第25話 第二次長州征伐 - 泥濘の計算式
慶応二年(一八六六年)六月五日 周防大島沖
この季節特有の、湿り気を帯びた重苦しい海風が、瀬戸内の凪いだ水面を撫でていた。本来であれば、白砂青松の海岸線と、穏やかな波音だけが支配するはずのその牧歌的な風景は、この日、かつてない規模の「黒い暴力」によって蹂躙され、強制的に書き換えられていた。
水平線を埋め尽くすのは、大小合わせて百隻を超える幕府征長軍の輸送船団と、それを護衛する蒸気軍艦の群れである。それらが一斉に吐き出す煤煙は、入道雲を押しのけるように空を覆い隠し、真昼の太陽を鈍い琥珀色に変えていた。
鼻をつくのは、潮の香ではない。瀝青炭が燃焼する際に放つ独特の甘ったるい、それでいて喉の奥を刺すような亜硫酸ガスの硫黄臭であった。それは、東國の工業地帯・川崎や石巻の空を常時覆っている「文明の臭気」そのものであり、西國の静謐な自然の中に土足で踏み込んだ、近代産業文明の傲慢な吐息でもあった。
◆
幕府征長軍、総勢十五万
数字だけを見れば、それは天地を覆すごとき大軍である。ナポレオンの大陸軍にも匹敵するその兵力は、旧来の戦術常識に照らせば、長州一藩など蟻を踏み潰すように粉砕できるはずの質量を持っていた。 だが、上陸拠点となった浜辺に広がる光景は、決死の覚悟を秘めた軍隊の殺気立ったそれとは、あまりにも掛け離れたものであった。
そこに広がっていたのは、巨大な野外昼食会、あるいは牛馬の市が立ったかのような、一種異様な弛緩と喧騒であった。
「硬てえな。こいつは昨日の残りか?」
浜辺の焼けるような砂地に無造作に座り込んだ一人の歩兵が、配給されたブリキの牛缶を銃剣の切っ先で乱暴にこじ開けながら、不平を漏らした。
缶のラベルには、極彩色の印刷で『特製塩漬牛肉』の文字と、誇らしげな南十字星の商標が踊っている。中身は、南の大平原で放牧された牛の肉を塩漬けにし、香辛料と共に煮込んだコンビーフだ。かつての日本であれば、穢れとして忌避された獣肉であるが、嘉永の産業革命を経て「体力をつけるための薬喰い」として定着した東國では重労働に従事する人足たちの標準的な燃料となっていた。
兵士は脂の浮いた赤い肉塊を指でつまみ出し、口に放り込んだ。獣脂の強い匂いと塩気が口中に広がる。彼の周囲には、同じような顔をした数千、数万の男たちがたむろしている。彼らは髷を結っている者もいれば、無造作に切り落とした「散切り」の者もいる。その顔つきは、武士のそれではない。鍬や槌を握って生きてきた、農民や職人、あるいは都市部の無宿人特有の、日焼けして皺の刻まれた顔である。
彼らの装備は、世界水準から見ても一級品であった。背中には、會津や紀州の最新鋭紡績工場で量産された、統一規格の「南山羊毛製・背嚢」が枕代わりに置かれている。その中には、替えの靴下、雨具、そして大手の札債が発行した少額兌換紙幣が数枚入った財布が収められているだろう。
彼らが杖代わりに砂に突き刺しているのは、横須賀製鉄所や水戸藩の工廠で英国本国に先駆けてライセンス生産された後装式ライフル「一八六二年式スナイダー・エンフィールド銃(横須賀モデル)」である。その銃身は冷徹な鋼鉄の輝きを放ち、施条が刻まれた銃口は、三〇〇ヤード先の標的を正確に穿つ性能を秘めている。
だが、その高性能な殺人機械を握る手には、職業軍人としての規律も、郷土を守るという義憤も存在しなかった。彼らの目は死んだ魚のように濁り、あるいはこれからの労役を厭う牛馬のように鬱屈している。
彼らの七割は、東國の農村における次男・三男や、都市部のスラムから口減らしとして徴募された鐵砲足軽(兵卒)と、同じく明日の見えない旗本・御家人や各藩の次男・三男。四男などを指揮官格として採用し編成した一種の請負兵兵団であった。
幕府陸軍奉行並・小栗忠順が考案したこのシステムは、極めて合理的かつ冷徹なものであった。まず、食い詰めた平民たちと武士たちに、一律二両の支度金と、兵なら当時の日雇い賃金の二倍、下級指揮官なら八倍に相当する日当を提示する。更に彼らが最も喉から手が出るほど欲している「ある権利」を、成功報酬としてぶら下げたのだ。
・全員に南山植民地への優先渡航権。
・併せて兵には農地五反の無償貸与あるいは御下金を南山両で五両
・指揮官なら農地二町歩または御手当を南山両で五〇両
日本にいれば、一生小作人か日雇い人足、良くて工場労働者、武士なら部屋住みか平民並みの生活として終わる彼らにとって、それは文字通り天国への切符であった。ただし、その切符を手に入れるためには、この戦争という名の強制労働を生き延びねばならない。
「それにしても暑いな。なんで羊毛の軍服なんて着なきゃならんのだ。東國の冬ならともかく、西國の梅雨時に着るもんじゃねえぞ、これは」
先ほどの兵士が、汗で首筋に張り付いた分厚い羅紗の襟元を泥だらけの指で広げ、忌々しげに毒づいた。彼らが着用している揃いの紺色の軍服は、南山のウール工場で織られた生地を、横浜の被服廠で縫製したものである。
デザインはフランス陸軍のそれを模倣しており、見た目は確かに勇壮で近代的だ。金ボタンが並び、機能的なポケットがついている。だが、その素材は、本来であれば南山島南部の冷涼な気候や、東北・北陸の厳しい冬に対応するために作られた、保温性抜群の極厚ウールであった。
それを、高温多湿な西國の、しかも梅雨の真っ只中にある瀬戸内で着用させられているのである。彼らの体感温度はサウナの中にいるに等しく、滴り落ちる汗が軍服の繊維に染み込み、鉛のような重さとなって兵士の体力を奪っていた。
「仕方あるめえよ。これも繊維振興会とやらへの忖度だそうだ」
隣で缶詰の汁を啜っていた年配の兵士が、嘲るように言った。彼は元々、江戸・深川の鳶職であったが不況で現場を失い、借金取りから逃げるためにこの戦争に潜り込んだ口だ。
「お上が言うにゃあ、『我が軍の威容を示し、東國産品の優秀さを宣伝するため』だとさ。俺たちは歩く広告塔ってわけだ。まったく、暑気あたりで倒れたら、見舞金くらい出るんだろうな」
「出るわけねえだろ。契約書の裏を見てみろ。『戦地ニオケル疾病ハ自己責任トス』って小さく書いてあるぜ。死んだら南山の土地の代わりに、ここの砂浜の下に埋められておしまいよ」
若い兵士はふん、と鼻を鳴らし、吸い終わった紙巻タバコの吸殻を砂に揉み消した。
「おい、早く終わらせて帰ろうぜ。長州の田舎侍なんぞ、アームストロング砲でドカンと一発やっておしまいだ。俺たちは、そのあと焼け跡を掃除して、占領したって旗を立てりゃいいんだろ? 俺は南山へ行くんだ。明望で牧場をやる。聞けば、向こうじゃ羊が勝手に草食って育つから、寝てても金が入るそうだ。こんな泥臭い戦争ごっこは、これっきり御免だね」
彼らの会話に悲壮感はない。あるのは目先の損得勘定と、次の転職先への希望だけだ。彼らにとって目の前の長州征伐は、人生における「腰掛け仕事」であり通過点に過ぎない。
彼らは本質的に兵士ではない。行進や基礎的な銃器の取り扱い、命令の受領などの通り一遍の短い訓練は施してあるものの、幕府という巨大企業が、南山開発という本事業のための選抜採用のために、一時的に雇用した「警備員兼作業員」に過ぎないのだ。
誰が、たかが腰掛けの仕事のために命を賭けるだろうか?
誰が、南山行きの切符を手にする前に死ぬような真似をするだろうか?
その彼らの背後、少し離れた高台には、床几に腰掛けた指揮官たちの姿があった。彼らは自前の洋式の士官服を身につけ、あるいはそこに陣羽織を羽織った、正真正銘の武士階級である。 彼らの目線もまた、眼下の歩兵たちを見る目は同胞を見る目ではなく、消耗品あるいは家畜を見るような冷ややかな色を帯びていた。
◆
沖合の旗艦のフリゲート「富士山」の甲板から、この様子を英国製の単眼鏡で眺めていた幕府軍総督・小笠原長行は、優雅に扇子を使いながら、冷ややかに呟いた。
「士気が低いな。まるで野良仕事の休憩時間だ」
だが、彼の表情に焦りはない。むしろ想定通りと言わんばかりの冷笑が浮かんでいる。
「まあよい。彼らは敵を倒すために雇ったのではない。長州という土地を占拠し、地図上の空白を埋めるための駒だ。あいつらは南洋開発の大事な労働資産候補ではあるが、ここで多少減っても、代わりはいくらでもいる」
幕府首脳部もまた戦争を舐めていたわけではない。ただし彼らは戦争を巨大な土木工事や災害復旧と同じ次元の事務処理と勘違いしていたのだ。圧倒的な資本と物量を投入し、リスクを最小化し、工程表通りに進行させるプロジェクト。そこに敵の意志や不確定要素が入り込む余地などないと、幕府の軍事官僚たちは、その精緻すぎる計算尺の上で結論づけていたのである。
しかし彼らは知らなかった。泥と汗にまみれた現場においては、往々にして計算尺よりも、生き残ろうとする獣の勘のほうが正しい答えを導き出すことを。そして、彼らが時代遅れの田舎侍と見下している長州の男たちが、この戦争を「お仕事」ではなく、一族の存亡を懸けた「戦場」と定義していることを。
煤煙が不吉な黒い雲となって、長州の山々へと流れていく。それは、近代という名の巨大な怪物が、自らの足元にある落とし穴に気づかぬまま、傲慢に歩を進める姿そのものであった。
◆
同時刻 長州藩 石州口
幕府軍十五万の威容が水平線を黒く塗り潰していたその頃、彼らが上陸し、踏み越えていくべき最前線の山野には、奇妙なほどに深く、重苦しい静寂が垂れ込めていた。
そこには、戦場にあるべき勇壮な幟もなければ、兵卒たちを鼓舞する陣太鼓の音もない。かがり火の煙もなければ、ほら貝の響きもない。あるのは、梅雨の湿気をたっぷりと含んだ西國特有の濃密な緑の匂いと、雨蛙の鳴き声だけである。
だが、目を凝らせば見えるはずだ。
蒸し暑い山中の草むらに、泥濘んだ棚田の畔に、あるいは鬱蒼と茂る竹林の影に、百姓着にボロ布を纏い、泥と炭で顔を汚した異形の集団が、まるで土塊の一部となって潜んでいる姿が。
彼らは、長州藩が誇る「諸隊」の兵士たちである。
その目には、武士特有の儀礼的な殺気はない。あるのは追い詰められた獣が、喉笛を食いちぎる瞬間を待ち構えるような、ギラギラとした生存本能の光だけであった。彼らが握りしめているのは、鍬や鎌ではない。グラバー商会経由で密輸された、あるいは幕府軍の廃棄品を修理して再生した、古びているが十分に手入れされたミニエー銃であった。
その前線から少し後方、雨漏りのする廃寺の本堂で、一人の男が書物を読んでいた。
大村益次郎。 かつて村田蔵六と呼ばれたその風貌は、一度見たら忘れられないほどに特異である。額は異様に広く突き出し、眉は薄く、吊り上がった目は常に何かの数値を計算しているかのように冷ややかだ。その姿は、世間で「火吹き達磨」とあだ名される通り、愛嬌と不気味さが同居した奇妙な圧迫感を放っていた。
彼は、海岸線に迫りくる十五万の敵軍のことなど、あたかも別世界の出来事であるかのように意に介さず、煎り豆をポリポリと齧りながら、分厚い洋書をめくっていた。それは昔ながらの兵法書ではない。オランダ語で書かれた『最新弾道学提要』および『戦傷外科と野戦衛生統計』であった。
「先生! 敵が上陸を開始しました! 海岸線が、まるで蟻がたかるように黒く染まっております!」
伝令の若き兵士が、泥水を跳ね上げて本堂に駆け込んできた。その顔面は蒼白で、唇は恐怖に震えている。無理もない。彼が見たのは、東國の圧倒的な物量。南山の資源と東國の技術が生み出した、鋼鉄と蒸気の怪物そのものであったからだ。
大村は、視線を本から上げずに、煎り豆を一つ口に放り込み、ボソリと呟いた。
「そうですか。随分と多いですね」
その声には、感情の起伏が一切なかった。「雨が降っていますね」と言うのと同程度の、単なる事実確認の響きしかなかった。伝令の若者はその温度差に逆上し、思わず声を荒げた。
「多いですね、じゃありません! 敵の先鋒は、最新鋭のアームストロング砲を装備しています! 歩兵の数だけでも我々の十倍、いや二十倍です! 正面から撃ち合えば、我々はひとたまりもなく粉砕されます!」
若者の叫びが、黴臭い本堂に虚しく反響する。大村は、そこで初めて本を閉じ、ゆっくりと顔を上げた。その瞳の奥には恐怖も焦燥もなく、ただ冷徹な理性の光だけが、外科医のメスのように鋭く輝いていた。
「誰が、正面から撃ち合うと言いましたか?」
大村は、面倒くさそうに眼鏡の位置を直し、懐から汚れた手帳と万年筆を取り出した。
「君は、敵の数と鐵ばかりを見ている。だから恐ろしいのです。もっとよく観察なさい。彼らの目と足元を」
彼は手帳を開き、さらさらと数式のような図を描き始めた。それは陣形図ではなく、ある種の損益分岐点を示すグラフのようにも見えた。
「敵兵の正体をご存知ですか? 彼らは、會津や水戸の精強な軍隊ではありません。東國の農村や貧民窟から集められた、ただの日銭の雇われ足軽と、貧乏御家人の暇を囲った次男坊・三男坊です」
大村は、窓の外を指差した。そこには、連日の雨でぬかるみ、足首まで埋まるような特有の粘土質の泥道が続いていた。
「彼らは高い日当と、戦後の南山移住権という餌に釣られて来たに過ぎません。彼らにとって、この戦争は出稼ぎなのです。稼ぎに来た人間が、死ぬ気で働きますか? 給料分の働きはしても、命までは賭けませんよ」
大村の口元に、微かな嘲笑が浮かんだ。
「対して、我々はどうです? 負ければ藩は取り潰され、家は焼かれ、婦女子は犯され、子供は路頭に迷う。我々にあるのは勝つか、死ぬかの二択のみ。この覚悟の違いこそが、彼らの大砲よりも遥かに強力な我々の最大の武器です」
彼は立ち上がり、本堂の柱に掛けられていた雨合羽、南山のゴム引きではなく、地元の農民が編んだ、通気性の良い蓑を手に取った。
「それにね、彼らの装備はやたらと重すぎるのですよ」
大村は、伝令の若者の肩を叩き、外の風景を共に見つめた。
「あの東國の軍隊は舗装された道路と、整備された兵站線の上でしか戦えない『お嬢さま』です。彼らが誇らしげに着ている羅紗の軍服は、雨を吸えば鉄の鎧のように重くなる。頑丈なゴム底の靴はこの粘土質の泥の上では滑って役に立たない。そして何より彼らの心には、ここを死に場所とするという錨がないのです」
大村は、手帳をパチンと閉じた。その音はまるで敵軍への死刑宣告のように響いた。
「重たく、士気が低く、足場の悪い敵に対し、軽く、必死で、土地を知り尽くした我々が挑む。勝機は十分以上にあります」
「で、では、どう戦うのですか?」
若者が縋るように問う。大村は、短く、冷徹に答えた。
「散兵です」
彼は、本堂の床に落ちていた石ころを拾い上げ、放り投げた。石は闇の中に消えた。
「列を組むな。名乗りを上げるな。隠れろ。走れ。泥に塗れろ。そして大将や組頭と軍師だけを狙って、確実に殺す」
大村の眼鏡の奥で、理性の怪物が笑った。
「彼らに勝つのではありません。恐怖を与えるのです。徒労感を与えるのです。こんな割に合わない仕事は御免だと、彼らの脳みそが判断するまで、執拗に、陰湿に、ハエのようにたかり、血を吸い続けるのです」
それは、武士道とは対極にある戦術であった。だが、東國という巨大な経済マシーンを停止させるには、その歯車に砂を噛ませ、コスト計算を狂わせるこの方法こそが、唯一の正解であることを、大村益次郎という男は数学的に理解していたのである。
◆
午後二時
太陽が天頂を過ぎ、瀬戸内の湿気を含んだ熱気が最高潮に達した刻限。幕軍が想定していた、圧倒的な火力による整地作業としての戦争は、その最初の数分間で破綻し、似ても似つかぬ泥沼の殺し合いへと変質した。
気怠げに列を組み、上官であるお侍さん(士官)の怒鳴り声に背中を押されるようにして、嫌々ながら進軍する足軽隊に対し、どこからともなく乾いた銃声が響いた。
パン、パン、パァン!
それは一斉射撃の轟音ではない。間延びした、しかし極めて冷徹なリズムで刻まれる単発の射撃音であった。硝煙は進行方向の茂みの中から、岩陰から、あるいは放棄された民家の屋根裏から、亡霊の吐息のように細く立ち昇る。
「て、敵襲! どこだ!? 姿が見えんぞ!」
金モールで飾られた軍服を着た指揮官が、あわててサーベルを抜き放ち、虚空を指して叫ぶ。だが、その切っ先の先には、揺れる草木があるばかりで、敵兵の姿はどこにもない。
長州兵がその手に握りしめているのは、撥ね出し品の六〇式・ミニエー式小銃である。 銃床に傷があり、あるいは照門が僅かに歪んでいるとして検品を弾かれた坂本龍馬がグラバー商会を通じて買い付けた型落ちの在庫品。
だが、その銃身に刻まれたライフリング(施条)の精度だけは、東國の職人が保証する一級品であった。傷物だろうが、中古だろうが、彼らが込めるミニエー弾は、正確な放物線を描いて幕府兵の眉間や心臓を捉える。何より、長州兵の一発一発には、「外せば殺される」という極限の集中力と、東國へのルサンチマンという名の重りが乗っていた。
「ぎゃっ!」
先頭を歩いていた歩兵の一人が、何かに弾かれたように仰け反り、泥の中に倒れ込んだ。額には小さな赤い穴が穿たれ、後頭部は大きく砕けている。それを見た周囲の歩兵たちは、悲鳴を上げてその場に伏せた。彼らは「契約」には従うが、死ぬ義務までは負っていない。
「立て! 伏せるな! 撃て! 茂みを掃討せよ!」
指揮官が、泥にまみれた部下を軍靴で蹴り上げ、無理やり立たせようとする。幕府軍は、教範通りに見えない敵に向かって一斉射撃を行うしかなかった。
ドドドドド!
数百挺のスナイダー銃が一斉に火を噴き、前方の茂みの枝葉を粉砕し、民家の壁を穴だらけにする。凄まじい轟音と硝煙。これだけの弾幕を張れば、通常の敵なら蜂の巣になっているはずだ。だが、硝煙が晴れた後に広がっていたのは、無惨に刈り込まれた草木だけで、敵の死体は一つもなかった。
長州兵は、一発撃てばすぐに移動し、地形を利用して側面に回り込み、別の角度から次弾を撃ち込んでくる。いわゆる「ヒット・アンド・アウェイ」
大村益次郎が授けた散兵戦術は、個々の兵士の判断による自律的な機動戦であった。これに対し、指揮官の号令がなければ一歩も動けず、装填から射撃までを号令に合わせて行う幕府軍の集権的なシステムは、現場のカオスに対応できず、致命的な遅延を起こしていた。
「ええい、埒が明かん! 大砲だ! アームストロング砲を前へ出せ!」
苛立った指揮官が、後方の砲兵隊に向かって怒鳴る。最新鋭の後装式施条砲。これさえあれば敵が潜む山ごと吹き飛ばし、更地に変えることができるはずだった。だが、砲兵隊からの返答は、絶望的なものであった。
「隊長! 砲車が動きません! 田んぼの泥に車輪が取られました!」
重量二トンを超える最新鋭の重砲は、東國や南山の、石炭殻や砂利で舗装された硬い道路の上で移動・運用されることを前提に設計されていた。西國の、連日の雨を含んで底なし沼と化した粘土質の畦道や、ぬかるんだ山道は、その文明の重量を支えきれなかったのだ。
巨大な鐵の筒は、車軸まで泥に沈み込み、ただの無様な鉄塊と化していた。それを動かそうとする砲兵足軽たち、彼らもまた日当で雇われた人足たちだ。彼らは泥だらけになりながら、不満を爆発させていた。
「おい、聞いてねえぞ! こんな泥沼で鉄の塊を押すなんて、約定外だ!」
「びくともしねえ! 無理だ、腰が砕けちまう!」
「割増の手当はどうなってるんだ! 割増しを出さねえなら、俺たちゃテコでも動かさねえぞ!」
指揮官が手当はつけてやるから動かせ!と叫んでも、彼らの耳には届かない。彼らにとって、南山の農地を手に入れるための体力を、こんな泥の中で浪費することは、最も忌避すべき貯金の無駄遣いであった。東國の技術の結晶である大砲は、西國の泥濘と現場の労働争議によって完全に沈黙した。
そこへ、山林の中から、獣の咆哮のような奇声が響き渡った。高杉晋作率いる「奇兵隊」の突撃である。
「やっちまえ! 東國の出稼ぎ野郎どもを、肥溜めに沈めてやれ!」
三味線を背負い、南山製の派手な赤いマフラーを首に巻いた高杉が、狂気と熱狂の入り混じった声で叫ぶ。
奇兵隊の兵士たちは、武士ではない。農民、町人、力士、あるいは破戒僧。彼らには守るべき格式も、武士道もない。あるのは「負ければ、男は東國の奴隷にされ、女は犯され、年寄り子供は皆殺しで、田畑を奪われる」という、原初的な恐怖と怒りだけだ。
彼らは泥にまみれることを厭わず、草鞋履きの足で泥濘を疾走し、幕府軍の側面や背後に回り込む。彼らが狙うのは足軽ではない。目立つ軍服を着て、サーベルを振り回している指揮官と、その脇のやはり軍服を着た軍師(参謀)である。
バァン!
乾いた銃声と共に、精巧な金モールで飾られた軍服を着た幕府軍の大隊長が、眉間を撃ち抜かれて泥の中に崩れ落ちた。その瞬間、請負兵と幕府軍という組織をつなぎ止めていた雇用関係という細い糸は、プツリと切断された。
「おい、隊長が死んだぞ! 誰が命令を下すんだ!?」
「指揮官がいないんじゃ、戦果の確認もできねえ! 給料の査定はどうなるんだ!」
恐怖よりも先に損得勘定が走った。彼らは職業軍人ではない。現代で言うところの契約社員だ。上司(管理職)がいなければ、業務は停止する。そして、業務中に命を落としても、誰も補償してくれないことを彼らは知っている。
彼らは貧しいとはいえ、豊かな東國の出身者が多い。故郷にはそれでも工場の仕事があり、雨漏りのしない家があり、家族が待っている。
ここで犬死にして、わずかな弔慰金(それも中抜きされるだろう)をもらうよりは、逃げて次の仕事を探した方が、経済合理的に見て遥かにマシだ。 彼らには失うものがありすぎた。命を賭けてまで守るべきものが、この西國の泥沼には一欠片もなかったのだ。
「撤退だ! これ以上は割に合わん!」 「俺は契約解除だ! 帰らせてもらう!」
誰かが叫ぶと、それは雪崩のような職場放棄へと変わった。彼らは躊躇なく、最新鋭のエンフィールド銃を泥の中に放り投げた。重たい南山羊毛の背嚢も、邪魔なだけだと投げ捨てた。身軽になった彼らは、我先にと海上の蒸気船の方角へと逃げ帰っていく。その背中は敗残兵のそれではなく、ブラック企業の現場から逃げ出す労働者の、必死だがどこか清々しい逃走であった。
◆
戦場を見下ろす石州口の小高い丘の上。
梅雨の合間の湿った風が硝煙と血の匂い、そして東國軍が撒き散らしていった南山炭の甘ったるい硫黄臭を運んでくる。眼下に広がる街道はまるで巨大な竜がのた打ち回った後のように泥濘み、そこには無数の軍靴の跡と、車軸が折れて放棄された最新鋭のアームストロング砲、中身が食われることもなく泥にまみれた大量の牛肉の缶詰、そして脱ぎ捨てられた高価な軍服や泥にまみれた背嚢が点々とが、無惨に散らばっていた。それは、東國が誇った「物量」と「資本」が、西國の「情念」と「泥」によって破綻させられた、歴史的な残骸の山であった。。
その光景を、一人の男が無表情に見下ろしていた。
大村益次郎である。この男の周囲には、勝利の熱狂など微塵も存在しない。彼が纏う空気は、解剖室で死体を検分する外科医のように冷徹で、そして不気味なほどに静謐であった。周囲の兵士たちが「勝ったぞ!」「東夷を追い落とした!」と歓喜の雄叫びを上げ、空に向けて銃を撃ち鳴らす中、彼だけは万歳を叫ぶこともなく、戦死した幕府軍将校から奪った、スイス製ムーブメントを會津でケーシングした精巧な懐中時計の逸品の蓋をパチンと開閉し、秒針の動きを目で追っていた。
「ほぼ計算通りです」
独り言のように呟くその声は、勝利の喜悦ではなく、難解な数式を解き終えた数学者の安堵に近かった。
「量と性能では、確かに彼らが圧倒的に勝っていました。十五万もの兵士、射程距離や発射速度に優れた銃火器、そして何よりも兵站の維持能力。教科書通りに戦えば我々の生存確率は皆無に近かったでしょう」
大村は、泥に沈んだアームストロング砲の残骸に視線を向けた。
「ですが、彼らには致命的な欠陥があった。それは装備の問題ではない。彼らには兵士としての職業的倫理と、勝利とこの土地に対する執着が欠けていたのですね」
そこへ、草いきれを切り裂くように、豪快な笑い声が響いた。
「おいおい先生、相変わらず辛気臭い顔をしてやがる! もっと喜べよ! 天下の幕府軍様が、尻尾を巻いて逃げ出したんだぜ!」
現れたのは、泥と煤で顔を真っ黒にし、南山製の赤いマフラーを包帯代わりに首に巻いた男、高杉晋作であった。彼は血のついた軍刀を杖代わりにし、咳き込みながらも、その瞳には結核の病魔すら焼き尽くすほどの狂気じみた熱狂を宿していた。
高杉の手には、戦利品として奪い取ったばかりの「牛缶」が握られている。彼はそれを、まるで敵将の首級でも扱うかのように掲げ、銃剣の切っ先を突き立てて乱暴にこじ開けた。
ギギギ、
という金属音がして蓋が開くと、中から濃厚な獣脂の匂いが漂い出した。高杉は、指で直接その赤い肉塊を掬い取り、口に放り込んだ。
「へっ、なるほどな。これが東國の連中が自慢する文明の味ってやつか」
彼は口元についた脂を手の甲で拭い、ニヤリと笑った。
「随分と塩辛い味がするじゃねえか。こいつは、あいつらが流した涙の味か? それとも、故郷を捨てて金のために戦う、売女のような浅ましさの味か?」
高杉の言葉には、勝利者特有の傲慢さと、同時に得体の知れない巨大な敵に対する、本能的な嫌悪感が混じっていた。大村は、その高杉の横顔を冷ややかに一瞥し、淡々と訂正した。
「いいえ、高杉君。それは涙でも感傷でもありません。単なる保存用の塩分濃度が高いだけです」
「ちっ、先生はこれだからいけねえ。少しは詩心ってモンを解したらどうだ」
「詩で腹は膨れませんし、詩で戦争には勝てません」
大村は懐中時計を懐にしまい、逃げていく幕府軍の船団、黒煙を吐きながら整然と撤退していく蒸気船の群れを指差した。
「それに、喜びすぎないように。いいですか、高杉君。これは一時的な勝利に過ぎません。彼らは『負けた』のではないのです」
「ああん? 実際に逃げ帰ってるじゃねえか」
「逃げたのではありません。割の合わない事業から撤退しただけです」
大村の言葉に高杉が怪訝な顔をする。大村はまるで学生に講義をするように、指を一本立てて説明を始めた。
「彼らの行動原理は、武士道ではなく損益計算です。
高杉君も承知でしょうが全く悔しいことに、彼らにとってこの長州征伐は、一つ無宿もの対策としての公共事業でした。
しかし、泥濘による機材の損失、遊撃戦による人的被害、そして長期化による費用の増大。これらを天秤にかけた結果、これ以上の出費は無駄であるという中間報告書が出た。だから、事業を中止して撤退した。ただそれだけのことです」
大村の瞳の奥に、戦慄にも似た畏怖の色が走った。
「戦慄すべきは、彼らの本質です。彼らは怒りや義憤で戦ってはいません。
損益分岐点と減価償却で戦争をしているのです。今回、我々が僥倖を得たのは東國という巨大で精緻な計算尺の中に、西國の粘土質の泥と、銭でしか動かぬ請負兵という、計算不能な不純物が混入していたからに過ぎません。その不純物が、彼らの歯車を一時的に軋ませ、計算結果に誤算を生じさせた。それだけの話です」
大村は、高杉が持っている牛缶を指差した。
「その缶詰を見てみなさい。規格化され、腐敗せず、どこでも同じ味を提供する。これが東國の強さです。彼らは、失敗すれば必ずその原因を分析し、修正してきます」
「修正だと?」
「ええ。次に彼らが来るときは、泥に足を取られる重砲ではなく、より軽量な山砲を持ってくるでしょう。やる気のない請負兵ではなく、訓練された本物の軍隊を連れてくるでしょう。あるいは」
大村は言葉を区切り、水平線の彼方、東の空を睨み据えた。
「あるいは、戦争という費用のかかる手段そのものを放棄し、圧倒的な資本の力で我々を兵糧攻めにするやもしれません。
砲煙の代わりに金利を、鉛弾の代わりに為替を撃ち込み、真綿で首を絞めるが如く、我々を経済的に窒息させる。そんな商人の戦争を仕掛けてくる可能性が高いとみています」
高杉は、口の中の肉を飲み込み、不愉快そうに唾を吐いた。
「けっ、面白くねえ話だ。つまり、あいつらは痛みを感じねえってことか?」
「痛みは感じますよ。ですが、彼らはそれを経費として処理できるのです。我々のように、熱くなったり、絶望したりはしない。ただ、帳簿を修正液で書き換えるように、戦術を書き換えて戻ってくる」
大村は、足元に転がっていた幕府兵が捨てていった真新しいスナイダー銃を拾い上げ、その機関部の滑らかさを確かめた。西國の職人が手作業で調整した銃とは違う。工場の機械が削り出した冷たく、均質で、完璧な工業製品の手触り。
(勝った。だが、これは本当に勝利なのか?)
大村の脳裏に、不吉な予感がよぎる。我々は、巨大な怪物の足の指を一本切り落としたに過ぎないのではないか。この怪物は傷ついた指を切り捨ててさらに巨大化し、鋼鉄の皮膚を纏って再生するのではないか。
「まあいいさ」
高杉は、空になった缶詰を放り投げた。カラン、という軽い音が、静まり返った戦場に響く。
「奴らが計算尺で来るなら、俺たちは狂気で迎え撃つだけだ。面白くなってきやがったじゃねえか。東の金持ち喧嘩せず、か? 上等だ。その澄ました顔を、もう一度泥の中に引きずり込んでやる」
高杉は笑った。それは死病に侵された身体が発する、最後の命の灯火のような、凄絶で美しい笑顔であった。だが、大村は笑わなかった。彼は知っていたのだ。精神力や狂気で対抗できる時間には限りがあることを。そして、東國というシステムが内包する学習能力と資本の自己増殖という怪物が、やがてこの国を二つに引き裂くほどの、決定的な破局をもたらすであろうことを。
敗走する幕府軍の船団が吐き出す黒煙は、いつまでも消えることなく、西國の空に暗い影を落としていた。それは、単なる戦争の終わりではない。東國の指導者層、その中心にいるであろう合理主義者たちが、「土地」という不確実な資産に見切りをつけ、「資本とシステム」さえあればどこででも国は作れるという、冷徹な真理に到達する最初の一歩であったのかもしれない。
(第2部-第25話 完)
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