第22話 武器商人の影 - 錆びた英雄
慶応二年(一八六六年)一月 長崎
このすり鉢状の港町は、腐った魚と行き場を失った男たちの欲望が混じり合った、独特の粘り気のある臭気を放っていた。
鉛色の雲が垂れ込める雨の大浦の丘に、周囲の和風建築を威圧するように、異様な威容を誇る洋館が鎮座している。それは純粋な英国風コロニアル様式ではない。湿気を防ぐ高床式の構造と、現地の首狩り族との血なまぐさい交渉の末に手に入れた、屋根を支える柱に黒光りする硬質な鐵木を多用した、いわゆる南山様式の豪邸であった。
屋敷の主は、トーマス・ブレーク・グラバー
ジャーディン・マセソン商会の長崎代理人であり、表向きは茶と生糸の貿易商を名乗っているが、その実態はこの極東の魔都における最大のフィクサーである。
彼の屋敷の玄関ホールには、今日も早朝から、薩摩の密使、清国から逃れてきた太平天国の残党、あるいは南山の開発利権を狙う怪しげなフランス人山師たちが、それぞれの「商材」と「陰謀」を抱えて列をなしていた。彼らの共通点はただ一つ、瞳の奥に飢えた野犬のような光を宿していることだ。
その喧騒から隔絶された、紫煙漂う奥まった応接室で、一人の男がマホガニーのソファに深々と身を沈めていた。
坂本龍馬である。
彼は無作法にダチョウの革で仕立てた特注品のブーツを組んだまま、卓上に置かれた一丁のライフル銃を、まるで死んだ魚の鮮度でも値踏みするかのように、冷ややかな視線で眺めていた。
銃床には「N.A.(Nanzan Arsenal / 南山工廠)」の焼き印があり、その精緻な菊と葵の紋章の上に、無慈悲な赤ペンキで『B』という文字が殴り書きされている。それは、良家の子女が額に烙印を押されたような、残酷な背徳感を漂わせていた。
「グラバーさん。こりゃあ、また随分と骨董品を集めたもんじゃのう」
龍馬が土佐訛りで、しかし目は笑わずに言った。その指先は、銃身の冷たい鐵の感触を確かめるように撫でている。対面に座るグラバーは、琥珀色の液体をバカラのグラスに注ぎながら、太い眉を吊り上げて肩をすくめた。
「ミスター・サカモト。言葉を慎んでもらいたい。これは上海の泥の中から拾ってきたような骨董品ではない。つい二年前、元治元年までは幕府陸軍の第一線装備だった『六二式・南山エンフィールド(Type-62 Nanzan Enfield)』だ。正真正銘の施条銃であり、君たちが京の市中で振り回している火縄銃や、アメリカの南北戦争の戦場跡から拾い集めたような錆びついた廃棄品よりはずっとマシな、文明的な代物だ」
「文明的、ねえ。じゃが、ここに『B』の印がある。検査落ちじゃろう? 東國の役人が『不可』をつきつけたクズ鐵じゃ」
「『戦略的予備保管品』と呼びたまえ。
いいかね、龍馬。君たちは東國の連中の潔癖症を知らない」
グラバーはグラスを回し、氷の音をカランと響かせた。その音は、資本主義という冷徹な機械が歯車を回す音に似ていた。
「銃身の鋳造時に顕微鏡でしか見えない微細な気泡が入ったとか、ライフリングの溝の深さが規定より〇・〇五ミリ浅いとか、あるいは木製ストックの色味が不揃いだとか…そういった、実戦では何の意味も持たない些細な理由で、東國の狂的な検査官たちが弾いたものだ。人を殺す機能に何ら支障はない。むしろ、清国軍が正規採用している銃よりも精度は高い」
グラバーは自嘲気味に笑った。
ここに、この世界線の日本列島を分断する、残酷な経済格差の真実が凝縮されていた。東國・環太平洋工業地帯では、横須賀や若松及び石巻、そして南山・明望の工廠が、南山北嶺から運ばれた良質な鐵鉱石と、ワイカト産の無煙炭コークスを使い、世界最高水準の歩兵銃を月産三、〇〇〇挺のペースで吐き出している。
彼らの品質管理基準(QC)は、英国のロイヤル・オードナンス(王立造兵廠)すら舌を巻くほど厳格だった。「部品の互換性なきものは兵器にあらず」というドクトリンの下、僅かな傷や公差の狂いも見逃さない。なぜなら、彼らにはそれを廃棄して作り直すだけの、湯水のような資源と資本があるからだ。
結果、大量の「B級品」や「型落ち品」が、ピカピカの新品のまま産業廃棄物として発生する。本来ならば、これらは機密保持のためにプレス機で潰され、スクラップとして横須賀の溶鉱炉に戻される運命にある。だが、そこには必ず抜け道がある。
グラバーのような聡明な、あるいは道徳的に柔軟な商人が、幕府の軍需物資払い下げ官僚――彼らもまた、オランダ株の暴落で小遣いに困っていたりする――に袖の下を握らせ、二束三文の屑鐵価格で買い叩き、公文書を改竄して長崎へ横流しするのだ。
誰のために? 鐵と石炭を持たず、しかし生存のために喉から手が出るほど「力」を欲している、西國の貧しき革命家たちのためにである。東國がゴミとして捨てた武器を、西國が家宝のように買い求め、それで東國を倒そうとする。この歪んだ循環構造こそが、来たるべき内戦の正体であった。
「七、〇〇〇挺」
龍馬は、その数字を吐き捨てた。それは商談の数量というよりは、これから流れる血の総量を見積もるような、重く乾いた響きを持っていた。
「長州の桂小五郎さんが、喉から手が出るほど欲しがっちゅう数は七、〇〇〇じゃ。これは奇兵隊だけでなく、彼らが急造しゆう農兵隊(諸隊)の全てに行き渡る数じゃきに。それに加えて、六〇口径のミニエー弾が一二〇万発。火薬は、湿気た硝石はいらん。南山の入安島で精製された、純度九九パーセントの『特級・無煙黒色火薬』を一五〇〇樽」
龍馬は、指を折って計算するふりをしながら、頭の中では恐ろしい桁の換算を行っていた。この取引総額は、現在の相場で言えば一五万ドル、日本円にしておよそ四三万両に達する。薩摩藩の年間予算の三分の一が、この一室で右から左へと動こうとしているのだ。
「薩摩の名義で買うにしても、とんでもない金が動くぜよ。西郷どんは、城下の女どもの簪まで売らせて金を作る気かえ?」
「心配無用だ、ミスター・サカモト。代金は、薩摩が琉球経由の密貿易で貯め込んだメキシコ銀貨か、あるいは長州が検地をごまかして撫育局に隠し持っている『不換米切手』でも構わない。私は金の種類は問わない主義だ。
ただし」
グラバーは、分厚い葉巻の先を専用のカッターで切り落とし、勿体ぶって火をつけた。紫煙の向こうで、商人の青い瞳が冷徹に光る。
「交換レートは、先月の上海市場の相場より二割五分増し(プレミアム)だ」
「二割五分? …暴利じゃのう。ユダヤの金貸しでも、もう少し手心を加えるぞ」
「リスク・ヘッジだよ、龍馬。知っての通り、幕府による西國への海上封鎖は、日増しに厳しくなっている。特に、関門海峡と豊後水道には、榎本武揚率いる幕府海軍の最新鋭蒸気フリゲート『開陽』と、その僚艦が目を光らせている」
グラバーは声を潜め、まるで共犯者に秘密を打ち明けるように身を乗り出した。
「私の持ち船『ユニオン号(薩摩名義)』が、その厳重な封鎖線を無傷で通過するためには、現場の艦長たちに、それなりの『通行料』を支払わねばならないのだよ。彼らとて、薄給の公務員だ。香港の株式投資で失敗した穴埋めや、横濱の馴染みの芸者に贈るフランス製の香水代を必要としている」
龍馬は鼻を鳴らした。肺の奥から、乾いた笑いが込み上げてくる。この男は、幕府の警備艦隊とも通じているのだ。いや、正確には、幕府海軍の現場指揮官たちもまた、この巨大な「循環」の一部なのだろう。
東國・横須賀や會津で作られた武器を、東國と癒着した英国商人が「廃棄品」として裏口から排出し、西國の人間が血の滲むような高値で買い取る。そしてその売上の一部は、賄賂(通行料)として再び幕府海軍の将校の懐へと還流し、残りの利益はグラバーを通じて東國の銀行に預けられ、次の最新鋭兵器――例えばガトリング砲や装甲艦――の開発費となる。
西國諸藩は、「倒幕」や「尊王攘夷」を叫びながら、その実、敵であるはずの幕府の軍需産業を支える、最も優良な顧客に成り下がっているのではないか。
彼らが銃を買えば買うほど、幕府は富み、さらに強力な兵器を手にする。
「まるで、自分の尻尾を食う蛇じゃな。…笑えん喜劇じゃ」
龍馬は呟き、懐から自らの愛銃を取り出した。 重厚なガンブルーの輝きを放つ、スミス&ウェッソン・モデル2・アーミー。
しかし、その銃身には、オリジナルの米国製にあるはずの「SPRINGFIELD, MASS.」の刻印はない。代わりに、菊と葵の紋章と共に『會津日新館精機製(MFG. BY AIZU NISSHINKAN PRECISION)』という銘が、顕微鏡的な精密さで彫り込まれている。
これは、南山の過酷な環境――入安島の湿気や、北嶺島の砂塵――に耐えうるよう、會津藩の技術者たちがオリジナルの設計を改良し、銃身鋼材にニッケルとクロムを添加した「南山特殊鋼」を用いた、ライセンス生産モデルである。
通称「N2」
南山の開拓民が野犬や毒蛇から身を守るために、あるいは明望警察署の巡査が暴れる港湾労働者を制圧するために支給される、頑丈無比な回転式拳銃だ。
龍馬の持つこの一丁も、寺田屋事件の折に伏見の幕府役人から「押収(という名の強奪)」した東國製品であった。
彼はその冷たい鐵の塊を弄び、シリンダーを回転させた。チリ、という精緻な音が、會津の職人の技量の高さを告げている。
(わしが率いる「亀山社中」とは、一体何じゃ?)
龍馬は、苦い再確認をしていた。世間や後世の歴史家は、彼らを、薩長同盟を仲介し、日本に夜明けをもたらす志士の集団と見るのかもしれない。
だが、その実態は、どうだ。東國が吐き出した産業廃棄物(型落ちライフル)を、飢えた西國へ右から左へと流し、そのピンハネで食っている、中間管理職的なブローカーに過ぎないのではないか。
革命家? 違う。わしらは、巨大な産業システムの配管工じゃ。詰まった金を流し、漏れ出した武器を継ぎ足すだけの。
「龍馬、君は賢い男だ。だが、その賢さは、土佐の鰹漁師が潮目を読むような、野生の勘に近いものだな」
グラバーは身を乗り出した。その青い瞳は、長崎港の濁った海の色――あるいは、水深二〇〇尋の冷たい海底の色をしていた。彼は口にくわえた葉巻の紫煙を吐き出すと、その煙の向こうに世界地図を幻視するかのように目を細めた。
「君も薄々気づいているだろう。これから始まる、この国の『内戦』は、尊王だの佐幕だのといった、カビの生えた思想の戦いではない。これは純粋な物理学であり、資源の再分配を巡る、巨大で冷徹なビジネスだ」
グラバーは指を二本立てた。
「一方には、東國(幕府)がいる。彼らは強すぎる。彼らは『鐵』と『石炭』、そして南山という、毎年三〇〇万ポンドもの黒字を吐き出し続ける無限の財布を持っている。彼らのバックには、フランスのロッシュと、そして何より、南山の明望に巣食う、計算高いユダヤ系金融資本がいる。彼らは日本列島を、巨大な工場と見なしている」
彼は指を一本折った。
「対する西國には何がある? 薩摩のサツマイモと、長州の米か? ……いや、彼らは『人間』と、飢餓が生み出す『情念』しか持っていない。産業革命に取り残され、食い詰めた武士と農民だ。彼らは失うものがないからこそ、死を恐れずに突撃できる。……東國が『持つ者』の戦争をするなら、西國は『持たざる者』の戦争をするしかない」
「だから、わしらに武器を売って、バランスを取ると?」
龍馬の問いに、グラバーは氷の音をカランと響かせ、ニヤリと笑った。それは悪魔の微笑みではなく、損益分岐点を計算し終えた銀行家の顔だった。
「その通りだ。一方的な虐殺は商売にならない。巨人が赤子を踏み潰しても、観客は湧かないし、賭けも成立しないだろう? 西國という飢えた狼に、東國製の『中古の牙』を持たせ、五分と五分、いや、せめて四分六分まで拮抗させることで、初めて市場は活性化する」
グラバーは立ち上がり、窓の外、雨に煙る長崎港を指差した。そこには英国船ユニオン号と並んで、幕府船籍の巨大な外輪船が停泊し、そのマストには誇らしげにインディゴブルーの染地に葵の旗と日章旗が翻っている。
「それにな、龍馬。正直なところ、幕府の連中は最近、少々鼻持ちならないのだよ。彼らはかつて、我々大英帝国の良き友人であり、良き下請けだった。だが、どうだ。最近の彼らは我々の言うことを聞かなくなってきた」
グラバーの声に、明確な苛立ちが混じった。
「彼らは『自分たちはアジア唯一の列強だ』などと嘯き、あろうことかロンドンのシティを介さずに、二年前から独自にニューヨークのウォール街と直接為替取引を始めている。先月も、明望の自治議会が『スターリング・ポンド圏と米ドル圏の両立』と『南山両の金本位制移行』をほのめかした。幕府が言わせているのだよ。彼らは生意気にも、飼い主の手を噛もうとしているのだ」
龍馬は背筋が寒くなるのを感じた。南山、あの遥か南の島が、すでに大英帝国にとって「便利な手下」ではなく、「危険な競合他社」になりつつあるというのか。東國・幕府の繁栄は、英国の虎の威を借る狐のそれだと思っていたが、狐はいつの間にか虎よりも巨大な、正体不明の「海獣」に成長していたらしい。
「だからこそ、だ。少しばかり、彼らの足元(日本本土)に火をつけてやるのも悪くない」
グラバーは葉巻を灰皿に押し付けた。火種がジュッと音を立てて消える。
「本土で内戦が起きれば、幕府は南山からのあがり(収益)を戦費として浪費せざるを得ない。工場は破壊され、海運は滞るだろう。そうなれば、彼らもまた膝を屈して、我々英国銀行団に頭を下げて融資を乞うことになる。これこそが『均衡』だよ」
グラバーの言葉には、七つの海を支配する大英帝国の、冷徹極まりない世界戦略が見え隠れしていた。強大になりすぎた「双頭の龍(日本・南山帝国)」を、西國という「毒」を使って適度に中毒させ、疲弊させるための管理された内戦。龍馬たちが命懸けで進めようとしている「薩長同盟」も、桂小五郎や西郷隆盛の悲壮な決意も、このロンドンと明望、そしてワシントンが繰り広げる巨大な「グレート・ゲーム」の盤上では、単なるポーン(歩兵)の駒の動きの一つに過ぎないのかもしれない。
龍馬は、自分の掌を見た。そこにあるのは、英雄の手相ではない。ただの、油と煤にまみれた、使い走りの手だった。だが、それでも。ポーンにはポーンの、進むべきマス目がある。
「ようわかった。グラバーさん、あんたはあんたの国のために、この国を燃やしたいんじゃな。結構なことじゃ」
龍馬は皮肉な笑みを浮かべ、ブーツの踵を鳴らした。
「ほいたら、わしらはその火事場で、精一杯踊らせてもらうとしようか。燃えカスの中から、新しい国を拾い上げるためにな」
龍馬は、きしむ音を立ててマホガニーのソファから立ち上がり、部屋の主であるグラバーを背にして窓際に立った。眼下に広がる長崎港は、冷たい冬の雨に打たれ、墨絵のような鈍い光を放っている。だが、その静謐な色彩とは裏腹に、港湾の光景は沸騰する欲望の坩堝であった。
旧出島の方角には、斜陽のオランダ国旗を掲げた古めかしいフリュート船。その隣には、太平天国の乱の混乱から逃れてきた清国商人のジャンク船が、色あせた赤色の帆を畳んで停泊している。そして、それら旧時代の遺物を威圧するように、港の中央に鎮座しているのが、黒い煙を吐き出す巨大な蒸気船の群れだ。
その中の一つ、ひときわ巨大な黒塗りの船体に目が止まる。 幕府直轄・南山郵船所属、三、〇〇〇トン級貨客船『サザン・クロス号』。そのメインマストには、白とインディゴブルーの二色に分けられ、中央に黄金の明星を配した「南山旗」が、雨に濡れながらも重々しく翻っている。あの旗の下、船腹からは、巨大な蒸気クレーンによって木箱が次々と陸揚げされていた。
雨合羽を着た苦力たちが、蟻のように列をなして運ぶその木箱の表面には、焼印で大きく『南山農耕具・特級』と記されている。表向きの積荷目録には、入安島の開拓地で使われるための鍬や鋤であると申告されているだろう。
だが、この港に生きる人間で、その中身を額面通りに信じる馬鹿は一人もいない。その木箱の中に詰められているのが、南山北嶺の鐵鉱石を原料とし、横須賀の最新鋭高炉で精錬され、會津や水戸の工廠で加工されたものの、僅かな瑕疵によって弾かれた「殺人機械」であることを、沖仲仕の少年ですら知っている。
そして、それを喉から手が出るほど待っている長州の若者たちが、その銃の引き金を引くとき、照準器の向こうに見えるのが、同じ東國製の――ただしこちらは傷一つない正規品の――銃を持った幕府歩兵であることも、公然の秘密であった。
東國の鐵で、東國の兵を撃つ。そのあがりは東國へ還る。長崎とは、この巨大で歪な自給自足システムの、単なる中継バルブに過ぎないのだ。
「日本の洗濯、か」
かつて、故郷の姉・乙女への手紙に書き記した言葉が、ふと龍馬の口をついて出た。あの頃、彼の脳裏にあった「洗濯」とは、垢じみた封建の世を洗い流し、真っ白な新時代を干し上げることだった。
だが今、彼が喉の奥で感じているのは、洗濯した後の清々しさではない。工場の排水溝に詰まったヘドロのような、重苦しく、油の臭いがする現実の感触だった。
わしがやっているのは、洗濯ではない。ただ、泥水を右から左へ移し替えているだけではないか。
龍馬はガラス窓に映る自分の顔――疲労と冷笑の入り混じった、かつての純粋な志士とは似ても似つかぬ顔――を見つめ、一つ大きく息を吐くと、踵を返した。 そこにはもう、憂国の志士の顔はなかった。あるのは、冷徹な仲介人の仮面だけだ。
「グラバーさん。商談成立じゃ。薩摩の名義で、そのガラクタを全部買おう」
龍馬は、商談の決着を告げた。それは、薩摩藩が琉球砂糖の密貿易で蓄えた裏金一五万ドルが、一瞬にして幕府側の軍需産業へ流れることを意味していた。
「長州の連中には、『東國の最新鋭・極秘横流し品』と伝えておくきに。『B』の刻印は、幕府(Bakufu)のBではなく、最良(Best)のBじゃとな。……ハッ、嘘も方便じゃ」
「賢明な判断だ、ミスター・サカモト。商品はすぐに『ユニオン号』に積み込ませよう。今夜のうちに出港すれば、関門海峡の潮流が変わる前に長州へ届けられる」
グラバーは満足げにグラスを掲げた。その琥珀色の液体の中で、氷がカランと、まるでレジスターが開くような軽快な音を立てた。彼は勝利の美酒を一口味わうと、悪戯な笑みを浮かべて付け加えた。
「そうそう、大量購入してくれた得意客に、一つおまけの情報だ。東國の横須賀工廠と會津日新館では、すでに次の新型銃の配備が始まっているらしい」
「なんじゃと?」
「『スナイドル式(Snider-Enfield)』とかいう、後装式のライフルだ。君たちが今買った前装式とは違う。弾薬を後ろから込めるんだ。
わかるかね? 君の顧客である長州兵が、銃口から火薬と弾を棒で突き込んでいる間に、幕府兵は三発、いや四発の弾丸を撃ち込んでくるということだ」
グラバーは楽しげに目を細めた。南山という資源地帯を持つ東國は、産業革命の速度が違う。彼らは、古い武器をこうして西國へ売り払った金で、すでに次世代の兵器を量産しているのだ。
「この内戦、長引けば長引くほど、君たちはまた新しい『B級品』を買わねばならなくなるな。スナイドルがB級品として流れてくるのは、おそらく二年後か。それまで、長州が生き残っていればの話だがね」
龍馬は何も答えず、背を向けた。
これ以上、この死の商人の能書きを聞いていれば、腰の刀で斬り捨ててしまいそうだったからだ。しかし、斬ったところで何が変わる? 代わりの商人が現れるだけだ。
彼が部屋を出ようとしたとき、懐の中で、會津製のリボルバーがチャリと微かな音を立てた。シリンダーに装填されているのは、南山・北嶺島の鉱山から掘り出された鉛と、入安島のコウモリの糞から精製された硝石で作られた、四四口径の実包だ。
その銃も、その弾も、彼が倒そうとしている「システム」の一部であり、彼自身もまた、そのシステムの上で踊る道化に過ぎない。
彼はこの瞬間、自分が後世語られるような「維新の英雄」などではなく、巨大な産業システムが生み出す死の商人の、そのまた下請けの手代に過ぎないことを、骨の髄まで痛感していた。
洋館を出ると、雨脚が強まっていた。 長崎の坂道を叩く雨は、鐵の錆と火薬の臭い、そして金銭の垢を洗い流すことなく、ただ黒く、重く、石畳を濡らしていく。
薩長同盟の締結まで、あと七日。京都・小松帯刀邸で行われるはずのその歴史的な握手は、感動的な友愛の儀式などではない。
それは、破産寸前の二つの藩が、東國という巨大資本に対抗するために結ぶ、血塗られた兵器購入契約書の連帯保証人欄への署名として、歴史の裏側に記憶されることになるだろう。




