況の悪化と兵の死傷に心を痛め、その心労でさらに命を縮めるだろう。あるいは、幕府の威信が地に落ちれば、責任感の強い彼のことだ、無理を押してでも「予自ら陣頭に立つ」などと言い出し、最前線で命を落とすことになりかねない。


 小栗にとって、徳川家の面目だの、武士の意地だのといった形而上の価値など、路傍の石ころほどの価値もなかった。守るべきは、徳川という巨大なシステムの「中核コア」である家茂の命と、彼が夢見た「民が飢えずに暮らせる国」を実現するための財源、ただそれだけであった。


 そのためならば、鬼にもなろう。守銭奴の汚名も被ろう。腰抜けと罵られ、刺客に狙われることなど、上様が味わっておられる苦痛に比べれば、蚊に刺されたほどの痛みでもない。


「一橋様も、同じお考えです。『貧乏くじを引くのは御免だ』と。すでに停戦の勅命を得るべく、朝廷への工作を開始されております」


 小栗は顔を上げ淀みなく答えた。


 彼は嘘をついてはいない。だが、真実の全てを語ったわけでもなかった。


 慶喜が撤兵に同意したのは、家茂のためでもなければ、財政のためでもない。単に「敗戦濃厚な戦の総大将として、自分の経歴に傷がつくのを恐れた」からであり、「負け戦の責任を病気の将軍と無能な閣僚に押し付けて、自分だけは無傷でいたい」という、極めて政治的な保身計算の結果であることを、小栗は見抜いていた。


 慶喜という男は頭は切れるが心がない。だが、今はその慶喜の冷徹なエゴイズムを利用してでも、戦争という出血を止め、家茂の命を救わねばならない。


「左様か。一橋公がそう仰るなら」


 板倉は安堵の息を漏らしたが、すぐに眉をひそめ、憐れむような目で小栗を見た。


「上野介。そこまで言うなら、財務と兵站の責任者である其の方に任せる。

だが、覚悟はしておけよ。世間は、撤退を主導した其の方を腰抜けと罵るぞ。いや、それだけならまだ良い。血気にはやった幕臣や、旗本の次男坊たちの中から、其の方を国賊として狙う刺客が出るやもしれん」


 稲葉正邦も深く頷いた。彼らは知っているのだ。戦争を始めるのは容易いが、負けを認めて終わらせる者が、どれほどの憎悪を一身に浴びるかを。


「構いませぬ」


 小栗は、表情一つ変えずに言い放った。その声は鋼鉄のように硬質で冷たかった。


「罵声で腹は痛みません。刺客の剣など、我が護衛の持つリボルバーの前では無力です。ですが、赤字で国は死にます。財政が破綻すれば、南山の開発も止まり、横須賀の工場の煙も消え、上様の夢も潰えるのです。それに比べれば私の首一つなど、安い経費コストでございましょう」


 小栗は椅子を立ち、深々と一礼した。その所作には一切の迷いも、媚びもなかった。あるのは自らが「悪役」となることを引き受けた者だけが纏う、凄絶なまでの覚悟だけであった。


 小栗が重厚な樫のドアを閉め御用部屋を退出した瞬間。それまで張り詰めていた鋼鉄の糸が、プツリと切れたかのように、彼の肩がガクリと落ちた。彼は廊下の壁に手をつき、脂汗の浮かんだ額を冷たい漆喰に押し付けた。冷徹な官僚の仮面の下で、彼の胃の腑は強烈なストレスと睡眠不足によって、焼け爛れるように痛んでいた。小石川の薬剤処の強力な胃薬を常用していても、この激痛は収まらない。


 小栗は、震える手で懐を探った。そこには一通の書状が入っていた。大坂城の家茂から、秘密の飛脚便で届けられた最後の手紙である。病のために筆圧は弱く、文字はミミズがのたうつように乱れていたが、そこには主君の切実な願いが記されていた。


『小栗、余はまだ死にとうない。

余はまだ、そちが話してくれた南山の空を見ておらぬ。あの広い海を、蒸気船で渡ってみたい。戦争などはやめにして、民と共に新しい国で…』


 文字が涙で滲んでいるのがわかった。この手紙が小栗の胸を焼き、彼を鬼に変えたのだ。

 金勘定に細かい守銭奴と呼ばれようが、徳川を売った売国奴と罵られようが構わない。あの若者が一分一秒でも長く生きられるなら。彼が夢見た南山の空を、一度だけでも見せてやれるなら。そのためなら、日本列島という古びた屋敷など売り払ってしまっても構わない。


「上様。どうか、どうかご無事で。この忠順、泥も汚名も、全て被りますゆえ」


 小栗は、壁から身体を離し、軍服の襟を正した。再び「冷徹な勘定奉行」の仮面を被り直した彼の顔には、もはや苦痛の色はない。あるのは、目的を遂行するためだけの、機械的な機能美だけであった。


 彼は廊下の窓から、大坂の方角、西の空を見上げた。そこには、夏の湿った風に運ばれてきた積乱雲が、どす黒く、不吉な形に膨れ上がり、遠雷が微かに轟いていた。それは、これから徳川を襲う崩壊の予兆か、それとも、新しい時代が産声を上げるための陣痛の響きか。小栗は、無言のまま回れ右をし、カツカツと足音を響かせて、次なる戦場、債権者であるフランス公使との金利交渉へと向かっていった。


          ◆


 数日後。 幕府は全軍に対し一方的に「長州征討の停止」を宣言した。大坂城から発せられたその布告文は、表向きには「将軍家茂公の御不例(病気)による、慈悲的休戦」という美辞麗句で飾られていた。だが、その行間に滲み出ていたのは、小栗上野介という一人のテクノクラートが弾き出した、冷徹極まりない「不採算事業プロジェクトの切り捨て」という、血も涙もない経済論理だけであった。


 瀬戸内海を埋め尽くしていた東國の蒸気船団はまるで潮が引くように、あるいは一日の業務を終えた工場の従業員が帰宅するように、淡々とそして迅速に東へと去っていった。船上の請負兵コントラクターたちの表情に、敗北の悔しさなど微塵もない。彼らは配給された南山煙草をふかしながら、「これでやっと帰れる」「次は南行の船に乗れる」「南山で一旗揚げてやろうぜ」「契約満了手当で、橫濱の遊郭へ繰り出そうぜ」と、安堵の私語を交わしていた。彼らにとって、この戦争は「勝つか負けるか」ではなく、「給料分働いたか否か」で評価される、単なる期間労働に過ぎなかったからだ。


 だが、このあまりに合理的すぎた、それゆえに情緒を完全に排除した撤退劇は、後に徳川幕府にとって、そして日本という国の精神構造にとって、致命的とも言える巨大な誤解という怪物を産み落とすことになった。


          ◆


 長州・山口。藩庁の広間。


 そこには、勝利の美酒に酔いしれる男たちの、熱狂と狂乱が渦巻いていた。彼らはこの撤退を「幕府の経済的判断」などとは露ほども解釈しなかった。彼らの脳内変換装置において、敵の撤退は「我々の精神的勝利」以外の何物でもなかったのである。


「見たか! 天下の幕府軍が、我ら長州の気迫に恐れをなして逃げ帰ったぞ!」 「東夷の機械仕掛けなど、恐るるに足らず! 鉄の船も、連発銃も、大和魂の前には無力なのだ!」


 若い志士たちが涙を流して抱き合い杯を掲げて叫ぶ。彼らの論理は飛躍していた。


『敵は物質的に優っていた』→『しかし撤退した』→『ゆえに、物質よりも精神が優越する』


 この短絡的かつ麻薬的な三段論法は、瞬く間に西國全土へと伝播していった。それは、劣勢に立たされていた彼らにとって、あまりにも甘美で、自尊心を満たしてくれる「神話」であったからだ。


 その熱狂の片隅で、ただ一人、冷や水を浴びせられたような顔で盃を見つめる男がいた。大村益次郎である。彼は周囲の若者たちが「神州不滅」を叫ぶのを、苦々しい表情で聞いていた。


「違います。彼らは恐れをなしたのではない。割に合わないと判断しただけです」


 大村は隣に座る桂小五郎(木戸孝允)に、噛んで含めるように説いた。


「桂さん、これは危険です。東國は損切りをしたに過ぎない。彼らは力を温存して帰ったのです。それなのに、我々は精神力で勝ったと勘違いしている。この驕りは次は命取りになりますよ」


 桂は困ったように眉を下げた。


「分かっておる、大村先生。わしとて、高杉とて、それは分かっておる。だが、見ろ。若者たちを止めることはできん。彼らには、この『勝利の物語』が必要だったのだ」


 桂の言う通りであった。長年の幕府による圧力と、経済的困窮に喘いでいた西國の人々にとって、「金持ちの東國を、貧乏だが清らかな精神を持つ我々が打ち負かした」というストーリーは、何物にも代えがたい精神的支柱となってしまっていた。この瞬間、西國(後の明治政府)のイデオロギーの根幹に、「精神主義への過度な依存」という、近代国家としては致命的なバグが埋め込まれたのである。


 東國は「損をしなくてよかった」と安堵し、帳簿を閉じた。西國は「我々は最強だ」と過信し、精神論の旗を掲げた。小栗が弾いた計算尺の答えは、両者の間に、言葉も論理も通じない絶望的な認識の乖離ギャップを作り出してしまった。この乖離こそが、翌年の大政奉還、そして戊辰戦争における、対話不可能なまでの悲劇的な激突への導火線となることを、冷徹な計算尺である小栗でさえも、この時はまだ予測しきれていなかった。人間の思い込みという変数は、いかなる対数表にも載っていないからだ。


          ◆


 一方、撤収作業が進む大坂湾。軍艦奉行並・勝海舟は、旗艦「順動丸」の甲板で、遠ざかる長州の山並みを眺めながら、不味そうに葉巻を噛み潰していた。彼は小栗の決断を支持していた。理学者として、無駄なエネルギー消費を嫌う彼にとって、この戦争は愚行以外の何物でもなかったからだ。だが、彼の直感、江戸の下町で培われた人間の機微を嗅ぎ取る嗅覚は、小栗が見落とした「何か」に警鐘を鳴らしていた。


「小栗の旦那は、ちと頭が良すぎたな」


 勝は、足元に擦り寄ってきた船乗りシップ・キャットのパスカルを抱き上げ、その喉を撫でながら独りごちた。


「あいつは金の計算は完璧だが、恨みとか勘違いってやつの計算が抜けてやがる。向こうさんは、これで図に乗るぜ。次は議論じゃなく、信仰で殴りかかってきやがる。厄介なこった」


 勝は猫を甲板に降ろすと、大きく伸びをした。


「ま、俺の仕事は、その厄介事が爆発した時に、いかに被害を少なくするか、その一点だ。殿様(慶喜公)も、そろそろ腹を括ってもらわねえとな」


          ◆


 そして何より、小栗の祈りも、勝の懸念も虚しく、運命の歯車は残酷な方向へと、音もなく、しかし確実に回転を始めていた。


 慶応二年(一八六六年)七月四日。  大坂城・本丸御殿


 将軍家茂は前夜から高熱を発し、寝所の寝台から動けないままでいた。脚気衝心。心臓は肥大し、肺には水が溜まり、呼吸をするたびに、家茂の喉からはヒューヒューという苦しげな音が漏れる。枕元には、小栗が手配した最新の強心剤や、フランス医が処方した薬瓶が並んでいたが、もはやそれらは気休めにしかならなかった。


「…おぐり、は…」


 薄く開いた家茂の瞳が、虚空を彷徨う。 側近が耳を寄せる。


「上野介殿は、江戸へ戻られました。上様のご命令通り、戦を終わらせるために」


「…そう、か。…終わる、か…」


 家茂の唇に、安堵の微小が浮かんだ。彼は知っていたのだろうか。自分の命と引き換えに、小栗がどれほどの汚名を被ったかを。あるいは、その小栗の決断が結果として徳川の寿命を縮めたことを。そんなことはどうでもよかったのかもしれない。彼の願いはただ一つ。民が血を流さず平和に暮らすこと。そのために、自分が犠牲になるのなら、それは本望であった。


(……南山の、空……)


 家茂の意識が、熱に浮かされ急速に遠のいていく。瞼の裏に浮かぶのは、小栗が熱っぽく語ってくれた、見たこともない南の楽園の風景。見渡す限りの大平原。羊の群れ。煙を上げて走る黒い蒸気車。


 そして、どこまでも青く、高く広がる空。

 

 そこには、御三家のしがらみも、朝廷との駆け引きも、攘夷の叫び声もない。


 ただ、自由な風が吹いている。


 行ってみたい。その風を、肌で感じてみたい。


 彼が今思うことはそれだけだった。





(第2部-第26話 完)

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