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第23話 将軍家茂の憂鬱 - 二つの日本の狭間で

 慶応二年(一八六六年)七月、大坂


 この年の夏、かつて「天下の台所」と謳われた商都は、澱んだ湿気を含んだ酷暑と、それ以上に息苦しい、焦げたような「くろがねの臭気」に包まれていた。


 安治川の河口から堂島川にかけての運河には、諸国からの千石船や五百石船といった木造の廻船に混じって、喫水線の深すぎる黒塗りの蒸気船が、葬列のように延々と列をなしている。その船腹には、葵の御紋と羅針盤を組み合わせた「南山郵船」の社章が鈍く光り、甲板には南洋の強烈な日差しで肌を焼き尽くした船員たちが、不機嫌そうに罵声を飛ばしながら荷役を行っていた。


 彼らが巨大な胃袋のような倉庫群へと吐き出し続けているのは、米や醤油ではない。南山・入安島の密林から切り出された、ゴムやガタパーチャの黒い塊。北嶺島のワイカト炭田から運ばれてきた、無煙炭の山。そして、赤道直下の島々で採掘された、火薬の原料となる高純度の硝石である。この街はもはや、天下の胃袋を満たす台所ではなかった。第二次長州征伐という巨大な軍事プロジェクトを回転させるための、巨大なボイラー室へと変貌していたのである。


 その淀川の河口を見下ろす大坂城・本丸御殿。かつて太閤秀吉が栄華を誇り、今は徳川の西國支配の要石となっているこの城郭もまた、近代化の波に洗われていた。征討軍総督府が置かれた「奥」の一室。


 第十四代将軍・徳川家茂は、英国製の革張りの椅子に浅く腰掛け、豪州産のチーク材で作られた執務机の上で、一人、分厚い報告書と対峙していた。


 家茂が身に纏っているのは、伝統的な絹の狩衣でもなければ、武骨な甲冑でもない。「南山平織羊毛ナンザン・サマー・ウール」。そう呼ばれる、極めて品質の高い羅紗ラシャで仕立てられた、フランス陸軍様式の肋骨服スケルトン・ジャケットであった。


 南山島の冷涼な気候と、東國資本によって導入された品種改良メリノ種が生み出すその繊維は、ロンドンのサヴィル・ロウの仕立屋ですら「天使の吐息」と称賛するほどに滑らかで、驚くほど通気性が良い。  湿度の高い日本の夏にあっても、将軍の華奢な肌を不快な汗から守り、その威厳を凛として保たせてくれる「文明の鎧」。それは、東國の資本と南山の資源が結合して生み出した、勝利者のための皮膚であった。


 だが、その極上の着心地とは裏腹に、家茂の端正な面立ちは、鉛のように重く曇っていた。彼の手にある報告書――幕府若年寄・小笠原長行の名で提出された『西國筋・貧民窮状探索書』の和紙の紙面からは、南山の羊毛とは対極にある、ざらついた絶望の触感が、指先を通じて心臓へと伝わってくるようだった。


『……長州、周防、及び安芸の山間部におきては、昨今の長雨による凶作に加え、東國海軍による関門海峡・豊後水道の完全封鎖により、物資の枯渇極まれり。米価は一升あたり銀四十匁もんめを超え、平時の十倍に高騰。餓死者、路傍に満つ。農民は麻の襤褸ぼろすら纏えず、くずの根を掘り、壁土を啜り、一部には人肉を食らう噂すらあり。一揆の気配、濃厚なり……』


 家茂は、若き君主特有の潔癖さと、生来のあまりに人間的な優しさゆえに、その文字の向こうにある惨状を、ありありと幻視してしまった。


 泥にまみれた子供の手。骨と皮になった老人。自分がこの快適な空調の効いた部屋で、南山から運ばれた氷水を飲み、最高級の羊毛に包まれているこの瞬間にも、同じ「日本」の民が、同じ言葉を話す民が、泥にまみれて死んでいる。その事実は、彼の心臓を、冷たい鉄のペンチで鷲掴みにするような物理的な痛みを伴っていた。


 彼は知っていた。この飢餓は、天災ではない。  東國のテクノクラートたちが、計算尺と海図の上で立案した「経済封鎖エコノミック・ブロック」という名の、人工的な災害であることを。南山の資源を独占する東國は、西國に対して「兵糧攻め」を行うことで、戦わずして相手の経済基盤を崩壊させようとしているのだ。それは効率的で、合理的で、そして悪魔的に残酷な戦略であった。


(これが、余が治めるべき国なのか?)


 家茂は、震える手で報告書を机に叩きつけた。  氷の入った鉢が、カチャンと音を立てる。その音は、まるで断罪の鐘のように響いた。


「小栗を。勘定奉行・小栗上野介を呼べ」


 家茂の声は震えていた。それは、長州軍への恐怖からではない。自らが頂点に君臨しているはずの、この巨大で冷徹な「システム」に対する、拭いきれない疑念と、腹の底から湧き上がる静かな怒りからであった。

 

 小姓の取り次ぎを経て、襖が音もなく開いた。勘定奉行・小栗上野介忠順が、敷居の外で深々と平伏している。


 許しを得て顔を上げ、入室したその男の姿は、この時代の武士というよりは、ロンドンのシティを闊歩する銀行家か、あるいは冷徹な哲学者のようであった。


 彼は、まげこそ結ってはいるものの、身に纏っているのは横濱の英国人仕立屋に特注させた、濃紺のフロックコートである。その胸ポケットからは懐中時計の鎖が垂れ、腰には刀の代わりに、象牙と真鍮で精巧に作られた計算尺――明望に設立されたばかりの技術学校の職人が、南山産のマッコウクジラの牙を削り出して献上したという「南山式対数尺」――が携えられていた。


 小栗の相貌は、能面のように静かである。だが、その眼光は、単なる忠臣のそれではない。国家という巨大な貸借対照表バランスシートを隅々まで透視し、一厘の計算間違いも許さぬ、狂気じみた理知の光を宿していた。しかし、その視線が若き主君の蒼白な顔色と、額に滲む脂汗を捉えた一瞬、僅かに痛ましげな色が走ったのを、家茂は見逃さなかった。この男は、冷血漢ではない。あまりに鋭利すぎる知性が、情動を焼き切ってしまっているだけなのだ。


「お呼びでございましょうか、上様。御顔色が優れませぬな。典医の薬は召し上がりましたか」


「あ、ああ。大事ない。小栗、まずはこれを見よ」


 家茂は、気遣いの言葉を遮るように、探索書を小栗の前に滑らせた。これ以上優しくされれば、自分の決意が鈍りそうだったからだ。


「西國の民が飢えている。…長州は敵だが、民に罪はない。余は、大坂城の兵糧庫を開放し、西國への救援米を送りたいと思う。鴻池や加島屋ら、勝手知ったる御用商人に命じ、米を流せ。代金は幕府が後で払うとなれば、彼らも動こう。これは将軍としての命だ」


 それは、徳川の世が二百六十年かけて築いてきた「仁政」の論理であった。武家の棟梁たる者、まつろわぬ民であっても、飢饉の際には救いの手を差し伸べる。それが「徳」であり、統治の正統性を担保する唯一の根拠である、と。家茂はそう教育されてきたし、そうありたいと願っていた。


 小栗は、その悲惨な報告書を手に取り、一瞥した。


 だが、彼の眉はピクリとも動かなかった。数秒の沈黙の後、彼はそれを丁寧に畳み、恭しく、しかし拒絶の意思を込めて押し返した。


「恐れながら、却下いたします。上様…それは、現在の我が国是グランド・デザインに反する悪手でございます」


「悪手だと? 民を救うことがか」


「左様でございます。上様、現在の大坂城に山積みされている米は、単なる民の食い扶持ではありません。あれは『資本』です」


 小栗は、腰の計算尺を取り出し、カチリ、と操作した。その乾燥した音が、家茂の言葉を遮断する。


「上様もご存知の通り、先の北米合衆国における内戦と、欧州全土を襲った長雨の影響で、現在、世界的に穀物相場が高騰しております。特に、我が南山の入安島や北嶺の開拓地では、急増する移民に対して小麦の生産が追いつかず、食料不足が懸念されております」


 小栗は、まるで講義をする教授のように淡々と続けた。


「我々はこの大坂の米を、飢えている西國ではなく、食料を求めている南山の開拓民や、食料不足に悩む香港の英国商会へ『輸出』せねばなりません。その売却益で、横須賀製鉄所の拡張工事に必要な煉瓦と、最新鋭の旋盤二〇〇台を英国から買い付ける計画が、既に動き出しております」


 彼は計算尺の目盛りを指先でなぞった。


「もし今、この米を無償で西國の泥の中に流せば、どうなるか。南山開発予算は一割五分の不足。横須賀のドック拡張工期は半年遅れ、英国銀行団からの我らに対する『信用トラスト』は失墜いたします。……彼らは、約束通りに利払いができぬ借主に、次は二度と金を貸しません」


「金か。そちは、金の話ばかりする」


「金ではありません。『血』の話をしております」


 小栗は、初めて語気を強めた。


「英国の信用を失えば、徳川が発行する債券は紙屑となり、金利は跳ね上がります。そうなれば、将来的に数百万両の損失となり、それは即ち、東國の民の生活を圧迫し、南山への入植事業を頓挫させることになります。

上様。西國の農民数万人を一時的に延命させるために、国家百年の計である産業基盤を自ら破壊する。そのような行為は、施政者として万死に値する『背任』でございます」


 家茂は絶句した。小栗の言っていることは、論理的には完璧なのだろう。この男は、日本列島と南山、そして世界市場を繋ぐ巨大な経済機構の管理者として、極めて正しい判断を下している。だが、その完璧な数式には、「人の痛み」や「情」という変数が、最初から入力されていない。


「小栗…。そちは、民を見殺しにするのか。彼らもまた、帝の赤子せきしではないか。同じ言葉を話し、同じ神を祀る同胞ではないか」


「見殺しにするのではありません。切り離すのです」


 小栗は、冷ややかだが、どこか悲哀を帯びた瞳で若き主君を見据えた。彼は知っているのだ。家茂のその優しさこそが、これからの時代には致命的な弱点になることを。だからこそ、彼は敢えて鬼の仮面を被り、泥をかぶる覚悟を決めていた。


「上様、現実をご覧じろくださいませ。西國の諸藩は、もはや我々の地方支店ではありません。彼らは、我々の市場を荒らし、南山の資源を奪わんとする『商売敵コンペティター』なのです。商売敵が経営不振で倒れかけている時に、なぜ塩を送るのです? むしろ、彼らが自滅するのを待ち、その資産――土地と労働力、そして彼らが隠し持っている僅かな金銀を、底値で買い叩き、我々のシステムに吸収するのが、統治者たる者の義務でございましょう」


「余は、商人ではない! 武家の棟梁だ! 天下万民の父となるべき者だ!」


 家茂は机を叩いて立ち上がった。その拍子に、南山産の氷の入った鉢が傾き、冷たい水が机上の書類を濡らした。だが、その叫びは、重厚な英国製の壁紙と、分厚い絨毯に吸い込まれ、虚しく響くだけだった。


 小栗は一歩も引かない。彼は畳の上で背筋を伸ばしたまま、静かに、しかし断定的に告げた。


「いいえ、上様。貴方様は、もはや封建領主ではあらせられません。貴方様は、日本本土と南山という二つの領域を束ね、列強と渡り合う巨大な事業体――『徳川・南山通商圏』の総裁であらせられます。情けは、もはや美徳ではありません。それは、国家という巨大な機械を狂わせ、錆びつかせる『湿気』なのです。どうか、ご自身の温かい感情ではなく、冷徹な帳簿の声をお聞きください」


 小栗は、濡れた書類をハンカチで拭うこともせず、深々と一礼し、音もなく踵を返した。その背中は、「正論」という名の鋼鉄の鎧で覆われていたが、去り際に一瞬だけ、咳き込む家茂の背中に向けられた視線には、忠臣としての切ないほどの苦悶が滲んでいたことを、家茂は知る由もなかった。


 部屋に残された家茂は、糸が切れた操り人形のように、力なく椅子に座り込んだ。  肌に心地よかったはずの南山羊毛の軍服が、今は鉛の拘束衣のように重く、彼の呼吸を締め付けていた。


          ◆

 夕刻。 西の空が、毒々しいまでに鮮やかな茜色に染まり始めていた。大坂湾の方角からは、東國の横須賀や横濱、あるいは遠く南山・明望へ向かう輸送船団の、重低音の汽笛が風に乗って響いてくる。  


 ボーッ、ボーッ 


 その音は、まるで巨大な海獣が、西國の民の飢えなど知らぬげに、腹を満たして満足げに上げるゲップのように、力強く、そして傲慢な響きを持って、大坂城の天守を震わせていた。


 軍艦奉行・勝安房守義邦――勝海舟が、足音を忍ばせて執務室に入ってきたとき、家茂は窓辺に立ち、その沈みゆく夕日を、まるで自分自身の命運と重ね合わせるように凝視していた。


 部屋の中には、南山から運ばれた天然氷が、既に半分ほど溶けて水となり、硝子の器の中で寂しげな音を立てている。勝は、その高価な氷水を見て、ふと小栗の顔を思い浮かべた。あの男なら、「上様、その氷水一杯のコストで、長州の農民一家族が三日は食いつなげます」などと、平然と言い放つに違いない。だが、それを言わぬのが、人間としての「粋」というものだ。


「勝。来てくれたか」


 家茂が振り返ることなく言った。その声は、ガラス細工のように脆く、透き通っていた。


「はい。上様、御顔色が優れませぬな。典医を呼びましょうか、それとも、とびきり冷えた氷水でもお持ちしましょうか。南山の氷は、不思議と頭の芯まで冷えますぜ」


 勝は、いつものべらんめぇ調を抑え、努めて明るく、気遣わしげに声をかけた。彼はこの若き将軍の、誰よりも繊細で、誰よりも高潔な心根を知っている数少ない理解者だった。紀州の部屋住みから、わずか十三歳で将軍職という火中の栗を拾わされたこの若者を、勝は主君としてだけでなく、不憫な息子のように愛していたのだ。


「勝よ。余は、鬼にならねばならぬのか」


 家茂は、窓ガラスに熱っぽい額を押し付けたまま、独り言のように呟いた。


「小栗の申すことは、理屈ではわかる。東國の繁栄、南山の開拓、そして英仏露といった列強に負けぬ国造り。そのためには、莫大な金がいる。効率がいる。情けなどという不純物を捨てねばならぬ。だがな、勝」


 家茂はゆっくりと振り返った。逆光の中で、その端正な顔は影になり、瞳の奥に溜まった涙だけが、夕日を受けて怪しく光っていた。


「余が十三のよわいで将軍宣下を受けた時、井伊掃部頭かもんのかみにこう言われたのだ。『公方様は、東と西、公家と武家、そして日本と異国を繋ぎ止めるためのかすがいとなられよ』とな。

余は、その言葉を信じた。余に才覚はなくとも、誠心誠意、民を慈しみ、諸侯の声を聞けば、この国は一つになれると」


 家茂は自嘲気味に笑った。


「だが、現実はどうだ。……余が着ているこの軍服を見よ」


 家茂は、自らの胸元、肋骨服の黄金色のボタンを、白魚のような指で握りしめた。


「これは南山平織羊毛とかいう、南山北嶺の牧場で、入植者たちが育てた羊の毛だそうだ。余が先ほど口にした牛肉も、懐にあるこの時計も、すべて海の向こうから来た。東國の民や、幕府の役人たちは、それらを享受し、豊かになった。會津や仙台の職工たちは、南山の鐵を加工して日銭を稼ぎ、子供に白い米を食わせているという」


 彼は一歩、勝の方へ歩み寄った。


「だが、その豊かさの陰で、西國の民はどうだ。彼らは東國の繁栄を支えるための捨て石とされ、麻の襤褸ぼろを纏い、今日食う米にも困り、子供を売っている。我々だけが肥え太り、隣人が痩せ細っていくのを、指をくわえて見ている。

勝、教えてくれ。それが文明というものなのか? それが、あの、嘉永の蒸気革命の正体なのか?」


 家茂の声が、悲痛な叫びへと変わる。


「余は、日本を一つに繋ぎ止めるための『人質』として将軍になったつもりだった。皆が仲良く暮らせるよう、身を粉にするつもりだった。だが、今の余は、ただの冷血な搾取機関の飾り物ではないか! 小栗や、あの鐵の船を動かすための、綺麗な人形ではないか!」


 勝は、言葉を失った。いつもの軽口も、諧謔も出てこなかった。反論できなかった。なぜなら、家茂の言う通りだからだ。


 この「徳川幕府」というシステムは、嘉永の産業革命と南山開発を経て、あまりにも巨大で、あまりにも効率的な怪物へと変貌してしまった。そこには、かつての封建的な「主従の情」や「民への慈悲」、「武士の義理」といった、湿り気のある感情が入り込む隙間はない。


 あるのは「利益」と「損失」、そして「勝者」と「敗者」という、乾燥した二元論だけだ。今の日本を動かしているのは、徳川将軍の徳ではない。蒸気機関の馬力と、小栗が弾く計算尺の数字だ。


 徳川家茂という人間は、この冷たい機械仕掛けのシステムの中に迷い込んだ、最後の生身の人間であり、時代遅れの良心だったのだ。


「上様。時代というやつは、時に残酷なもんです」


 勝がようやく絞り出せたのは、そんな陳腐で、何の救いにもならない言葉だけだった。彼は、自身の無力さを噛み締めながら、言葉を継いだ。


蒸気車じょうきしゃをご存知でしょう。あれは、一度走り出したら、もう誰にも止められねえんです。急には曲がれねえし、後戻りもできねえ。

目の前に人がいようが、花が咲いてようが、鐵の車輪ですり潰して、前に進むしかねえ。今の幕府は、そういう悲しい化け物になっちまったのかもしれません」


「そうか。進むしかないのだな。…たとえその車輪が、多くの民を轢き殺し、余の心をすり潰すとしても」


 家茂は寂しげに微笑んだ。それは、全てを悟り、全てを諦めた聖人のような、あるいは処刑台へ向かう少年のように透明な微笑みだった。


「わかった。小栗に伝えてくれ。余は、このまま飾りの役目を全うするとな。…それが、徳川の…」


 その時だった。


「ゴホッ……!」


 家茂の口から、乾いた咳が漏れた。  最初は小さく、喉に刺さった小骨を気にする程度だった。  だが、次の瞬間、咳は堰を切ったように激しくなり、彼の華奢な体を折り曲げた。


「ゴホッ、ゴホッ! ……カハッ……!」


 家茂が咄嗟に口元を覆った白亜のハンカチ――これもまた、南山・入安島のプランテーションで栽培され、マンチェスターの紡績機にも劣らぬ大阪の工場で織られた、最上級の綿布だった――が、見る間に鮮やかな赤色に染まっていく。


「上様ッ!」


 勝が血相を変えて駆け寄る。 家茂は、膝から崩れ落ちそうになりながら、その手の中にある赤いシミを、どこか他人事のように、不思議そうに見つめていた。


「……ああ。……綺麗な赤だ」


 それは、鐵と石炭、そして数字と計算尺によって灰色に塗り込められたこの近代化された世界で、唯一残された「生命」の色に見えた。あるいは、この巨大な株式会社徳川幕府という冷徹な機構から流出する、最後の「人間性モラル」の雫であったのかもしれない。


「…勝。余は疲れたよ。…少し、休ませてくれ」


 家茂は、崩れ落ちるように勝の太い腕の中に倒れ込んだ。抱き留めたその身体は、驚くほど軽く、まるで中身が燃え尽きてしまったかのように空虚だった。


 だが、その皮膚は火のように熱かった。南山羊毛の軍服は、主人の高熱を吸い取り、優しく包み込んでいたが、その内側にある心臓の鼓動は、早鐘のように危うく、乱れ、そして今にも止まりそうに弱々しかった。


「上様、しっかり! 誰か、典医を! 松本良順を呼べ!」


 勝の怒鳴り声が廊下に響く。だが、窓の外では、また一つ、巨大な蒸気船が、空気を切り裂くような汽笛を鳴らした。


 ボーッ、ボーッ


 その音は、若き将軍の命の灯火が消えゆくのを弔う鐘の音ではなく、ただひたすらに利益と効率を求め、止まることを許されない巨大な産業文明の無慈悲な唸り声として、大坂の夜空に吸い込まれていった。




(第2部-第23話 完)

最後までお付き合いいただき感謝します。

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