第24話 薩長同盟 - 生存のための契約書
慶応二年(一八六六年)一月二十一日、京都
御所からほど近い、近衛家別邸・御花畑屋敷
薩摩藩家老・小松帯刀の寓居であるこの屋敷は、京盆地特有の底冷えする寒気と、それ以上に凍てついた触れれば切れそうなほどの沈黙に包まれていた。
障子の外では、湿った雪が音もなく降り積もっている。だが、部屋の中央に置かれた火鉢では、最高級の無煙炭が、煙も上げずに不気味なほど赤々と熱を発していた。この石炭は、南山・北嶺島のワイカト炭田で、東國(幕府)資本の鉱山会社が雇ったアボリジニや入植貧民の手によって掘り出され、南山郵船の蒸気船で運ばれ、大坂の市場を経由して京へ届いたものである。皮肉なことに、この反体制の会談を温めている熱源さえも、彼らが倒すべき敵―東國・幕府が支配する巨大な物流網から漏れ出た、一欠片の残り火に過ぎなかった。
上座に、桜島の山容のごとき巨躯を揺るがすことなく鎮座するのは、薩摩藩の西郷隆盛。その対面には、病的なまでに痩身に神経質な光を宿した長州藩の桂小五郎が、膝の上の大島紬が白くなるほど拳を握りしめて座っている。
そして、その両者の間で、まるで出来の悪い喜劇の脚本家か、あるいは三流の詐欺師のように、懐から一束の書類を取り出している男がいた。坂本龍馬である。
「ええか、おんしら。勘違いしたらいかんぜよ」
龍馬は、その書類、英国製の透かしが入った、湿気に強いタイプライター用紙を畳の上にバサリと広げた。そこには、かつての勤王の志士たちが好んだ詩的な盟約の言葉も、憂国の情熱も、血判を押す場所さえも書かれてはいない。あるのは、明朝体の活版で書かれた無機質な数字と、品目リスト、そして為替の交換レートを記した計算式だけであった。
「こりゃあ、昨日の敵と手を取りおうて泣くような、そんな甘い仲直りの手紙じゃあない。 東國ちゅう巨大な怪物に食い殺されんための、 生き残りを懸けた業務提携契約書ぜよ!」
桂小五郎が、苦虫を噛み潰したような顔で、そのリストを睨んだ。彼の眼球は充血し、頬はこけている。長州藩に対する幕府の経済封鎖は、それほどまでに苛烈を極めていたのだ。
一、ミニエー式小銃(幕式六〇式改)、七、〇〇〇挺。附・弾薬一二〇万発
二、М一八五九 四ポンド線条野砲(四斤山砲)、十門。附・弾薬二、〇〇〇発
三、蒸気船ユニオン号(薩摩名義船を長州へ貸与)
「坂本君。君の言うことはわかる。理屈ではな」
桂の声は震えていた。それは恐怖からか、屈辱からか。
長州は今、幕府による第二次征討を前に絶体絶命の窮地にある。東國海軍の榎本艦隊による海上封鎖は完璧で、関門海峡には蟻の這い出る隙間もない。藩内では「鐵」の欠乏が深刻化し、寺の梵鐘はおろか、民家の鍋釜まで溶かして大砲を鋳造しようという議論さえ起きている始末だ。
「だが、我々長州にとって、薩摩は昨年の禁門の変で同志を撃ち殺し、京の都を追放した仇敵だ。その血塗られた手から、武器を恵んでもらえと言うのか。長州男児の矜持を、米五万石で売れと言うのか」
「恵んでもらうんじゃあない、桂さん。これは商いでごわす」
重い口を開いたのは、西郷であった。その瞳は噴火を前にした火口のように深く、暗く、そして底知れぬ熱を孕んでいた。
「薩摩もまた、腹ぁ減っちょいもす。幕府の締め付けで、琉球からの砂糖の道も細ゆい一方。銀はあっても、そいを米に換る道がありもはん。東國の商社が大坂の米相場を独り占めしちょっからでごわす。長州にゃ、撫育局が長年溜め込んだ隠し米が、蔵の中で腐るほどあるち聞きもした」
西郷は、丸太のような太い指で、書類の「兵糧米」の欄を指し示した。その指先は、黒く煤けていた。
「おいどんは、長崎のグラバーから軍器を買いもす名義と信用を貸しもす。薩摩の名がありゃ、公儀の役人も目ぇ瞑りもす。そん代わり、長州はそん代金を米で払いもんせ。好っ嫌いの話じゃなか。こいは、互いの欠損を埋め合わせる、ただの帳簿上のやり取りでごわす」
龍馬はニヤリと笑い、火鉢の炭を火箸でつついた。炭がパチリと爆ぜ、一瞬だけ三人の顔を赤く照らし出す。
「そうじゃ。ええか、よう考えてみいや。 今の幕府は、もはや昔の徳川じゃあない。 ありゃあ『徳川・南山大商会』ぜよ。 家茂公はただの看板。実権を握る小栗上野介ちゅう大番頭が弾く計算尺の上で、 わしら西國の人間は、『採算の合わん不良在庫』として、処分されようとしゆうがじゃ」
龍馬は、懐から一丁の拳銃を取り出し、無造作に、しかし計算された重みをもって畳の上に置いた。 會津日新館精機製のS&Wモデル2・アーミー。特殊鋼で鍛造されたその銃身は、妖しいまでの青黒い光沢を放ち、部屋の凍てついた空気を一層張り詰めさせた。それは単なる武器ではない。東國が到達した「工業的洗練」の結晶であり、西國の諸藩が喉から手が出るほど欲しても手に入らぬ、「力の象徴」そのものであった。
「よう見てみい。これが東國の『標準』じゃ」
龍馬は、まるで骨董品の目利きをするように、銃身を指先で弾いた。チャリ、と硬質な音が響く。
「東國の軍隊ぁ、月給で動く『雇われ仕事』ぜよ。あいつらは南山羊毛の軍服に身を包み、米と缶詰の牛肉で腹いっぱいで、この精巧な回転式拳銃やら、横須賀製のアームストロング砲で武装しちゅう。小栗らにとっちゃあ戦争とは帳簿上の数字を動かす作業に過ぎんがじゃ。対して西國はどうじゃ? 情念と精神論だけは立派じゃが、持っちゅうがは先祖伝来の錆びた槍やら、火縄銃か? あるいは竹槍で蒸気船に挑むんか?」
龍馬の言葉は、鋭利な刃物となって二人の肺腑を抉った。
「そいじゃあ戦争にならん。一方的な『在庫一掃の投げ売り』になるだけぜよ。おまんらの若い衆ぁ、東國の産業機械にすり潰されるための挽肉じゃあないぜよ」
桂小五郎は唇を噛み沈黙した。膝の上の拳が震えている。
彼は知っている。高杉晋作が結成した奇兵隊の兵士たちが、どれほど勇敢で、どれほど国を憂う熱い血を持っていたとしても、一分間に一五発の鉛弾を正確無比に吐き出す連発銃の斉射の前では、ただの「肉の壁」に過ぎないことを。
嘉永の産業革命以降、この国を支配しているのは「大和魂」ではない。「物理法則」と「生産力」だ。質量と速度、そして投下された資本の量だけが勝敗を決する。それが東國の煙突から吐き出される黒煙が日本人に教えた、最も煤けていて、かつ残酷な真理だった。
「毒入りの握手、ということか」
桂は絞り出すように言った。その声には、理想に燃えた志士としての自分を殺し、冷徹な政治家へと脱皮する際の、断末魔のような痛みが滲んでいた。
「薩摩と組めば、長州の矜持は傷つく。禁門の変で散った同志たちは、草葉の陰で泣くだろう。だが、組まねば長州は物理的に消滅し、我々の存在は東國の教科書の脚注に反乱分子として一行記されるだけで終わる。選択の余地はない、か」
「おいも同じ気持ちでごわす」
重い沈黙を破り、西郷が懐から何かを取り出した。それは琉球産の黒糖の塊だった。彼はその黒い塊を、まるで敵の首級でも食いちぎるかのように、ガリリと音を立てて齧った。甘美な香りと共に獣じみた咀嚼音が響く。
「東國の連中は、おいどんらを『芋侍』ち見下し、南山の資源を独占して甘か汁を吸い続けちょいもす。大坂の蔵にゃ南山へ送るための米が山積みされ、横濱の港にゃ絹と鐵が溢れかえっちょるちいうに、鹿児島の民ぁ痩せ細る一方じゃっど」
西郷の瞳の奥で、桜島のマグマのようなドス黒い怒りが渦巻いていた。それは政治的な対立を超えた、もっと原初的な、生存を脅かされる者の飢餓感であった。
「こんまま座っちょっ干からびって死ぬよりぁ、悪魔と手ぇ組んじでも、あの巨大な城を食い破りたか。東國ちゅう肥てた豚の喉笛に食らいついっ、そん血肉を啜りたか。そい以外に、薩摩の飢えを満たすこっは、できもはん」
ここに、歴史的な合意が形成されようとしていた。それは、後世のロマンチストな小説家が美談として描くような、志士同士の魂の共鳴や、憂国の情熱による雪解けなどでは断じてない。
東國・環太平洋工業地帯という、圧倒的な「勝者」であり「独占資本」に対し、そこから弾き出され、市場から排除されようとしている「敗者」たちが、生き残るために結成した、法を無視した「地下企業連合」であった。
武器と米、資本と労働力を裏帳簿で融通し合い、東國が敷いた経済封鎖網に風穴を開ける。その目的は表向きは「尊王攘夷」や「王政復古」という美しいスローガンで金箔を押されているが、その実態は、持たざる者による「市場シェアの暴力的な奪取」に他ならない。
「わかった。この契約、乗ろう」
桂は覚悟を決めた眼差しで、英国製の万年筆を取り出し、震える手で書類に署名した。
『長州藩代表 桂小五郎』
その文字は、悲壮なまでに鋭く尖っていた。続いて西郷も黙って筆を執り、太く力強い文字で署名する。 最後に、この危険な取引の仲介者として、坂本龍馬が亀山社中の朱印を、血判のように重く押し付けた。
契約は成立した。
西郷と桂は、書類越しに互いに向き合った。握手を求める手はどちらからも差し出されなかった。友情も、信頼も、そこにはない。その代わり、互いの視線が空中で火花を散らし、複雑怪奇な感情、過去の殺し合いによる生理的な嫌悪、互いの実力に対する油断ならぬ警戒、そして「東國」という共通の巨敵を前にした奇妙な共犯意識が、泥水のように混じり合い、交錯した。
「ときに、西郷どん。おんしが買うてくれたその七、〇〇〇挺の鐵砲のことで、ひとつ言い忘れたことがあった」
龍馬は、張り詰めた空気をあえて攪拌するように、ふと口元を緩め、悪戯小僧のような目つきで巨躯の薩摩人を上目遣いに見上げた。
「グラバーの旦那が言いよったが、実はその銃、南山・明望の工廠で検品に弾かれた撥ね出し品じゃそうな」
「撥ね出し品?」
桂が怪訝な顔をして、眉間の皺を一層深くした。龍馬は事も無げに肩をすくめ、懐から出した計算尺をパチリと鳴らした。
「銃身の鋳造に芥子粒大のあの気泡があるやら、木製の銃床の色味が不揃いで美しゅうないやら。東國の役人が決めた厳格すぎる公差規格とやらに、髪の毛一本分でも合わんかったやつらぜよ。ま、人を殺す道具としての性能にゃあ、なんの変わりもありゃせんがのう」
「フン。東國のゴミ拾いか。我らにはお似合いの皮肉だな」
桂は自嘲気味に鼻を鳴らし、この夜初めて、能面のような表情を崩して乾いた笑い声を漏らした。それは屈辱を通り越した先にある、虚無的で冷徹なリアリズムの響きであった。
彼らが崇める帝の赤子たる東國の民は、銃床の色艶ひとつで最新兵器を廃棄するほどの富を謳歌している。対する西國は、そのゴミを拾い集め、米を削って買い叩き、それを頼みに戦おうとしている。
だが、桂の腹は決まっていた。綺麗事で腹は膨れぬ。錦の御旗で大砲は防げぬ。ならば、泥水を啜ってでも生き延び、その泥を東國の白亜の天守閣に吐きかけてやるまでだ。
「上等でごわす」
西郷もまた、ニヤリと口の端を歪めた。その笑顔は講談や芝居で描かれる、慈愛に満ちた西郷隆盛のものではなく、戦場で敵の臓腑をえぐることを好む、薩摩隼人の獰猛なそれであった。
「東國の連中は、南山の羅紗を着って、汚れひとつなかピカピカの筒を担い、行進の稽古ばかりしちょるげな。よか。泥にまみれっ、傷ついた『ゴミ』の恐ろしかところを、あの温室育ちの坊っちゃん兵士共の骨の髄まで、たっぷりと教えてやりもんそ」
◆
その夜、小松帯刀邸の奥まった四畳半の隠し部屋で、歴史を画する密約の成立を祝う、ささやかな宴が開かれた。だが、そこに艶やかな京の芸妓の姿もなければ、洗練された懐石料理もない。
煤けた膳の上に並んだのは、長州藩が隠し持っていた備蓄米を炊いた冷たく硬い握り飯と、鰯が三匹、そして薩摩が琉球経由で密輸した一本の酒瓶だけであった。
その瓶のラベルには、色褪せたインクで『入安島特産・南洋火酒』と記され、拙い絵柄で南十字星が描かれている。それは、南山植民地の入安島において、東國資本の製糖工場が砂糖を精製した後に残る廃糖蜜を、現地の工夫たちがドラム缶で発酵させ粗雑に蒸留した、労働者向けの安酒であった。
東國の紳士たちであれば口にすることなどあり得ない、喉を焼くような下等な酒である。だが、東國の経済封鎖によって清酒・焼酎すら一般市場から枯渇している今の京において、それは黄金にも等しい嗜好品であった。
「乾杯といこうか。我ら『持たざる者』たちの門出に」
龍馬が、湯呑みに注がれた琥珀色の液体を掲げた。三人は無言で杯を合わせ、その粗野な酒を喉に流し込んだ。カッと喉が焼け、胃袋に熱い塊が落ちる。それは洗練された味などではなかった。しかし、鐵錆と、南洋の泥と、そして抑圧された者たちの怨嗟が煮詰められたような、「生存」の味がした。
男たちは冷えた握り飯を、どんな高級料理よりも貪欲に食らった。西郷が大きく口を開け、飯の塊を噛み砕く。桂が、黙々と米粒を咀嚼する。彼らが喰らっているのは単なる米ではない。東國という巨大な敵の肉であり、来るべき巨大な戦争、日本市場の支配権を巡る、東と西の最終的な戦争への、血塗られた前祝いの供物であった。
「夜明けは近いぜよ」
龍馬は、飲み干した湯呑みを置き、雪の止んだ窓の外を見つめながら独り言のように呟いた。東の空が、わずかに白み始めている。だが、彼が予感している「夜明け」は、希望の光に満ちた爽やかな朝ではない。横須賀や大坂、そして會津の工場群から吐き出される煤煙と、これから日本全土を焼き尽くす戦火の煙で赤黒く濁り、鐵と血と油の臭いが充満する、新しい時代の幕開けであった。
その時、遠く東の方角、伏見の街の方から、一番列車の始発を告げる蒸気機関車の汽笛が、鋭く空気を切り裂いて響いてきた。
ボーッ!
その音は、もはや情緒ある鐘の音とは異なり、時代という巨大な機械が人間たちを燃料として飲み込みながら回転を始める、無慈悲な合図のように聞こえた。
了
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