第21話 京の都の二つの時計 - 蒸気の刻と雅なる黄昏
慶応元年(一八六五年)晩秋 京・壬生 新選組屯所
京の都に流れる時間というものは、千年の昔より、あやふやで、ぬるま湯のように捉えどころのないものであった。
東山の峰から朝日が昇れば一日が始まり、寺々の鐘がゴーンと鳴れば昼となり、夕暮れと共にその日は終わる。春の日は永く、冬の日は短い。それがこの都を、ひいてはこの国の農耕社会を支配してきた「不定時法」という名の、お天道様任せの律動であった。
人々は、季節ごとに伸縮する時間のゴム紐の中で、あくびが出るほど緩慢に、しかし優雅に生きていた。
だが、その悠久のまどろみを、無粋極まりない硬質な金属音が切り裂いていた。
チク、タク、チク、タク。
新選組局長・近藤勇の私室。 その文机の上には、南洋の黒檀で作られた飾り台に鎮座する、一個の懐中時計があった。
銀無垢の蓋には、徳川の葵の御紋が誇らしげに彫り込まれている。その銀は、南山から運ばれた地金を使い、江戸・関口製造所の精密機械部門が、顕微鏡を覗きながら精魂込めて組み上げたものである。
「幕府陸軍制式 二四時制・携帯天符時計」
それは単なる時計ではない。東國・関東平野に林立する工場の汽笛と、鉄道の運行表が生み出した、東國独自のテクノロジーの結晶であり、同時に、幕府の高級将校や一部の特権的なテクノクラート(技術官僚)のみが所持を許される、「選ばれし者の笏」であった。
本来ならば、多摩の百姓身分から出た近藤の手にあるはずのないその銀色の機械は、彼らがもはや「浪士」ではなく、徳川幕府直参の「軍事組織」の長であることを証明する、何よりの身分証なのである。
「…歳三。今、何時だ」
近藤が、山積みの書類——第二次長州征伐に向けた兵站計画書や、兵庫開港問題に関する市中世論の探索報告書——から顔も上げずに問うた。
副長の土方歳三は、長火鉢の横で煙管の掃除をしていた手を止め、自らの懐から一回り小さな、しかし同様に精巧な鎖付きの銀時計を取り出した。彼もまた、この「文明の果実」を許された数少ない幹部の一人である。パチン、と蓋を開ける音が、部屋の静寂に鋭く響く。
「一三〇〇時。午後一時の定刻だな、近藤さん」
「うむ。予定通りだ。一番隊の巡察出発まで、あと一五分。遅れるなよ」
近藤は満足げに頷き、再び筆を走らせた。その筆致には、分刻みで動く組織の長としての自負と、少しばかりの気負いが滲んでいた。
この屯所において、「およそ」や「だいたい」「暮れ六つ」といった言葉は禁句であった。
嘉永の改革以降、東國では「時は金なり(タイム・イズ・マネー)」という異国の格言が、商人や職工たちの骨身に染み込んでいる。横須賀の製鉄所は太陽が沈んでもガス灯の下で轟音を立てて稼働し、交代制の労働者は分刻みの「定時法」で管理される。
近藤は、この新選組を、単なる剣客集団ではなく、東國の正規軍に匹敵する、あるいはそれを凌駕する「近代的軍隊」として運用することに執念を燃やしていた。この時計は、その執念の象徴なのだ。
だが、土方は懐中時計を丁寧に懐にしまいながら、苦虫を噛み潰したような顔で窓外を見やった。障子の隙間から見える壬生の路地からは、売り声を上げる豆腐屋の声と、どこかの寺の鐘の音が、間延びした調子で聞こえてくる。
「……近藤さんよ。俺たちはこの『江戸の時計』を拝んで、分刻みでキリキリ舞いしてるがね、外の連中にとっちゃ、これはただの気忙しい金属の箱だぜ」
土方は煙管に新しい刻み煙草を詰めながら、皮肉な笑みを浮かべた。ここ最近、京の市中では、薩長を中心とする不穏な動きに加え、「ええじゃないか」などという得体の知れない熱狂が広がりつつある。
論理と計算で動く東國のシステムと、情念と因習で動く西国のカオス。土方の言葉には、京という魔都と、産業化された故郷・東國との間に横たわる、埋めがたい「断絶」への予感が滲んでいた。
同日 午後 公家・阿野家の屋敷
その日の午後、近藤勇は、京の治安維持を巡る極めて実務的、かつ緊急性の高い折衝のために、公家である阿野中将の屋敷を訪れていた。用件は、長州派の残党による市中放火の未然防止と、兵庫開港問題に揺れる市中警備の強化に伴う協力要請である。
約束の刻限は、書状にて明確に指定した**「午後二時」**。 近藤は、東國武士の規律、そして江戸・横須賀のビジネス・プロトコルに従い、一三時五五分には屋敷の門前に立ち、取次の従者に名刺を渡していた。
袴の折り目を定規で引いたように正し、大小の刀を帯び、懐中時計の鎖をチャラリと鳴らす。その姿は、かつての野暮ったい多摩の田舎侍ではない。機能美と能率を追求した「幕府陸軍将校」としての自負に満ちていた。 背筋を伸ばし、革靴(これも南山牛の革を用いた東國製だ)の踵を合わせる。
(よし。定刻五分前。これならば先方も、我らの規律正しさと、事の重大さを認めざるを得まい)
近藤は胸を張って、案内された客間に座した。 床の間には、「静寂」という文字が書かれた枯れた風情の掛け軸。庭には手入れの行き届いた松と、色づき始めた紅葉。
静寂
あまりにも深い、綿で耳を塞がれたような静寂であった。
十分が過ぎた。 誰も来ない。
二十分が過ぎた。
遠くで鹿威しが「カコン」と鳴り、その余韻だけが部屋の空気を震わせた。
近藤は、膝の上に置いた拳を握りしめた。東國の執務室であれば、二十分あれば決裁書類を十通は処理できる。南山の鉱山であれば、トロッコが三往復はしている時間だ。
近藤は懐から時計を取り出した。一四時二〇分。
すでに約束の時間を大幅に過ぎている。彼の額に、じわりと脂汗が滲んだ。まさか、日時を間違えたか? いや、書状には確かに「午後二時」と記し、念のために「未の正刻」とも書き添えたはずだ。東國製の時計が狂うはずもない。江戸の職人の技は、地球の裏側にある南山植民地の鉄道運行を管理するために、秒単位まで磨き抜かれているのだから。
「……失礼いたしますえ」
三十分が経過した頃、ようやく襖が音もなく開き、好々爺といった風情の老齢の家令が盆を持って現れた。茶と、茶菓子である。
「お待たせいたしました、近藤様。……主は今、着替えを済ませておるところでしてな」
家令は、悪びれる様子もなく、むしろ親愛の情すら込めた柔和な笑顔を向けた。そして、気の遠くなるような優雅な手つきで、茶碗を置いた。
「今日は良いお日和で。……お急ぎでございましょうが、まあ、そうカリカリとなさらず。このお菓子は『初霜』と申しましてな、砂糖の甘みが……」
近藤は、堪えきれずに遮った。
「……あー、ご老体。菓子も結構だが、約束の刻限は、確か午後二時であったはずだが?」
家令は、きょとんとして瞬きをした。そして怪訝そうに眉をひそめ、庭の日時計——というよりは、庭石に落ちる松の影の傾き——を見やった。
「はて? ……今はまだ、未の刻に入ったばかりでおじゃりましょう? 近藤様が仰る『午後二時』とやらは、未の正刻(午後二時)のことかと存じますが、今の季節、日は短うございますれば……」
近藤は絶句した。
不定時法。
かつては日本中がそうであったが、東國ではすでに廃れつつある旧来の時間感覚。
日の出から日没までを六等分するため、冬の昼の一刻は短く、夏のそれは長い。彼らの時計は、太陽と共に伸縮するゴム紐のようなものなのだ。
しかも、彼らにとって「未の刻」とは、ピンポイントの一点ではなく、午後一時頃から三時頃までの、幅のあるぼんやりとした帯域を指す。その間のどこかで会えば、それは「約束通り」であり、むしろ早めに来て庭を愛でるのが風流というものだ。
「い、いや、我が方からの書状には、江戸の定時法にて『一四〇〇時』と……」
「ほっほっほ。江戸の時計でございますか。……近藤様、ここは京でございますよ。東の職人たちが汽笛に合わせて急こうと、お天道様のご機嫌が変わるわけではございません」
家令は、まるで聞き分けのない子供を諭すように、あるいは珍しい異国の玩具自慢をする孫を見るように微笑んだ。そこには一点の悪意もなく、ただ純粋な「憐憫」があった。
あくせくと分刻みで動くなど、金に目のくらんだ東夷のすることだ。せっかく京に来たのだから、もっとゆったりと生きればよいものを、という善意の憐れみであった。
さらに二十分。
やがて、阿野中将が現れたのは、近藤の時計が一四時五〇分を指した頃であった。
「やあ、近藤殿。待たせたの。……庭の紅葉があまりに見事でな、つい一句、ひねっておったのじゃよ」
中将は、白粉を塗った顔で優雅に扇子を使い、悪びれもせずに言った。
「『燃ゆる葉の 移ろひやすく 人の世も』……どうじゃ? 兵庫の港が開くとかで世間は騒がしいが、季節は変わらず巡るものよのう」
近藤の体内で、血管が怒張する音が聞こえた気がした。
一四時五〇分。
新選組の予定表では、すでに次の巡察報告を受け、南山からの第二次輸送船の入港状況を確認し、兵站リストを更新している時間である。この五〇分の損失は、組織全体で換算すれば、どれほどの労働力の空費となるか。東國の「能率学」を骨の髄まで叩き込んだ近藤にとって、それは耐え難い「罪」であり、国家資源の浪費であった。
「……中将閣下。時間は、金なりと申しまして……。我々には、一分一秒を争う防務がございます」
近藤は声を絞り出した。しかし、中将は扇子で口元を隠して、コロコロと笑った。
「カネ? ほっほ、武士たるものが、卑しいことを申される。近藤殿、麻呂はそなたのことを買うておるのじゃよ? その猪のような真っ直ぐな気性、古き良き東男の風情がある。だがの、なぜそう生き急ぐ?」
中将の瞳には、好意的な色が浮かんでいた。彼は本気で近藤を気に入っているのだ。だが、それは「有能な将校」としてではなく、「珍しくて無骨な、愛すべき田舎者」としての評価であった。
「徳川の世も二六〇年続いたのじゃ。あと一刻、二刻遅れたところで、天下がひっくり返るわけでもなかろうに。…そう、先だっても長州が御所に向かって鉄砲を撃ち込んだ時も、そなたらはすぐに駆けつけたそうじゃな。結構、結構。だが、あまり急ぐと、茶の味も分からなくなるぞ?」
近藤は、懐の中の時計を強く握りしめた。
その硬質で冷たい感触だけが、彼の正気を繋ぎ止めていた。
(……違う。ひっくり返るのだ)
近藤は心の中で叫んだ。貴公らが茶をすすり、歌を詠んでいるこの瞬間にも、東國では巨大な歯車が回り続けている。工場が止まれば、南山の開拓民への物資が滞り、横須賀の造船所の火が消え、最新鋭のアームストロング砲は鉄屑になる。
我々は、巨大なシステムの一部となって生きているのだ。この定時法の規律こそが、我々が長州の散兵や列強の軍隊と渡り合うための、唯一の武器なのだ。
この、ぬるま湯のような、あくびが出るほど緩慢な京の時間の中にいる限り、我々の「国」、東國という名の産業国家は窒息してしまう。
近藤は、中将の優雅な雑談、昨夜の月の美しさや、和歌の出来栄え、そして季節外れの鶯の声に相槌を打ちながら、強烈な徒労感に襲われていた。
相手に悪意がないだけに、絶望は深かった。彼らは同じ日本語を話し、同じ畳の上に座っている。だが、見ている世界、生きている時間の密度が、物理的に異なっていた。
それは、言葉が通じないことよりも深い、生きている社会構造そのものという、修復不可能な断絶であった。
同日 夕刻 京・壬生 新選組屯所
戻ってきた近藤勇は、あたかも長州の軍勢とたった一人で斬り結んできたかのように、あるいは南山の鉱山で三日三晩ツルハシを振るったかのように、魂の底から憔悴しきっていた。
肩を落とし、愛用の名刀「虎徹」を刀掛けに置く手つきも、鉛のように重い。その背中は、歴戦の武人が纏う威厳というよりは、巨大な歯車に巻き込まれて疲弊した工場の職工のそれに近かった。
「……どうでした、近藤さん。公家様との会談は」
副長の土方歳三が、長火鉢の向こうから声をかけた。彼の手には、キセルではなく、最近江戸の商人たちの間で流行り始めている「紙巻煙草」が握られている。南山産の葉を薄い紙で巻いたその白い棒から吐き出される紫煙は、紫雲英の花のような情緒ある曲線を描かず、定規で引いたように真っ直ぐ、無機質に天井へと昇っていく。
「……歳。……駄目だ」
近藤は、重い口調でそれだけを言うと、懐から銀色の鎖を引き出した。鈍く光る懐中時計——クロノメーターを、ごとりと卓上に置く。
チク、タク、チク、タク。
正確無比な金属音が、夕闇の迫る静かな部屋に響き渡る。それは心臓の鼓動よりも速く、そして冷徹な規則性をもって、空間を切り刻んでいく。
「俺たちの言葉は、彼らには届かん。俺たちが『一時』と言うとき、それは六〇分、三六〇〇秒という、計測可能な絶対的な単位のことだ。横須賀の工廠で鉄が溶ける時間であり、南山行きの蒸気船が二〇マイル進む距離のことだ」
近藤は顔を覆い、指の隙間から、卓上の銀時計を睨みつけた。
「だが、彼らにとっての『一時』とは、お茶を飲んで、歌を詠んで、昼寝をして、雲が流れるのを眺める間のことなのだ。そこには目盛りもなければ、秒針もない。あるのは『頃合い』という名の、雲散霧消する霧のような感覚だけだ」
近藤は、自嘲気味に口の端を歪めた。多摩の農民から身を起こし、剣一本で京へ上り、今や幕府の最精鋭部隊を率いる立場になった。その誇りは、この腰の時計に象徴されていたはずだった。
「俺はこの時計を、武士が新たな時代に適応し、進化した証だと思って誇りにしていた。だが今日、あの中将の屋敷で、あの方の屈託のない笑顔を見たとき、自分が滑稽な『機械仕掛けの人形』になったような気がしたよ。ゼンマイ仕掛けでキリキリと動き回り、意味のない数字に追い立てられる、哀れなブリキの人形にな」
近藤はため息をついた。
「あちらから見れば、時間に追われて走り回る我々こそが、人の理を外れた、異形の怪物なのかもしれん」
土方は、短くなった紙巻煙草を、南山焼の灰皿に無造作に押し付けた。ジュッ、と微かな音がして、火が消える。
「俺たちは、もう怪物なのさ」
土方は、感情の読めない瞳で言った。その声は、研ぎ澄まされた日本刀のように冷え冷えとしていた。
「考えてもみろ、近藤さん。江戸の関口製造所じゃ、ガス灯を焚いて昼も夜もねえ。南山の入安島の鉱山じゃ、土人も、食い詰めた日本人も、泥まみれになって石炭や鉄を掘り続けてる。あそこじゃ、太陽が昇るから起きるんじゃねえ。時間になって工場の汽笛が鳴るから起きるんだ」
土方は立ち上がり、腕組みをして壁に掛かった京都市中の地図を見上げた。
「京の連中が愛してやまない『雅』な時間、季節の移ろいを愛でる余裕。そんなもんは、誰かが血反吐を吐いて作った鉄や金、蒸気機関が生み出す富の上にあぐらをかいてるからこそ、成り立つ贅沢だ。俺たち東國の人間が、時間を切り売りして稼いだ銭が、この京の悠久のまどろみを支えてるんだよ」
土方は振り返り、卓上の時計を指差した。その指先は、断罪者のように鋭かった。
「だが、この針はもう戻らねえ。不定時法なんていう、季節で伸びたり縮んだりするゴムみてえな物差しじゃ、横須賀のドックで戦艦は組めねえし、勘定所の複式簿記も合わねえんだ。俺たちは、便利さと引き換えに、もう後戻りできないところまで来ちまったんだよ」
二人は、沈黙した。
部屋の中には、ただ時計の刻む音だけが満ちている。
チク、タク、チク、タク。
その音は、まるで京の都という巨大な有機体と、彼ら東國の武士たちという無機質な組織との間に横たわる溝を、一秒ごとに、確実に広げていく工事現場の槌音のように聞こえた。
それは修復不可能な断絶の音だった。近藤たちが守ろうとしている「幕府」というシステムは、もはやこの京の都の土壌には根付かない、異質の植物になってしまったのだ。
「…いつか、別れる時が来るかもしれんな」
近藤が、独り言のようにぽつりと漏らした。それは、佐幕か倒幕かといった、昨今の政治的な対立や決別を指す言葉ではなかった。もっと根本的な、物理的な、生活様式としての、決定的な決別の予感であった。
水と油が、激しく撹拌された後、やがて静かに、しかし明確に二層に分かれていくような、不可避の分離。
「ああ。…俺たちの時計に合わせてくれる場所へな」
土方は短く答え、障子を開け放った。流れ込んできたのは、晩秋の冷気と、京の町に響き渡る夕暮れの鐘の音であった。
ゴォォォォォォン……
寺々の鐘が、長く、太く、そしてどこまでも緩やかに余韻を引きずりながら、都を包み込んでいく。それは美しく、懐かしく、そして決定的に「前時代」の音色であった。
二人の眼下にある東國製の銀時計は、その鐘の音など意に介さず、全く異なる周波数で、冷たく、硬質で、残酷なまでに正確な産業の律動を刻み続けていた。




